永遠の硝子箱

 

   <1>
「喫茶『停車場』……。ここだ」
 道ばたに置いてある古びた看板を見下ろして、大男が呟いた。店は一昔前の木造家屋を思い起こさせ、現ベイグリフト駅舎が建設される前の旧木造駅舎を模した造りだという。最後に見た時から寸分も違わないその姿は男の郷愁を誘う。
 大男は小さな繁華街の薄暗がりを女の子を伴ってここまで帰ってきた。数年ぶりに敷居をまたぐ。
 カララン……、カラン、カラン。扉を押すと呼び鈴が派手に鳴る。
「あ、いらっしゃいませ〜」陽気に明るい若い女の声が店に響く。
 男は女の子を左手に従えて、店内をぐるりと見渡した。天井から鉢植えの植物がつるされている。木製のカウンター、その隅っこで丸くなっているトラ猫。丸椅子。軋む床。まるで、ここだけ時の流れから隔絶されてしまったかのよう。
「……変わらないな、ここは」ポツリと呟く。
「……ウィル兄さん――」入口に佇む客を見て、女のカップを拭く手が止まった。
「ただいま、ベルクール」爽やかな微笑みを浮かべてウィリアムは言った。
 ベルクールはうつむきかげんに左手で溢れてくる涙を拭っていた。ただ、突然の出来事に対処できない。知らぬ間に目頭から流れる涙に視界が霞んでしまう。
「……お帰りなさい、ウィル兄さん」
 ベルクールの儚い微笑みがウィリアムの胸を締めつけ、心に微かな痛みを与えていた。
「ああ、ただいま、ベルクール……」
 細く、けれど、優しさの滲みだした声色。ウィリアムは静かな、床の軋みが店中に響いてしまうのをはばかるような足取りで、ベルクールのいるカウンターに歩み寄った。女の子はそれにちょこちょこっと付いていく。そしてまた、必死にウィリアムに捕まろうとしていた。
「きっと、お母さんも喜ぶヨ」ベルクールは零れる雫をそっと拭き取り、健気に微笑んで見せる。
 けれども、兄はすぐにこの街から出ていってしまうだろう事も予期していた。
「ね、ベルクール。こ、これが噂の……?」
 と、カウンター席にいた先客の若い女性が好奇心に瞳をキラキラさせて尋ねてきた。
「兄妹、水入らずの再開に茶々を入れないでくださる? フィントさん?」
「いいじゃん、ね、別に。悪口じゃあなくて、ピュアな好奇心からなんだから」
「フフ。まあ、いいかしらね」
 ふっと遠い目をして、それから、ウィリアムの目の上にベルクールの視線が戻ってくる。
「それで! ウィル兄さん、その子は……?」
 ベルクールはカウンターから身を乗り出して、ミーナに両手を差し伸べた。すると、ミーナは不信感を抱いたりするわけでもなく、ベルクールの右手をぎゅっと握ってにっこりとする。ベルクールは微笑み返すとわきに手を入れてひょいと抱き上げた。
「?」ミーナはしばらくの間キョトンとして、ウィリアムはずっとベルクールの行動を追いかけた。
「ああ、ミーナの事か? 拾った」急に我に返って、ウィリアムは言う。
「拾ったって小猫じゃあるまいし……」
「ミーナは小猫みたいなものさ」
「そうなの?」
 ベルクールはミーナの瞳をじ〜っと見詰めて、フイッとウィリアムの眼を覗き込む。ミーナはやはり不思議そうな表情をしていて、ウィリアムは心なしか困ったような顔をしていた。
「子猫ちゃんでもいいけど、言い訳くらい考えておかないと、レイ兄さん怒るわよ〜。帰って来るたびに訳の判らないもの連れてきてって」
「トラ猫のミーくんは訳の判らないものじゃないだろ? 今じゃしっかり、アイドルのようだしな」
「悪いとは言ってないよ。わたしとレイ兄さんを納得させられる訳があればね……」
 ベルクールはちょっとだけミーくんの方に視線を逸らす。彼女は人間たちの会話などには興味ないようで、突然の訪問者たちの挙動にはまるで無関心。自分のテリトリーを荒らされなければいいらしい。
「説明したら一日はかかる。それにな、兄貴がどう思ったって構わない」
 場の雰囲気が悪くなる。フィントは興味津々とばかりに目を爛々と輝かせて聞き入っている。
「……ま、取り敢えず珈琲でも飲むか!」ベルクールは朗らかに言う。
 ベルクールは抱き抱えたミーナをストッと床におろすと、珈琲を入れにかかった。パタパタと靴音を立てて動き回る。きちんと豆から挽き直し。もう一度お湯を沸かして、ペーパーフィルターも取り換えて、ちゃんとしたお店の珈琲をウィリアムに出すつもりだ。
「さて、当店自慢のブラック珈琲はいかがですか?」
 ベルクールは満面の笑みを浮かべ、得意げに言う。けれども、ウィリアムの意見は違うようだ。
「――ベルクールのはいまいちなんだよナ」ウィリアムは早速一口飲んで、「――この分だと店が潰れるのも時間の問題なんじゃないのか?」
「な? ちょっと、いくら何でもそれはないんでない? ウィル兄」
 その時、カウンターの隅っこで丸くなっていたミーくんの耳がピクリとした。それから、むくりと起き上がるとカウンターの上を静々と歩いてウィリアムとベルクールの前で澄まして鳴いた。
「ナ〜〜」
「どうかしたの? ミーくん」
 トントントン、戸口から靴を鳴らす音が聞こえてきた。外灯に照らされて人影がちらちらと踊る。その様子は中の雰囲気を感じ取ろうと色々思案しているように思えた。カラ、カラランラン。諦めたのか、何かを掴んだのか、扉が開いた。すると、長身のシルエットだけが浮かび上がった。
「……レイ兄さん?」
「レイトグリフさん?」
 シルエットは戸口をくぐり、店内の照明に照らし出されてレイトグリフになった。不調法な足取りで、不快感を露にしている。レイトグリフもウィリアムに負けず劣らずの大男だったから、古い床がギシギシと悲鳴を上げた。
「どの面下げて帰ってこられた? ウィリアム」不機嫌な声色。
「兄貴か……。ベルの珈琲がさらに不味くなるようなことを言うなよ」
 ウィリアムは戸口の兄を見ることもなく、珈琲カップを口元に運ぶ。
「ちょっと、『さらに』ってどういうこと?」腕を組み、流し目でウィリアムを睨め付ける。
「いや、何。口が滑った」
「口が滑ったぁあぁ? それってつまりはどういうことよ?」
「まあいい」ベルクールを制したレイトグリフの視線が降りる。「で、その娘は何だ?」
「誰でもいいだろ。オレがどの面下げて帰ってこようが、誰を連れてきても勝手だろ? オレは兄貴には迷惑はかけていない」
「何が言いたい。お前は。――確かに」レイトグリフは腕を組んだ。「オレには大した迷惑にはなってないさ。ウィルがいようがいまいが殆ど関係ない。だがナ……」
 沈黙。とても気まずくて、そこに居合わせた誰もが瞳をそらす。唯一、ミーくんだけがその雰囲気とは無関係で、“我、関知せず”と決め込んだのか再び、カウンターの隅で丸くなって落ち着いた。やり場のない三人の視線は束の間、ミーくんの動きに釘付けになる。
「オフクロはどうするんだ?」唐突に緘黙を破った。
「知らないね」ウィリアムはレイトグリフの言葉に反発して反射的に口走った。
 ハッとするも既に手遅れ。レイトグリフの怒れる、いや、この上なく冷めた視線がウィリアムの上に降り注ぐ。ウィリアムは居心地が悪くなり、背中ではジト〜ッとした冷汗が流れるのを感じた。
「――そうか、そう言うなら好きにすればいい」
 却って、レイトグリフは素っ気無かった。それ以上の言葉を放つこともなく、レイトグリフは喫茶『停車場』をあとにして、カウンターの裏側から『我が家』に姿を消した。
 それから、ベルクールとフィントの視線がウィリアムに回帰する。
「まぁた、喧嘩して。この前、帰ってきたときもそうだったよね。全くサ、レイ兄も、ウィル兄も人の気なんて知らずに盛大にやってくれちゃってサ」
「すまんね、ベル」ウィリアムはベルクールとは視線を合わせずにうつむいていた。
 ミーナは閉店間際の人気のない沈んだ雰囲気を気にも留めずに、ミーくんのひげをみょ〜んと引っ張ってみてははしゃいでいる。それはミーくんにしてみたら、いい迷惑で、毛を逆立てて「ふぎゃ〜」とミーナを威嚇していた。けれども、構ってもらえるだけで嬉しいのか、悪戯はエスカレート。結局、ミーくんの方が根負けしてカウンターから退散した。それをまた、ミーナが追いかけるものだから、店内はあっという間に喧騒に包まれる。
「失言は放ちたる矢の如しですか? ウィル兄さん。それとも本心?」
「……しつげん……だよ。あんなこと、言う気なんかなかったんだ――」
「そう……、ちょっと安心したワ」ほっと胸をなで下ろす。
「兄貴を見るとつい熱くなって、いらないことを。どうしたものだか……」
 上の空のようにウィリアムは呟いた。空っぽになったままの珈琲カップを覗き、その底にホンの少しだけ残った黒色の液体にしょげた顔を映し出して、ぼんやりと眺めている。
「ホラ、もう、空になったカップなんていつまでも眺めていないで、貸しなさいよ。もう一杯、新しいのを淹れてあげるから」ベルクールは右手を広げて差し出し、暖かく微笑んだ。
「すまない……」所在なさげにウィリアムは言い、そっとベルクールの掌にカップを乗せた。
 さっとカップを受け取ると、ウィリアムに背を向けて慣れた手つきで珈琲を淹れる。
「ウィル兄さん、今日は泊まっていくんでしょ?」
 予期しない問いに瞬間うろたえた。久しぶりに帰ってきて、最初からそのつもりでこの『停車場』を訪れた。けれども、何故だか心が痛む。ベルクールの暖かさが身に沁みる。ミーナと一緒に国中を旅しているウィリアムにとってここは辛すぎた。
「あ? ああ。ベルクールがそう言うのなら、そうしようか?」
「なら決まりね」
 珈琲カップがウィリアムの目の前にそっと差し出された。波紋の揺らめき。それを見詰めていると切なさが込み上げてくる。まわりは相変わらずのドタバタ騒ぎ。それなのに、ウィリアムとベルクールのいるところ、カウンターの一角は周囲の“時”からは切り離されているかのよう。
「ベル……。何から何まで……迷惑をかけるね」
「別に構わないわヨ、お兄さん。その代わり、明日はお母さんのお見舞いだからね!」
「い、いや、それはちょっと遠慮しておきたいが……。オレ、お袋は苦手なんだよ」
 あからさまにうろたえて、おろおろする。ベルクールはクスリとして、ミーナを見やった。
「ミーナちゃんは行くよね〜?」ベルクールはミーナの爽快な笑顔に視線を合わせた。
「!」
「あ!」ウィリアムは思わず立ち上がる。「そ、それはひ、卑怯だぞ、ベル」
 ミーナはミーくんを放り出して走り寄ってくると、にっこりとして、大きくコクンと頷いた。
「――ミーナ、どこに行くのか判っているのか?」
「?」ミーナは眼を大きく見開いて、不思議そうに小首を傾げてウィリアムをまじまじと見詰めた。
「……いや、判った。もう、別に何も言わないよ」
 ウィリアムはカウンターに肘を付いて頭を抱える。ため息も漏れてくるけど、無邪気なミーナを追及したところで、徒労に終わることは既にこのところの旅で心得ていた。
「ウィル兄も、ミーナちゃんには形なしネ」口元に手を当てて、ベルクールはフフフと笑った。

 

   <2>
『お兄ちゃんなんか、大嫌いだ!』
 記憶の狭間から、不意にそんな呼び声が沸き上がった。誰が叫んだのだろう。どこで決別の言葉を放ったのだろう? 子供の甲高い声で、瞳は潤んでいるように見えた。
『お兄ちゃんなんか、お兄ちゃんなんかぁあぁ』
 どこかで微かに緋色の閃きが感じられた。その場はとても熱くて灼熱の地。夜なのに昼のように明るくて、ワイワイガヤガヤと何かを見詰める烏合の衆がいた。それは……?

「おはよう、レイ。今朝も早いな」
「ああ、オレの出来るのはそれくらいのものだからね」
(あれは……誰だったか――)
 上の空。無意識のうちに返事をし、漠然とした気持ちで毎日の繰り返しの行動をする。ロッカー室で仕事着に着替える。それから、朝礼があって煩雑な一日が始まる。
「レイ?」挨拶をした同僚は訝しげ眉をひそめ、名を呼ぶ。
「あ、ああ? 何だ、リーブス」心臓がドキリとして、そちらの方を振り向いた。
「どうかしたのか。朝っぱらからぼんやりしてるぞ。――ははぁ〜ん、さてはベルさまと喧嘩でもしてきたのか? お前ら、他愛のないことでよく喧嘩するよな?」
「いや、今朝は違うんだ」短い間、話そうかどうしようかと迷う。「……昨日、弟のウィリアムが帰って来てね」
「それで、早速、喧嘩の上にご機嫌斜めか。レイはかたいんだとか何だとか言われたのか?」
「ま、そんなようなもんだ」頭をポリポリとかく。
「いつもはクールなくせに、弟のこととなると感情的になるのな。おかしなもんだ」
「無理さ……」レイトグリフは済ませると、きゅっと帽子を深く被った。「ウィルの方が喧嘩腰だ。――無論、オレに非がないとは言わないがね」
「何だかんだ言っても、結構、楽しそうだな。言葉でそう言っても、心の中では……か?」
「かもしれん」憂いを含んだ複雑な顔。
 あれはいつの頃からだろう。泥んこになって笑いあったあの日はどこに行ったのだろう。近所の空き地、資材置き場。立ち入り禁止の有刺鉄線、剥き出しの土管下水道。危険なんて知らずに、怖さなんてどこ吹く風で二人、駆け回っていたころ。
「レイ? 今日は少しおかしいぞ。帰って休んだほうがいいんじゃないのか?」
「……いいんだ。大丈夫」
「ホントか? 一日くらいならお前なしでも何とか」
「心配してもらって済まんが、病気でもないのに休むわけにはいかんさ」
 レイトグリフは振り向きざまリーブスの肩をポンと叩いて、ロッカー室をあとにした。

「お兄ちゃんなんか……、大嫌いだ……か」
 ウィリアムはベッドに転がって天井をボーッと眺めていた。雨漏りの描いた年輪のような縞模様を感じては、この家、喫茶『停車場』が出来てからの月日の流れを思ったりもする。
「フフ、二年ぶりにベイグリフトに来たせいか、嫌な夢を見たもんだ」
 ウィリアムは眼を閉じて物思いに耽る。
「オレはまだ、あの頃の気持ちを引きずっているのか。――あれは誰のせいでもなかったはず」
「ウィル兄! いいかげんに起きなさいヨ! もう、お昼なんだからネ」
 階下から、ベルクールの苛立たしげな怒声が聞こえてきた。
「他ではどうだったか知らないけど、ウチじゃあ、これ以上の寝ぼすけタイムは許さないヨ」
「起きてるよ、ベル。オレだってそんなにいつまでも寝てはいないぞ。脳みそがとろけちまう」
「アラ、そうなの? もうとっくにとろけちゃってるのかと思っていたワ」
 まるで容赦のない言い方をする。
「いくら何でも、それは言い過ぎだぞ、ベル」
「ハイハイ、判ってるから、早く降りてきなさい」
 聞く耳もたず、ベルクールはウィリアムの言葉を意に介さずに、ブランチの準備に取り掛かる。とは言っても、既に面倒くささが先に立っているので、珈琲と食パンの簡素なものだ。
「おはよう、ベル」そこへ、ウィリアムがトタトタと階段を下りて、店に姿を現した。
「おそようでしょ? ウィル兄」珈琲を淹れながら、瞳はウィリアムに固定する。
「……おそよう、ベル。――だがな、珈琲、溢れているぞ」
「あ、あら、ヤダ」ホホホと笑って誤魔化してみる。
 カップに居場所を失った焦げ茶色の液体はカウンターの上に小さな水たまりを形作っていた。ベルクールとウィリアムでそれを覗き込むと、水面がゆらゆら揺らめいて二人の顔がゆがんで映る。
「昔は雨上がりの水たまりを蹴飛ばして歩いたもんだな」
「そおなの?」
「ベルは女の子だからな、そうはしなかったのかもしれない」ウィリアムはどこか、懐かしさを滲ませながら言う。「そう……、いつも、兄貴がいたよな。資材置き場で秘密基地ごっこ。夕暮れがやけに早くて憎らしかったけなぁ」
 パンを口に運んでモソモソして、苦い珈琲をがぶっと飲む。それから、ハタと気がついたように、
「――そう言えば、ミーナは?」
 このままでは“お見舞い”は時間の問題と話題を切り替える。ベルクールとお母さんはウィリアムの中で、苦手の一位と二位を占めているから二人に囲まれた日には最悪だ。
「あそこヨ」ベルクールは頬杖をついて、そちらの方を指した。
 ベルクールの指し示したテーブル席を見やると、ミーナとミーくんが遊んでいる。
「ミーナ〜、オレちょっと、ごめん、夕暮れまで一人でいてくれ!」
 と、言うが早いか、ウィリアムはやにわに立ち上がると、戸口に踵を返した。それからは一目散。カランコロンと鈴を鳴らす前に、扉の押し引きを間違うも束の間、ウィリアムの姿は窓の外。
「あっ! 逃げたな、ウィル兄!」けれど、予期していたのか取り乱す様子もない。
「すまん! ベルクール。この埋め合わせはそのうちするからな。ミーナで我慢してくれ」
 去り際のウィリアムにベルクールの声が届いたのか、大声が返ってくる。
「!」
 ミーナはウィリアムが逃げ出したことに気がついて引き止めようとしたけれど、追いつけないことに気がついて途中で諦めた。ちょっとの間だけしょぼんとすると、また、ケロリと忘れてしまったかのようにニコッとしてベルクールの上着の裾を引っ張った。
「全く、困った兄貴だヨ。まるでガキンチョだもんねぇ。あれで二十代も半ばだって言うんだから信じられない!」腕を組んで右足でトントンと床を蹴りながら、ぷんぷん憤慨する。
「ま、いいワ、わたしたちだけで行きましょ、ミーナちゃん」
 喫茶『停車場』に本日休業の札を掛けて、ベルクールとミーナは昼の街に繰り出した。

 ベイグリフトを象徴するタイル張りの駅舎からつづく、駅前通りを観光案内しながら、お見舞いに向かっていた。季節はちょうど春。街路樹が芽吹きだし、気の早い花が咲き始めるころ。
「ミーナちゃん? ステキでしょう?」
「! ――!!」とても嬉しそう。
 昨晩はささやかなネオンの光しか見られなかったミーナにとっては全てが好奇心の対象だった。キラキラ煌めく瑠璃の瞳で全ての光を吸収する。あらゆる看板、抜ける空。アスファルトを破って生える草さえもミーナの心を捉えてやまない。
 ベルクールはミーナの手を取った。
「ホラ、あれが市立病院」
 ベルクールが指したのは白亜の建物。常緑の針葉樹に囲まれた不可思議なところ。雪の降る季節はそこだけ浮かび上がって異空間を演出する。落葉……落ちるもの、落とすものは極力少ない。
「ここに足を運ぶようになってもう何年になるのかナ」
 淋しげな憂いを含んだ視線をミーナに向ける。
「ミーナちゃんに言っても仕方がないか。お母さんはね、四階東区四一五室……。ナースステーションの東側にいるのよ」
 市立病院の真っ白い廊下には特有の消毒薬の匂いが漂っていた。ベルクールの嫌いな匂い。いつの頃からか覚えていないけれど、フと気が付いたときにはこの病院の匂いが嫌いだった。
「あ……、ミーナちゃん、こっちよ。はぐれないでね、大変だから」
 ベルクールの声にミーナはコクンと頷いて、ベルクールの左手に掴まった。年の離れた姉妹のようで、とても微笑ましい光景。廊下に引かれた一般病棟への矢印を辿る。
「ホラ、ここ」
 どこかの病室からは笑い声が聞こえてくる。お昼過ぎの病院はすこぶる賑やか。射し込む陽の光も心地よく、眠気を誘う。ぽかぽかしていてどこかでまどろんでいたい。そんな気持ちにさせる。
「お母さん……。へへっ! 来ちゃった」
 ベルクールは戸口の陰からひょこっと病室に顔を出した。
「あら?」読んでいた本をベッドの上に伏せた。「ベル、お店はどうしたの?」
「午後からお休みにしたのよ」
「定休日でもないのに?」少しだけきつい視線がベルクールに届く。
「だって、どうしても話さなくちゃならないことがあったから……」
 後ろ手を組んで、ベルクールは静々とベッドの傍らに近付いた。お母さんに怒られるのも怖い。正直、そうだ。けれど、それよりもウィリアムがこのベイグリフトに帰ったことを伝えたい。
「お母さん。……昨日の夜、ウィル兄さんがひょっこり帰ってきたんだヨ」
「ウィリアムがかい?」ベルクールは無言で穏やかに頷いた。「……音沙汰なしで、二年もどこをほっつき歩いていたんだろうねぇ」
「それで……ミーナって不思議な子を連れてきたのよね。ホラ、ミーナちゃん、こっちにおいで」
 トタタタとミーナが現れる。
「どこの子だい?」特に驚くそぶりを見せるでもなく、落ち着いていた。
「それが――判らないの。懐いてはくれたんだけど、一言も喋らない……」
「喋れない事情でもあるのかしらね」
 その言葉を聞いて、ミーナは一生懸命になって頷いて見せた。
「あら、本当みたいだよ」
「どんな事情なの――って聞きたいけど、本人が喋れないじゃあウィル兄に聞くしかないか」
 ちょっぴり残念そうにベルクールはミーナの顔を眺めていた。そのミーナの表情はいつもと違う。済まなそうでいて、どこか淋しさを湛え、そのまま影が薄くなって消えてしまいそうな笑みを浮かべる。病室をそよ風が吹き抜ければ、さわりとミーナの髪が揺れていく。
「……春――だねぇ」
 暖かい空気で病室がいっぱいになる。ベルクールは少し開いた窓を全部開けた。すると、通せん坊されていた春風がすーっと入り込む。ベイグリフトの雑多な街並みが春色に包まれつつあるのだ。ここからだと『停車場』からは見られない色んなものが見える。
 けれど、何だかかすかに焦げ臭い。安らぎの空気の中に小さな緊張感が孕まれている? 不穏さ。不気味さを静かに抱えている。奇妙。木々のさざめきがいつもと僅かに違っていた。
「あらららら、ミーナちゃん?」
「……」ミーナは落ち着きをなくしてベルクールの上着を哀願する眼差しで引っ張る。
「お母さん?」今度はベルクールが困り果てる。「どうしよう?」
「お母さんに聞かれても困るけど。何か言いたそうだね」
「!!」
 差し迫った表情、焦燥感。何かを必死に求める視線――。汗が滲む白いシャツ。ミーナの目線、ベルクールのうろたえた眼差しが交錯する。いつもの風景の中に違う何かが隠れているのだろうか。逃げたいけれど、逃げられないような奇妙な苛立ち。瞬間、辺りを包み込んでいた空気が変わる。
 ジリリリリ……。談笑と朗らかな日常を打ち破って、突然、非日常の音色が院内に響き渡った。
「緊急火災警報です。入院患者、当院においでの方は職員の指示に従い、速やかに院外に退去してください。くれぐれも廊下等では走らず、無用の混乱を招かぬよう……」
 幾重にもなる雑音の中には妙な静けさが漂っていた。ざわめきの中の静寂。病室の二人にはっきりと淀みなく届くのは放送音声だけだった。
「か、火事?」
「ほほ、誤報かしらね?」
「お母さん、何、のんきなことを言ってるの? に、逃げなきゃ。焼け死ぬのだけはごめんよ」
「それはそうだけどね。慌てるほど危ないのよ」
「じゃ、こ、珈琲でも飲んでき、気持ちを落ち着けなきゃ?」十分すぎるくらい動転している。
「全く、我が娘ながら情けないわ。――とにかく、ナースステーションに行って車椅子借りてきなさい」声色には凛とした張りがあった。「あなたじゃ、わたしをおんぶなんて出来ないでしょう?」
「う、うん」
 後ろ髪を引かれる思いを背中に感じながら、ベルクールはナースステーションに駆け込んだ。馴染みの看護婦さんたちは他の重病・重症患者の避難準備に追われている。ちょっぴり内気なベルクールは言葉をかけるタイミングを掴めない。
「あ、あの……」
 聞こえているのかいないのか、看護婦たちはベルクールの存在に目もくれない。
「あら? ミーナちゃん」奇妙な冷気を感じて、視線を落とすとミーナがいた。
「シスケットさんとこのベルちゃん?」看護婦が一人気が付いた。
「あ、はい!」
「車椅子?」その声にベルクールは勢いよく頷く。「それ、もっていっていいよ。ごめんね。今、ちょっと人手が足りなくて。集中治療室が済んだら、すぐにそっちに行くから……。でも、エレベーターは使用禁止。電源が落ちたらそのまま棺桶よ」
 ベルクールには既に若い看護婦の言葉は聞こえていなかった。車椅子を奪ってシスケットの待つ病室へ走り出す。飛び出ていったベルクールを見て、慌ててミーナも追いかけた。
「お母さん!」ベルクールは必死の形相で病室に舞い戻った。

 

   <3>
「……そう、前にもこんなようなことがあった」
 シスケットはベルクールの運び込んだ車椅子に身を移していた。ベルクールがサッと足下に毛布を掛ける。その動作はかなり手慣れていてほとんど無駄がなかった。
「前……にも?」
 ベルクールのとびの瞳を見つめて、シスケットは無言で頷いた。
「それからね、レイトグリフが消防士になると言い出したのは。あなたは覚えているかしらね?」
「え?」予期しない問いかけに、ベルの声は上擦った。
「四歳だったか、五歳だったか。レイは十二、だからウィルは十くらいよね」
 悲鳴や叫び声に包み込まれたいびつな沈黙。ピンと張ったピアノ線がそこにあるような緊迫感。
「燃えたのは……うちよ」物憂げでどこかに悲愴さを漂わせていた。
「……知らない」
「そう――、覚えていなくても当然かもしれない……ね、ベル」
「知らないヨ、そんなの。――知らない、判らない……」
 目に見えない恐怖を振り払うかのよう。怯えた目線が宙を当てどもなく彷徨う。放心? 違う。閉ざされた過去の思いが頭をもたげようとしているのかもしれない。
「ウィルが『お兄ちゃんなんか、大嫌いだ!』って、凄い剣幕でね。それだけはよく覚えているわ」
「ウィル兄が……?」意外そうな表情。
「もう、ずっと昔のこと。今じゃ、何があっても飄々としているわ」ニコリとする。「羨ましいというか、何というかだけどね。……そう、それからしばらく、ウィルはレイとは目を合わせようとも、口を利こうともしなかった。冷戦だわね。仲直りの機会を失った……」
「れい・せん?」眼差しは焦点を結ばない。
「お父さんが死んで、わたしがこうなったのは、ずっと、レイのせいだと思い込んでいたわ。レイだけが何とかできたはずなのにって。擦れ違いはそこから始まった……緋色の中で」
 シスケットの瞳は遠い過去・巨大な緋色に包まれた『停車場』を見詰めていたのかもしれない。

「父さん! 梁が……天井が落ちてくるよ」
 天井の石膏ボードは既に焼け落ち、屋根裏が露になっていた。灼熱の炎が辺りを緋色に照らす。全てが灰になる予感。プラスチックや樹脂の焦げる嫌な匂い。実体なき猛火の向こうには父の姿が霞んで見えていた。
「レイ! ベルを受け取れぇ」絶叫とも怒声とも似つかぬ声がする。
「ベル? うわぁ!」
 奥の部屋からレイトグリフの元に泣きじゃくるベルクールが飛んできた。顔はススだらけ、服は火の粉でたくさんの焦げ穴が開いていた。ベルクールは兄に抱き抱えられ、その衣服をぎっちりと、もう二度と放すものかとばかりに握っている。眼は涙に真っ赤。喋らなくても頼れるのはレイトグリフしかいないというような哀願する視線が突き刺さる。
「母さん! うわぁぁぁあ、天井が、父さん、早くぅ」
 梁が落ちる。梁が落ちれば二階のトタン屋根が丸ごとそこに降ってくることを意味していた。ミシミシと不気味な軋み、下からは更に追い撃ちをかけるように炎が太い梁を消し炭にしていく。
「父さん! オレは……? オレは!」
「行け、レイトグリフ。オレのことは心配には及ばん」
「でも、父さん! 母さんは、母さんは」
「急げ! お前にはベルを守る義務がある。シスケットはオレが……」
 折れた。屋根が崩壊する。もう、この場にとどまっている猶予はない。レイトグリフはベルクールを抱っこして後ろ髪引かれる思いで躊躇いがちにダッシュした。辛うじて焼け残った階段をそれこそ転げ落ちるかのように駆け降りる。炭になりかけた木材の階段は脆く、たった十四段の間に何度も足を取られそうになる。
「くうう」
「レイ兄ちゃん!」
 一階は火の海。きっと、二階の床が抜けるまでは大した間はないのに違いない。トタンの屋根が異音を立て、ひしゃげながら落ちてくる。どうする? 天井が抜けたらそれまでだ。
「ベル。しっかり、掴まっていろよ」気丈に笑い、レイトグリフは言う。
「でもサ、絶対に一人じゃ無理だヨ」ぴちょんとレイトグリフの頭上に雫が一滴落ちてきた。
「? 判るもんか」誰に答えてる?
「ふ〜ん? じゃあやってみる? 聞こえるなら、見えるでショ?」
 キョロキョロする。
「ホラホラ、固定観念は捨てないと見えないよ。下じゃあないよ。もっと上、もっと上だヨ」
 声につられてもう一度キョロキョロと辺りを見回す。すると、変なものが視界に入った。少なくとも、今までにその姿を見たことは一度もなかった。小さな小さな妖精? お伽話ではよく聞くけれど、実物がいるなんて聞いたことはない。だから、思わず。
「嘘」
「うそぉ〜〜? 初対面に向かってそれはないんじゃないの?」心外らしく、ぷ〜っと膨れっ面になった。ちょっと可愛らしい。「でも、ま、いいワ、許してあげる」
「父さんは? 母さんは?」
「さあ? わたしに出来るのはあなたたちをここから出すことだけ――。ミーナに頼まれたし」
「ミーナ、そうだ、ブレーズは? ミーナは?」
「聞かない方がいいと思う。けど、壊れたブレーズを止めるのにミーナは……。ううん、そんなことより、ちょっと、見てて」
 すると、またも我が目を疑う事態を目の当たりにした。レイトグリフは口をあんぐりと開けて呆然とした。他のリアクションなどとりようもないくらいに心奪われる光景でもあった。
「どう?」得意げに言う。
 炎が、水に呑まれていく。すぐ近くの流し台から水が溢れ出し、レイトグリフの行きたい方向に向けて流れていた。実際にそんなことが起こりうるはずがない。ホンの少しの水がこんな家を丸呑みにした炎に敵うはずがない。あっという間に水蒸気になってしまうはず……。けれど。レイトグリフの通れそうな幅だけ炎が引いていた。
「これでブレーズが炎を弱めて、ミーナが凍らせたら完璧なのに」その表情は淋しさと愁いを含んでいた。「さ、急いで。わたしの力だけじゃあ束の間のマジック」
“夢”と言葉がやけに似合う有り様だった。パキパキと木材の燃える音のする中にせせらぎがある。異様でありつつ、美しいそれは風変わりな現実だった。レイトグリフはパシャパシャと水しぶきをあげて炎をかいくぐった。そして。
「よろしく。わたしはフィント・ピクシード。アクアフェアリーだよ」
「……オレは」
 と、次の瞬間、二階の窓ガラスがパァーンと粉々に砕け散った。炎が吹きだし、椅子とガラス片が地面にばらまかれた。何があった? と思うも束の間、人の身体が破れた窓から投げ出されてきた。
「母さん!」その声は二つ重なっていた。
 人垣がどよめき、その後の静寂。家の焼け落ちる音だけがやたらと大きくレイトグリフの耳に届いていた。ドサッ。全てがスローモーション。無慈悲に揺らめく炎も、流麗に舞い上がる火の粉もどこか虚ろ。非現実的な現実。母さんの身体は地面に叩き付けられた――。
「うわぁぁぁああ、母さぁん!」
 救急車や、消防車のサイレンが錯綜して消える。無数の足音。消火ホースが引きずられる音。
「担架! 急いで。こっちだ」地面に横たわるシスケットを見付けて誰かが叫んだ。
 でも、それもレイトグリフには届かない。ベルクールを抱っこしたまま呆然として、何が身の回りで起ったのか判らなくなっていた。失意によどんだ瞳に映るのは燃え盛る炎。
「お兄……ちゃん……?」人影からウィリアムが姿を現した。
「ウィル……?」レイトグリフは疲れたような苦笑を漏らした。
「お兄ちゃん! 父さんは? 母さんはどうなったんだよぉ!」
 ウィリアムはレイトグリフの胸ぐらを掴んで泣き叫び、レイトグリフはただされるがままに緋色の街並みを放心してしまったかのように見渡していた。

「それが十五年前だった……」現を忘れてしまったかのようにシスケットは呟いた。
「お母さん。もう、間に合わないよ」
「泣き言は言わないの! どんなに辛くても、泣きたくても微笑んでいないさい。いい? ベル。泣き顔に幸せは回ってこないよ」
 辺りはもうずっと前から完全な静寂のなかにあった。喋れば声が壁に響き渡り、悪戯に不安を煽る。火の手も見えない、煙が上がってくるわけではない。それなのに心許なくて、このままでは逃げられないような不吉な予感に捕らわれていく。
「お母ぁ……さん」心配そうな瞳に涙が溜まる。
 防火シャッターが目の前に降りて、車椅子では先に進めない。
「こうなった以上は、歩けなくても歩くしかないでしょう。いい、ベルクール。諦めるのはホントのホントに……最後の時だけ。――まだ、逃げ場はある。だから、ベル。手を貸しなさい。こんなとこじゃ、終われない。お父さんのため……に、ね」
 シスケットは静かな微笑みを湛えていた。強く。そして、儚く。

 

   <4>
「本部より、応援指示。都心部にて火災発生。消防車二台の出動を要請する」
 ウ〜。サイレンが庁舎に響く。
「出動命令。火災現場はサンセット大通り西十丁目、市立ベイグリフト病院」
 司令室から隊員に指令が行き渡る。交代勤務とは言え、ちょうどお昼時。全部隊が出動となれば、隊員の半分は昼飯を投げ出してのことになる。庁舎は次の声を待ち、静まり返る。
「全部隊出動する!」
 その音声に隊員たちが一斉に動き出す。きびきび、素早く、無駄は一つもない。それぞれの役割を遂行するために、速やかに担当部署に移動していく。
 その中、レイトグリフは消防服を着込み、壁に掛けられたヘルメットをもぎ取って被る。
「本局からの応援要請だ。既にサンセット局が現場に到着、消火活動を開始した。他、本局、サンライズ、当局だ。四局協同、消防車九台、救急車両四台が現場に向かう。状況は車内無線で追って指示する。出動!」
 レイトグリフはセントラシティ出立の消防一号車に乗り込んだ。
「相変わらず、楽しそうだな、レイ」
「楽しくない! ……少なくとも今回に限ってはな」重苦しい表情を運転席のリーブスに向ける。
「市立病院……お袋さんか……」
 サイレンのスイッチを入れ、アクセルを踏み込む。歩道の縁石をゆっくりと乗り越え、左折する。
「ああ……」レイトグリフはシートにもたれ掛かった。
 消防車のサイレンがけたたましくベイグリフトシティの街並みにこだまする。どうやら、警察も動いているらしく、パトカーのサイレンも入り交じる。静かな街は一気に騒音の中に叩き込まれた。
「交差点、侵入しないように。消防車両が右折します」
 一台、二台。赤い特殊車両がサイレンにドップラー効果を残して去っていく。それらの目指す先には黒煙が上がっている。激しく? いや、レイトグリフたちのいる方角からは少なくともそうは見えない。大げさに消防車や救急車が大量に行かねばならない状況には感じられなかった。
「ザー……。本局より、セントラ局」
「あい。こちらセントラ局一号車」無意識に、無線レシーバーを手に取ってレイトグリフは言う。
「西十丁目通り、市立病院側に停車、指示します」
「了解。二号車、聞いたな?」
「――二号車、了解……」無線が切れた。
「ど、した? 浮かない顔が更に……沈んできたな」ちらっと横目でレイトグリフの表情を読む。
「何となく、先の展開が読めてきたんでナ。頭痛がしてきたところだよ」
 セントラ局の消防車が現場に到着するころには、他三局の消防車が病院の前に所狭しと陣取っていた。周辺道路には既に交通規制がしかれ、一般車両は近寄れないようになっている。
 立ち上る煙、実体なき炎。それらは消防局が通報を受け取ってから確実に成長していた。猛火となった火はスプリンクラーなどの自動消火設備なども焼き尽くして院内を焼駆け巡ろうとする。
「……どんな感じだ?」
 消防車のコクピットから飛び降りて、開口一番にリーブスは言った。
「嫌な感じだ。……ついでに言えば火種はあそこを飛んでるぜ」レイトグリフはそれを指差した。
「ファイリーフェアリーか。またえらくファンタスティックなのが出張ってきたもんだが、商売柄素直には喜べないな」
「作戦司令本部からセントラ局、応答せよ」
「こちら、セントラ局」
「本部から指令。セントラ局に要救助者の救出を指示します」
「リョウカイ! それで逃げ遅れは?」
「新館最上階東区。ナースステーションを中央に挟んだ東側です。病院側の確認によると……入院患者と見舞客、看護婦、その他、合わせて八名。これに関しては名簿、見取り図を回します」
「了解、判った。名簿と見取り図が手に入り次第、実行する。通信終了!」
「レイトグリフ、どうやら、お前に行けと言うことらしいな?」
「お前もだよ。本局にロクなレスキューがいないからこんなことになるんだ。それにこっちに回されたときから、そんなもんだと思っていたサ! ここが一番近いんだ」
「……」
 リーブスが何かを言いかけたとき、クリップボードを持った消防士が駆け寄ってきた。
「頼んだぜ、レイト、リーブ。思ったより火の回りが早い。それと名簿と見取り図だ」
 消防士はクリップボードをそのままリーブスにひょいっと渡した。リーブスはペラッと紙を繰って名簿を読みだした。そして、スッと顔を上げレイトグリフを見据えた。
「名簿によればオフクロさん、ベルさまとミーナ・ガンフォードとか言う女の子。その他五名だ。心当たりは?」
「――心当たり? ありすぎるくらいあるさ。やり切れないね、全く」
「ベルさまとオフクロさんじゃあなくて、ミーナという女の子だぞ? レイに妹、二人いたか?」
「いないよ。そっちのミーナっていうのはウィルの連れてきた妖精だ……」
「また、妖精か。随分、妖精が繁盛してるようだな」
 レイトグリフはリーブスの茶化しなど聞かず、アクリル樹脂のマスクを深くかぶり、十キロあまりの空気呼吸器のボンベを負う。消防服を念入りにチェックした後、瞳がギンと険しく煌めく。その隣では幾許かの懸念を抱きながら、レイトグリフと同じように準備を進めていた。
「行くぞ、リーブス」
 侵入を指示された入口へと早速、二人は走りだした。情報、指示ともに揃ったからには、無駄話をしているいとまはない。手遅れにならないうちに全てにケリをつけねばならないからだ。
「ここら辺に火の気はないようだな」
「だが、煙はきている」レイトグリフは扉の上の隙間を指差した。「開けるぞ」
 リーブスはレイトグリフの瞳を見詰め、無言で頷いた。
 ちょうど、そこは緊急用の出入口。同じ区画と言っても火元からは遠い。調理場と緊急出入口とは新館東区内で対角線上の位置なのだ。却って、火の回りは二階、三階と階段が煙突の役割を果たす上の階の方が早くなる。
「――険ですから、近付かないでください! コラッ、人の話は聞きなさい」
 まさに、二人が病院に侵入しようとしたときだった。切迫した緊張感を破る怒声が響いた。
「聞いてる暇なんかないんだよ! どけ」
 大男だった。制止する消防局員を押し退ける。ついでによく見ると小さな妖精が男の右肩の上の辺りを飛んでいた。それは興味津々に男の行動を眺めずっとくっついている。
「……」一瞬、考える。それから、「レイトグリフ!」
 呼ばれたような感じがしてレイトグリフは防護マスクをサッと上げて、後ろを振り向く。
「どうかしたか、レイ」リーブスは振り返らずに建物の内部に探りを入れていた。
「ウィリ、アム?」
「ウィリアム?」訝しげな顔をして振り返った。
「久し振りだな、リーブスも」
「隊長、この方が制止を聞かずに……」
 レイトグリフは左手を押しだして消防士を制した。
「こんなところまでわざわざ何をしに来た。そもそもお見舞いじゃあなかったのか?」
「兄貴の消防車が見えたからこっちに来たんだ。向こうの堅物じゃあ話すだけ無駄だ」
 ウィリアムはレイトグリフの問いには答えずに、自分の言いたいことだけを言ってのけた。
「お言葉だが、オレに話しても無駄だと思うぞ。部外者は引っ込んでろ!」
「そうはいかない。オレも中に入れてくれ。兄貴なら何とか出来るだろう?」
「いいんじゃない? わたしがいるヨ?」
「何だ、お前も一緒にいたのか」
「なぁにその目。まるでお邪魔虫が来たって言いたそうだネ」くるくるっと閃く視線。
「言いたそうじゃなくて、言いたいんだよ! だが、まあ、フィントも一緒なら……」
 思案する。本当なら考えるまでもないことだった。火事場となったからには“関係者以外立ち入り禁止”と突っぱねてしまえばそれまでなのに。瞳を閉じて。腕を組んで。余計なことに首を突っ込むなと言えば……。けれど、口をついた言葉は違っていた。
「――おい、誰かこいつに消防服を貸してやれ。その格好のままでは火事場に入れん」
「し、しかし、隊長! それは服務規定違反では……」
「構わん。責任はオレがとる」
「ですが」ウィリアムに張り倒されそうになった消防士が渋っている。
「――ぐずるな!」激しい怒声と刺す視線が若い消防士に降り注ぐ。「予備のやつを持ってこい」
「モロ、とばっちりだな。あいつ」同情の視線でリーブスは後ろ姿を見送った。
「親父の二の舞いだけはごめんなんだ」小さく呟いた。
「!」リーブスはレイトグリフのひそやかな本音を聞いたような気がした。ウィリアムに向かっては冷たく閉ざされたように見えるレイトグリフの葛藤し揺らぐ心のうちを垣間見たような……。
 そこへ、例の消防士が消防車から予備の消防服を持って戻ってきた。不満たらたらそうで、仏頂面。これ以上、何かをさせようものなら帰ってしまいそうな勢いだ。レイトグリフは“一式”を受け取ると、嫌がるウィリアムに有無を言わさず着せにかかった。
「重い……」
「――軽くはないさ。けど、オレたちが相手にしてきたものに比べたら――軽いだろ?」
 誰に向けるのでもなく、ポツリと言った。
「後は好きにしな。行く先は同じだろうが、これ以上お前に構ってる暇はない。行くぞ、リーブス」
「ホイ、来た。――すまないね、ウィリアム」一瞥をくれる。
 リーブスとレイトグリフは慣れない消防服を着せられたウィリアムを置き去りにして病棟に分け入る。天井付近がススで黒っぽくなっている以外は何ら異変がないようにも感じられる奇異な空間。あまりに何もなさすぎると却って不安感が煽られてくる。
「ね、ね〜ね〜」パタパタパタと羽音が聞こえた。
「フィント」背を見せたままレイトグリフは言った。「ウィリアムのお守り、頼むな。あいつ、突っ走ったら止まらないんだ。いつだって、止めるだけ無駄だったさ」
「だから……止めなかったの……? 判った、まかせて」
 フィントはくるりと身を翻すとレイトグリフたちと逆方向に進んだウィリアムの後を追いかけた。

 

   <5>
「ウィル兄さん。待ってよ〜〜。闇雲に進むと危ないヨ」
 遠くからフィントの声が聞こえるが、ウィリアムには届かない。靴音だけが廊下に響く。非日常、まるで明るい夜のよう。外から聞こえる微かなノイズ。もっと耳を澄ませば、深紅の魔物が白亜の要塞を呑み込む異音が聞こえてくる。次第に心許なさが募ってくる。
「くらっ! ウィリアム。聞いてんのか!」
「ぬお!」思わず飛び上がりそうになって、振り返る。「何だ」
「『何だ』って、何ヨォ〜。折角、心配だからって追いかけてきたのに」
「そおいえば、お前、さっきフィントって兄貴が呼んでたな」
「やっと、繋がった? わたしは喫茶『停車場』にいたフィントちゃんと同一人物です」
「信じられんな」
「信じようが信じまいが真実は一つだけだヨ」
 その後、会話は続かない。ウィリアムは廊下の突き当たりに辿り着くと、階段を駆け上がる。色々と重装備のために流石に身軽とは行かないものの体力だけには自信があった。フィントはそのウィリアムの右肩の上を所在なさげに飛んでいた。そして、不意に。
「レイとも仲直りして欲しいんだけどナ」
 ウィリアムは答えなかった。フィントの指摘したことはずっと前から判っている。仲違いしてしまった理由なんて当の昔になくなったはずだったのに。
(切っ掛けは……掴めるのか)瞳はただ真っ直ぐ前だけを見詰めていた。

「……ダメ! そっちはダメよ。」
 聞こえたのはベルクールのよく知る看護婦さんの声だった。息を切らせて、肩で息をしている。どこかで炎が燃え盛る音がする。エアダクトからモクモクと黒煙が噴き出始める。防火設備の不備なのか、エアーコンディショナーのスイッチが自動では落ちなかったらしい。状況は悪化する。
「本館に渡らないと下に降りられない」
 今更、そんなことは慰めにもなりはしない。渡り廊下が無事だとしても、そこはベルクールたちのいるほうとは正反対、端から端だ。もはや、何事もなく行けるかどうか判らない。
「無事でも、わたしたちはそこまで行けるの?」思わず口を突く。
「判らない、でも!」
 一目散に逃げ出したかったのはホントは看護婦さんだったのかもしれない。ベルクールに言われて潤む瞳。それを見て、ベルクールは胸をきゅっと締めつけられる思いがした。
「ごめん……なさい……」うなだれた。
「――気にしなくてもいいよ。わたしもきっと同じことを言ったから――」
 ミーナは途方もない不安に駆られてしまったのかベルクールに背中からしがみついて離れない。
「でも、……ここ――やけに涼しい……?」看護婦さんが唐突に言った。
 言われてみるとそうなのかもしれない。外気温に比べれば遥かに熱いような感じはする。ただ、火事場の熱さではない? 移動した先々で突き上げるような熱気は感じずに、どこまでも付きまとってくる涼気があった。熱源はあっても冷房はないはずだった。
「この娘……の……周りに冷たい空気が集まってる……」
 結果的に一番近くにいたベルクールが最初に気づいた。ミーナのいる場所を中心にして、そこを取り囲むように吹く風は冷たく冷やされている。何故?
「ナンセンスかもしれないけど、その娘、妖精なのかしら……ネ」
「妖精? だって、そんなはずは?」左手を口元に当てた、ベルクールの瞳が揺らぐ。
「いるんじゃないのかい? 目の前に」悟りきったように柔らかな口調でシスケットが言った。
「い・る?」ベルクールの焦点のぼやけた視線がミーナに舞い降りた。
 ミーナの真摯な、泣き出しそうな目線が訴えかけていた。
「いる。今は、それでいい。ミーナちゃんはミーナちゃんだもんね」
「そっか。そうだもんね。わたし、ちょっと勘違いしちゃったな……。ごめんね、ミーナちゃん」
 はにかんだ表情でミーナを見詰めた。ミーナの顔。そこは色々なもどかしさでいっぱいだった。喋れたら、話したい事、話さなければならないことはたくさんあった。もどかしさの詰まった顔はいつしか悲哀さを合わせ持ち、泣き顔に変わる。
「あららら……」どうしようかしらとベルクールはそっとミーナを抱き留めた。
「行きましょう。時間は無駄にできない……よ」
 次第に言い知れぬ焦燥感が募ってきていた。幾重ものシャッターに阻まれているのか炎の姿は確認できない。けれど、ミーナの傍を離れると熱さが伝わってくる。少しずつ少しずつ、それは着実に自分たちの元に迫っている。
「急いで、ベルちゃん。遅れてるよ」
「あっ! 待って……」
 思わず手を差し出しながら走り出す。一人きりにされてはたまらない。放り投げられたらここには誰もいなくなる。広い空間に独りぼっちなのは心細すぎてどうにかなってしまいそうだ。と、不意に看護婦さんが立ち止まった。
「急に止まらないで!」叫びながらベルクールは看護婦さんの背中にドンと当たった。
「さっきは何ともなかったはずなのに」放心したかのようにぶつかったことに気が付かない。
「え?」頓狂な声。それから、しばらくの間。「……床が沸騰している?」
 驚きの余りか、一瞬それ以上のベルクールは言葉をつなげない。
 プラスティック製の床パネルがグツグツと煮えたぎっていた。液状になり、白い嫌な臭いのする煙を上げている。その下の接着剤などは当に気化して消え、コンクリートの地肌が露になっていた。
それは自分たちの知らないところで灼熱の地は成長していると初めて実感した瞬間だった。
「そこのシャッターから反対側の廊下に渡れないかしら」
 六つの視線が看護婦さんの指した方向に釘付けになった。
「開けてみる勇気はある?」汗の流れ落ちる顔に真剣な微笑みが宿る。「ベルちゃん?」
「看護婦さんが開けられないなら、わたしが開くワ」
 瞳と瞳が出会って、二人はクスリと微笑むと互いに頷いた。シャッター横の小さな扉。その取っ手を軽く掴んでみた。まだ熱くない。もしかしたら、この向こうは大丈夫なのかもしれない。
「せーのーでっ!」淡い期待を胸に二人は扉を一気に開いた。
「あちっ?」
 熱い水しぶきが飛んできた。どうやら、スプリンクラーが正常に動作しているようだが、それだけではなかった。水蒸気が立ちこめていて視界が極端に悪い。扉の向こうは、乾燥した砂漠の暑さではなく、熱帯雨林の湿気た暑さ。
「向こうに行ったら蒸し焼きネ」
 その時、ひゅんと空気が動いた。そよぐというよりは乱雑な気体の流れ。不穏な雰囲気の中に奇異なくらいに浮いた愉快げなムードがポッと現れた。そして、それはやけに偉そうに言った。
「へへっ! 逃げさせないぜ! 助かってもらっちゃあ困るんだ」
 自分たちのほかにまだ誰かいたのだろうか。疑念がよぎる。けれど、それは自分たちの背中に見慣れない小さなものが飛んでいると理解した瞬間に消し飛んだ。ホントの妖精がいた。
「ブレーズ、どうして?」身じろぎもせずに問い掛けたのはシスケット。
「お前たちは妖精に関わりを持ちすぎたんだ。呪うんならオレじゃあなくて、フィントやそこにいるミーナにしときナ」
 ミーナはきゅっとベルクールの上着の裾を掴んだ。その目は妖精をじっと見つめて離れない。妖精もそこはかとなくミーナの視線を感じているようで、ちらちらとミーナの顔を見ていた。
「フィン……ト?」
「あれ? 知らなかったのかな。長い付き合いだろうにサァ」
 嫌みな視線がベルクールの上に降り注ぎ、明らかにベルクールのことをバカにしていた。
「フィントが妖精だなんて、そんなバカなことって!」
「あってたまるか! ってかい? でもあるんだよ。鈍感娘だネ、お前。ま、信じるも信じないも勝手だけどサ。“声”をもつ妖精は人のふりができるんだ。そおいう意味だけではフィントは優秀」
「でも、そしたら、ミーナは……?」
「へへっ、どうして人の姿をしてるのかって? それは――オシエナイ」
 腕を前に組んで、意地悪な微笑みを浮かべた。人の疑問を横取りしては喋るくせに、肝心のことは話そうとしない。そもそも、話したくないから言われる前に横取りしてしまうのかもしれないが。
「ま、未練もあるだろうけど、大人しく灰か、消し炭にでもなってくれ」
「嫌なこった! って言ったら?」シスケットが気丈な笑みを浮かべる。
「う〜ん、そうだな」本気で考えている。「……寝覚めの悪いことになるだけサ。オレさまがネ」
 ベルクールたちは屈託のない綺麗な瞳で恐ろしげなことを平気で喋る妖精に恐怖を覚えていた。狂気なのではなく純粋な心で先の展開を考えて、それは悪戯で爽やかな笑みを浮かべていた。

 

   <6>
「こっち側の区画はほぼ無傷のようだ、な……」
 天井、壁、床を見渡してレイトグリフは呟いた。
 そのまま、歩みを進める。目に見えるのは、やはり煤けた天井だけ。だけれど、炎へは確実に迫っていた。消防服を着ていても判る。徐々に上がる気温と、鼻を突く異臭がそれを告げている。
(ウィルのやつは、上手くやってるのか)
「レイ〜。上のそらだ」
「ああ、上の方だ。ミシミシいってる。ボチボチ、落ちてくるかもナ」
「ぁあ?」頓狂な声が出たものの火事場でレイトグリフの言うことは九割方外れない。でも、信頼していても、つい悪戯心が頭をもたげてきて疑いたくなる。
「……」その場での数十秒の沈黙。
「嵐の予感だ」
「じゃ、この奇妙な淋しさは嵐の前の静けさかい?」減らず口をたたく。
「そ、言うことだ。来るぞ、リーブス。走れ!」
 と、次の瞬間には崩壊が始まっていた。走り去ろうとするレイトグリフたちの後を追い掛けて天井がなだれ落ちる。水道管、エアダクトが大音響とともに降り注ぎ、ボロボロのコンクリート片が雹よろしく落下する。背後は既に火の海。さほど広くもない廊下を二人を目がけ、猛ダッシュで差し迫る。
「防火シャッターの向こう側だ!」レイトグリフの指すほうに階段の防火シャッターが見える。
「シャッターの裏がここよりちょったぁましなのか?」
 レイトグリフからの返事を聞く前に、二人は狭苦しい扉から転がり込んだ。
「ちったぁ、ましになったんじゃあないのか?」一瞬、瞳の煌めきが宿る悪戯っ子の笑みが漏れる。
「結果論だよなぁ。いっつも! よくこれで生きてるって、思うよ、毎回」
「運がいいんだよ」リーブスの眼を見てニヤリとする。
「はぁ? まあ、そうなんだろうな」
 立ち止まった行動を再開する。今来たところの天井が落ちてしまっては、飛び込んだこの階段を上に上っていくしかない。そして、近付くにつれて嫌な予感が増大していく。
「結構、あれだ。――下の様子から類推したのより状況は悪いな」
「確かに良くはないな」
 リーブスは辿り着いた二階のシャッターをそっと開けてみた。カラカラの熱気と行き場を求める貪欲な火炎が窮屈な出入口から吹き出してきた。リーブスはすかさず扉を閉める。確認を怠って迂闊にも扉を開けたことに悔いを感じた。顔は汗びっしょり、背中も冷汗でちょっと湿気った。
「やばいなぁ……。リーブス」それを見て、レイトグリフがぼやいた。
「ウィリアムを一人で行かせたことか?」
「いや、フィントも一緒だ。一応、二人だな」
「? ちょっと待てフィントだって? あの珈琲好きの娘か? 『停車場』の常連でベルさまの珈琲をおいしく飲む一風変わった女の子のことか?」
「そう言うことになるな」落ち着いて問いに答える。
「いまいち、信じられんが……、それは後で聞けってことか」
 気が付けば、話が火事と救出から放れたことになっていた。少し気まずくなったのかレイトグリフは大きな咳払いをひとつして話を自分の言いたかった本題に引き戻した。
「オレはウィリアムを捕まえる。お前はそのまま上に行け! 本館との渡り廊下があるから……」
「判った、レイ。ベルさまとオフクロさんは確保する。ボチボチ、第二班も上るし、どうにかなる」
 レイトグリフの思ったよりも遥かにすんなりとリーブスは納得してくれた。ホンの僅かに不満もあるようだが、ウィリアムが咬んでるとなると無下に断るわけにもいかない。
「すまない。だが、局長には内緒だゾ」
「懲戒免職か? 始末書で済めばもっけの幸いだぞ。さっきのと今のを合わせたら」
「職とウィルとどっちが大事だってか? 逃げ遅れた人を全員助けてもナ、ウィルが死んだら台なしだ。……それに逃げ場なんてなくしたヨ。貸してやったんだからナ」
「ま、そうだろうな。――ホラ、行けよ。オレは今更、止めないゼ」
「恩に着るよ」チャッと左手を上げてお礼をすると、レイトグリフはリーブスに背を向けて、ウィリアムのいるだろう場所に向けて走り出した。何をどう考えても、ウィリアムが一人で目的を果たせるとは思えなくなっていたから。
「……ついでに言っときゃ、お前がしくじりゃ、オレも一緒に首って事だよなぁ」
 炎の向こうに無理やり消えていった同僚の姿を思い浮かべて、リーブスはぽつんと呟いた。
「転職……本気で考えるか――」

「くそ! こんなんじゃ、埒が明かない」ウィリアムは悪態をついた。
 自分の考えの甘さが呪われる。一人でも助けに行けると僅かでも思ったのがバカのように思えた。二階に上がったときから、そこは黒煙の中。圧縮空気のボンベひとつと、一人じゃとてもベルクールたちのところまで行けないのが素人目にも判る。
 防火扉の向こうに炎が迫り、色々なものを焼き尽くす恐怖が聞こえる。そして、異様に熱い。
「もっと素直にならなきゃ損をするよ。もっとも、素直すぎて損することもあるけどネ。……でも、レイは――そんなことない。ずっと、ウィルのことを心配してたヨ」
「……素直になれないのは、オ、お互い様なんだよ」何となくぎこちない。
「お互い様か……。どこかで聞いたな、そのセリフ。ずぅっと昔に……」
 フィントは切なく淋しげな表情を浮かべてウィリアムのヘルメットの上にふわっと舞い降りた。
「どうかしたのか? フィント。どんなときも元気で能天気なのがとりえそうなのにナ」
「うるさいナ。わたしだって考えることくらいあるの!」
 ウィリアムの頭をポカッと叩いて、ぷ〜っと憤慨した。
「でも、ホラ、急がないと。まだ、ここ二階だよ? ベルたちは四階だよ」
「判ってるよ。これからそこに行くんだ」
 ただじっとしているだけでも汗が噴きだしてくる。こんなところでレイトグリフが日々働いているのかと思うとゾッとする。大変だ。けれど、一度だってレイトグリフから愚痴の零れるのを聞いたことはなかった。自分にはとても無理なような気がしてくる。
「あ……!」と急に、フィントが素っ頓狂な声を上げた。
「あ?」訝しげな顔をして、ついおうむ返し。
「ブレーズが来てる!」ウィリアムの言葉なんてまるで無視。どこか遠くを見て一人で喋っている。
「はぁ?」全然、訳が判らない。
「ごめん、ウィル兄。わたし先に行く。嫌な感じがしたの」瞳が少し煌めいて見える。
 ウィリアムはあまりに唐突なフィントの言動に対処に困った。そして、口を付いたのはホンの冗談のつもりの軽い言葉。気まずい沈黙は嫌だったから、場繋ぎに放った深い意味のないはずの軽口。
「ブレーズねぇ。“炎”か……。案外、そいつが立役者なのかもナ」
「そうだよ」フィントの思い掛けない真面目な視線に、ウィリアムの心臓が飛び上がった。
「あいつは、ガンフォード一家を消そうとしてる……」
「何故?」
「妖精たちと関わりを持ちすぎたこと、すぎるから……。少なくとも、ブレーズのやつはそう言ってた。でも、ホントはそんなことじゃないと思う。たったそれだけのことでここまでのことはしないし、出来ない。他にまだなんか、きっと、ある――。わたしには判んないけどネ」
「ブレーズってやつに聞けば判らないのか」
「判るかもしれないけど、絶対教えてくれない」
「だから、何故! オレとミーナをそんなに攻め立てる! オレたちが一体何をした? “声”を返してくれと頼むのはそんなに悪いことなのか!」
「ひ……。し、知らないヨォ〜。だって、そ、そんなのウィルの方が知ってると思ってた――」
 泣き出しそうに裏返った声色と、恐怖におののく視線。震える身体と潤む瞳。
「すまん……」
 しょげ返ったのはウィリアムだった。それに関しては直接関係のないはずのフィントに八つ当たりしても無意味なこと。事の解決に何の貢献もない。ウィリアムは床に膝を突いて非礼を詫びた。
「そ、そんな別に改まらなくても……。ちょっとびっくりしただけだから」
「それじゃあ、お前に悪いよ。すまない……。ひとときでも怖い思いをさせて――」
「ううん、気にしないで」フィントは手を後ろに組み、目を閉じて大きく首を横に振った。
「ベルたちが心配だからもう行くよ。でも、心配しないで。レイが来るヨ。恥ずかしがり屋のおばかさんがネ。レイは誰よりもウィル兄のことが大事なんだヨ」
 そして、フィントはパタパタとその場を後にした。

 

   <7>
 焦りにも似た感覚がレイトグリフを包み込んでいた。フィントが一緒だったとはいえ、やはりウィリアムを自分の傍から離すべきではなかった。一人でいるよりは多人数でいたほうが安全なのだ。
 パラパラと時々、思い出したように崩れ落ちてくる天井。ゴーッと地鳴りのような烈火の哮りが否応無しにレイトグリフの耳の奥でこだまする。二階は灼熱のサウナ。モタモタしていると三階の床もろとも緋色の海に叩き込まれてしまうかもしれない。
 消防士になって初めて現場に踏み込んだときのような微かなはやりをレイトグリフは感じた。
「くそ!」
 幾つもの防火シャッターが行く手を阻む。フツウは火の回りを遅くして、避難の時間稼ぎをするものだが、こうなってはレイトグリフには邪魔なだけ。ただでさえ、いらいらしているのに更に追い撃ちをかけられて感情は暴発寸前だ。レイトグリフはお目当ての階段へのシャッターを見つけるとそっと開いて、中二階、中三階の踊り場を見やるが、そこにウィリアムの姿はなかった。
(……当てが外れたか。それとも、二階か四階か)思案する。
 レイトグリフは決断した。迷っている時間こそが一番惜しい。決まれば、早速、レイトグリフは階下に降りる。そして、二階のシャッターの前にウィリアムの姿を見つけた。
(いた!)そう思うが早いか、レイトグリフはウィリアムにまっしぐら。
「ウィル! こんなトコで何やってるんだ。急がないとお前が助けられるはめになるぞ」
「……兄貴、もう助けられてるよ」
 自分の前に姿を現したレイトグリフに妙に冷静に突っ込みをいれていた。
「ム……?」思わぬ反撃に言葉に詰まる。「いや……、そう言うことが言いたいんじゃなくて」
「それより、どうして来たんだ。『構ってる暇はない』って言ったくせに……」
 素直になれない。いつだって、そんな些細なことからいざこざは始まった。でも、今は。冷静に心を落ち着かせて、くだらない言い争いはやめにしよう。
「仕方がないだろ。火事場の素人を放って置けない」キョロキョロした。「フィントは?」
「ブレーズが来たって言って、上に上がった。会わなかったか?」
「いいや、行き違いになったんだろ? それにブレーズか……炎の妖精……あいつだな」
 瞬間考えるも、すぐにピンと来た。外で見た妖精だ。
「あいつ?」心当たりでもあるのかと問う。
「ファイリーフェアリー……。ミーナを……フリージング、凍結の妖精を追ってきたのかもな」
「ちょっと待て。ミーナが妖精だってどうして判った? ベルは気が付いてない」
「判るサ、それくらい。フィントとの付き合いも長いし、妖精の雰囲気も大体判る――」
「……」帰ってこなかった理由などとうに見透かされているとウィリアムは思った。「あ……兄さん――オレ……」心の奥にしまわれた言葉は簡単には出てきてくれない。
「……何も言うな」察して、素っ気無く。「お喋りはこのくらいにしておいて、行くぞ、ウィル」
 レイトグリフはニヤリと意味あり気な笑みを浮かべてウィリアムの肩にポンと右手を乗せた。
「来い! ウィリアム。もう、時間はない。急ぐぞ!」
 先頭に立ってレイトグリフは階段を駆け上がる。
「どっちだ?」
 左前方にあるシャッターと右手にあるシャッターを瞬間、見比べた。と、僅かな思考時間の間にレイトグリフが右側シャッターの避難用の小さな扉を開けた。と同時に水がまかれる音がした。
「スプリンクラー生きてるな。ここだけ故障しなかったのか? ――そっちは水蒸気で蒸してるから危険だ。左奥の……。コラ、ちょっと待て! 考えるよりも先に行動するな。死ぬぞそのうち」
「開けないよ。兄貴が開けてくれ」
 ホッと胸をなで下ろした。そう何度も余計な緊張を強いられるのは精神衛生上よろしくない。レイトグリフは小走りにウィリアムの前に出た。レイトグリフは優しく扉を押した。
「……オッケーだ、ウィル。付いてきてくれ」
「りょーかい」
「――」ウィリアムはレイトグリフの背にじっと熱い眼差しを送っていた。
「……どうかしたのか、ウィリアム。目線が痛い」
「いや、何、別に……。ただ! ちょっと。いや、やめとくよ」
「じゅうご年前のことか?」
 別段、深い言葉ではなかった。ウィリアムの瞳は焦点を結ばなくなり、ピクリと身を震わせた。
「やっぱりそうか……」レイトグリフは振り向かず、ウィリアムのピンと張った雰囲気を感じた。
「なあ、兄貴。十五年前あの日うちで何があった……?」うつむく。
 恐らく、ベルクールたちはこの廊下の突き当たりの右か左にいるのだろう。呑気に立ち話の時間も、じっくり一から十まで事細かくコメントする暇もない。レイトグリフは手短に言った。
「ブレーズは父さんに懐いてたファイリーフェアリーだった。あの日までは……ネ。父さんとブレー
ズとの間で何かあったのサ」レイトグリフの瞳が瞬間、泳いだ。「ミーナの事でね……」
「でも、オレがミーナと初めて会ったのは……」勢い付けてまくし立てる。
「二年くらい前だよな。最初は気が付かなかったが……。でも、それはオレがフィントと二度目に会ったときと同じ……。今じゃ、ベルのいいお客様だけどね」
「今、『二度目』って言ったよな」聞き咎める。
「言ったヨ。あの日にオレたちは全員と会ってるんだ。ミーナにも、フィントにも、ブレーズにも。覚えてないだけで。ただネ、あの日以降の、十二、三年か? の空白の意味は判らない」
「妖精と関わりを持ちすぎた?」フと思い出してウィリアムはレイトグリフの背中に言った。
「フィントが言ったのか?」長い沈黙があった。それをウィリアムの肯定の合図と受け取る。
「だったら、あいつは嘘をついている。――ウィルを傷付けたくないだけなのかもしれないけどね」
 ウィリアムは複雑な顔をして押し黙った。ミーナを連れた二年の旅と、十五年前の炎、そして、たった今の病院火災。全ては無関係なのか、そうでないのか。ウィリアムの中で始めはちょっとした疑いが加速度を得て大きな疑惑へと成長する。
「兄貴!」叫んだ。すると、レイトグリフはにべもなくウィリアムの“問い”を無視した。
「この話はやめにしよう。もう、そこにベルたちがいるはずだ」
 話せば止まらなくなるような衝動を振り払って、レイトグリフは会話を打ち切った。

「やっぱ、何か、変だヨ! こいつ」
 この時点でベルクールの頭から火事がどうのこうのなんて思考は吹っ飛んでいた。目先での出来事の方がインパクトが強すぎて、他に脳みその余力が回らない。
「変なのは純白の辛気臭いここさ!」左手を腰に当て、右手で床を指し示した。
「オレは不自然なのがダイキライなんだ」不気味に煌めく瞳。「全部、灰に還ればいい」
 ベルクールの背中にゾクリとした悪寒が走った。コイツは本気なんだ。嬉々とした表情の裏に時折見せる研ぎ澄んだ冷たい視線が実感させる。
「特に……」ブレーズは一呼吸おいて、ミーナを睨め付けた。「ミーナなんてイラナイ」
「……!!」ミーナは今にも泣き出しそうな表情で立ち尽くした。
「昔のお前を思い浮かべると……哀れだネ。あれほど精悍だったキミはドコ行ったんだろうね?」
「……あんたとミーナちゃんて、どういう関係なの?」
「聞きたいかい?」ベルクールは頷いた。「でも、オシエナイ! 知る必要なんてないサ」
「あ〜ら、随分と意地悪さんなのね、ブレーズ」
「そう! 意地悪なのさ。どうしても知りたきゃフィントにでもききな……。って、エ?」
 ブレーズは素早い動作で振り返った。そして、よっぽど驚いたのかそのまま動きが止まって、キョトンとした顔をして突如現れた招かざる訪問者をボケッと見詰めていた。
「あ〜ら、そんなことじゃあ、女の子にもてないわヨ?」
「げ、珈琲狂いのフィント」ハッと、我に返っての第一声。
「何、その、珈琲狂いってのはぁ〜。と、言うか、あんた、自分のしてること考えて言ってる?」
「考えるって何をだ?」腕を組んで首を傾げた。
「あ〜もう、いいわ」フィントは手をひらひらさせて呆れ返った。「用事が済んだら帰ったら?」
「……」ブレーズは何だか釈然としない様子でフィントをしばらく見澄ましていた。
 そう、確かにこんなところでふらふらしている場合ではない。余計なことに油を売っていたら、今度は自分も一緒に燃えてしまうかもしれない。
「ま、せーぜー、無駄な努力でもしてるんだね」
「ううん」フィントは首を横に振った。「レイとウィルが来る」
「だったら――」邪悪を湛える深い闇に瞳が沈む。「もっと派手にするだけだ。帰れないように」
「それも無理でしょ?」冷めた視線でクールに決める。
「……だから、お前、嫌いなんだよ。どうせ、そおさ、大きすぎるのは手に負えないさ! だからって、そんな……。く〜っ! もういい! 帰る! お前に負けたわけじゃないからな」
「――素直じゃないナ。ホントは助かったと思ってるんじゃない?」
「ち、ちがわい!」顔一杯に焦りを浮かべた。
「そお? ホントにそうだとしたら、ここにいるはずないもん。まだ、未練があるんでしょ」
「だ、誰がこんなクソガキに」
「ホラ、やっぱり。この頑固者……」ため息をつきながら、でも、同情の色は隠せない。
 と、その場に複数の足音と声が届いた。聞きなれた声。
「オフクロ〜、ベル〜、ミ〜ナ〜」これはウィリアム。
「他にどなたかいらっしゃいませんか〜!」足りないところを補うようにレイトグリフの声がする。
 まだ、火事場のど真ん中。しかも、妖精二人が謎の掛け合いをやってるというのに、とても暖かい安心感が芽生えてきた。ベルクールにはレイ兄が来たと言うだけで、ホッとしたのは確かなこと。けれども、その深みのある温もりのある声は看護婦さんにも安堵を与えたらしい。
「ホラ、お迎えが来たようヨ。ウィル……。レイも一緒ね」
「!」レイトグリフとウィリアムの姿が見えた瞬間、ブレーズの目付きが変わった。
 邪悪ではない。嬉々ともしていない。純粋な憎悪の念が暴発する。
「……! こいつらがオレからミーナを奪った! コイツはミーナの姿をしててもオレのミーナじゃない! “声”も“経験”も“姿”も奪った。それをオレに許せというのか!」
「それが……『停車場』を燃やした訳?」ベルクールの頼りなげな視線がブレーズに辿り着いた。
「ああ! そうサ。それ以外、オレに何が出来る!」
「可哀想だネ、ブレーズ……。ホントは判ってるんでしょ? 知ってるんでしょ?」
「知ってちゃ悪いのかヨ」泣き声になった。「お前らなんかにオレの気持ち、判ってたまるか」
「……もう、行きなヨ。ここにいたら、辛くなるだけだよ」
 フィントは哀れみの視線をブレーズに向けた。
「うわぁぁ〜〜ん。ちくしょう、ミーナは何だってこんな――」
「それ以上は言ったらダメだよ」
「判ってるヨ! 判ってるから……泣くしかないんだよぉ〜」
 さっきまでの威勢の良さはどこに消えたのか、号泣するブレーズを見ているとこちらまで哀愁に包まれる。過去に何があったのか。二年の間に少しは理解したつもりだったミーナの存在が不意に遠くに見えだす。そんなウィリアムを知ってか知らずかのあどけないミーナの微笑みが痛い。
「そ、そいつの言った意味はどういうことなんだ?」フィントに聞いた。
「言ってもいいのかな……。言ってもいいよね。ミーナはあなたに恋したの。禁断の恋じゃなかったけど……。ブレーズがね。ブレーズが嫉妬したの。もお、言わなくても判るよね」瞳がウィリアムを捉える。「結局、そのブレーズを助けたのもミーナだったんだけど、魔力、使い果たしちゃって。声をなくして……今の姿を取り戻すだけで十二年もかかった……」
「そっか、聞かない方が良かったのかもな……」
「おい、呑気に喋ってる場合か、フィント。力を貸せ」
 じ〜っと床を見てみれば、数分前、ここに来たときよりも更に激しく泡立って、より強烈なプラスティックの燃える悪臭を放っていた。
「あ、あら?」左手を口に押し当てて、ホホホと笑う。「で、水なしでわたしにどうしろと……」
「心配は要らない。……お湯蒔いてる壊れたスプリンクラーがあったから、そこに」
「随分、都合よく、変な具合に水があるのね……」
「別にそっちの消火栓の水でもいい。元は同じだ」無駄話をしてる場合ではないのについ減らず口。
「レイ兄! フィント? つまらない言い争いは後にして!」
 何が何だからもうよく判らないけれど、ここでレイトグリフと妖精・フィントに長々とお喋りされたら困ることは考える前から判っていた。
「ハイ!」ベルクールの苦情に二人で同時に条件反射のように返事をした。
「ミーナ、ちょっとだけ、力借りるね。そしたらこんなの板チョコよ。さて、十五年ぶりの水の魔法、とくとご覧あれ! あ、氷の魔法もネ」
 

   <8>
 フィントの前口上が終わると、事は始まった。幻想的。少し濁った水だけど、そんなのは気に留めるほどのものではない。水が自らの意志をもって動く。奇怪でありつつ、誰しもの心を捉えてはなさい。夢を見ているのだろうか? フと考えたくなる。
「ミーナ、こっちに来て」
「?」ベルクールの傍から離れて、トトトとフィントの前にやってきた。
「いい? 流れてく水に『凍れ』って念じるの。他に何も考えなくていいから……」
「!??」ミーナはフィントの言ったことに困惑して、周囲にオロオロと助けを求めた。
「何も……心配は要らないヨ。ミーナにはそれだけの素質がある。だから、お願い。水蒸気が上がりすぎると――圧力鍋みたいになるよ。だったら、床の凍ったおかしなサウナの方がましでショ」
「……」心を決めて、真剣な眼差しをフィントに向けながらコクリと頷いた。
「ありがとう」
 すると、見る間にファンタスティックで気味悪いの光景が広がっていく。水は熱いタイルに触れるとジュッと瞬間に蒸発してしまう。それからがフツウと違っていた。ミーナの放つ強烈な冷気が水蒸気を元の水へとあっという間に状態変化させてしまうのだ。
「これって、凄いことなのかしら……ネ」
「多分……そお……なんでしょうね〜」
 あまりに現実離れしていて、リアリティーが感じられない。
 水と冷気で熱いタイルが完全に冷えてしまうと、今度は前線を追いかけるように水が凍りだす。スベスベのスケートリンクというわけにはいかないけれど、磨りガラスのような氷の向こうには無残な姿を晒すコンクリートの土台とプラスティックの燃えかすが見える。
「さ、こっちへ……」レイトグリフが言った。
 非現実的な現実の中を四人がレイトグリフとウィリアムのいるほうに来た。これですぐそこの本館への渡り廊下まで行けるはずだった。
「何か、全然、リアリティーが湧いてこない……」
 おどけた顔を見せてベルクールはレイトグリフに抱きついた。
「む〜〜。焦げくちゃい。でも……」消防服に顔付けてしまったので、ススだらけの顔でレイトグリフに微笑んだ。「ホントに会えてよかったヨ。もしかしたら、このまま会えないのかって」
 レイトグリフはベルクールの髪の毛をクシャッとした。
「安心するのは、まだ、早いんだゾ」消防士の顔ではなく、優しい兄の顔。
「――ガンフォードさん、ガンフォードさぁん」
 と、そこへリーブスの声が届いた。ずっと向こう側から走ってきたようだ。消防用品の重装備をガチャガチャと鳴らしながら駆け寄ってくる。多少の煙が上っていたからリーブスにはレイトグリフたちの様子は全く判らない。手探りで進む雰囲気がそこはかとなく感じられていた。
「こっちだ、リーブス!」怒鳴る。それと同時に煙と微かな水蒸気の陰からリーブスが現れた。
「そこか、レイ! ぬお!」勢いよく滑って転んだ。「何だよ、これは」
「『何だよ』とは何だよ、リーブスくん!」空中で仁王立ち。
「え?」よく聞いたことのある女の声。けれど、声はすれども姿は見えず。リーブスの見る方向にはどう疑ってみたところで、その声の主とは違う四人がいるだけ。
「……ハイハイ!」パンパンと手をたたく音がする。「もっと上を見よ〜ね〜」
「――」目を丸くした。「レイ。詰まる所、さっきの話は……」
「ああ、本当だってことだネ」途切れた言葉を補って伝える。
「はぁ、まあ、何というか。筆舌に尽くしがたいとはこう言うことを言うんだろうか」
 妙に感心した様子でリーブスは自分を見下ろすフィントを眺めていた。
「ザ……一班、そちらはどうだ? 梯子車は既に待機させた。応答せよ」
 いきなり、無線が入った。リーブスは立ち上がろうと試みるが慣れない氷に滑って立てない。ついでに色々な装備を背負っているものだから、重心が後ろにあってそれに拍車をかける。
「今、渡り廊下のところにいる。上げてくれ」
「本部、了解した! 渡り廊下の窓を開け……或いは割って待機せよ」
「リョウカイ!」
「――手回しがいいな、リーブス」
「そう思うんだったら、取り敢えず手を貸してくれ!」刺すような視線を向けながら悪態をつく。
 レイトグリフは笑いながらリーブスに手を差し伸べた。
「よいせっと」おかしな掛け声がでてしまう。
「新館は全焼だな、これは……」助け起こしてもらったあと、リーブスが漏らした。「レイが、ウィリアムのところに駆けていったあと、しばらくして、東区三階の床が落ちた。もう、下手をしたらあっちの方は倒壊しているかもしれないぞ?」
「だが、鉄筋コンクリの柱くらいは残るだろ。普通の火事なら」
 リーブスの言葉に応えてレイトグリフは急いで渡り廊下へと走った。今更、放っておかれることもないだろうが、合図を送らなくてはならない。窓から地上を見やるとちょうど梯子が上に延びてくるところだった。スライド式の窓を開けて居場所を知らせる。
(これで終わる……)レイトグリフは安堵のため息を漏らした。いつもの現場では考えられないこと。全員が炎の恐怖から完全に逃れるまでそんなことは考えないはずだった。
「レイ兄は知ってたの? フィントが妖精だったって事」
「あ?」ちょっと驚いて声が裏返った。「知ってたよ、ずっと前から」
「まあ、あれだけのお鈍さんなら、気が付かないかもね」
 フィントがレイトグリフの横に飛んできて、ベルクールの顔を得意げに眺め回す。
「じゃあ……ミーナは?」キッとフィントを睨みながら、声色だけ優しそうに問う。
「……そう、ミーナも妖精だ。フリージングフェアリー」
「ウィル兄さん……」
「“声”のない妖精は姿を変えられない……。“声”は妖精にとって全て、魔力なのに」
「だから、妖精はお喋り好きなのさ」説明にはなっていなかったけれど、ウィリアムには通じた。
「お喋り好きね……、お喋り好きか……。どれだけもどかしい思いをしてきたんだろうな」
 物思いに耽り、空中を彷徨っていたウィリアムの視線がフィントの上にはたと止まった。
「え? 判らないよ。でも、きっと、ウィル兄といたら」
「そうか……? 声は――」
「――」目を閉じて、フィントは静かに首を横に振った。「わたしには判らない。こんなこと初めてだもの。それに十二年。取り戻せたとしてもずっと先かもしれない。それも……ね」
 困ったようなフィントの眼がウィリアムに掴まっているミーナを向いた。
「そうか」一際、切なそうにウィリアムはフィントを見詰めた。
「誰の助けも借りないで帰ってくる。それがミーナの望んだことだから――」
「だけれど、やっぱり、このまま帰すわけにはいかない」涙声と涙ぐんだ瞳が痛ましい。
「ブレーズ! まだ……いたんだ」
「いたよ!」噛みつきそうな勢いでフィントを睨む。「グシュン。こいつらがいなくなればミーナはきっと戻って来るんだ」
「……」フィントは瞳を閉じて静かに首を横に振った。「無理だよ」
「無理じゃない!」譲らない。
「どうしてこう、どいつもこいつも分からず屋なのサ。大体、あんたが悪いんでしょ?」
「うえぇぇ〜〜〜ん! だったら、オレにどうしろって言うんだよォ〜」
 呆れ返ってものも言えない。だけれど、皆はそんなブレーズを好きだった。
「……帰りなよ。ミーナの好きだった場所へ――」ため息交じりにフィントは言った。
「イヤだ! 追憶に身をやつすくらいなら、思い出を燃やして過去へ還る!」
 ぱぁあん。微かな騒音を残して辺りが一気に静まり返った。澄み切った力のこもった音。フィントの涙。激しい息遣いと震える肩。揺れる目線。
「……」頬を押さえたブレーズの呆気にとられた瞳がフィントに釘付けになる。
「あんた何様のつもりなの?」手厳しい発言。「あんただけが辛くて哀しいんじゃない! あんただけが大切なものを亡くしたワケじゃない!」声が震えていた。「ここにいる人たちがあんたのせいでどんな十五年を過ごしたのか、考えたこと、あるの……」
 フィントの問い掛けに、ブレーズに答えられることは何もなかった。

 そして……。
「あ〜あ〜。何もかも燃えちゃったね、病院」
 ベルクールはたくさんの赤い消防車の陣取る正面広場から、煤けた白い建物を見上げていた。窓は至る所で割れ、未だ炎が上がっていた。それはブレーズの点けた恨みという名の火。
「火元の調理場は鎮火したのか?」誰かの声がする。
「ああ、一応はな。だが、延焼の方はどうにも……」
「お母さん。もう、大丈夫だからね」
「……今日は――いっぱい、妖精を見たね。フィントに、ブレーズに、ミーナ。懐かしい顔触れだね。皆。どこから、擦れ違ったんだろう……」シスケットは空を見詰めていた。
「おかぁさん。皆、知ってたんだ。――知らないのは……わたしだけ?」
 淋しそうにベルクールはポツンと呟いた。ずっと昔、自分の覚えていない時からの思い出が尾を引いている。何でもなかったはずの日常の裏にはそんな忘れられない思いがあった。
「シスケットさぁ〜ん」さっきまで一緒にいた看護婦さんの声がした。「本館の方に、受け入れの準備ができましたから……。取り敢えず……」看護婦さんは新しい車椅子にシスケットを促した。
「――誰もホントウのホントは知らないのよ。知ってたのはお父さんだけ」
「お父さんだけ……?」
「そ。前は皆仲良しだった。――また、……昔のように戻れたらいい」シスケットは車椅子に腰を下ろした。「昔のような……笑い声の絶えない、そんな楽しげ場所に――」
「フィントとミーナちゃんがいたらドタバタ喜劇調のお店になるヨ?」
「ふふ」ホッとしたような笑い。「それもいいかもしれないね」
「そろそろ〜、行きましょうか」会話の合間を狙って看護婦さんが言った。
「あ、わたしも一緒に行く。レイ兄、ウィル兄。また、あとでお話しよネ」手を振る。
「……なあ、兄貴……。出来れば、ブレーズに思い出も燃やして欲しかったよ――」
 ベルクールとシスケットを見送って、ポツリと漏れたのはウィリアムの本音だったのかもしれない。燃え上がる『停車場』を愕然と見詰めたあの日まで戻れたのなら。レイトグリフとの間にわだかまりを残しまま今を迎えずに済んだかもしれない。
「いいや。このままでいいんだよ」蚊の囁くような声をレイトグリフは聞いていた。「直すものも消すものも何もない」レイトグリフは静かに首を横に振った。「そもそもいいか? 過ぎた時間をやり直そうだなんて甘えなんだよ! だから――」
「振り向いて後悔なんかしないように先へ行け!」
 フィントはレイトグリフの背中からひょいと顔を出して横取りした。
「……。オレの話を邪魔するな!」
「でもいいじゃん。どうせ、言うことは当たったでしょ?」
 フィントの澄ました語調にぐうの音も出ない。ついでに、いつからフィントに尻に敷かれっぱなしなのかは皆目見当もつかなかった。おかしい。
「おい……」そこへ僅かの間姿を消していた、リーブスが戻ってきた。「言い訳……。少しは考えているんだろうな? 局長。カンカンでレイを捜しているぞ、どうする」
「う……」背中に冷汗を感じた。「まあ、言いたいのはそ、言うことだ。オレは仕事に戻る……」
 スッと背を向けてレイトグリフは去る。
「済まないね、ウィル。レイは貸してもらうよ。仲直りの挨拶はあとでゆっくりしてくれ」
「ちょっと待てよ。一言くらい言う時間はあるだろ?」ウィリアムは静かに言った。「……『停車場』で待ってる。今度は逃げたりしない。それでいいだろ? 兄さん、ミーナも」
 レイトグリフは振り向かずに手を振って、ミーナはウィリアムの服の裾をしっかと掴んで微笑むと、大きく頷いた。
「もお、ケンカをしたらダメだよ……」
 そして、ウィリアムの元に初めて聞く、あどけない優しい声色が届いた。