永遠の硝子箱

(起)榊原玲奈


 

(何か用事があるのかな)
(……近ごろは物好きな輩が多いようだ。どうしてもと言うのならば、こいつを紹介しよう)
(それは何の変哲もない夏の一日から始まった。超常と一言でくくってしまうにはあまりに大きすぎることであり、却ってそれを正しく認識するのに邪魔になるだけだ。主観を入れないで常軌を逸した出来事、とだけ記述しておくべきだろうか。それは真実を知れば自ずと判ることであるので、出来れば諸君に先入観を与えないほうが好ましい)
(さて、心の準備はよろしいかな? この頁をめくってしまったら、諸君は普通の生活に戻れなくなるかもしれない。興味本位で真理を追及しようなどとは思わないことだ。自分が正義だと勘違いしてもらっても困る。正義とは主観とエゴの入り交じったものであり、絶対ではない。正義の鉄槌を下すのだと僅かでも考えた者はここから去るがいい。真実を知り、それを受け止める勇気のある者だけにこの頁をめくる権利がある)
(覚悟は出来たか?)
(──ならば、この頁をめくるがいい。後戻りは許されぬ。諸君はこの出来事の一部となり、全てを追体験することになるだろう)

小鳥が空を飛んでいる。どこまでも続く抜けるような青空と夏の金色の太陽が眩しい。街の外れの小さな森では蝉が短い夏を謳歌している。軒を連ねる住宅の庭先にはひまわりを主人公にして花が咲き乱れている。木々は思い思いに枝を延ばして天に向けて成長していく。遥か上空では浮かんだ雲が地上を見下ろしている。
 しかし、それらの全てが箱の中にいる少女には手の届かないことだった。硝子張りの箱に閉じ込められて外界から遮断されている。全ては手に取るように見えるのに触れることは許されぬものだった。昔は、理不尽な仕打ちと腹を立て哀しんだものだが、今ではそれが当たり前のことになってしまった。以前はそうではなかったものが当たり前になってしまうことの恐ろしさを少女は知っていた。置かれた状況になれてしまうのだ。そしてまた、当然のことが何故当然になったのか問うことを忘れてしまうことは救いようもないくらい哀れなことだと考えていた。絶えず問いを持ち続け、それを探求することが少女の“生”なのだ。そうでなければ自分の生きている価値はないと少女は考えていた。常識、当然がそれたる所以を考えなくなったとき自分は死ぬと。
 少女は今日もまた硝子の箱から外を眺めている。永久に手の届かぬもの。朝、目が覚めてから夕方、景色が夕闇に沈むまで外を見詰める。それが少女の日課だった。変わりゆく季節季節の風景を心に留める。いつそれが、永遠に見れなくなるのか少女には判らない。だから、一分一秒を余すところなく見ておきたかったのだ。
 と、夕暮れが差し迫ってくるころ、少女の見慣れた顔が箱の外側に現れた。通い慣れたかのように寸分の迷いもなくまっすぐ歩いて来る。その人影が屋内に消えた。もうすぐ、扉がノックされるに違いない。少女の小さな胸は淡い期待に大きく膨らむ。
 力強いノックと共に聞きなれた声が響いた。
「よお、玲奈。今日も外を眺めているのか。この間、お前が読みたいと言った本を買ってやったばかりじゃないか」
「お兄さん、そんな大きな声を出したら他の部屋の人に迷惑よ。もう、読んじゃったの。それに外を眺めるのは日課なのよ。毎日少しずつ移り変わってゆく季節をみるのが私の趣味みたいなものなのよ」
 それでも玲奈は楽しげに言う。ここに来てから長いので玲奈には兄が唯一の友達みたいなものだった。中学時代の友人も最近は大学受験の準備に忙しいらしく、まるで顔を出してくれなかった。でも、そんな淋しさを玲奈は表情に現さなかった。元来、玲奈はじゃじゃ馬で負けず嫌いだったから、例え兄と言えど哀しみの顔を見せるわけにはいかないのだ。
「何だ、年寄りくさい趣味をしているんだな。もっと、こう若者らしい趣味を持たないと」
「例えば?」玲奈は優しい笑みを浮かべて兄に問う。
「例えば?」弘は言葉に詰まって苦笑した。この狭い部屋の中で出来ることは少ない。つい、玲奈がそう言った突っ込みが得意なことを忘れてしまっていた。
「相変わらずね、お兄さん。全然変わっていない……。フフ」
「ああ、俺は何も変わっちゃいない。だから、安心していい。玲奈、俺はお前が帰ってくるのを楽しみに待っているんだぞ。きっと、もうすぐうちに帰れる」
「だったらいいな」玲奈は小さな声で言った。兄は近いうちにここから出られるといつも言う。しかし、玲奈は兄の言うとおりになりそうもないと薄々感じていた。ここに来たときもすぐに出られると言われ、それから三年あまりの時が過ぎようとしている。長すぎる時間に、楽観的でいろと言うのは無理な話で段々と悲観的になる。
「まるで、硝子の箱の中にいるみたい」玲奈は天井をぼんやりと眺めながら言った。「中から外を見ることも外から中を見ることも出来るのにものに触れることは出来ない。ただ、見るだけでそれ以上のことは何も出来ないの。早くここから出たい……」
「硝子の箱か……。確かになぁ。この部屋は窓が大きいから、白い箱というよりは透明な硝子の箱だよな。だが、窓を開ければ外気には触れられるぞ。風が夏の香りを玲奈のところまで運んでくる」
「ううん、そうじゃないの、お兄さん。私は自由にあの土の上を歩きたいの。花に触りたいの。生命の息吹をこの体で感じたいの! でも、私の体は自由に歩き回れるほど強くない」
「じゃあ、俺が必ず玲奈をここから出してやるからな。約束だ。絶対にまた外の世界を見せてやるよ。窓枠の中からしか見れない外の世界。それじゃあ、あんまりだ。不公平だよ」
「……でも、いいのよ。お兄さん。私は生きている。それだけで十分なのよ」
〈だが、それもそろそろ刻限のようだ。たわわに実った稲穂を刈るようにわしは玲奈の生命を刈らねばならない〉
 白い天井を見詰めたままで、静かに玲奈は言った。瞳にはうっすらと涙が溜まっている。玲奈自身が自分の言った言葉に否定的な感情をもっている。玲奈がただ生きていることに満足しているはずがなかった。したいことがある。目標がある夢がある。全て志し半ばなのだ。ここにいたら何も出来ないことを玲奈が一番よく承知している。
「嘘をつくな、玲奈。お前がこんな生き方に満足しているはずはない。納得できてるはずはない。生きるんだろ? 皆と談笑するんだろ。玲奈がそんな気持ちでどうする」
「お兄さんに私の気持ちが分かるって言うの。健康なお兄さんに私の気持ちなんて判らないわ」
「玲奈!」
「私、まだ死にたくない。したいことがたくさんあるのに。何でこんなところに縛り付けられていなければならないの? 私と同年代の皆は自由に外を歩いて、青春を謳歌して。それなのに、私はここで外を見てるだけ。日に日に体が弱ってゆくのを感じて何も出来ないのよ」
「落ち着け、玲奈。俺が悪かったよ」そう言って起き上がろうとする玲奈をベッドに押し付けた。
「ううん、私も取り乱しちゃってごめん。いつもはもっと精神的にも安定してるのに。今日は何だかダメみたい。最近、何か急に怖くなっちゃって。このままここから出られないまま、死んじゃうんじゃないかって。前の私になら考えられないことだったのに。どうして?」
「玲奈らしくないな。一つもそんなことは言ったことがないだろう」
 弘は部屋の隅に置いておいた来客者用の椅子を取ってきて座った。
「ないよ。だって後ろ向きに生きるのは嫌だから前しか見ないから……。でも、急に前が見えなくなったような気がして。どこを向いても真っ暗で、私の来た方向、遠く後に小さな光点が見えるだけなの。何故?」玲奈はタオルケットを引き寄せて被るとその中に潜り込んだ。
 弘は黙って腕を組んだ。答える言葉が見付からない。しばらく、間の悪い沈黙が続く。
「それは……?」
「夢──なの。近ごろ急に見るようになった。何故だかよく判らないけど。嫌な夢よ。受験勉強にに行き詰まっているわけでもないのに暗闇に閉ざされるのって」
 玲奈の言葉に弘はいい感触は覚えなかった。弘は少々心理学をかじった程度の知識しか持ち合わせていないのだが、いい兆候ではないと思う。闇の中に見える光点。心理学者でないので弘も詳しいことは判らない。しかし、この場に来てから一度も弱音の吐いたことのない玲奈の口からそんな元気のない言葉を聞いたとき、弘は大きな不安を抱いていた。
「ねえ、お兄さんはどう思う?」
 タオルケットの縁から目だけを出して玲奈は問う。
「は?」
「はあ、じゃないでしょう。お兄さん。そんなだから女の子にもてないのよ」事実だったから弘も答えようがない。「そんなんじゃなくて、私の夢よ。それをどう思うかって聞いたの。お兄さんは一応心理学の専攻なんでしょ? 夢判断してみてよ」
 玲奈は既にいつもの明るさを取り戻していた。ここら辺りが弘はどうも付いてゆけない。
「一応とはなんだ、一応とは。でも、心理学専攻と言っても二年目で教養課程も終わっていないんだ、無理だよ、そんなの。どうしてもって言うならあと二年は待ってもらわないとな」
「別に気休め程度の大嘘でもいいんだけどなあ」
 玲奈はタオルケットから腕を出して大げさな仕草で腕を頭上までもっていくと大嘘を表現した。それから弘の瞳を懇願する眼差しで見詰める。
「どんなに切なそうな目で見てもダメだ。俺は中途半端なことが大嫌いでね」
 “嘘ヲ付イテイル”自分の心にも玲奈にも。そのことは弘も心得ていた。中途半端が嫌だから玲奈の問いに答えられないわけではない。なまじ、中途半端に知っているだけに余計なことまで言ってしまいそうで怖いのだ。
「もう、お兄さんは融通が利かないんだから。彼女が出来ても逃げちゃうよ」
 半ば呆れた表情で玲奈は言った。
「余計なお世話だよ。おまえこそその小姑じみたところをなんとかしないとな」
「それこそ余計なお世話よ。放っておいてちょうだい」駄々っ子のように拗ねてみる。
 弘は玲奈のその様子を見てため息をついた。見舞いに来れば大抵はこんなようなもので玲奈にからかわれてしまうのだった。
「お兄さんって、シスコンなのかしらねェ」玲奈はおかしそうに笑いながら言った。
「だとしたら、玲奈のせいだな。さてと、日も暮れちまったし、そろそろ面会時間もおしまいだな。玲奈ももう食事の時間だろう。俺は帰るよ。また、明日来るから」
 硝子の箱から見える風景は既に闇に沈んでいた。明かりは近所の家と電柱に据え付けられた街灯くらいしかない。昼間はうるさいくらいに鳴いていた蝉は静になり代りに鈴虫がどこかで鳴いていた。
「明日も必ず来てね、お兄さん。でないと私泣いちゃうから」
「玲奈がそんなことを言っても説得力はないぞ。すっぽかしたら逆に殴られそうだよ」
「何ですって?」
「あはは、冗談だよ。それじゃあお前も嫁のもらい手がなくなるぞ」
 そう言うと玲奈の言う硝子の箱を後にして、弘は階下に降りた。

「──榊原玲奈さんのお兄さんですか」ナースステーションから看護婦が駆け寄ってきた。
「そうですが……何か?」弘は立ち止まって振り向いた。
「玲奈さんの病状について、篠崎先生からお話があるそうなんで第二診療室まで起こし下さい」
 弘と玲奈の両親は長期間の海外赴任のために日本にはいない。だから、兄である弘が玲奈の保護者代わりだ。とは言うものの弘もまだ大学生なので大したことは出来ないのだが。ともかく、話があると医者に呼ばれたからには行かなければならないと、弘は第二診療室を探し始めた。通い慣れたとはいえ、いつも行くのは玲奈の部屋だけだったので診療室を探すのは随分と手間取る。
(……今ごろ、先生が何の用事だろう)
 診療時間は既に過ぎていたから、時間外だ。緊急の用件でなければ明日にでも呼ばれると思うのだが、一体どういうことなのか。多少の心配を抱きつつ、弘は長い廊下を歩いてゆく。右を左をキョロキョロとしながら探す。場所を聞いておけばよかったと少々後悔もする。
 白いドア。白い壁。白い床。それらに対して弘は奇妙な嫌悪感を抱いていた。子供の時分、物心の付く前に契機となる何かがあったのかもしれないが、全然覚えがない。いやいや、そうでなくて、ここ二、三年のうちにこの嫌悪を抱いたのかもしれない。或いは、玲奈の担当医師が気にくわないからそう思っているだけかもしれないのだが。
 気が付くと第二診療室と書かれた札が掛かっている部屋の前に弘は立っていた。
「失礼します」
 ノックをして、それと同時に診療室の扉をくぐる。一瞬、消毒用アルコールの臭いが鼻を突いた。目の前には高さ二メートルくらいのついたてがあってそこから先は見えないようになっていた。それを左によけて中に入ると壁際に事務机があり、上には雑然とした書類の山が築かれていた。
「榊原弘さんですね」男が右手にボールペンを持ったまま入り口を向いて来客を確認する。「私が玲奈さんの主治医の篠崎です。今後ともよろしく」
 篠崎と名乗る男は世間一般に見ておおよそ医者らしい風貌はしていなかった。色黒で髪は少々ぼさぼさである。白衣を着ていなければ医者には見えない。その辺の道端ですれ違ったのなら単なる変わったおじさんとして目に映るだろう。しかし、篠崎という医者は噂によればその道ではかなり有名なようだった。
 篠崎は弘を呼び寄せると事務机の近くにある椅子に座らせた。
「今日は何の用でしょうか? お急ぎでないのなら明日の方が、僕も色々と用事が」
 ありもしない用事を弘は言った。篠崎がどのような用件で呼んだのかおおよその見当はつく。弘はこんな重苦しい雰囲気が非常に苦痛だったのだ。風貌は医者に見えなくても中身は医者で、篠崎の真面目な視線は弘の居心地を悪くさせていた。そう言った経験は何度かある。医者や教師などと言ったものが真剣な表情をするとき弘にとって好ましくない重要なことを言う。弘の経験則なので世間に広く当てはまらないかもしれないが、ともかく、弘はこの場から是が非でも逃げ出したくてたまらなかった。
「急ぎの用事でなかったらわざわざ今ごろ呼んだりはしない」篠崎はボールペンを机に投げた。それと同時に髭もじゃの顔で弘を凝視した。「そろそろ、弘君にも本当のことを話すときが来たんだ」
「何ですか、それは」
〈玲奈が助からないということさ〉
「非常に言いづらいことなのだが……」篠崎は物足りないのか再びボールペンを手に取った。「しっかりと聞いてくれ」一瞬視線を下に落とす。「来週、手術をするのだが、それが最後のチャンスなんだ。非常に残念なことだが、それ以上は玲奈さんの体力が持ちそうにない」
「どのくらいの確率で手術は成功するのですか?」弘は膝の上で両手を握って言った。
「手術は百パーセント成功する」篠崎は言い切った。「しかし、玲奈さんの病状はそれだけでは回復できない。──何度、病巣を完璧に取り除き、適切な処置を行っても再発する。体質改善の治療もしてきたし、様々の、考えうるだけの投薬も繰り返してきた。だが、目に見えた効果はない。これ以上は悪戯に妹さんの体力を消耗させるだけになる。だから、最後のチャンスなんだ」
「それは玲奈に死ねということですか?」
 篠崎の言葉に反応して自分でも恐ろしくなるくらい冷静に弘は言った。玲奈の病気が簡単に治りそうもないことは以前から聞かされていたので承知していた。しかし、今更治療をやめるようなことを仄めかされるとは予想外だった。
「そんな馬鹿なことはありえない!」篠崎は立ち上がって怒鳴った。「君こそ、手術をし続ければ妹さんの生命が長く続くと勘違いしているのではないのか。そのことの方が逆におかしい。医者の私がこのようなことを言うのは不適切かもしれん。しかし、君のその態度を見ていると腹が立ってくる。君は妹さんのことを考えているようでまるで考えていない。……偽善者だよ、君は」
「俺が偽善者だって? だったらあんはた何なんだ。人殺しじゃないか。本当のことを玲奈に教えもしないであんたこそ偽善者だ」弘は思わず榊原を指さしていた。
「だったら、君は妹さんに本当のことは言えたのか?」勢いよく篠崎は腰を下ろした。「君だって彼女の病気がどういったものなのか知っているだろう。二年余りも黙っておいて私を偽善者呼ばわりできるのか? 君は妹さんに君はもう二度と土を踏めない、ここから出ることさえ出来ない。なんて言えるのか。君はここで死ぬんだ。と言えるのか。言えないだろう」
「──だが、あなたは玲奈を救うと約束した。だから、僕は今まで言わないできたんだ」
「現代医学の限界だ」篠崎はやにわに立ち上がると神経質に狭い診療室を行ったり来たりし始めた。「私に出来うる限りのありとあらゆる検査をし、有る限りの論文、書物を調べ上げた。だが、原因が判らない。妹さんの症例はどんな過去数十年間の有名学術誌にさえ報告されていない。この数カ月間というもの心血を注いで治療法を確立しようと努めてきた。しかし、もうこれ以上は玲奈さんの体力がもたないんだ。判らなくても判れ」篠崎は机を殴った。
〈原因など貴様たちのちゃちな医学で解明することなど出来ない〉
「先生も無茶苦茶、言いますね」
「玲奈に少しでも長く生きて欲しいなら、もうこれしかない」篠崎の顔には汗が光っている。
「しかし、今更それはないでしょう。玲奈の体を切ったり貼ったりしておいてそれはないでしょう」
「何度もしつこいようだが、これが最後のチャンスだ。私はこれに賭けているんだ。手術そのものには絶対に問題はない。問題なのは」篠崎は椅子に座り、両手を合わせるとその上に顎を乗せ壁の一点を見詰めた。そして、言葉をまるで自分自身に投げ掛けるかのように繰り返した。「問題なのは……むしろ、病気の再発の方にある。どうすればそれが抑制できるのかまるで判らん。病巣も転移もないのに何故再発するんだ。玲奈の遺伝子にはそのようにプログラムされているとでもいうのか──?」
「遺伝子」虚空を見詰めたまま弘はぽつりと呟いた。
「遺伝子。DNA、正式名称、デオキシリボ核酸。君も生物化学を勉強したことがあるのなら少しは知っているだろう。そうなると、治療法を見つけるのにはまた何年かかるか判らない。……ヒトの遺伝子もまだ未解明な部分が残っているし、どの部分が玲奈さんの病状と関連しているかを探すとなると大事だ」半分独り言のように篠崎は言う。「だが、それを探していたのでは玲奈さんは助からない。それには時間が足りなすぎるのだ」篠崎は再び、弘に視線を戻した。
「時代が進めば完治も可能だろうが、私たちの時代の医学ではこれが限度だ」
「だったら何故、それが判ったときに玲奈を自由にしてくれなかった! 玲奈は実験動物じゃないんだ。一人の意志を持った人間なんだ。あなた方に玲奈を拘束する権利も義務もない。完治する見込みがないのなら玲奈に自由に外を歩かせてやりたかった。玲奈の時間を返せ、玲奈の時間はいつになったら始まるんだ」感情を激した弘は篠崎と二人しかいない広い診療室で怒鳴り散らした。
「玲奈さんにもっと体力があったのならばまだ治療はできた。私は可能性を捨てきれなかったんだ。医者として人間として玲奈さんを見殺しに出来ない。私が憎いか? だが、放っておいたのなら玲奈さんは既にこの世にいないのだぞ! あの病巣が確実に玲奈の抵抗力と体力を奪っている」
「そんなことはもう知っている。あなたの前任者にいやというほど聞かされたよ。しかし、彼は病巣の摘出以外何もしてくれなかったよ。定年間際に自分の経歴に傷がつくのが嫌だったんだろうさ。そして、玲奈はこうなった。どうしてくれる、説明してみろ」
「私はそんなんじゃない。断言する。私は元来冒険者だ。だからこんな虫の声が聞こえるところに来たと言えるがね」篠崎は訳ありのようだった。「どちらにしろこれが最後だ。術後の経過がよければ退院できる。だが、玲奈さんにはそれと悟られないようにしなければならない。或いはばれる前にばらしてしまうか。──それは君に任せる」篠崎も動揺せずに言う。
〈退院などありえない。何故なら玲奈の時間は二度と始まることはなく、ここで終わるのだから〉
「僕に任せる?」弘は不思議に思った。通常こういったことは医師が言うものだ。
「そうだ、君に任せた。普通は私から言うのだが、毎日のように来ていた君が騙していたと思われると兄妹の信頼関係が崩れるのではないかと思ってな。余計なお世話か?」
 篠崎は椅子を回して弘の顔を見据えた。
「別に余計なお世話なことはありませんが……、僕にどうやって玲奈に話せと言うんですか」
「言わなくても構わん。それが妹さんのためと思うのならそれでもいい。私は告知に関して言えば自分の意志よりも家族の意思を尊重する。ああ、それと誤解を招かないように言っておくが、御両親には連絡をとってある。──告知するもしないも私の勝手にしていいそうだ。手術のことは明日私から玲奈さんに話す。手術するかしないかは彼女次第だが」
「もし、嫌だと言ったら玲奈はどうなるんですか?」
「手術しなければ死ぬというわけでもないから、今すぐどうこうと言うことはない。ただ、手術したほうが確実に長く生きていられることは確実だ」
〈どの道それは無駄に終わる。死ぬのが玲奈の運命なのだから〉
「そうですか……」その時、弘の覇気は完全にどこかに消し飛んでいた。ずっと持ち続けた希望が消し飛んだ気分だ。玲奈と外を歩くことを心待ちにしていた。それも叶わぬ夢となりそうなのだ。思えば玲奈と一緒に歩いたのは高校二年の冬のころ、両親が海外赴任する直前のことだった。
「もう……お話は終わりですか」
「ああ、それだけだ。だが、これだけは知っておけ。真実を知って辛くなるのは君ではなくて妹さんの方だということを。下手をすれば妹さんの全てを否定することにつながる」
「──失礼します」
 色々と篠崎にたて突いてみたものの弘は打ちひしがれて第二診療室を後にした。篠崎は間違ったことは言っていない。弘はそう思っていた。確かに真実を語って落胆し、隠し続けて絶望させる。おかしな伝え方をすれば玲奈の人生も否定しかねない。弘には辛い選択になりそうだった。玲奈には必ず外に行こうと約束した。しかし、それこそ不可能なようなことだった。玲奈はそのことに感付いていているのか、それとも本当に何も知らず退院できる日を信じているのか。弘の心は思考の深淵に沈み込んで行こうとしていた。
(玲奈はどうする? 本当のことを知ってしまったらお前はどうなる?)
 ただそれだけが気掛かりだった。弘は非常灯だけが灯った薄暗く、誰もいない待合室に椅子に座って一人佇んでいた。玲奈の微笑んでいる顔が頭に浮かぶ。その笑顔は弘の心に永遠に焼き付けられていた。それももう、写真立ての中でしか見られなくなってしまうのだろうか。玲奈が自分以上に辛く哀しい立場にならざるを得ないことは判っいる。しかし、弘も苦しいのだ。胸が張り裂けそうな思いがするのだ。玲奈が死ぬ。そのことは全く予想していないことではなかった。手術が終わっても退院することなく治療が続いた。玲奈が最初に倒れたのは弘が高校二年の冬。それから父の海外赴任が決まり、両親は外国に行った。何故、父はその話を断らなかったのか。何故。母は玲奈を見捨てたのか。どうして死の淵にあるかもしれない子供をおいてゆけるのか。弘には判らない。日本を去るとき金の心配だけはしなくていいと言っていた。玲奈に必要なのは金だけではないはずなのに。父と母がいることの方が大切だったはずなのに。“何カガ間違ッテイル”この時、弘は感じ取った。自分たちは愛されていない、と。
(父さんも母さんも帰ってこない。自分たちの娘がこんな目に合っているというのに! 何故、あんたたちは戻ってこない。玲奈よりも仕事が大切なのか。人一人の命よりも社会的な地位の方が重要なのか。おかしい……。あんたたちの価値観は狂っている)
 それは同時に社会全体に対する反感だったのかもしれない。そして、そのような事実、親が子供を顧みない、或いは仕事だけに時間を取られて子供と接する時間がない、が所謂モラトリアムの世代を形成させているような気がするのだった。そんな学歴信仰、ぎすぎすとした家庭環境で育った子供たちが現在の社会環境に希望を持てるはずもないし、何よりも自分自身が社会だけのために生きると言ったことが出来なくなっている。それは価値観の多様化以前の問題であり、もっと根源的なものだと弘は考えていた。弘は納得できないのだ。現在の利潤追求型の企業論理に共感は不可能だった。大学二年目の夏にして弘は玲奈のこととは別に悩みを抱えていたのだった。それは両親の挙動からの現代社会への不信感が大半を占めているのだが。
 結局、篠崎の発言から派生した問題には決着を付けられず玲奈のことに思考は戻ることになった。
(玲奈、今の俺はお前に何をしてやれる?)
 大したことはしてやれない。そんなことは先刻承知だった。しかし、それでも何かをしてやりたい。哀れみなんかではないはずだった。純粋に玲奈を思う気持ちから出たことのはずだった。
 当直の看護婦だけを残して哀しいくらいに静まり返った院内を弘は彷徨うように歩いていた。弘は篠崎の言葉にショックを受けていた。玲奈の手術の時に両親が帰ってこない。それが当然のことになってから早くも一年近くの年月が流れている。これが玲奈にとって最後の機会になるかもしれないというのに帰国しない。しかも、後は弘に任せたという。なんという無責任なのだ。
 弘は階段を上り始めていた。もう一度玲奈のところに行こう。漫然とそう考えていた。

 様々な思いを胸に弘はもう一度玲奈の部屋に戻った。篠崎の話を聞いていたらとてもこのまま帰る気にはなれなかったのだ。家に帰ってもゴチャゴチャとよからぬことを考えるのに時間を費やすだけだろうし、それならば婦長にどやされてももうしばらくだけ玲奈のそばにいたかった。
 窓のカーテンは閉められていて、外は見ることは出来なくなっていた。玲奈はベッドに仰向けになって本を読んでいる。しばらくして、玲奈は弘の存在に気が付いた。
「あら、どうしたの、お兄さん。帰ったんじゃなかったの?」
 玲奈は入り口の方を振り返った。
「帰ろうかと思ったんだが、何だかもう少し玲奈のそばにいたくなったのさ」
「フーン、変なお兄さん。やっぱり、本当にシスコンなのかしら?」
「うるさいぞお前は。折角、戻ってきてやったのにそれか?」
 そう言いながらも、弘は玲奈の減らず口が嬉しかった。いつもと変わらない玲奈がそこにいたから。玲奈は本当に何も知らないのかもしれない。硝子の箱から出られる日を信じているのかもしれない。弘は心苦しくなるのを感じた。黙ったままでいいのか?
「どうしたのお兄さん、目が虚空を見詰めているわ」玲奈は本を枕元に置くと弘の顔を見ていた。
「ん? 何か言ったか」玲奈に再び会いに戻ってきたのに弘は上の空だった。この顔も、この声も玲奈の全てが見られなくなる。そう考えたら弘は玲奈を目の前にして何もできなくなった。
「もお、お兄さんたら一体何をしに来たのよ」
「いや、ただ何となく玲奈の顔が見たくなっただけだよ。──しばらく、ここにいていいか?」
「私は構わないけど、看護婦さんにどやされても知らないわよ。婦長さんが来たらもっと怖いんだから」玲奈は心から楽しそうだった。弘が近くにいるだけで安心感がある。
「大丈夫さ。婦長さんが来たら俺が追い返してやる。そうすれば長い間、玲奈といれる」
 そう言うと、弘はやはり部屋の隅に置いてある椅子に座った。部屋も、病院も、外も世界中に存在するものが全て活動をやめてしまったかのような静けさが二人を襲った。玲奈は再び本を読み始め、弘は顎を抱えて玲奈の方を見ていた。
 時間がゆっくりと過ぎてゆく錯覚にとらわれそうになる。この時が永遠に続いて欲しい。弘はそう思った。
「ねえ、お兄さん」玲奈は本を胸の上におくと弘の顔を見た。
「何だ?」短く一言、弘は言った。
「考えてみたら、私、もう、三年もここにいるのよね。移り変わる季節も何もかもが私をおいていってしまったみたい。私の時間は止まってしまった。三年前のあの日から止まったきり。外の季節は巡っても心の季節は木枯らしが吹き荒び、落ち葉が宙を舞う秋のまま。このまま、朽ち果ててしまうのかな」
 弘は玲奈の言葉にぎくりとした。玲奈は気が付いている。夕方の言動から半ば予測はしていたが、今ので確信を持った。いや、夕方は知らず知らずのうちに気付いても気が付かない振りをしていたのかもしれない。それから、弘は篠崎の話を聞いた。その微妙な意識の差が玲奈の言葉を強く認識させる結果をもたらした。
「そんなことはあるはずがない。季節は巡るんだ。秋があれば春もあるし、夏があれば冬もある。玲奈にだって春が来て夏が来るのさ」
「……来ないよ、絶対に。私の季節は秋のまま。時は巡らない──。お兄さんや看護婦さんが必死になって隠しても私には判る」玲奈はプイと窓側に体をよじった。「自分の体だもの。判らないはずがないよ。お兄さんが思っているほど私は鈍くない……」
「玲奈──」
 それ以上、弘の言葉は続かなかった。
「何で、何でなの? 何で私がこんな目に会わなくちゃいけないの」途中からそれは涙声になっていた。「何も悪いことなんかしてないのに。何もいけないことなんかしていないのに。私の三年間を返して!」
「医者が何と言っても俺は信じている。玲奈の季節は必ず巡る。止まってしまった時間も必ず動きだす。だから、泣くな。お願いだから泣かないでくれ。俺まで泣きたくなる。俺はお前を失いたくない。見せてやりたいところがまだたくさんあるんだ。一緒に笑いたいんだ。だから……」
 いつしか弘の目にも涙がたまっていた。泣きたくないのに意志に反して涙が溢れ出てしまう。哀しみと情けなさに顔が歪む。玲奈の前では絶対に涙を見せないと誓ったのに。涙が止まらない。拭いても拭いても、どこにそんなに涙があったのかというぐらい頬を伝う。笑顔をつくろうとしてもつくれない。弘はその自分の涙が玲奈の言ったことを証明していることになってしまうのではないかと不安になった。玲奈がどんな思いを抱いていたとしても自分が信じていれば玲奈は永遠に生きていられるような気がしていた。
「まるで、永遠の硝子の箱よね」玲奈は顔を伏せって、ボソリと呟くように言った。「私は箱の中しか知らない淋しい女の子。外の世界の一部しか見れなくて、ほんの一場面しか知らない。だから、ここは硝子の箱……。外の情報は聞けるけど実際に見に行くことは出来ない。だから、ここは透明な箱……。お兄さん、私、一人でいるのが怖い。眠ってしまったらもう二度と朝が来ないような気がして。一人でいたら闇に引きずり込まれていきそうで」
「安心しな。今日は俺がいるから大丈夫だ。朝は来る。朝は必ず来るから」
 本当に玲奈に朝は来るのだろうか? そんなことに疑問を挟んではいけないと判っているのについ考えてしまう。来なかったらどうしよう。それは悪戯に弘の恐怖を煽っていた。

 ふと気が付くと部屋は真っ暗になっていてカーテンの隙間から月の光が僅かに漏れていた。一条の光が床に落ちている。玲奈は安らかな寝息を立てて眠り、先程までの会話が嘘のようだった。弘は玲奈の傍らから離れると窓際に寄った。カーテンを開ける。月明かりがさーっと差し込んできた。満月だった。弘は南中した月を見上げて、思考を巡らせた。
(古代から魔力を秘めていると言われた月……。アポロが着陸して夢がなくなったとしても、未だ神秘のベールに包まれた星。魔力……。あの星に本当に魔力があるのなら俺の願いを叶えて欲しい)
 弘は窓を開け放った。涼しい夜風が吹き込んでカーテンがはためく。
 と、玲奈のうめく声が聞こえた。
「玲奈?」
 弘は急いで窓を閉めると玲奈の方を向いた。何かいる。弘は月明かりにぼんやりとシルエットとして映るそれを見て取った。何なのかは甚だ不明確だが、どこかで見たことのあるような気がする。いや、それ以前にどうやってここに入ってきたのだ? 音を立てずに玲奈のそばにまで寄ることは不可能なはずなのだ。弘は訳も分からずに声を荒らげてそれに話し掛けていた。
「お前は何だ?」 
 その黒いものは弘の声に驚いたそぶりも見せずにゆっくりと振り向いた。
〈ほう、貴様にはわしが見えるのか? 超現実を目の当たりにして正気でいられるとは大した精神力だ。最近では珍しい。褒めてやるぞ〉
 恐ろしい形相でそれは弘を見詰めたが、弘は動じずに目を見詰め返した。
 しばらく時が経過して寝ぼけた頭の理解力が増してくると、玲奈の枕元にふわふわとして浮かんでいる変なものが何なのか判ってきたような感じがした。格好はまさによく知られた西洋の死神だ。フードのついた真黒いマントを羽織ってこれ見よがしに大きな鎌を持っている。この世だろうとあの世だろうと切れないものはないだろう。しかし、恐怖はまるで覚えなかった。
「何なんだと聞いている。答えろ。不法侵入だ」
〈──人はわしのことを死神と呼ぶ〉さらにそれは目の玉だけを弘に向けジロリと睨んだ。
「死神?」ますます訳が判らない。それは弘の知っている現実には存在しえないもののはずだった。夢でも見ているのか。月の魔力にほだされておかしくなってしまったのだろうか。
〈人はそう呼ぶ〉それは重みのある落ち着いた口調で答えた。
「その死神が玲奈に一体何の用だ。お前にまだ用事はない。帰ってくれ!」
〈そういうわけにはいかんのだよ。玲奈はわしの予定表に記載されているのでな。仕事を変更するわけにはいかない。一度決められたことは絶対なのだ〉
「そんなことを一体誰が決めたんだ。誰が命の長短を決められるというんだ。そんな権限は誰にもない! 誰にもないんだ。まだ、玲奈は死ぬべきじゃあないんだ。どうしてもと言うなら代りに俺を連れてゆけ。代りを連れてゆけば問題はないだろう!」
 深夜だというのに弘は辺り構わずに怒鳴った。それなのに看護婦一人来なかったし、隣の部屋からの苦情も来ない。しかし、そのようなことに弘は全く気が付いていない。
〈死ぬべきときに死ねなかった人間は哀れだぞ。それでも玲奈を救いたいか?〉
 それは玲奈の枕元から離れると弘のそばに寄ってきた。そして、下から上まで品定めするかのように睨め付けた。弘はその気味の悪い視線に耐え、強い意志力をもってそれを睨んだ。
「玲奈はまだ十七なんだ。お前は今が『死ぬべきとき』だというのか? 玲奈の人生はこれから開けようとしているのに、お前こそそれを奪おうというのか。何の権利があってお前は玲奈の生命を絶とうとする!」
〈権利ではない。義務だ。農夫たちが実った稲穂を刈るようにわしは生命を刈り取るのだ〉
「義務?」
〈季節は巡り秋が来たのだ。刈り取りの季節だ。貴様はこの時期をみすみす逃せとわしに言うのか。収穫の季節を過ぎれば価値は半減する。稲穂は地に落ち腐ってしまう。冬は越せないのだ。春に向けて備えなければならない。玲奈に春はもう来ない。わしは玲奈の生命をもって帰らねばならぬ〉
 非情な視線を放ちながらそれは言う。
「冬は越せない?」それは抽象的な言葉を使って話すのでなかなか真意が推し量れない。
〈人の生は春に始まり、秋に終わる。人の生とは一度きりのもの、一年生の植物と同じく冬を越すことはない〉それは弘の発言を抑え続けるような口調で言った。〈玲奈の生命は晩秋を迎えたのだ〉
「晩秋……。しかし、俺は生きているぞ。俺が生きていて何故玲奈は晩秋なんだ」
 弘は必死に食い下がった。本当に取り付く島がない。弘は諺を実感しながらそれと対峙していた。非日常を目の当たりにしても、何故か判らないが引き下がってはいけないような気がしたのだ。退けばここで何もかもが終わってしまいそうな予感がした。
〈季節の巡る速度は人によって異なるのだ。貴様がまだ、夏の只中にいたとしても、貴様の知らない誰かは貴様と同じ年に晩夏から初秋にかけて生きている。或いは初夏かもしれぬ。それゆえ、人よりも早く去らねばならないものいれば、いつまでもとどまるものもいる〉
「お前は玲奈が前者だと言いたいのか?」弘は敵対心を露にして踏ん張った。
〈そうだ。玲奈の生きるべき時間は過ぎ去ったのだ。生命は生まれたときから死を背負っているのだ。何も嘆くことはない。それが生命の理、自然の摂理だ〉
「だとしても、俺は納得できない! 納得なんかできるものか! 納得したらお前は玲奈を連れて行くんだろう? そんなこと、許さないぞ。許すもんか……」
 途中から弘は目に涙を浮かべていた。哀しくて泣いているのではない。玲奈に対して何もしてやれない自分が情けないのだ。玲奈を救えるだけの何かを弘は欲しかった。
〈やはり、満月の夜に現れたのは失敗だったようだ。月はわしの魔力を低減させ感傷的にさせる。貴様などに姿を見られたのがそもそもけちのつきはじめというわけだ〉
 それは弘から離れ、寝息を立てている玲奈の元に戻った。
〈だが、もう少しだけ、時間はある。貴様の妹を思う気持ちに免じて一度だけ機会をやろう。二日以内に玲奈の“魂”を探してこい。それを見つけられれば玲奈の生命は諦めてやろう。しくじれば二人とも死ぬことになる。玲奈の時間を取り戻すことは生命の理に反すること……。救いたくば、己の生命、ありとあらゆる全てのものを賭けて戦え〉
「それは──どういう意味にとればいいんだ?」
〈貴様が玲奈の“生”を取り戻しに行くことを許可したのだ。燃え尽きた魂を持ち帰ることはできるが、わしに救うことはできない。救えるのは玲奈のことを最も大切に思う人間のみ。即ち、貴様だ。そして、機会は一度のみ。それが掟だ〉それは骨張った手で玲奈の頬を撫でた。
「俺に一体どこで何をしろというんだ」
〈それは言えない。挑戦するもののみが知ることのできる場所だ。これを聞いてしまったのならば貴様は絶対にそこに行かねばならなくなる。望まなくとも行動せねばならなくなる〉
「──考えさせて欲しい」弘は一言だけ言った。かなりの危険が伴うところのようだった。そんなことを言われるとは予想さえしていなかった弘の心は慎重にゆっくりと時を刻む。
〈臆病風に吹かれたか? まあ、いい。行く気になったのならば、わしを心で呼べ〉
 それは現れたときと同様に不意に消えた。
〈残された時間は少ない……決断は迅速に下せ〉
 その言葉を最後にして、止まってしまったかのような時間が再び戻った。窓の僅かな隙間から風が入り、カーテンを靡かせている。外を見れば月は雲に隠されてその白い光は部屋まで届いていない。そして、そこには何者かがいた形跡は全くなかった。
(夢を見ていたのか……? 月の光に俺はほだされていたのか)
 東の空が白み始めるころ、弘は帰途についた。

 夜中に突然鳴りだす電話とは、大抵不吉なことを告げるものだと相場が決まっている。この時もそうだった。ちょうど、弘が不可思議の体験をした晩の次の晩だ。あれが“残された時間は少ない”と言ったことが胸に突き刺さる。
 弘は篠崎から受けた電話の受話器を放り投げると身支度もそこそこに家を飛びだした。緊急手術をするらしい。篠崎も余程大変だったようでそれ以上のことは言わずにとにかく来いと言った。それゆえ弘は玲奈のいる病院に向けて駆けているのだ。弘の家から病院までは歩いても二十分とかからぬ位置にある。しかし、この時の弘にとっては永遠のように感じられる距離だった。
 害虫の群がる街灯に照らされている道をひた走る。同じような町並みが続くせいか、ちっとも進まない錯覚に捕らわれる。玲奈も失うかもしれないという怖さと、そばにすぐに行けない焦りが混じったような妙な感覚に弘は襲われていた。
「約束、忘れちまったのか、玲奈。俺が必ず病院から連れ出してやるって言ったじゃないか。酷すぎる。これが運命だと諦めろというのか? 俺は納得しないぞ。納得できるものか! 玲奈の生きるべき時間を返せ!」
〈そんなものは最初から用意などされていないのだよ。玲奈の生命はここまでなのだ。これで全てなのだから、生きるべき時間など残されていない。後は貴様次第〉
 弘は人生の中で最高の全力疾走で一キロ余りの距離を走り抜けた。今、弘は正門にいる。深夜二時過ぎに玲奈の部屋だけが明るい。他の部屋は暗く、看護婦の常駐するナースステーションに電気がついている。二つだけの明かりが弘の不安を異様なまでにかき立てる。この時間、正面玄関は閉じているので弘は通用門に回った。
 廊下には非常口を示すランプだけが灯り、後は暗い。それに静寂。怖い。弘は通用門から正面玄関に行くと最初に手術室を確認した。それから、弘は手術室に向けて再び駆け出す。と、弘は手術着姿の篠崎を発見した。“関係者以外立ち入り禁止”と書かれたガラス張りの扉の向こう側だ。それでも、弘は構わずに扉を開け放つと篠崎に詰め寄った。
「先生、玲奈は、玲奈は助かるんですか? 何があったんですか?」
「いっぺんに聞くな」篠崎は弘に気が付いて答えた。「時間がもったいないから手短に言うぞ」
 弘は無言で頷くと篠崎の目を見詰めた。
「──先程、簡単な検査をした結果からは腸からの大量出血だ。今は何とか収まっているが、危険な状態でもある。生検をしてみなければはっきりとしたことは言えないのだが、私の考えていたより悪い。ともかく、現状に収拾を付けなければならない。弘は廊下か玲奈の病室で待っていろ」
 篠崎はそれだけ言うと手術室に消えた。
(玲奈──。お前にはこんな過酷な運命が待っていたなんて。何故だ?)
 弘は前室を離れると玲奈の病室に行くことにした。この場にいても弘にできることはない。その上、気分がどうしようもなく滅入りそうだった。弘は昨日の夕方と同じように階段を上った。階段も廊下も暗い。手術室付近でのざわめきとは打って変わっての静寂。玲奈の部屋に入ると既に何もかもが片付けられた後だった。ここでどのようなことがあったのかもう判らない。
(昨日まで玲奈はここで本を読んでいた。いつものように……。それがずっと続くはずだと考えていた。本当は今日も玲奈はベッドに寝転がって本を読んで、俺の方を振り向いてくれたはずなのに。──こんなことになるなら、約束、破らなきゃよかった。破っても張り倒されもしなければ、泣いてもくれない。玲奈は手術室にいる。……昨日の時間は二度と戻ってはこない)
 深夜、今日もまだ満月だった。弘は昨日の動作を反復するかのように窓を開いた。あの時とは違う風が室内に吹き込んでくるような気がした。玲奈がいないこと以外変わったこともなく、全くの日常であるというのに。そしてまた、月もあの時と同様に白い光を放っている。
 思い起こせば、あれと邂逅したのはこんな夜だった。玲奈のまくら元にふわふわとしていたあれを。今日もここにいるかもしれない。弘の頭にそんな考えがよぎった。しかし、あれは玲奈に取り付いているはずである。と、すると手術室の玲奈の頭の辺で浮かんでいるのかもしれない。心臓が早鐘のように脈を打っていた。あれはたちの悪い夢だったのか、それとも紛れもない現実だったのか。それがどちらだったとしても今更関係のないことなのだが。
 弘は主のいなくなったベッドを見やった。“モシカシタライルカモシレナイ”淡い妙な期待とそれが本当にいたらどうしようという不安感を弘は抱いていた。
 そして、やはりそれはそこにいた。
〈──わしを呼んだか?〉それは初めて見たときと同様に鋭く突き刺さるような視線を弘に向けた。
「呼んではいないよ。それよりお前は玲奈のそばにいなくてもいいのか。玲奈の生命を刈りに来たんだろう。手術が始まったんだ。今日なんだろう。収穫の日は」
〈何か勘違いをしているな、貴様は。昨日、わしは言わなかったか。二日以内に探してこいと。つまり、わしが玲奈の生命を刈り取るまでには約一日残っている。玲奈は貴様の思っているような原因で死ぬのではない。だから、わしは一度だけ機会をやると言った〉
 それは浮遊しながら弘の方に向かってきた。鎌を構えて、月明かりを受け薄気味悪く煌めく淀んだ目で弘を凝視した。背筋も凍り付くような冷たい目線。しかし、それは慈悲の心をもっているようだった。
「そんなことを言ってお前は俺から玲奈を奪い取る気だ。お前は俺に玲奈を救えると言った。しかし、そんなことを誰が出来る? 医者でさえ救うことの出来ぬ玲奈の生命を俺が救えるはずがない。俺が一体、医者以上の何を持っているというんだ。俺には何もない!」
 突如、静寂が辺りを襲った。窓の外から聞こえていたはずの鈴虫の鳴く声も聞こえない。
〈本当にそう思っているのか? そう思っているのならやめてしまうか〉
「……いやだ。玲奈は絶対にお前には渡さない。渡す訳にはいかないんだ。玲奈を硝子の箱の外に、病院の外に出してやると約束したんだ。破るわけにはいかない」
〈ならばゆくのか。ゆけば目的を果たすまで戻ることは許されぬ。玲奈が死ねば貴様も死ぬ。それでもゆくか。貴様は生命を賭ける覚悟はあるか? 玲奈の生命を救いたいということは即ち、貴様の生命を賭けるということだ。自分の生命が惜しいのなら玲奈のことは諦めろ〉
 医者でさえさじを投げかけた玲奈の将来に弘が一体何ができるのか。弘は考えた。何の取りえもない自分が何をすれば、玲奈を助けられるのか。弘にはまだ判らない。
〈どうするのだ。時間はあまりないのだぞ。──貴様にはひとかけらの勇気もないのか〉
「お前は俺にどこに行けという。生命を賭けて玲奈のために何をしろという?」
〈それは以前にも説明したはずだ。言えぬ。そこへ行くもののみに教えられる〉
 弘はまたしばらく黙った。未だにこれが夢かうつつか判別がつきかねる。これが夢だとすれば玲奈は本当は月明かりに薄く照らされているベッドで安らかな寝息を立てて眠っているのかもしれない。だったら、それで構わない。しかし、鎌を持ったおかしな存在はともかくとして、手術室にいる玲奈が現実だとしたら? 篠崎が言ったように非常に危険な状態だとしたら? それの言うように猶予期間は少ないのかもしれない。
 夢、幻覚、超現実のどれにもその存在が当てはまらないとして、それに賭けるだけの価値があるのか。弘にそれだけの力があるのか。弘は今、弘の存在そのもを問われているような気がしてならなかった。
「判った。俺が行くことで玲奈が助かる可能性が少しでも増すのならそこへ行こう」
 半信半疑のままに弘は返事をした。
〈後悔はしないな〉
 それはギロリと弘を睨んだ。決意を確認するかのような意味がこもった視線だ。
 弘は無言で頷くと、それの瞳を見詰め返した。それが弘をどこに連れてゆこうとしているのか全く判らないが、それでも決意に揺らぎはないはずだ。玲奈との約束を果たすためなら。それだけのために弘は行動する。
〈──貴様の行こうとしてる世界は玲奈に内在する精神世界と全てが融合した空間だ。嘘だと思うか? それでも構わんが、少なくとも貴様にとってそこは紛れもない現実として存在する。“現実”の意味は判っているな。そこは仮想空間ではない。玲奈の精神、肉体とシンクロした実在空間だ〉
 存在自体が幻想みたいなそれに講釈されても並のことで納得できることではない。弘は訝しげな表情でふわふわとしているそれを見詰めていた。
〈納得できぬようだな。無理もない。わしも長年、このようなことをしているが、わしを見て比較的平然としている人間を見たのも初めてのことだ。大抵の輩はわしを祓おうとするか、自らの生命を縮めた。だが、貴様は違う。全てをみている。目に見えたことを鵜呑みにするのではなく、その内面までもえぐる瞳と精神をもっている〉
「俺はその玲奈の抽象化された世界で何をすればいいんだ」
〈そこで生き抜いて“魂”を手に入れるがいい。ただし、遊技などだとは勘違いしてはならぬ。怪我をすれば赤い血潮を吹き出るだろうし、致命傷を受ければそこで死ぬ。夢だと思い、軽率に振る舞うのは勝手だが、術を身に付けぬ限りここには戻ってこれぬ〉
「どうやってそこに行くんだ?」
 弘は問う。これが夢だろうと現実だろうと弘の決心は固まっていた。月にほだされて見た幻影だとしても、弘のすがれるものはそれしかなかったのだ。篠崎ではダメなのだ。彼も努力を惜しまず様々なことをしてくれた。しかし、それでは足りない。
〈目を閉じろ。わしがその場所まで運んでやる。次に目覚めたとき、貴様は玲奈の精神世界、彼女の全てを抽象化した世界に踏み込むことになる。生きてそこから帰れるか否かは貴様次第。知力と勇気が全てを決定する〉
「知力と勇気?」
〈そうだ。他には何も必要ではない。知力は貴様を正しい道に導く道しるべとなり、勇気は貴様の行動する心を呼び覚ます。それだけ備えていれば貴様と玲奈はここに戻ってくることが出来る〉
 それがその言葉を発した直後、弘は足が床に付いていないような感覚を感じた。丁度、遊園地などで絶叫マシーンに乗ったような気分だ。違うところといえばその無重力の頼りなさが長い間続くことだろうか。それともう一つ。奇妙な存在が弘とともにあるはずだが、孤独感を感じることだった。
〈もうすぐ着く。そうすれば貴様は一人で全てを対処しなければならない。わしに出来るのは貴様を連れて行くことのみ。それが掟だ。貴様は自分自身のみで進むべき道を切り開き、進んで行かねばならない〉
 自分自身の力だけで。少々弘は心細くなった。それの言うあちらの世界に行ったとして自分は無事に戻ってこられるのか。半信半疑のまま弘はそれに連れられて行こうとしてる。それの言う世界がどこにあるのか、どうやったら帰ってこれるのかも判らない。それでも、弘は行く。
「別れる前に一つだけ聞きたいことがあるんだ」
〈何だ、言ってみろ。一つだけ妹を思う貴様の純粋な心に免じて答えてやろう〉
「何故、あんたはそんなにでかい鎌を持っているんだ」
わしが鎌を持った姿でいるのは人間たちの勝手な思い込みぬ過ぎぬ。わしの本来の姿を人は見ることはかなわない。しかし、貴様の言う鎌で切ることのできるのは尽きた生命の魂の緒だけだ。それ以外に切ることはできぬ。わしは尽きた生命を迷わぬように導くのが仕事なのだ〉
 それは誇りと自信に満ちた口調で言った。
〈目を開け。──ここが玲奈の全てを抽象的に表現した世界だ。この宇宙にたった一つきりの実在空間。貴様の世界の下らぬ法律、規則など通用せぬ。知力と勇気を奮えるものだけが生き残る。一瞬のためらいが命取りになる場所だ。さあ、行くがいい。行って玲奈の“魂”探してくるがいい。猶予期間は貴様の世界で約一日。貴様が死ぬか期日に間に合わなければ玲奈は確実に死なねばならない〉
 それは弘の顔を凝視した。
〈──最初で最後、一度きりの機会だ。しくじればそれまで。兄妹仲良く来るがいい。わしが責任をもって貴様の魂も導こう。成功すればわしは貴様の前には現れることはない〉
 意味あり気な言葉を残してそれはそのまま宙に姿を消した。横を振り向いてもそれが存在していた証は何もない。これが夢なのか現実なの弘にはもはや判別がつかなくなっていた。だが、それは些細なことだ。弘がここから帰るためにはそれの言うように“魂”を見付けねばならぬようだった。手掛かりはそれのみなのだ。
 そして、弘の眼前には深遠な闇の支配する無限の虚無空間が広がっていた。