永遠の硝子箱

(承)心の傷


 

 “玲奈の全てを抽象化したところ”死神は確かそのようなことを言っていた。そんなことが本当にありえるのか。弘の前に現れた死神が現実であるならば実際に何があったとしてもおかしくはない。この深遠な闇が本当に玲奈の全てだったとしたら? 弘は非日常を目の当たりにし、理解範囲を越えた現実に当惑していた。しかし、同時に自分でも驚くくらいに冷静に弘は全てを受け止めていた。
 そして、ここにあるのは永遠に朝など来ないような深い闇。見上げても星はなく、月もない。見えないではなくないのだ。空も周辺ものっぺりとしている。風も、空気の流れもない。匂いも何もない。弘が動かなければ音もしない。五感に訴えかける情報はまるでない。
(──何も聞こえない、何も見えやしない。俺はここで何をしたらいいのか)
 弘は辺りを一通り見回してみた。田舎の夜よりも暗く深い闇。これが普通の状況だったのならば闇夜というのだろう。その状況を目撃して弘はため息をつくしかなかった。
(あいつの言ったことは本当なのか? もし本当に俺がが玲奈の心にいるとしたら……?)
 今更、何がどうだったとしても驚くには値しない。死神を見てしまった以上、それ以上の驚きがあるはずがなかった。弘は再び辺りを見回すと考え事をしながら歩きだした。状況を把握しなければならない。弘はそう考えたのだ。知力と勇気を持つものがここから抜ける鍵になるのだから、実践するしか道はない。勇気と無謀、知力と知識の違いを気をつけながら慎重に弘は行動する。
(何にでも果敢に挑戦することを勇気とは言わないように、何でも知っているだけのことを知力とは言わない。勇気とは一歩間違えれば無謀であり、知識は応用する力を持てば知力となる。全ては調和の上に成り立っているのだ。どちらも行き過ぎれば無用の長物)
 ちょっとしたことを思考する。
 数歩、歩いたところで弘はおかしなことに気が付いた。足下は相変わらず見えないが妙な感じだ。アスファルト道を歩いているのとも、コンクリートの上を歩いているのとも、天然の柔らかい土の上を歩いているのとも感じが異なっている。
 カツンカツンと硬いものに触れる音がして何かに反響して聞こえるのだ。その響きはプラスチックの鈍いこもった音ではなく、乾いた少々高めの音だ。それを聞いて弘は床の材質は硝子ではないかと判断した。硝子の床。弘の体重が乗っても割れることのない厚い板硝子のようだ。強化硝子の類いらしい。床の材質のことは放っておいたとしても、それを存在する理由は考える必要はありそうだった。
(硝子……。硝子ね。硝子に関する思い出の一端かな……?)
 硝子。その単語は弘の中で玲奈に関するキーワードの一つだった。それが認識されたとき、弘はここが玲奈の何かを示して場所だと感じていた。“硝子の箱”玲奈がボソリと言ったその一言が思い起こされたのだ。
 この硝子の箱の中で弘は何をすべきなのか考えを巡らした。
「外は見ることができるけど、手を触れることはできない。か」
 弘の言葉は陰々と辺りにこだました。丁度、コンクリートで閉ざされた小部屋か、荷物をまだ運び込んでいない新築家屋にいるような感覚だ。その反響する弘自身の声は弘の孤独感と淋しさを増長させるくらいにしか役には立たなかった。そして、そのせいなのか、何となく、弘は玲奈の気持ちが判ったような気がした。玲奈はここで絶望を感じ始めたときから過ごしていた。即ち、この闇に閉ざされた空間は玲奈の絶望、声の反響する壁は外に声の届かない孤独感。そして、硝子の床は、例え今強固であったとしても、いつ壊れてしまうか判らない現実。或いは、弘はまだ見付けていない壁も硝子で出来ていたとしたら、それは玲奈の言った“硝子の箱”なのだろうし、それは恐らく自分ではどうにもならないという運命や宿命みたいなものを象徴しているのかもしれない。
 そのような考ばかりをしていてもあまり現実的ではないと判断して、弘は休めた足を再び動かしだした。取りあえず、弘はこの世界が“現実”のものであると判断を下した。床もあるし、喋れば声も反響する。他に何も存在していなかったとしても“仮想現実”と考えるには出来過ぎているような気がする。意図的にではないにしろ、かなり計算し尽くされてここは出来上がっている。例え人間がどんな高性能なコンピューターを使ったとしても実現は不可能だ。全てを見て歩き検証したわけではないから、確証はもてないが緻密に出来上がっている。人間の作った“仮想現実”と考えればどこかしらにバグがあるものだ。もちろん、夢だという考えは論外である。
 幾つもの仮説の上に弘は行動していた。一番目の仮説。弘がここにいるのは夢や一種の仮想現実ではなく紛れもない現実だということ。これが崩れ去れば他の仮説など意味がなくなる。第二の仮説。この闇に支配された空間が玲奈の心象風景かそれに近い何かだということ。第三の仮説。玲奈の心に希望の光を灯し、魂を開放しないかぎり自分は生きて帰れそうもないこと。
 どれもこれもあまりいい仮説とは思わなかったが、この場に来ることは結局、弘自身が望んだことだった。従って、自分で責任はとらなければならない。
(遊技ではない。夢だと勘違いするのは勝手だが……か)
 弘は死神の言ったことを反芻して考えていた。その中で一番、問題になったのは“魂”が何を意味しているのか。魂の概念は知っているが、それが実存しているのか。生き物の精神作用を司るものが魂だから、強いて言えば脳ということになるのだろうか。だとしたら、“玲奈の全てを抽象化したところ”で見つけだすことは不可能だと思われる。少なくとも物質ではなくて何かを抽象化したものが“魂”なのだろう。或いは全てが抽象化されているのなら、物質自体も何か他のものとして存在しているのかもしれない。しかし、それはまだ判別しかねるところだ。
 さて、弘は先の見えない硝子の床を主観的に直進していた。
 相変わらず、硝子の床だけが続くようでどこまで行けば終わりを迎えるのか、曲がり角があるのかどうか、ひょっとしたら恣意的に閉ざされた空間をぐるぐる回っているだけなのかさっぱり判らない。これだけ歩いて判ったことは床が硝子でできているらしいことだけ。音が反響するのだからどこかに壁はあるのだろうが、それが音を反射しやすい材質であること以外は不明である。今のところ、弘にとっては全てが不確定のままだ。ともかく、黙って突っ立ったままでは埒が明かないので手掛かりを求めて行動しているのだ。
 行く手は暗闇のまま。光を発するものも反射するものもない。ここには床以外に本当に何もないのだろうか。一瞬、そんな疑念が弘の頭をかすめた。しかし、一方でそんなことは絶対にありえないと考えている。玲奈はあれだけ夢を抱えていたのだから。心がこんな闇に閉ざされていていいはずがなかった。夢があるのならばどこかに微かでも光があるはずだ。それがないのは何故? ここが玲奈の“硝子の箱”だと考えても腑に落ちない、尚更納得のいくことではなかった。ここが玲奈の“硝子の箱”だとすれば、外だけは観察できるはずなのだ。
 弘は立ち止まって、腕を組むと考え始めた。今度は闇雲に歩き回っても仕方がないらしいと判断した。となれば、今まで得られた数少ない情報を元に推理をしてみるしかない。推理は苦手だったが、考えるしか手段はないようだった。
 暗闇は玲奈の絶望。それだけは認めなければならない。しかし、全てが暗闇でいいはずがなかった。どんな状況に置かれても人はほんの一握りの希望くらいは持っている。とすれば、絶望の反対を示す希望はどこかで細く輝いているはずだ。希望の光、ひどく抽象的なものだがないよりはあったほうが数段ましであることは確実だ。それはこの暗闇を照らす光にほかならなく、それだけが弘を正しい道へと導く水先案内人となりえた。が、肝心の光は簡単に姿を現してくれそうになかった。それは玲奈は自分の生命の残り時間が僅かであることには気が付いてしまっていたかもしれない。だが、弘は玲奈がそんなやわな精神をしているとは考えられなかった。強靱とまではいかなくても己の運命を受け止めるくらいの精神力は持っていると信じていた。実際、この弘の体重を軽々と支える強化硝子のような床がそれを示しているような気がした。もし、本当に絶望だけが玲奈の心を支配していたのならばこの床は脆く割れていたはずだ。もしかすると、強固な硝子の床が希望の光の姿を変えたものかもしれない。
(希望はなく絶望だけだったのか。玲奈の中のパンドラは希望の光でさえ残してくれなかったのか)
 弘は憤りを覚えた。それから再び歩きだす。結局のところ、止まっていても歩いても埒が明かないことが判ったのだ。それならば歩く。弘は情報の収集に徹することにした。
『弘はここに何をしにきたの。私のことはもう放っておいて』
 行けども行けども、何か手掛かりになりそうな構造物も姿を現さなかった。いよいよ、何をしたらいいのか判らなくなる。死神の言った“魂”はこんな空間のどこにあるというのか。弘だけが救うことできる玲奈の“魂”はどこに封印されているのだ。
 ここが闇に閉ざされているということは即ち、玲奈が希望を失ってからここで時を過ごしたことを示していた。侵食してくる心の闇と戦いながら日々を過ごしたに違いない。そして、今は光すらない闇色の空間になってしまったのかもしれない。そう考えるほうが楽なのは言うまでもなかった。道しるべがないと判断すれば比較的簡単に諦めてしまうことができるのだから。しかし、たったそれだけのことでこの現実は片付けられない。それは実際にこの場に存在する弘自身がよく判っていることだ。
 その光を求める理由はそれ自体が生命の源だったからだ。太陽の光がなければ全ての生命が生きてゆけないように、人の心にも照らすものがなければならない。“魂”は闇の中では生きられないだろうし、光の中に存在すべきものなのだ。無論、弘の勝手な予想だがあながち的外れとは言えないだろう。
 では、光はどこに消えてしまったのか。それを探し出すのが目下の課題だった。
 そこで弘は四つ目の仮説を立ててみた。弘のいる場所は玲奈の心象風景の一つの領域に過ぎないと。この領域を飛び越すことができれば玲奈の本質が見えるかもしれない。つまり、玲奈の何かが異物である弘を恣意的に追い出そうとしている可能性を検討しているのだ。この仮説が正しければますます厄介だ。
 玲奈が心から生きたいと思っているのならそれに手を貸そうとする弘を何故追い出さねばならぬのか。触れられたくない何かがあるのか。弘でさえ、隠し事は山ほど持っていたからその気持ちは理解する。当然、弘もこの期に及んで“心の検閲をする”などと言った馬鹿げたことをする気はないし、そんなことがどうやったらできるのかすらも判らなかった。過ぎたことを掘り返しても何にもならないことの方が多いからだ。それに今はそんなことをのんきにしている時ではない。ここで問題がまた一つ持ち上がった。玲奈を納得させないかぎりここから先に進むことができない。しかも、手術中のはずの玲奈にどうやってコンタクトを試みたらいいのか判らないのだった。
 ますます、始末が悪くなっていく。弘はそう思わざるを得なかった。今のところは生命の危険はないものの知力と勇気の見せ所らしい。死神が知力と勇気が全てを決定すると言ったことがようやく判ろうとしていた。どちらが欠けても恐らく弘はここでリタイヤしなくてはならなくなるだろう。弘はどうすべきなのかを考え始めた。この八方塞がりの状況を打破する方法を。
 玲奈を呼んだらいい。でも、どうやって。かなりの確率で、叫べばどこかにいるはずの玲奈に声が届くはずだ。“内なる世界”であるならば、弘が言った言葉は玲奈に全て筒抜けになるはずだ。恐らく、想像でしかないが玲奈の心は弘がここにいることに感づいているだろう。
 弘は意を決して叫んだ。
「玲奈、俺をお前の心の深淵まで行かせてくれ!」
 天を仰ぐ、暗い天井が空だったらの話だが。返事はない。やはり、弘の声が辺りに反響し、それが波のようになって弘に襲い掛かってくるだけだ。ここには自分しかいない? 死神の言ったことが真実だとすれば、そのようなことは絶対にありえない。何せ、ここは玲奈の中なのだから。
『玲奈に生きている意味はないの。だから返事は出来ない。お兄ちゃんはきっと、私を捜しにきたのよ。でも、見付けちゃったら、お兄ちゃんが哀しむから……』
 弘はここに来て死神の言ったことを痛感し始めていた。“生命を賭けろ”今の弘に欠けているのは恐らくそれのみ。生命を賭けよとはつまりどういうことなのか。弘はどうしたら玲奈をこちらに振り向かすことが出来るのか考え始める。玲奈をどうすれば救うことが可能なのか。
「俺の言うことを聞け」弘は玲奈に対しては初めてきつい口調で言った。
 弘の叫びが玲奈には届かない。弘は三度歩きだした。
『お兄ちゃんは本当に玲奈を助けてくれるの? でも、ここを開けちゃったら全部知ってしまうことになるのよ。それでもいいの? 折角、忘れているのに』
 どれくらいの距離を歩いたのだろうか。そもそも、この場が一般常識から超越したようなところがあるので、距離の概念など全く意味をもたない。恐らく、時間も死神が言っていたほど大した意味はもっていないはずだ。意味をもっているものは恐らく、ココロのみだろう。目に見えるもの、人間の得る情報はそれにほとんど依存しているのだが、もここでは虚像に過ぎないのかもしれない。頼りにできるのは自分の心だけと言うのも心許ないものだ。永遠の闇に閉ざされたかのようなこの場は玲奈の硝子の箱だから、客観など最初からなく玲奈の主観だけしかないのかもしれない。
 と、不意に弘は足下で硝子が粉々になるような音を聞き、感触を覚えた。
(こんなところに硝子の欠けらが……?)
 弘はしゃがんで足下の破片を右手の人差し指でなぞってみた。ざらざらとして力を込めると指先に刺さりそうな感触は硝子に間違いない。変化の兆しとその出来事を弘はとらえた。ここで起きる出来事に意味がないはずがない。単なる思い込みで弘は歩く。
(硝子の欠けら。硝子の床の上の硝子の破片、……何を意味しているのだろうか)
 死神の言ったことを真に受ければ、ここにある一つ一つが何かしらの意味をもっているはずなのだ。とすれば硝子の欠けらは何か。考えずにいられない。
 硝子の欠けらが単体で、普通はないはずだから、弘は他に欠けらを探し始めた。辺りは暗いままなので果たして発見できるかどうか判別しかねるが、たった一つだけの手掛かりだ。ここから糸口を掴まねばならない。弘は思いを巡らせた。弘の知っているかぎりで玲奈の硝子の欠けらの接点を。もしかしたら、他の何かを示している可能性もあるが最も思い出しやすいと考えた。
 欠けらは、帰り道が判らなくならないようにするためかのように、弘が最初にそれを発見した場所から点々とまっすぐに続いていた。“誰カガ誘ッテイル”そうに違いないと弘は思った。自分の中で迷子になる人もいないだろうから、これは意図的なものだろう。弘を呼んでいるものがいる。声も出さず、姿も見えず、だが、弘は確信を持っていた。この誘いを受けなければ弘には行くべき道がないことの。
 いつしか弘の追い掛けるものは希望の光といったものではなく、もっと現実的な硝子の欠けらになっていた。それが何かを提示したたった一つの道しるべであり、それが弘のとっての希望の光になっていた。だから、欠けらの示す道が正しいか否かはもうさほど重要な問題ではなくなっていた。ただ、行かなければならないという半ば脅迫にも似た衝動に駆られて弘は目標に向けて突き進んだ。確実に何かが弘を待っている。
 道しるべが途切れた。
 それと同時に強化硝子のような床も消えた。足を前に出した瞬間、空を切った。玲奈の精神の強固さを示していたと弘の考えていた硝子が消える。弘はしゃがみ込んで直線上に切れている硝子の断面を右手の人差し指でなぞってみた。
(痛っ──)硝子の断面は鋭利な刃物のようになっていた。(……俺の選んだ道は正しかったのか。玲奈は俺を快く思っていない。死神の言ったことは本当なのか?)
 どちらにしろ、ここは単なる硝子の箱ではないことが判った。あとは硝子の欠けらが示したようにこの断崖から飛び降りるか、それとも戻ってみるか。弘は判断に迷った。弘の見たかぎりでは、底が見えない。光を発するものがないのだから何も見えないので、弘は代りに集めた破片をまとめてそこを目掛けて投げてみたのだ。その結果、耳を澄ませてみても底に破片が届く音は聞こえなかった。そこで困った。生命を賭けてみなければ結果は得られない。ここで後戻りして他の道を探すのは簡単なことだ。しかし、核心に近づくのに時間がかかりすぎる。短時間で全てを解決するためには。敢えて危険な道を選ぶしかない。
 知力は正しい道に導く道しるべとなり、勇気は行動する心を呼び覚ます。死神の言った言葉を思い出す。弘のしようとすることは丁度、勇気と無謀の狭間だった。弘の前の間隙は途方もなく深いだろうし、飛び降りればただではすまなさそうだ。が、弘は決心した。
(……行くしかないか)弘は腕を組んで自分の意思を確かめた。(無謀となるか、勇気となるかは結果次第だ。運命が俺に味方をしてくれるか、玲奈が俺のことを少しでも考えていてくれれば、大丈夫なはずだ)
 しかし、弘を途方もなく巨大な恐怖感が襲っていた。下が見えない恐ろしさ。底がなさそうな不安感、心は恐怖にすくみ背中には冷や汗が滴り服を濡らす。
(ここから落ちて無事に済むのだろうか?)
 その不安と同時に弘はおかしな自信をもっていた。ここが玲奈の“内なる世界”であるならば自分を殺すような罠は仕掛けられていないはずだ。死神は遊技ではないと警告していた。それはもちろんのことだ。一歩間違えば弘には確実な死が訪れる。心の高まりを弘は感じた。玲奈を信じるしかない。たったそれだけを心の拠り所にして弘は絶壁から飛び降りた。無重力感が弘を襲う。体が空を切って下、弘が勝手にそう思っているだけだが、に落ちてゆく。弘はこの世界で欠けていたもの一つを感じていた。それは“風”だった。新鮮な風ではなく、突風に近いがそれでも空気の動きのないよどんだ環境よりはましだった。もちろん、弘の置かれている状況を考えなければのことだ。
 飛び降りてから何秒が経過したのか正確には弘は数えていないが、随分と長い時間を落下しているようだった。清水の舞台から飛び降りるよりもまだ距離があるように感じられ、まるで超高層ビルの屋上から決死のダイビングをしているような気分だ。そんなことを考えられるだけの時間を弘は重力の法則に従っている。重力加速度を体で感じながら弘はあるはずの底に向けて落ちていた。奈落の底へ落ちていくのはきっとこのような気持ちなのだろうと弘は思った。
 相変わらず底の見えぬままに落下を続けてゆくと、途中から風を切る音が弱まってくるのを感じた。落下速度が落ちている。何故なのか、弘には理解不能だ。数ある法則もこの世界では関係ないのだろう。急激な減速を感じた後、床にふわりと自分の体重すらほとんど感じない状態で弘は足をついた。ここがどうやら終点らしい。
 足の骨折で済めばいいほうだと思って飛び降りたのだが、奇妙な具合に重力が調整されているような感覚があって弘は硬い床に軟着陸を果たしていた。無意識のうちに遥か上方を見てみたが、どこが出発点なのか全く判らなくなっていた。それだけここは深いところのようだった。距離や時間があまり大きな意味をもっていなくても気になる。
(ここも、ダメなのか……)
 弘の想像した通りに辺りは暗い。床は変わらず硝子だった。しかし、ただ一個所だけ違うところがあった。弘のいるところから遥か遠くに明かりが見える。細く開いた扉から、光が漏れているようだった。それを目印にして弘は進んだ。
(あれか……。あそこに行けと言うんだな、玲奈。そこに行けばお前の何かに会えるんだな)
 真剣な眼差しをして弘は思った。玲奈が弘を呼んでいる。それだけには絶対の確信がある。しかし、扉の向こう側では何が待ち受けているかは想像もつかない。玲奈が弘がここに来たことを快く思っていないことも事実だから、追い出すために策略を巡らせたのかもしれない。
 近そうで遠い光を求めて歩いた。まるで進行方向と逆に進むベルトコンベヤーに乗った感じで一向に前に進んでいる気がしない。光の漏れる扉は弘の予想したよりも距離はあるようだ。誘っておきながらそれだけの距離があるということは、余程弘に来て欲しくないのだろうし、最初に扉の開かれたその場はそういう趣向を凝らした状況になっているのかもしれない。
 いくつかの愚にも付かない考えを巡らせながら光だけを弘は見ていた。
 扉が目の前に迫ったとき、弘はまた一つおかしなことに気が付いた。扉を据え付けているはずの蝶番が存在しない。壁はないのに扉の内側と外側の空間は仕切られているらしい。常識は通用しない。何度も思った事柄だが、ここにきて向こうの世界で養った常識など意味がないことが判った。玲奈の内側だから、理性、常識には捕らわれない世界が広がっているのかもしれない。外に発信する上方は常識に検閲されたとしても、内側、思考は自由なのだ。
 その玲奈の扉は空中に浮いている。黒い硝子の扉だった。
 弘は意を決して、光の漏れるたった一つだけの扉を開いた。眩しいくらいにそこは明るい。しかし、その光は弘の当初目指していたものとは異なりそうだった。いわゆる希望の光と言うやつがここではどのように表現されるのか判らないが、明らかにそれは希望からかけはなている光だった。真っ白の蛍光灯の下にでも来た感じだった。その変な場を抜けるとまた違う空間が開けていた。

 子供の頃の記憶──。なのだろうか。ここは硝子の床ではなかった。天然の土の上にエノコログサや草が生えた地面。公園のように手入れのされた芝生ではなく、花壇もなく、おおよそ人の手はほとんど加えられていないところ。弘や玲奈が子供の頃には近所の空き地にあった原っぱのような一角だった。
 その原っぱを抜けると近くの建築会社の建築用の資材置き場もある。懐かしい場所。コンクリートを固めるために使う板やH鋼などもある。子供の頃はここで数人の友人たちと隠れ家をつくって、よく隠れんぼをしたものだった。こんなものは今は残っていなかった。建築資材は危険だから、実際に危険なのだが、といって撤去されて代りにつまらない遊具の並ぶ公園になっていた。いつのころからか弘と玲奈の周りから冒険の場は失われていた。土の見えない綺麗に整備された公園。そんなものが欲しくなかったことを弘は今でも覚えている。
 橋の下の下水の土管を走り抜け、森林公園の森を騒めかす悪ガキ共にとってそれはある種の表現の場を奪われることにほかならなかった。あの時、弘が欲しかったのは大人の言う安全ではなく、貪欲な好奇心を満たす冒険、危険だった。そして、何よりも自然と隣に生きていることを実感することだった。自然に接することで子供は生命の尊さを知り、残虐性の抑制手段を知る。
 思えば、大人や社会に対する反感を抱き始めたのはそのようなことが切っ掛けだったような気がする。“全てを奪ってゆくもの”が大人だったし、“理不尽な要求を押し付けるもの”が社会だった。その思いを今も抱き続けている。
 ともかく、そこは絶対にありえないはずの原っぱと資材置き場からなっていた。弘はぶらぶらしながら原っぱを横切っていった。静かで風が優しく吹き抜けていて野の草花が優雅になびく。人工的な空間ではそんなことを味わうのは不可能なことだった。
 そこで四、五歳くらいの玲奈が地面に座り、壊れた硝子のオブジェをもって泣いていた。
「壊れちゃったの、お兄ちゃん。お父さんが大切にしてた硝子の白鳥……」
 そんな玲奈の泣き顔を最後に見たのはいつのことだっただろう。負けず嫌いな玲奈の涙を見たのは記憶にないくらい前のことだったか。胸が締めつけられるほど切なげな表情だった。瞳から流れ落ちる涙。壊れた硝子の白鳥の上に乗って煌めいている涙。
 弘はその瞳と顔を忘れることはなかった。忘れられない小さな思い出の一つ。弘と玲奈の共有した時間の一こまを弘は垣間見ているのかもしれない。
「お兄ちゃん、どうしよう。お父さんに、お父さんに怒られちゃうよ」
「……とにかく、欠けらを集めようよ。そして、お父さんに謝ろう? きっと許してくれるよ」
 少年の弘が言った。玲奈のそばに駆け寄って欠けらを集め始めた。終始、無言のまま黙々と作業を続けた。粉々になってしまった硝子のオブジェを出来る限り完全に復元できるように。
(でも、父さんは許してくれなかった。あの日、欠けらを全部集めて帰った俺たちを待ち受けていたのは烈火のように怒り狂った父さんだった。それだけならまだしも、父さんは謝る玲奈を殴り飛ばした。そして、俺は父さんとは違う道を歩き始めた──)
 まるでホログラムを見ているようだった。何もかもが弘の前に厳然と存在しているのに手を触れることはできない。質感も躍動感もあって、妙に生々しいのにどこか浮き世離れしている。
「父さん、ひどいよ。玲奈だってあんなに謝っていたのに。何でそんなことするんだよ」
「うるさい。お前にこの白鳥の価値が判るか。数十万はするんだぞ」
「でも、玲奈は数十万円じゃ買えないよ」お金の価値がどれだけのものかこの時の弘は抑止ならかった。それでも生命というものはお金では買えないことは漠然と把握していた。「だって、人の命は人の命は何よりも重くて、お金じゃ買えないって学校の先生が言っていたよ!」
 少年の弘は扉の近くまで飛ばされた玲奈のそばに駆け寄った。それから、憎悪の念のこもった鋭い視線を守銭奴のような父に向けた。硝子の白鳥を父がどれだけ大切にしていたか弘は知っていた。だから、怒るのも当然のことだと子供心にも心得ていた。しかし、玲奈とお金を天秤にかけて欲しくなかった。どんな希少価値が硝子の白鳥にあったとしても玲奈の命には代えられないはずなのに。いくら何でも玲奈を殴り飛ばしたりする必要はないはずなのに。
「父さんは玲奈がどうなってもいいんだ。僕たちなんかどうだっていいんだ」
「何だ、その言い草は。俺が稼いでいるからお前らは生きていられるんだ。それなのになんだその目付きは、親に向かって。──怪我をしないうちにとっとと部屋から出てゆけ!」
「……玲奈はもう怪我をしたよ。父さんのせいだ。父さんは玲奈よりもお金の方が大切なんだ」
 少年の弘は気絶した玲奈を抱えて父の部屋を後にした。
 それは父と弘との心の距離が次第に開き始めたころの、父にとっては些細な、弘にとっては彼の人生そのものにまで影響を与えるほどの大きな事件。玲奈も父に近づかなくなり、一時期は家庭内部に冷たい木枯らしが吹き荒れていた。それが弘の小学一年生の夏。何か父とは違うことを感じた最初の時だった。お金と会社だけに生きているような父に僅かな反感の芽が吹き出そうとしていた。
(父さん……。何であの時、玲奈を殴り飛ばしたりしたんだ。怒鳴り付けるだけでも十分だったはずなのに。そうすれば俺は父さんを尊敬したままでいられたかもしれない。そうすれば俺は俺はもっと“普通”に生きていられたかもしれない。少なくとも大学に入るまでの間は……)
 それから小さな劇場のライトは落ちた。再び、静寂と深遠な闇が弘を取り囲む。元いたところと何も変わったところはなくなっていた。逆に、まばゆい光を見てしまったせいか。先程よりも辺りが暗く感じられた。そして、硝子の床がまた始まっている。どこに行っても切れることのない硝子の板。それが一体、何を意味しているのか弘には判らない。後ろに戻ってみると、飛び降りてきたはずの絶壁も存在していなかった。最初から平地を歩いてきたようにどこまでも平ら。何かのあった形跡も何もない。
 全てが嘘のようだった。しかし、ここは幻などではない。一つの矛盾が弘の心を支配する。一体自分はここに何をしにやって来たのか。ただ、心の幻影を見せられに来たわけではないのに、弘は先程のあれにも満足に反応することも出来ずに“観劇”しているだけだった。玲奈の本心が判らなくなった。何故、玲奈は弘にあんな場面を見せたのか。弘にどんなメッセージを送ろうとしたのか。意味が見出せない。
(さてどうしたものかな)
 あまり思い出したくなかった思い出を胸の奥にしまい込むと、弘は次の目標を求め始めた。映画のワンシーンのような玲奈の記憶の一コマを抜けるとまた闇。しかし、ここは落ちる前までとは少しだけ勝手が違うようだった。淡い色をしたシャボン玉みたいなものが、幾つも数限りなく浮遊している。弘は天井、空を見上げた。恐らくあれが玲奈の記憶の数々なのだろう。
 生物学的、生理学的に考えればそのようなことはあるはずがなくてもそれは空中に確実に存在していた。人にとって目に見えるものが全てなのだ。観察事実を認めたうえで理論を構築しなければならない。そうしなければ、理論は存在する意味をもたない。
 この一風変わった空間に投げ出されて弘は考えを巡らせ始めた。
(俺に一体何をさせたいんだ)
〈玲奈は貴様に来て欲しくないみたいだぞ。貴様を追い出したがっているようだ。それでも貴様は挑戦するのか? 先に進めば進むほど貴様の思い出したくないものを見、それについて考えねばならなくなる。全ての関門をくぐり抜けたとき貴様は玲奈の心の深淵に辿り着ける〉
 弘は先程の場所に凍り付いたように立ち尽くしてた。全ての行動に自信をなくした。どうしたらいいのか判らない。たった一つだけ拠り所にしていた玲奈の心が判らない。生きたくないのか。弘自身がこの世界に来て多少の混乱を覚えていた。今、ここで起こっていることを真実と受け止めても、有り余るほどの何かがあった。社会のしがらみから超越した世界がこの場には広がっている。
『お兄ちゃん。──こっちに来て、こっちに来たら玲奈に会える』
 突然、前触れもなく声が聞こえたかと思うと数十メートル先にスポットライトのようなものの光を受けて幼い少女が暗い空間に浮かび上がって見えた。
「玲奈? 玲奈なのか?」
『こっちだよ。間違えないでね。玲奈はお兄ちゃんが来るのをずっと待ってたの。だから、必ず来てね。帰らないでね。玲奈の心に負けないでね』
 不思議な邂逅だった。玲奈の中に玲奈がいる。原っぱで見た幼い玲奈とはまた違った雰囲気を彼女はもっていた。少女であるのに妙に大人びた雰囲気をもち、それと同時にあどけなさを備えている。丁度、大人と子供の端境期にある玲奈の心、精神そのものが彼女なのかもしれなかった。
「玲奈は俺に何が言いたい?」弘は右手を伸ばして玲奈に触ろうとした。
『絶対に来てね。乗り越えてきてね。もう、玲奈には手出しが出来なくなっちゃったの。ああ! 見付かってしまう。お兄ちゃん、待ってるわ』
 そのまま、玲奈は弘の視界からかき消すように消えた。弘の手は空中を泳いだまま行き場を失った。まるで夢のよう。その言葉がこの一瞬には似合っていた。
(玲奈……)
 玲奈の心で何かの葛藤が起きている。そう思わせるような出来事だった。そして、弘は何かを乗り越えなければならないことを示唆している。弘に来て欲しい玲奈と、来て欲しくない、弘の進行を邪魔する玲奈がいるように感じられた。最初に感じたように玲奈は弘を呼んでいた。そのことに間違いはなかった。二つの玲奈が反発しているようだ。それが微妙に折り重なって弘に働き掛けている。弘はそのことに僅かだが安心感を抱いていた。玲奈に呼ばれたのだから。今度は勝手な思い込みではない。硝子の床よりも強固な心の絆が見えた。玲奈が弘を呼んでいる。それが弘の希望の光。同時に玲奈の希望の光はここを訪れた弘そのものだった。
「待ってろ、玲奈。俺は必ずお前のところに行ってみせる」
 決意を新たに弘は行動を開始した。ここを進めば玲奈に会える。一瞬、すれ違っただけの出会いに自信をもった。自信のない思い込みは確信に変わる。確信は更なる行動力を生む。
『でも、弘には来て欲しくありません。どうしたら、あなたは諦めて帰ってくれるのですか? 何故、私の死を向こうの世界で見届ける気でいてくれなかったのですか? ──死神と会ってしまったからですか? 弘の私を思ってくれる気持ちは判ります。だけれども、あなたの望んでいることは自然の理に反すること。上手くいったとしても幸せは長続きしません。お願いだから、諦めて。これ以上、辛い思いを弘に味合わせたくない。でも、本当は死にたくなかった……』
 弘は硝子の床を確かな足取りで歩いてた。ただ、この先に何が待ち受けているのかは予想もつかない。“玲奈の心に負けないでね”と小さな玲奈が言っていたことが気にかかる。ここの全てが心ではなかったのだろうか。
 相変わらず暗闇、変な風船のせいで少しは明るくなったが、を主観的にこの場に現れたときから進んでいる方向に進んでいた。それは小さな玲奈が指し示した方向でもあった。どちらが前でどちらが後ろでも関係のないことだが。どのようにして次の原風景が現れるのか。さっきのように弘の目の前に扉が現れるのか、それとも……?
 そのまま、弘の前に光の漏れる扉が開くことはなかった。その代わりに光の泡に取り囲まれるような奇妙な現象に見舞われた。しかも、唐突に。闇の中で光が煌めき、それが弘に向かって獲物を狙うかのように急速に襲ってきたのだ。衝撃もなかった。ただそれは冷たい光。暖かさをもつことを放棄したかのような青白く突き刺さるような透明感を備えもった。弘がそれに包まれて幾ばくもしないうちに新たな光景が開き始めていた。
「何が起きようとしている?」
 理解不能。その四文字が弘の頭にフッとわいた。
 意識が外界に戻ったとき弘は光に浮かんでいた。手を光に突っ込んでも質感は全くない。それは本当に光のようだ。じっくりと全てを観察してみる。すると、弘は完全に光に包まれていた。
 光の河だ。青白い光の流路だ。弘はそれに流され始めていた。南国の白い砂の流砂のように逃れられない。弘は流れに身を任せることにする。予想外の展開が多い。恐らく、玲奈の精神の揺らぎがそのままこの世界に反映されてくるのだろう。玲奈が驚けば世界は揺れ動くだろうし、喜べば世界は明るくなるだろう。或いは夢を見ているのかもしれない。
 弘は光の河の流れに乗ってどこまでも続く長いトンネルを進んでいく。しばらくすると、進行方向に脈動する光が見える。それが出口のようだった。この方向が小さな玲奈の言った向きであることは間違いない。少しずつだが核心、玲奈の心の深淵に近づいている。次に、弘の前に何が現れようとしているのかは見てみなければ判らないが、何かがある。
 すべり台から滑り降りるように流れから降りると、人工的な空間が広がっていた。
 そこはいつの頃からか弘が避けるようにしていた国道の一部だった。何故、寄り付かなくなったのかは弘の記憶にはない。ある夏の日に信号のない横断歩道を渡りきった後からこの場に近寄った覚えはない。生理的に嫌悪感を感じ、国道を通らねばならなくてもその場だけは絶対に通らなかった。その情景が弘の前に鮮明に再現されている。
 横断歩道の白いライン、傷のついたガードレール。この国道は篠崎が玲奈の担当医になったころに全面改修されていたのでそれは実際にはありえないはずの風景だった。ガードレールも新品に取り換えられていたし、横断歩道のラインの引き方も変わってから長いはずだった。弘が今見詰めている光景は、弘自身が小学生くらいの時のものだった。それがそこを通った最後の記憶。
 何故、今、それが玲奈の心の中で再現されているのか、判らない。
 と、幼い日の弘が弘の視界に入ってきた。青い短パンと白いTシャツ。どこにでも見掛けそうな少年の姿だった。
(そう……だったかな?)何もかもに見覚えがあるのだが、何かに違和感を感じていた。それが何なのかはまだ判らない。(なんかどっかが違うような気がする)
 弘の疑念は放っておかれて、辺りはまるで映画のように滞りなく事態が進行していた。
「おーい、玲奈」子供の弘が道路を挟んだ向こうの歩道に玲奈を見付けた。「今からそっちに行くから待ってろよ」
 向こうの玲奈も弘の存在に気が付いたようだ。
 弘はガードレールを乗り越えて車道に出た。弘の視界にはもう、玲奈の姿しか映っていなかった。手を振りながら車線を渡る。車は弘の思考の枠から完全に外れたところにあったに違いない。一台の小型乗用車が爆音を轟かせながら近づいてくる。カーステレオの重低音も聞こえる。フロントを除いた全ての窓にはフィルムが貼られ視界は悪い。一瞬弘が見たかぎりでは真黒いサングラスを賭けた男がその車を運転しているようだった。
 白昼夢としか思えない。違和感を抱きながらも、この光景には見覚えがある。所謂デジャブー現象ではなく実際に弘はその車をどこかで見ていた。弘は我を忘れてこの光景に引き付けられていた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、そっちに行かないで! お願い、車が来る。止まらないよ。止まらないの。スピード落とさないよ。加速しているの。あの人にはお兄ちゃんが見えていないよ。お願い止まって、お兄ちゃん行かないで、轢かれちゃうよぉ!」
 玲奈の叫びは途中から涙声となり、絶叫となった。
 車の運転者が弘の影を発見したときはもう既に手遅れだった。時速約八十キロ、制限速度の三十キロオーバーだ。玲奈の絶叫が途切れた瞬間から、その車の急ブレーキをかける音が道路周辺に響き渡り、人々の注意を引いた。タイヤが溶けてアスファルトに黒い刻印を刻み付ける。悲鳴、ざわめき、クラクションが折り重なるようにして残響音を残す。必死の形相の運転者と凍り付いたように車を見たまま動けない弘。“避ケラレナイ”現場に居合わせた誰もがそう思い、実際に車が弘を避けることはできなかった。
「お兄ちゃーん」玲奈の声はそのまま大音響にかき消された。
 弘の体はまるで紙屑のように宙に舞い上がり、道路に叩き付けられた。弘の全てが暗転する。
 ダークグレーの乗用車が弘との衝突で砕け散った部品をまき散らしながら去ってゆく。へこんだフェンダーの塗料、フロントグリルのプラスチックやヘッドライトの硝子の破片。転げ落ちたドアミラーとその配線類。フロントガラスの丸くなった硝子玉。車幅灯やウインカーの透明、オレンジ色の欠けら。数メートルに渡って残ったブレーキ痕。
 そして、赤。それは弘の血だった。
 怖いもの見たさに集まってくるやじ馬ども。大音響に純粋に振り向いただけの人。黒山の人だかりになりつつある事故現場に好奇心から寄ってくる人もいる。無関心を装い、一瞥をくれて通り過ぎてゆく人。行き交う車の群れは混乱し、一部の良識ある人たちが交通整理をしている。
 そんな中で玲奈は一人で取り残されていた。弘の体が車体の陰に消えた瞬間、玲奈の思考回路は凍てついた。時間の流れに置いていかれてしまったかのように玲奈は立ち尽くしていた。そして、玲奈は束縛から開放されると、弾き飛ばされるように玲奈は弘の元に向かっていた。
 車道の真ん中辺りに倒れた弘を目指して駆けてゆく。この時玲奈は永遠のような一瞬を過ごしていた。僅か数メートルの距離が縮まらない。灰色のアスファルトにどす黒い血が染み渡る。止まらない。最初、小さな染みのようだったそれは次第に大きくなり数分と経たないうちに弘の大きさくらいの血だまりに成長していた。乗用車のスピードと事故の規模を考えても、それは不幸中の幸いだと言わざるを得ない状況だった。状況はまだ直視できる程度のものだった。
「お兄ちゃん?」
 辿り着いた玲奈の第一声はそれだった。弘の返事はあるはずもなく、沈黙が玲奈への返事となる。それから、玲奈は事態が全くの見込めない様子で血の海に座り込んだ。“何ガアッタノ?”それはもう玲奈の理解の範疇を越えていた。動かなくなった人間など見たこともなかったし、それが何を意味しているのかもあまりよく理解していなかった。
 しかし、玲奈はこの様子を漠然と理解したようだった。
「お兄ちゃん、死んじゃうの?」玲奈の目は遠く、弘を見ていなかった。
 そのうち、誰かが通報したのだろう救急車とパトカーのサイレンが聞こえ始めていた。
 やじ馬をかき分けて、赤十字の白いヘルメットを被り、白衣を着た救急隊員が姿を現した。てきぱきとした動作でタンカを組み上げる。そして、隊長らしい男が玲奈の横にしゃがんだ。弘を診ているのだ。それから、意味あり気に深いため息をついた。男は弘から目を離すとすぐさまタンカを呼び寄せてセッティングするとそれに弘を乗せて救急車に運んでいった。
 あとには血の海と様々な硝子片だけが残り、それだけがここで何かが起きたことを示していた。
 それは玲奈の心に焼き付いた過去の一場面なのかもしれない。弘は自分の遭遇した事故を完全に客観的な立場、即ち玲奈の視点、から眺めていた。鮮烈だ。人の記憶とはこんなにまでも詳細に渡って残っているものなのか。しかし、弘の記憶にこの事件に関すること全くなかった。これが実際にあったとすれば十二、三年前のことだろうから。物心はついていたはずだ。玲奈の背格好と、少年の弘の服装からすれば彼は小学三年生くらいのはずだった。
 だが、そんな記憶は一かけらすらも存在しない。ただ、弘が国道のこの部分を嫌う理由がこれだとすれば全ての辻褄が合うような気がしてならなかった。弘の失われた記憶の断片を玲奈が持っていた。弘に衝撃を与えるには十分すぎる事柄だが、何故今になって弘に伝えられたのか。それは弘にも判らなかった。
 しかも、それはこれだけでは幕は下りないようだった。まるで舞台装置を入れ替えるためのように一瞬、照明(?)が落ちた後、また新たな展開が待っていた。それはまるで弘の知りえなかった玲奈の時間を知らしめるかのように感じられる。
 その日の夕方だろうか。薄暗くなった国道に小さな人影がうごめいていた。歩道と車道の間にしゃがんで何かを拾っているようだった。左手に小さなビニール袋を持っていた。
「欠けらを集めなくちゃ。硝子の欠けらを集めなくちゃ。お父さんに怒られちゃう」
 現場検証も済んで誰もいなくなった事故現場で玲奈は一人、何かを見付けようとしていた。チョークの後やどす黒くなった血の後が生々しく残っている中、玲奈はその場にいた。現場は検証の済んだ後、掃除されてしまって何も残っているはずがないというのに。それでも玲奈は硝子片を見出そうとしていた。まるで強迫観念に取りつかれてしまったかのように。玲奈は地面に這い蹲って影が薄くなり、夕闇の迫り来る国道で一生懸命になって探していた。
「玲奈、そこで何をしているの? 危ないから戻りなさい」
 と、母親の声が玲奈の背後から聞こえた。咎めるような口調だ。今、弘の緊急手術がどこかで行われているのだろう。玲奈の知らなかったことはここに表現されることはないか、勝手な想像で賄われているに違いない。
「だって、ちっちゃな欠けらも全部見付けないとお父さんに怒られるんだもん。あの白鳥のときだってきっとそうだったんだよ。玲奈が全部持っていかなかったから怒ったんだよ」
 一抹の淋しさが弘の心に訪れた。嘘だとしても本当だとしてもあの資材置き場での出来事は玲奈の心に深い影を落としていたようだった。
「──玲奈。お巡りさんが持っていちゃったからもう何も残っていないでしょう? 病院に行きましょう。お兄ちゃんが待ってる」
 母は冷静だった。息子が病院にかつぎ込まれても普段のように振る舞っている。しかし、視線を下に降ろしてみると足の震えをどうにかして抑えようとしているのが判った。
「でも、きっと残ってるよ」瞳を涙に潤ませて母に訴えかける。だが、母親は彼女自身もガードレールを越えて玲奈の二の腕を掴んだ。「だって、玲奈はホントはホントは……お兄ちゃんを助けたいの。でも、玲奈にはこれしかできないの。お母さん、お兄ちゃんはどうなっちゃうの? ねぇ」
 母親は答えない。その代わりに玲奈の手を強く握っていた。弘はその様子を黙って見ていた。ある程度の予想はついているが玲奈に話して聞かせることはできないといった雰囲気を漂わせている。
「さあ、病院に行きましょう──」
 そういう声は微かに震えていた。隠そうとしても完全に隠し通すのは不可能なくらいに彼女は動揺していた。平和な家庭を突然襲った悪夢。救急病院に運ばれた弘は瀕死の重傷だった。彼女の険しい表情が事態の深刻さを余すとこなく物語っていた。そして、玲奈は黙って母親にしたがった。雰囲気を察したらしかった。玲奈は硝子片を探すのを諦めてしょんぼりとした面持ちで一段高くなった歩道に上がった。弘の知らない玲奈の思い出。弘の頭脳から葬り去られ、封印された過去の出来事。弘は玲奈が何故こんなことを見せようとするのか理解せぬまま観客となっていた。
「お願い、お兄ちゃんを助けて! お母さん、お母さん!」
 現場はそのまま玲奈の叫びが反響したままフェードアウトした。
 また、弘は暗闇に包み込まれた。そこにあったはずのものは消え失せて弘だけがこの場にいるのだ。それはまさに幻影だった。弘の見ているものは玲奈の心の見せる幻なのだ。だが、同時にそれは紛れもなく過去に起きた事柄だ。偽りはない。弘の覚えのないさっきのこと以外だが。一回目は硝子のオブジェ。二度目は自動車の残したヘッドライトなどの硝子片。玲奈が提示(?)してきた二つの出来事にはどちらも硝子の欠けらが関連していた。
(キーワードは硝子の欠けらか? あるいは硝子のように脆いもの)
 キーワードを硝子と選定するのもまんざら外れとも言えないだろう。ここに来てから、弘の気を引くものは硝子しかないのだから。床も硝子なら、白鳥も硝子、散らばったのも硝子片だった。
(完全にばらばらになったら修復の出来ないもの……)
 その時、弘は唐突に篠崎の言葉を思い出した。『DNA、正式名称、デオキシリボ核酸。気味も生化学を……』もしかしたら、玲奈の提示する硝子片とは現実世界では遺伝子を意味しているのではないのか。そう、更に考えを飛躍させれば死神の言った“魂”とやらもこの辺りのことを指し示していたのかもしれない。だからと言ってどうなるわけでもないが、これが弘の第五の仮説となった。
(DNA……。玲奈の死は遺伝子に組み込まれたタイムプログラムの発現だとでも言いたいのか。いや、断じてそんなことはない。そんなんではないはずだ。玲奈の人生はこれからなんだ。そんなことは死神が許そうとも俺が許さない。時限爆弾だというのなら俺が起爆装置を止めてやる)
 無意識のうちに弘は握りこぶしをつくっていた。
〈実際そのようなものだ。よく気が付いた。だが、貴様は玲奈の伝えようとしている本当の意味に気が付いていない。破壊されれば再生不能なもの。それは確かに貴様の言うDNAもそれに入るだろう。貴様はここが玲奈のうちなる世界だということを理解していない〉
 一つ一つ玲奈のと弘が共有した過去が暴れていくようだった。古いほうから新しい順に記憶の扉が開かれてゆく。哀しい記憶と、ねじ曲げられたような過去の真実。楽しい思いをした時間はここには存在しないかのようだ。何が玲奈を追い詰めたのか。暗い空間に思い出したように唐突に現れるそれにどんなメッセージが隠されているのかまだ、はっきりとは弘には判らなかった。
 ともかく、弘は行動を起こさねばならばかった。何しろ時間がない。僅かな時間の間に死神の言った“魂”を見つけなくてはならない。それがどこにどのような形で存在しているか一切判らない。手掛かりはたったの一つさえも弘に与えられていないのだ。全てを一人で解決していくこと。それが玲奈を救うための条件だった。条件が満たされなければ弘の歩いてきた時間は無駄になってしまう。折角、ここまで来たのだから、何らかの成果は得たい。“玲奈の心に負けないでね”そう言った小さな玲奈の言葉を心の支えにして弘は足を進める。行動するころが弘と玲奈に最善の結果をもたらしてくれるものと信じて。
 半ば義務になってしまった歩行を弘は続けた。それだけが弘の出来る行動なのだから仕方がない。そして、弘はさほど離れていない場所に三番目の空間につながると思われる扉を発見した。それは磨き上げられた黒曜石のように微かな輝きを放つ漆黒に彩られている。飾りなどはついていない。逆にそのことがその扉そのものの価値を高めているようだった。
(……雰囲気が違う)
 扉の向こう側を伺い知ることは出来ないようだった。それはまるで弘を拒むかのような威圧感を持っていた。僅かな光に黒光りする扉の内側には何があるのか。例え、“恐怖”が待ち受けていたとしてももう後には引けなかった。弘はこの世界でそれだけの時間をかけてきたつもりだったし、覚悟は出来ているつもりだった。あるかぎりの扉を全て開け放たないかぎり暗闇から出られいない。出口がどこにあるかも判らないのだから。
 弘は扉の取っ手らしきものに手をかけた。開ければそこに何かがある。
 黒曜石の扉を開こうとしたとき弘の手は微かに震えていた。自分は試されているという思いのほかに弄ばれているのではないかという錯覚にもとらわれていた。だとしても、これ以上恐ろしいことはもうないはずだった。恐怖が深くなってゆくほど核心に近づいている。それは痛いほどに判るのだ。玲奈の心が必死になって弘を追い返そうとしているのが判る。しかし、弘は自分の信念に基づいて行動する。もう、後戻りは出来ないのだ。
 そして、三番目の扉を開く。分厚い重厚な造りになっている扉が古めかしく軋みながら開いてゆく。その内部は薄暗い。先程から通り過ぎた二つの空間とは異なっているようだった。扉を完全に開いたとき奥の方に青い光源を発見した。それは水晶のようでありあまり大きくなく掌に乗ってしまいそうな大きさだった。その水晶は大切そうに小さな硝子製らしき箱に収められている。隣では人影が揺らめいていた。
『とうとう来てしまいましたね。──できれば弘には来て欲しくありませんでした』
 聞き覚えのある女の声が聞こえた。口調が違うものの明らかにその声を弘はごく身近に聞いたことがあった。弘は声のしたほうに振り向いた。顔は逆光になっていて見えない。彼女の後から何か青白い光が照らしているのだ。しかし、恐らく彼女は、弘の予想通りであるのならば、玲奈自身のはずだった。
「君は?」弘は顔を見詰めて問う。
『私は……』口の動きがスローモーションのように見える。『弘のよく知っている誰かです。弘ならもう私の正体など判っているのではないのですか? ──私は玲奈です』
「君が玲奈か。向こうの玲奈と姿形は寸分も違わないんだな」玲奈は無言で弘の言葉に頷いていた。なおも弘は続ける。「……君はどうしてこんなところにいるんだ」
『私が玲奈だからです。それ以上の理由などありません』
 弘はしばし沈黙した。喋るべき言葉を見失ったのだ。白鳥のオブジェを見たときに、この場が何であるかを理解したはずだったのだが、どうやらそれは表面上に過ぎなかった。弘は動揺していた。
「……俺を道案内してきた小さな玲奈は?」
『あの娘も私です。人格統合の時に取り残されてしまったかわいそうな娘です。弘の事故や辛いものを背負って今まで過ごしてきました』
「あんなものを見せたのはあの娘の仕業なのか?」
 玲奈は目を閉じて手を体の前で合わせたまま首を横に振った。
「じゃあ、あれは君なんだ。それに何の意味がある? あの娘は俺をここに連れてきたがっていた。それなのに君は俺をここに来て欲しくないみたいだ。そんなにあっちが嫌いになったのか? 友達と一緒にあちこちで歩くんじゃなかったのか?」
『……弘の知っている玲奈と私は違います。微妙にですが。それに“意味”に弘が気が付かなかったのならそれでも構いません。出来れば気が付いて欲しかった。そして、ここには来て欲しくなかった。でも、どちらにしてももう、タイムリミットなのですよ。ここに来るとき死神も言っていたでしょう。それでも、弘は玲奈を、私を生かしておきたいのですか? それならば、弘はもっと辛い目にあわなければならないでしょう。それでもいいのですか?』
「俺は玲奈を生かすためにここに来た。そのためだったら後悔はしない」
『本当ですか? もし、本当だとしてもあなたは必ず後悔します』
 玲奈は弘の目を見詰めて丁寧に、なおかつ厳しく言った。
「そんなことはどうだっていい。俺は玲奈の“魂”を探しに来たんだ。どこにあるか教えてくれ。俺はそれをもって死神に会わなければならないんだ」
『そこにあるのがあなたの求める“魂”ですよ。しかし、この“魂”をあなたに渡すわけにはいきません』玲奈は台の上に乗っている青白く光る水晶のような物体を指さした。『ここで生命尽きるまでこれを守り続けるのが私の使命なのです。いかなる理由があろうとも放棄するわけにはいかないのです。それが運命です。玲奈のことは諦めなさい』
「何故、諦めなくてはならない。理由は? 理由を教えろ。俺の求めるものがそこにあるのなら、俺に渡してくれ。俺は、俺は玲奈に生きていて欲しいんだ! 色んなことを経験して欲しいんだ」
『理由などありません。それが定めなのです』
 頑ななまでに玲奈は“魂”の解放を拒絶していた。何故なのか。どうしてそんなことをしなければならないのか弘には判らない。“魂”の欠けらは小さな硝子の箱に収められたまま淡い青色の輝きを放っていた。