fairyfiery

<3> 兄貴は地元の消防士


 

「……レイ兄さん?」
「レイトグリフさん?」
 シルエットは戸口をくぐり、店内の照明に照らし出されてレイトグリフになった。不調法な足取りで、不快感を露にしている。レイトグリフもウィリアムに負けず劣らずの大男だったから、古い床がギシギシと悲鳴を上げる。
「どの面下げて帰ってこられた? ウィリアム」不機嫌な声色。
「兄貴か……。ベルの珈琲がさらに不味くなるようなことを言うなよ」
 ウィリアムは戸口の兄を見ることもなく、珈琲カップを口元に運ぶ。
「ちょっと、『さらに』ってどういうこと?」腕を組み、流し目でウィリアムを睨め付ける。
「いや、何。口が滑った」
「口が滑ったぁあぁ? それってつまりはどういうことよ?」
「まあいい」レイトグリフの視線が降りる。「で、その娘は何だ?」
「あ、あら、あたしのこと? レイトグリフさん……」
「フィントか、お前も珈琲好きだよナ。ベルクールの珈琲はそんなに美味いのかい?」
「いいえ、それほどでも……」手を前で合わせて伏せ目気味。話題はどうあれ、憧れのレイトグリフから話しかけられたことで舞い上がっているらしかった。
「コラッ! フィント。あれだけ飲んでおいて不味いって言うつもりなの?」
「そうよ」レイトグリフがいるせいなのか、急にフィントは偉ぶった。すると、ベルクールは大きなため息を一つついて、“やってられないわ”と言わんばかりにフィントにくるりと背を向ける。
「な? 何なのよ、その態度はぁ〜。いくら、ベルクールでも許さないからネ」
「別にいいヨ? わたしの珈琲をおいしいって飲んでくれる人はたくさんいるんだから。ネ、レイ兄さん」振り向いてレイトグリフに会心の笑みを見せる。
「……だから、オレとウィルの会話の邪魔をするな! 二人とも」
「はぁ〜い」二人同時に返事をして、ちょっとだけ遠慮がちにカウンターの隅に身を寄せた。
「会話? ……言いがかりの間違いだろ? 兄貴」
 ウィリアムはカウンターに片方の肘をついて、残った珈琲を一気に飲み干した。
「言いがかりだと?」視線がにわかに険しくなる。
「言いがかりだよ。オレがどの面下げて帰ってこようが、誰を連れてきても勝手だろ? オレは兄貴には迷惑はかけていない」
「何が言いたい。お前は。――確かに」レイトグリフは腕を組んだ。「オレには大した迷惑にはなってないさ。ウィルがいようがいまいが殆ど関係ない。だがナ……」
 沈黙。とても気まずくて、そこに居合わせた誰もが瞳をそらす。唯一、ミーくんだけがその雰囲気とは無関係で、“我、関知せず”と決め込んだのか再び、カウンターの隅で丸くなって落ち着いた。やり場のない三人の視線は束の間、ミーくんの動きに釘付けになる。
「オフクロはどうするんだ?」唐突に緘黙を破る。
「知らないね」心にもないことをつい口走ってしまう。
 ハッとするも既に手遅れ。レイトグリフの怒れる、いや、この上なく冷めた視線がウィリアムの上に降り注ぐ。居心地が悪くなり、背中ではジト〜ッとした冷汗が流れるのをウィリアムは感じた。
「――そうか、そう言うなら好きにすればいい」
 却って、レイトグリフは素っ気無かった。それ以上の言葉を放つこともなく、レイトグリフは喫茶『停車場』をあとにして、カウンターの裏側から『ガンフォード邸』に姿を消した。
 それから、ベルクールとフィントの視線がウィリアムに回帰する。
「まぁた、喧嘩して。この前、帰ってきたときもそうだったよね。全くサ、レイ兄も、ウィル兄も人の気なんて知らずに盛大にやってくれちゃってサ」
「すまんね、ベル」ウィリアムはベルクールとは視線を合わせずにうつむいていた。
 ミーナは閉店間際の人気のない沈んだ雰囲気を気にも留めずに、ミーくんのひげをみょ〜んと引っ張ってみてははしゃいでいる。それはミーくんにしてみたら、いい迷惑で、毛を逆立てて「ふぎゃ〜」とミーナを威嚇していた。けれども、構ってもらえるだけで嬉しいのか、悪戯はエスカレート。結局、ミーくんの方が根負けしてカウンターから退散した。それをまた、ミーナが追いかけるものだから、店内はあっという間に喧騒に包まれる。
「……フィントさん。彼女たち、何とかしてくれないかしら? そしたら、今日のこと、ぜ〜んぶ、水に流してあげようかしらって思っているんだけど、どう?」
「〜〜」うなってはいるもののフィントに選択の余地はないらしい。
「じゃ、珈琲もただにしてあげるわヨ」もう一押し。
「ホント??」瞳が驚きに煌めく。
「やるやる!」フィントは首を大きく縦に振ると、ミーナとトラ猫が追いかけっこを繰り広げるテーブル席へと飛び込んでいった。逆に状況はひどくなったかもしれない。けれども、ベルクールは二人と一匹のやり取りを見て、クスリと微笑むとウィリアムに向け言葉を続けた。
「失言は放ちたる矢の如しですか? ウィル兄さん。それとも本心?」
「……しつげん……だよ。あんなこと、言う気なんかなかったんだ――」
「そう……、ちょっと安心したワ」ほっと胸をなで下ろす。
「兄貴を見るとつい熱くなって、要らないことを。どうしたものだか……」
 上の空のようにウィリアムは呟いた。空っぽになったままの珈琲カップを覗き、その底にホンの少しだけ残った黒色の液体にしょげた顔を映し出して、ぼんやりと眺めている。
「ホラ、もう、空になったカップなんていつまでも眺めていないで、貸しなさいよ。もう一杯、新しいのを淹れてあげるから」ベルクールは右手を広げて差し出し、暖かく微笑んだ。
「すまない……」所在なさげにウィリアムは言い、そっとベルクールの掌にカップを乗せた。
 さっとカップを受け取ると、ウィリアムに背を向けて慣れた手つきで珈琲を淹れる。
「ウィル兄さん、今日は泊まっていくんでしょ?」
 予期しない問いに瞬間うろたえた。金のないウィリアムにはありがたい申し出で、最初からそのつもりでこの『停車場』を訪れた。けれども、何故だか心が痛む。ベルクールの暖かさが身に沁みる。ミーナと一緒に国中を旅しているウィリアムにとってここは辛すぎる。
「あ? ああ。ベルクールがそう言うのなら、そうしようか?」
「なら決まりね」
 珈琲カップがウィリアムの目の前にそっと差し出された。波紋の揺らめき。それを見詰めていると切なさが込み上げてくる。まわりは相変わらずのドタバタ騒ぎ。それなのに、ウィリアムとベルクールのいるところ、カウンターの一角は周囲の“時”からは切り離されているかのよう。
「ベル……。何から何まで……迷惑をかけるね」
「別に構わないわヨ、お兄さん。そ・の・か・わ・り! 明日はお母さんのお見舞いヨ!」
「い、いや、それはちょっと遠慮しておきたいが……。オレ、お袋は苦手なんだよ」
 あからさまにうろたえて、おろおろする。ベルクールはクスリとして、二人と一匹のごたごた騒ぎを見やった。楽しそう? 子供の頃、草むらを転げ回って遊んだことを思い出す。
(もう……、ああやって遊ぶことはないんだろうナ)物憂げな瞳がよぎる。そして……。
「ミーナちゃんは行くよね〜?」ベルクールはミーナの爽快な笑顔に視線を合わせた。
「!」
「あ!」ウィリアムは思わず立ち上がる。「そ、それはひ、卑怯だぞ、ベル」
 ミーナはフィントとミーくんの存在などケロリと忘れてトトトトと兄妹の方に駆け寄ってきた。それから、大きくコクンと頷いた。
「――ミーナ、どこに行くのか判っているのか?」
「?」ミーナは眼を大きく見開いて、不思議そうに小首を傾げてウィリアムをまじまじと見詰めた。
「……いや、判った。もう、別に何も言わないよ」
 ウィリアムはカウンターに肘を付いて頭を抱える。ため息も漏れてくるけど、無邪気なミーナを追及したところで、徒労に終わることは既にこのところの旅で心得ていた。
「ウィル兄も、ミーナちゃんには形なしネ」口元に手を当てて、フフフと笑った。
「あ、あの、わたしに何か飲み物をください……」
 そこへ髪の毛をクシャクシャにしたフィントが疲れ切ったように元気なく戻ってきた。ミーくんも同じようで、普段は抱かれることを嫌がる彼女がフィントの腕の中に大人しく収まっていた。
「あ、あら、まだいらしたの? フィントさん」澄ましたふうにベルクールは言う。
「まだ、いましたの! ベルクールさま!」
「ナ〜……」
 フィントはミーくんを胸に抱いたまま、カウンターの丸椅子にへたり込んだ。

 深夜。トントン。背を扉に寄り掛けて、ベルクールはノックする。二階の廊下。薄暗がり。たった一つの裸電球が照らしていた。ベルクールはスッと視線を雨漏りの痕の残る天井に向けた。
「レイ兄さん……。そんなにウィル兄さんのこと……」
 視線を足下に落として、ポンと右足で空を蹴った。
「……」
「ううん――。別に答えなくても言いけれど……サ。ただ、何となくネ……」ため息をつく。
「でも、もう、許してあげてヨ……」
 しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。時が刻まれる音が聞こえる。それはとてもゆっくりに思えて、悪戯に焦燥感を煽っていた。胸がドキドキと高鳴り始め、僅か数分、数十秒の時間がまるで何時間にも感じられるかのようにのろのろと進んでいた。
「羨ましかった……」全くの不意にレイトグリフの声が聞こえた。
「え?」驚いて扉に振り向いた。
「本当は羨ましかったのさ。自由なウィルが」
 レイトグリフは窓際に寄せた机について、カーテンの合わせ目からのぞく街並みをただ何となく眺めていた。それは今日も昨日も、ずっと十何年も前から変化を見せない。恐らく、きっと明日も明後日も数十年の未来、移り変わりを見せないのかもしれない。
「――ベルは判らなかったのか?」レイトグリフは問った。
「何……が?」
「いや、判らなかったのなら、それでもいいだろう」
 再び、二階の廊下はセントラシティを包み込む静けさに呑み込まれていく。ベルクールは扉に背を預け、レイトグリフはまんじりともせずに椅子をぎしぎしと軋ませていた。語る言葉が見付からない。許す許さない。そんなことは些細なことだったのかもしれない。ウィリアムが今日一日だけでも帰ってきた。それだけでよかったはずなのに。
「お休み……、レイ兄さん……」ベルクールは間を持て余して階下に降りる。
「お休み、ベルクール」
 レイトグリフは立ち上がって、カーテンの合わせ目を少しだけめくった。街路灯が人気のない道路を仄かに照らしている。時々、思い出したかのように表通りを自動車の駆ける騒音がする。
(お喋り好きなのに喋れない妖精……それがウィルの……この二年間の旅の訳なのか?)
 カーテンの隙間から漏れる青白い月光がやけに切なく心に染みた。