fairyfiery

<6> 炎の記憶。アクアフェアリー・フィント


 

「……そう、前にもこんなようなことがあった」
 シスケットはベルクールの運び込んだ車椅子に身を移していた。ベルクールがサッと足下に毛布を掛ける。その動作はかなり手慣れていてほとんど無駄がなかった。
「前……にも?」
 ベルクールのとびの瞳を見つめて、シスケットは無言で頷いた。
「それからね、レイトグリフが消防士になると言い出したのは」
「お母さん、そんなのんきに構えてる場合じゃないヨ。お話はうちに帰ってから……」
「あなたは覚えているかしらね? ベル」ベルクールの言葉を聞かない。
「え?」
「四歳だったか、五歳だったか。レイは十二、だからウィルは十くらいよね」
 悲鳴や叫び声に包み込まれたいびつな沈黙。ピンと張ったピアノ線がそこにあるような緊迫感。
「燃えたのは……うちよ」物憂げでどこかに悲愴さを漂わせていた。
「……知らない」
「そう――、覚えていなくても当然かもしれない……ね、ベル」
「知らないヨ、そんなの。――知らない、判らない……」
 目に見えない恐怖を振り払うかのよう。怯えた目線が宙を当てどもなく彷徨う。放心? 違う。閉ざされた過去の思いが頭をもたげようとしているのかもしれない。
「ウィルが『お兄ちゃんなんか、大嫌いだ!』って、凄い剣幕でね。それだけはよく覚えているわ」
「ウィル兄が……?」意外そうな表情。
「もう、ずっと昔のこと。今じゃ、何があっても飄々としているわ」ニコリとする。「羨ましいというか、何というかだけどね。……そう、それからしばらく、ウィルはレイとは目を合わせようとも、口を利こうともしなかった。冷戦だわね。仲直りの機会を失った……」
「れい・せん?」眼差しは焦点を結ばない。
「お父さんが死んで、わたしがこうなったのは、ずっと、レイのせいだと思い込んでいたわ。レイだけが何とかできたはずなのにって。擦れ違いはそこから始まった……緋色の中で」
 シスケットの瞳は遠い過去・巨大な緋色に包まれた『停車場』を見詰めていたのかもしれない。

「父さん! 梁が……天井が落ちてくるよ」
 天井の石膏ボードは既に焼け落ち、屋根裏が露になっていた。灼熱の炎が辺りを緋色に照らす。全てが灰になる予感。プラスチックや樹脂の焦げる嫌な匂い。実体なき猛火の向こうには父の姿が霞んで見えていた。
「レイ! ベルを受け取れぇ」絶叫とも怒声とも似つかぬ声がする。
「ベル? うわぁ!」
 奥の部屋からレイトグリフの元に泣きじゃくるベルクールが飛んできた。顔はススだらけ、服は火の粉でたくさんの焦げ穴が開いていた。ベルクールは兄に抱き抱えられ、その衣服をぎっちりと、もう二度と放すものかとばかりに握っている。眼は涙に真っ赤。喋らなくても頼れるのはレイトグリフしかいないというような哀願する視線が突き刺さる。
「母さん! うわぁぁぁあ、天井が、父さん、早くぅ」
 梁が落ちる。梁が落ちれば二階のトタン屋根が丸ごとそこに降ってくることを意味していた。ミシミシと不気味な軋み、下からは更に追い撃ちをかけるように炎が太い梁を消し炭にしていく。
「父さん! オレは……? オレは!」
「行け、レイトグリフ。オレのことは心配には及ばん」
「でも、父さん! 母さんは、母さんは」
「急げ! お前にはベルを守る義務がある。シスケットはオレが……」
 折れた。屋根が崩壊する。もう、この場にとどまっている猶予はない。レイトグリフはベルクールを抱っこして後ろ髪引かれる思いで躊躇いがちにダッシュした。辛うじて焼け残った階段をそれこそ転げ落ちるかのように駆け降りる。炭になりかけた木材の階段は脆く、たった十四段の間に何度も足を取られそうになる。
「くうう」
「レイ兄ちゃん!」
 一階は火の海。きっと、二階の床が抜けるまでは大した間はないのに違いない。トタンの屋根が異音を立て、ひしゃげながら落ちてくる。どうする? 天井が抜けたらそれまでだ。
「ベル。しっかり、掴まっていろよ」気丈に笑い、レイトグリフは言う。
「でもサ、絶対に一人じゃ無理だヨ」ぴちょんとレイトグリフの頭上に雫が一滴落ちてきた。
「? 判るもんか」誰に答えてる?
「ふ〜ん? じゃあやってみる? 聞こえるなら、見えるでショ?」
 キョロキョロする。
「ホラホラ、固定観念は捨てないと見えないよ。下じゃあないよ。もっと上、もっと上だヨ」
 声につられてもう一度キョロキョロと辺りを見回す。すると、変なものが視界に入った。少なくとも、今までにその姿を見たことは一度もなかった。小さな小さな妖精? お伽話ではよく聞くけれど、実物がいるなんて聞いたことはない。だから、思わず。
「嘘」
「うそぉ〜〜? 初対面に向かってそれはないんじゃないの?」心外らしく、ぷ〜っと膨れっ面になった。ちょっと可愛らしい。「でも、ま、いいワ、許してあげる」
「父さんは? 母さんは?」
「さあ? わたしに出来るのはあなたたちをここから出すことだけ――。ケルテスに頼まれたし、二階に水、ないもん」
「父さん? 水?」訳が判らない。
「そ、水。今日、天気がいいから、上から水はちょっとネ、下は水道で何とかなるけど。あ! 放水車なんて来てくれたら話はまた、別なんだけどナ」
「???」いまいち、よく事態が呑み込めない。
「ま、いいヨ。ど〜せ、今、何を言っても判らないでショ? だから、ちょっと、見てて」
 すると、またも我が目を疑う事態を目の当たりにした。レイトグリフは口をあんぐりと開けて呆然とした。他のリアクションなどとりようもないくらいに心奪われる光景でもあった。
「どう?」得意げに言う。
 炎が、水に呑まれていく。すぐ近くの流し台から水が溢れ出し、レイトグリフの行きたい方向に向けて流れていた。実際にそんなことが起こりうるはずがない。ホンの少しの水がこんな家を丸呑みにした炎に敵うはずがない。あっという間に水蒸気になってしまうはず……。けれど。レイトグリフの通れそうな幅だけ炎が引いていた。
「これでフリージングフェアリーがいたら完璧なんだけどナ。いないものは仕方がない!」パチンとウインクをした。「さ、急いで。わたしの力だけじゃあ束の間のマジック」
“夢”と言葉がやけに似合う有り様だった。パキパキと木材の燃える音のする中にせせらぎがある。異様でありつつ、美しいそれは風変わりな現実だった。レイトグリフはパシャパシャと水しぶきをあげて炎をかいくぐった。そして。
「よろしく。わたしはフィント・ピクシード。アクアフェアリーだよ」
「……オレは」
 と、次の瞬間、二階の窓ガラスがパァーンと粉々に砕け散った。炎が吹きだし、破片が地面にばらまかれた。何があった? と思うも束の間、人の身体が破れた窓から投げ出されてきた。
「母さん!」その声は二つ重なっていた。
 人垣がどよめき、その後の静寂。家の焼け落ちる音だけがやたらと大きくレイトグリフの耳に届いていた。ドサッ。全てがスローモーション。無慈悲に揺らめく炎も、流麗に舞い上がる火の粉もどこか虚ろ。非現実的な現実。母さんの身体は地面に叩き付けられた――。
「うわぁぁぁああ、母さぁん!」
「……ケル……テス・なの? 許さない・ヨ? わたしを置いて逝くなんて。……助かるんだったら二人一緒に。――死ぬんだったら――わたしも連れて……いき……」
 救急車や、消防車のサイレンが錯綜して消える。無数の足音。消火ホースが引きずられる音。
「消火活動の妨げになるのでやじ馬は早急に退去してください」
「けが人は……?」ヘルメットを被り、白衣をまとった救急隊員が駆け寄ってくる。
「担架! 急いで。こっちだ」地面に横たわるシスケットを見付けて叫んだ。
 でも、それもレイトグリフには届かない。ベルクールを抱っこしたまま呆然として、何が身の回りで起ったのか判らなくなっていた。失意によどんだ瞳に映るのは燃え盛る炎。
「お兄……ちゃん……?」人影からウィリアムが姿を現した。
「ウィル……?」レイトグリフは疲れたような苦笑を漏らした。
「お兄ちゃん! 父さんは? 母さんはどうなったんだよぉ!」
 ウィリアムはレイトグリフの胸ぐらを掴んで泣き叫び、レイトグリフはただされるがままに緋色の街並みを放心してしまったかのように見渡していた。

「防火シャッターが降りてる。車椅子じゃあ、無理よぉ〜」
 車椅子を押して、ベルクールは防火シャッターの前で立ち往生していた。火の回りが早いのか、既に何ヶ所かのシャッターと扉が閉じている。しかも、それらに付けられた通り抜け用の小さな扉から車椅子は抜けられず、それをクリアしても階段をどうしたらいいのか判らない。
「泣き言は言わないの! どんなに辛くても、泣きたくても微笑んでいないさい」
「だって、お母さん……」泣き虫の顔になる。
「いい? ベル。泣き顔に幸せは回ってこないよ」
 辺りはもうずっと前から完全な静寂のなかにあった。喋れば声が壁に響き渡り、悪戯に不安を煽る。火の手も見えない、煙が上がってくるわけではない。それなのに心許なくて、このままでは逃げられないような不吉な予感に捕らわれていく。
「今更、幸せも何もないヨォ〜」
 ベルクールにはオロオロする以外に為す術はなかった。
 ここに人はいたのだろうか? そんな思いが頭をかすめる。最初から三人だけ。笑い声も暖かな陽射しも幻。全ての事象はまどろみの中に隠された始まり。
「……どっちでもいい。早く出ましょう。耐火、防火構造だからと言って、燃えないわけじゃない――。耐火温度を超えたら。それに煙も」
「お母ぁ……さん」心配そうな瞳に涙が溜まる。
「こうなった以上は、歩けなくても歩くしかないでしょう」
 それは格好良くは悲愴な決意。けれど、あの時に比べたら大したことはなかったのかもしれない。
「いい、ベルクール。諦めるのはホントのホントに……最後の時だけ。――まだ、逃げ場はある。だから、ベル。手を貸しなさい。こんなとこじゃ、終われない。ケルテスのため……に、ね」
 シスケットは静かな微笑みを湛えていた。強く。そして、儚く。