fairyfiery

<9> 母と娘と小さな手のひら


 

(エレベーターは使えないから、階段、上るしかないのか)
 半ば諦めにも似た吐息が漏れた。今まで、身に付けたこともない重装備は流石にこたえる。いつも、持ち歩く最大重量といえばせいぜい愛用の大剣。しかも、ベイグリフトに来る切符代のために質入れしてきた有り様だった。
「ウィル兄さん。待ってよ〜〜。闇雲に進むと危ないヨ」
 ウィリアムには届かない。靴音だけが廊下に響く。非日常、まるで明るい夜のよう。外から聞こえる微かなノイズ。もっと耳を澄ませば、深紅の魔物が白亜の要塞を呑み込む異音が聞こえてくる。次第に心許なさが募ってくる。
「くらっ! ウィリアム。聞いてんのか!」
「ぬお!」思わず飛び上がりそうになって、振り返る。「何だ」
「『何だ』って、何ヨォ〜。折角、心配だからって追いかけてきたのに」
「余計なお世話だ」
 本当は嬉しいのに素直になれない。素っ気無く対応してすぐに背を向けてしまった。フィントはその様子を可愛らしく思ったのか手を口に押し当ててくすくす笑った。
「あはは。ごめん、ごめん」
 ウィリアムが凄い目付きでフィントを睨んでいた。
「そおいえば、お前、さっきフィントって兄貴が呼んでたな」
「はぁ〜〜い。やっと、繋がった? わたしは喫茶『停車場』にいたフィントちゃんと同一です」
「だったら、わざわざ――」
「隠す必要もなかった?」フィントが横取り。「それもヒ・ミ・ツ! というか謎の美女との共演の方が好奇心が燃え上がるかなって思ったんだけど。違った?」
「誰が美じょだって?」
「わたしよ、わたし。……そりゃあ、ネ、ウィル兄の中のミーナには敵わないかもしれないけどサ」
 少しだけ物憂げな顔でフイッと天井を見た。
「あ〜あ、レイも、も、少しわたしを見てくれたらなぁ」ため息。
「……」ウィリアムには答えられなかった。
「ま、それはいいや。――もし、わたしが妖精って判ってたら、あなたはここまで来てくれたかしら?」ウィリアムは首を横に振る。「でしょう? だから……サ」
 どこかに恥ずかしさが同居しているのか言葉が切れた。
「――オレ、皆に迷惑かけてるのナ。でもな、ミーナの事を考えると」
「途中下車は出来ないね」沈み込むような声色。
 その後、会話は続かない。ウィリアムは廊下の突き当たりに辿り着くと、階段を駆け上がる。色々と重装備のために流石に身軽とは行かないものの体力だけには自信があった。フィントはそのウィリアムの右肩の上を所在なさげに飛んでいた。
「それにね、レイとも仲直りして欲しかったんだけど、ナ」
 今度は答えなかった。フィントの指摘したことはずっと前から判っている。仲違いしてしまった理由なんて当の昔になくなったはずだったのに。
(切っ掛けは……掴めるのか)瞳はただ真っ直ぐ前だけを見詰めていた。

「……ダメ! そっちはダメよ。」
 ベルクールのよく知る看護婦さんの声だった。息を弾ませて、肩で息をしている。どこかで炎が燃え盛る音がする。エアダクトからモクモクと黒煙が噴き出始める。防火設備の不備なのか、エアーコンディショナーのスイッチが自動では落ちなかったらしい。状況は悪化する。
「反対の棟に渡らないと下に降りられない」
「ほ、本館に渡るって事? でも、そっちも……」
「渡り廊下はまだ無事よ」
 今更、そんなことは慰めにもなりはしない。渡り廊下が無事だとしても、そこはベルクールたちのいるほうとは正反対、端から端だ。もはや、何事もなく行けるかどうか判らない。
「無事でも、わたしたちはそこまで行けるの?」思わず口を突く。
「判らない、でも!」
 一目散に逃げ出したかったのはホントは看護婦さんだったのかもしれない。ベルクールに言われて潤む瞳。それを見て、ベルクールは胸をきゅっと締めつけられる思いがした。
「ごめん……なさい……」うなだれた。
「――気にしなくてもいいよ。わたしもきっと同じことを言ったから――」
「炎がまわってくる……。急いだほうがいいよ」シスケットだ。
 ミーナは途方もない不安に駆られてしまったのかベルクールに背中からしがみついて離れない。
「でも、……ここ――やけに涼しい……?」
 言われてみるとそうなのかもしれない。外気温に比べれば遥かに熱いような感じはする。ただ、火事場の熱さではない? 移動した先々で突き上げるような熱気は感じずに、どこまでも付きまとってくる涼気があった。熱源はあっても冷房はないはずだった。
「この娘……の……周りに冷たい空気が集まってる……」
 結果的に一番近くにいたベルクールが最初に気づいた。ミーナのいる場所を中心にして、そこを取り囲むように吹く風は冷たく冷やされている。何故?
「ナンセンスかもしれないけど、その娘、よう・せい、なのかしら……ネ」
「よう・せい? だって、そんなはずは?」左手を口元に当てた、ベルクールの瞳が揺らぐ。「ね、いくらあれでも、その、あの。ね〜。もう、いなくなったはずじゃあ……?」
「いるんじゃないのかい? 目の前に」悟りきったように柔らかな口調でシスケットが言った。
「い・る?」焦点のぼやけた目がミーナに舞い降りた。
 ミーナの真摯な、泣き出しそうな目線が訴えかけていた。自分が何者なのか。喋れたのなら、ミーナは何と言いたかったのだろう。口は語らず、涙に潤む瞳が語る。わたしは……。
「いる。今は、それでいい。ミーナちゃんはミーナちゃんだもんね」
「そっか。そうだもんね。わたし、ちょっと勘違いしちゃったな……。ごめんね、ミーナちゃん」
 はにかんだ表情でミーナを見詰めた。ミーナの顔。そこは色々なもどかしさでいっぱいだった。喋れたら、話したい事、話さなければならないことはたくさんあった。もどかしさの詰まった顔はいつしか悲哀さを合わせ持ち、泣き顔に変わる。
「あららら……」どうしようかしらとベルクールはそっとミーナを抱き留めた。
「行きましょう。時間は無駄にできない……よ」
 シスケットは壁の手すりを頼りに動かない足を無理に動かして歩こうとしていた。すると、看護婦さんが気が付いて肩を貸した。車椅子は既にない。病室から二つのシャッターを抜けるときに置いてきた。しかも、今度はもと来たほうとは逆方向だった。
「でも、ミーナちゃんがいたら……しばらくの間は発火点に達するのを免れるかもしれない」
 看護婦さん。自らに降り積もってくる懸念を振り払いたいかのような言葉だった。
「でも、フライパンの上にいるのと大して変わらないような気がするんだけど……なぁ」
「オーブンの中にいるのよりはましでショウ?」少しだけ気が紛れたのか、明るく振る舞っていた。
「う? うん。でも、きっと、床は抜けるわヨ?」何だか意地の張り合いになる。
「フリージングフェアリー……」唐突にシスケットが呟いた。
「フリージングフェアリー?」二人同時におうむ返しをした。
「ウィルは妖精使いになったのかな?」
「判らないヨ、そんなの……」
 次第に言い知れぬ焦燥感が募ってきていた。幾重ものシャッターに阻まれているのか炎の姿は確認できない。けれど、ミーナの傍を離れると熱さが伝わってくる。少しずつ少しずつ、それは着実に自分たちの元に迫っている。
(妖精。フェアリー。小悪魔?)
 現実を直視できないから、つい、要らないことを考えてしまう。でも、ベルクールの瞳は一見、何の変哲もない廊下を見ていた。まだ、殆ど実感が掴めていない。どこかが燃えていることは判っている。けれど、絵空事。ベルクールにリアリティが追いついてこない。
「急いで、ベルちゃん。遅れてるよ」
「あっ! 待って……」
 思わず手を差し出しながら走り出す。一人きりにされてはたまらない。放り投げられたらここには誰もいなくなる。広い空間に独りぼっちなのは心細すぎてどうにかなってしまいそうだ。と、不意に看護婦さんが立ち止まった。
「急に止まらないで!」叫びながらベルクールは看護婦さんの背中にドンと当たった。
「さっきは何ともなかったはずなのに」放心したかのようにぶつかったことに気が付かない。
「え?」頓狂な声。それから、しばらくの間。「……床が沸騰している?」
 驚きの余りか、一瞬それ以上のベルクールは言葉をつなげない。
 プラスティック製の床パネルがグツグツと煮えたぎっていた。液状になり、白い嫌な臭いのする煙を上げている。その下の接着剤などは当に気化して消え、コンクリートの地肌が露になっていた。
それは自分たちの知らないところで灼熱の地は成長していると初めて実感した瞬間だった。
「そこのシャッターから反対側の廊下に渡れないかしら」
 六つの視線が看護婦さんの指した方向に釘付けになった。
「開けてみる勇気はある?」汗の流れ落ちる顔に真剣な微笑みが宿る。「ベルちゃん?」
「看護婦さんが開けられないなら、わたしが開くワ」
 瞳と瞳が出会って、二人はクスリと微笑むと互いに頷いた。シャッター横の小さな扉。その取っ手を軽く掴んでみた。まだ熱くない。もしかしたら、この向こうは大丈夫なのかもしれない。
「せーのーでっ!」淡い期待を胸に二人は扉を一気に開いた。
「きゃっ!」
「あちっ?」
「〜〜!」
 熱い水しぶきが飛んできた。どうやら、スプリンクラーが正常に動作しているようだが、それだけではなかった。水蒸気が立ちこめていて視界が極端に悪い。扉の向こうは、乾燥した砂漠の暑さではなく、熱帯雨林の暑さ。
「向こうに行ったら蒸し焼きネ」
「でも、こっちにいてもこんがり焼き上がっちゃう」
「待つ?」そう言ったベルクールの脳裏には緋色の記憶が蘇りつつあった。
 眼は虚空を彷徨い、心はあの日の幻を見ていた。
「待つ。ここで?」上擦る声。「レスキュー隊の人、間に合ってくれるのかな」不安に視線が泳ぐ。
「判らない……」
「ここで焦がされちゃうのが先かもしれないヨ?」気を紛らそうと無意識の言葉が止まらない。
「判らない! ……わ、わたし、怖い……。――火の壁が見えるの」
「ベル……、耐えなさい。必ずレイが来てくれるから」 
 その時、ひゅんと空気が動いた。そよぐというよりは乱雑な気体の流れ。不穏な雰囲気の中に奇異なくらいに浮いた愉快げなムードがポッと現れた。そして、それはやけに偉そうに言った。
「へへっ! そうはいかないさ! 助かってもらっちゃあ困るんだ」
 自分たちのほかにまだ誰かいたのだろうか。疑念がよぎる。けれど、それは自分たちの背中に見慣れない小さなものが飛んでいると理解した瞬間に消し飛んだ。ホントの妖精がいた。
「どうして?」身じろぎもせずに問い掛けたのはシスケット。
「お前たちは妖精に関わりを持ちすぎたんだ。呪うんならオレじゃあなくて、フィントやそこにいるミーナにしときナ」
 ミーナはきゅっとベルクールの上着の裾を掴んだ。その目は妖精をじっと見つめて離れない。妖精もそこはかとなくミーナの視線を感じているようで、ちらちらとミーナの顔を見ていた。
「フィン……ト?」
「あれ? 知らなかったのかな。長い付き合いだろうにサァ」
 嫌みな視線がベルクールの上に降り注ぎ、明らかにベルクールのことをバカにしていた。
「フィントが妖精だなんて、そんなバカなことって!」
「あってたまるか! ってかい? でもあるんだよ。鈍感娘だネ、お前。ま、信じるも信じないも勝手だけどサ。“声”をもつ妖精は人のふりができるんだ。そおいう意味だけではフィントは優秀。ただね、レイとかって奴にホの字なんだよナ。困ったことに……ってお喋りが過ぎたようだ」
「でも、そしたら、ミーナは……?」
「へへっ、どうして人の姿をしてるのかって? それは――オシエナイ」
 腕を前に組んで、意地悪な微笑みを浮かべた。人の疑問を横取りしては喋るくせに、肝心のことは話そうとしない。そもそも、話したくないから言われる前に横取りしてしまうのかもしれないが。
「ま、未練もあるだろうけど、大人しく灰か、消し炭にでもなってくれ」
「嫌なこった! って言ったら?」シスケットが気丈な笑みを浮かべる。
「う〜ん、そうだな」本気で考えている。「……寝覚めの悪いことになるだけサ。オレさまがネ」
 ベルクールたちは屈託のない綺麗な瞳で恐ろしげなことを平気で喋る妖精に驚怖を覚えていた。狂気なのではなく純粋な心で先の展開を考えて、それは悪戯で爽やかな笑みを浮かべていた。