sharon

01 全ての始まり、全ての終わり……堰を破った水の如く彼らの運命は動き始めた。


 

 唐突にその瞼が開かれた。瞳は血のような赤。憎悪に満ちた視線を闇の中に注いでいる。 
〈私をもってしても解くことのできぬ封印をかけるとは、あの女、侮れぬ。あの女の血をもってしか解けぬのか。だが、まもなく新月……。千年に一度封印の弱まるとき。そうだ、感じる。あの女の微かな息吹を。滅びかけた一族の末裔。……見える。貴様はそこにいるのだな〉 
 それの口元が微妙に歪んだ。 
〈私に血を捧げるのだ、娘よ。自らの存在意義を忘れかけた哀れな末裔……〉 
〈使い魔たち。邪心をもつものを下僕として呼び集めるのだ。あの女は血を薄くし人間に紛れ込んで存在している。――物質界には封印が解けぬかぎり干渉できぬ。欲望のとどまることの知らぬ人間共を仕えさせる。邪な心をもつものほど私の精神により共鳴する。其奴を捜し出し、我が分身として行動をさせよう〉 
〈ゆけ、使い魔たち。残された時間は限られている〉 
 すると鳥のようなものが数十、闇に向かって飛び立っていった。それから、そこにはまるで何も起こらなかったかのような静寂が支配していた。 

* 

 乾いた足音が神経質に暗い廊下に響いていた。誰かが足早に歩いている。そいつは背の高い男。最も軽装と思われる鎧を身に付け、帯剣していた。その男は振り向きもせずに、ただ一直線に目的の部屋を目指している。瞳は真正面を見詰め、誰かに伝えなければならない情報を握っているようだった。それの伝え間違いは彼らにとって致命的になりかねないほどの重要性を持っているのだろう。寸分の隙すらも見せずにいる。 
 男は突き当たりまで来ると、この暗い廊下には似合わない重厚な木製の扉をノックする。 
――入れ……。 
 何者かが答えたような気がした。微かに空気が振動しただけであるのに男はその雰囲気を感じ取ったようだ。おもむろに扉を開く。積年の重みに耐え兼ねたかのように扉は軋んだ。 
「――シャリアン公が動き始めたか……。邪に見入られた権力の亡者め」 
 暗闇の奥からしわがれた、重みのある声が男の耳に届いた。 
「ああ、じいさん、いい勘をしているな」 
「やはり、伝説の通りになるのだな。『三度、封印の弱まりしとき、黄泉はその傀儡を遣わし鍵の娘を生贄とす。それは邪悪と暗黒の支配する混沌の時代の幕開けなり』……止められぬのか」 
「だが、希望はなくなっていない。伝説はこう続くんだ。『覇者は娘の命の鍵となり、再び世を平定する劫火のごとし光を手にする。熱き深紅の精神を宿らせる光の煌めきは邪を討ち滅ぼす最後の砦なり』これが、伝説だ。だが、俺は“運命”とか言う奴に弄ばれるのは嫌いなんだ。俺は俺たちのしたいようにするだけだ! それが俺の生き方だ」 
 男は暗闇に向かって吠えるように言った。 
「お前らしいな、リョウ。わしもそう思っている。伝説の通りにことを運ばせたりはしない。そのためにお前をシャリアン城に配置したのだ。シャリアン公のさらった娘を奪え。わしら、クレアはそのために女神セレスに遣わされた一族の末裔。その名に賭けて全てを阻止せよ。伝説の通りにさせてはならぬ。黄泉! わしは貴様を復活などさせない。永遠に暗黒の深淵で眠りについているがいい」 
〈威勢がいいではないか、ジャンリュックよ〉 
 それと同時に暗澹な雰囲気が地下の一室を支配した。身震いするような冷たい響き。暖かさは微塵も感じさせずにただ、闇の奥底から沸き上がるような妙な声。野太く、冷徹、この世の全てを凍てつかせるにも十分すぎるくらいの魔力を秘めた。
「冥府の黄泉。……ついに姿を現したか、封印が弱まっている」 
〈その通りだよ、ジャンリュック。シャロンのかけた封印は解けかけている。私が人間界に降臨するまでさほどの時間は必要とせぬ。破壊と再生の女神に命を受けし者共の末裔よ。無駄だ。女神の命を受けたといえ、高々人間風情に何ができるという?〉 
 地下室の空気が微妙に揺らいだ。黄泉はせせら笑っているようだった。 
「笑っていられるのも今のうちだぜ、黄泉」 
〈ほう、ジャンリュックより威勢のいいのがいるではないか。身の程知らずか? だが、そんなものがいくらいたところで私の復活を止めることはできぬ。いくらでも好きなだけ、傀儡を消すがいい。人間が邪な心をもつかぎり、いくらでも生み出せるのだ〉 
「……だが、ピクサスと生贄の娘は一人しかいない。シャロンを消せば貴様は終わりだ!」 
〈だが、お前はシャロンを消すことはできない。それが運命なのだよ、クレアの者共よ。直接、対峙するときを楽しみに待っておるぞ。無論、貴様らが生延びればのことだがな。せいぜいその時までもがくがいい。止められぬ時を呪うがいい。私が蘇るのは定め。この世の何者にもその筋書きを押し止めることはできぬ〉 
 消えた。重量感を与え続けた雰囲気が掻き消すように消えてなくなった。何事も起こらなかったかのよう。姿も形もなかった声すらも幻聴だったのかもしれない。だが、それは少なくともここに居合わせた二人の男には現実そのものだった。 
「黄泉……。あれが黄泉か」 
「あれが黄泉の声だ」ジャンリュックは意味深げに言葉を切った。「神々の世界を崩壊させた十三人目の神。冥界の主、黄泉。統率の女神シャロンの血によって封印された邪神。闇に葬られた神話の最終章に記された真実の一つ……。そして、その義妹、破壊と再生の女神セレスにより、封印の守護者を命じられた一族、クレアも記されている……。宗教上の都合で消された二つの真実。それが黄泉の復活とともに蘇るのか」深いため息を漏らしながらジャンリュックは言った。 
「蘇らせたりはしない。蘇らせるものか」リョウは握りこぶしをつくった。 
「――運命の神はどちらの味方か。私たち、クレアか、それとも黄泉の味方か……。伝説の通りになるのならば、覇者の解釈の仕方で事情が異なるが――。だが、伝説は伝説に過ぎない。僅かな狂いが時のゆくべき正しき道をも変える。……私たちの力を信じるしかない」 
 ジャンリュックは頭を抱え机上を見詰めながら言った。無論、辺りは暗闇のまま。リョウにはジャンリュックがどのような姿勢をしているかはおぼろげながらしか見えていない。ジャンリュックの様子のほとんどをリョウはその声の調子から判断していた。 
「運命も、伝説も関係ない。俺たちの振るう剣が未来を切り開く」リョウは鞘から剣と抜いた。段平でもなく、彼に合わせて創ったものでもない。どこでも手に入る名もなき鍛冶屋の創った剣。だが、それが今日までリョウの命を支えてきた。「そうじゃなかったのかい、じいさん。クレアの一族は今までそうやって来たはずだ。千年に一度……。さもなくば、封印を荒しに来た盗賊共を蹴散らすため。伝承は伝承、それ以上の意味をもつとは思えない。――答えなど、どうせ後で判る。そんなものに今、捕らわれるべきではないんだ。今できること……自分にできる精一杯の力を尽くすこと。それこそが黄泉に打ち勝つ条件だ!」 
 剣を鞘に勢いよく収めた。パチンと言う音が狭い地下室に響く。始まりの時。その音はそんなものを予感させた。誰にも止めることのできぬ運命の歯車は動きだしたのだ。黄泉との戦い。シャリアンの町を、シャロンという名のまだ見ぬ少女を巻き込んで時は流れる。一体、どんなことが起こるのか誰にも判らない。そう、ただ、止められない。堰を破って流れ出た水のように全てがなくなるまで止まることは絶対にありえないのだ。 
 黄泉とクレアの戦いの物語は今、幕を開ける。