02 篭の中の小鳥
……何も知らぬ哀れな少女・シャロンを連れて、リョウは宿命(さだめ)に反逆ののろしをあげる。
階段を上ってゆく男がいる。ここはどこなのだろう。
(辛気臭いな……。――いつからここはこんなになったのだろう。あいつが現れてからか。それともピクサスがシャリアン公に就任した時からか。邪の影響か? 俺がここに来たころとは雰囲気が全く違ってしまった。あの頃、シャリアン城はもっと過ごしやすかったはずだ。和気藹々とした楽しげな気風はなくなった。いつからか冷たい風が吹いている……)
男は鼻をならすと更に上の階を目指した。最上階に行くのだ。そこの小部屋にはピクサスが隣町、水辺の都とも呼ばれるファメルから捕らえてきた少女がいる。邪神に魅入られた哀れな心がそうさせるのか、それともそれがピクサスの本性なのかは判らないが、ともかくピクサスは御満悦の様子だった。
或いは、シャリアン公ピクサスと名乗る男はもういないのかもしれない。
いるのは邪神に心奪われた孤独な男か。
それは後に判断のつくこととしても、少女がシャリアン城に連れてこられたとき程、異様な光景はなかった。そもそも、シャリアンとファメルとの間には“捧げ物制度”とでも言うべき戦後補償があった。捧げ物はその時その時で異なり、人だったり物だったりしていたので少女が捧げ物になったくらいでは違和感はない。それは無論、市民にとっては哀しむべきことなのだが。ただ、その選ばれ方、護送のされ方が尋常では考えられない様なものだった。ひょっとするとこの制度が始まって以来初めて行われたような方法だった。
何かがおかしい。ファメル市民にそう思わせるには十分すぎることだったのだ。
一人の少女が名指しで選ばれたのだ。今まではこのようなことはなかった。いつの時でも、ファメル市内の五つの街区から順に一人を選んではファメル公に献上する形で行われてきた。ところが、今回は事情が違う。シャリアン側が“シャロン”と言う名の少女を捧げよと要請したのだ。シャリアンではなくファメルに黄泉の求める少女はいたのだ。
シャリアンとファメルであった戦や、その戦後補償までもがまるで最初から仕組まれていたかのように動いていた。そうならば、ファメルの少女、シャロンの存在も、クレアの一族でさえも神々の紡いだ糸の上で動いて演技しているだけなのかもしれない。
(気にいらねェな)男は奥歯を激しく食いしばった。
納得が行かぬのだ。自分は“神の見えざる手”等ではなく、自由意志で行動していると信じているのだから、それもまた当然のことだった。
と、男は一つの大きな扉の前に立ち止まっていた。気づかぬうちに目的の場所に辿り着いたようだった。番を勤める兵士に声をかけられて気が付いたというわけだ。何だかばつが悪い。しかし、そこは慣れたもので男はせき払いを一つすると冷静さを装って用件を述べた。無論、ピクサス・シャリアンからの用件を伝えに来たのだが、あまりいい気はないのが正直なところだった。
扉が番兵により開かれると男は内部に踏み込んだ。その直後に扉は再び閉められた。少女に逃げられたのでは番兵としてただで済まされるはずがない。彼も必死だ。シャロンは特別なのだ。言わずもがなシャリアン城の全ての住人や出入りするものの知ることだ。たかだか、町人の娘が何故そのような扱いになるのか、誰もが不思議に思いながらも誰にも尋ねることのできな問題だった。
ここは監禁室とするには立派すぎるのだ。本人はどう思っているのか判らないが、傍目から見れば少女は“捕らわれのお姫様”に見えるのだ。少女の服そが町人風の極ありふれたものであるから余計にそう思わせているのかもしれないが。それ程までこの部屋は豪華だった。部屋の全てが貴族用に、壁も丁寧に磨かれていて滑らかな表面をもっていたし、椅子、机、テーブル、その他細々とした調達品に至るまでこの場に合わせてわざわざ一流の職人に作らせたものなのだ。何故、名もないに等しい家柄の娘がここにいるのか。貴族側からみれば不可思議と考えられてもおかしくないだろう。
その“囚われ人”でありながら、貴賓扱いの少女の姿はぱっと見たかぎりでは男の視界には入らなかった。どこにいるのだろう? 至極当たり前の疑問ではあったが逃げ場のないここに確実にいるはずなのだ。男は構わずに奥に進んだ。
すると、部屋の左隅の方に少女がうずくまるようにして座り込んでいた。手で足を抱えて体を震わせている。顔は誰が見ても可愛らしかったし、どこへ行っても美人で通りそうな顔立ちだった。その少女は自分が何故こんな目に合わなければならないのかと訴えた気にうずくまっているのだった。それが妙に痛ましく感じられ、男は胸が締めつけられるような思いをした。その美しい切れ長の黒い目から溢れ落ちようとする涙が切なげに映るのだ。それが男の心をとらえて離さない。男はしばし茫然とした様子で少女を見ていた。何を話そうとしたのか忘れてしまう。少女の顔を見ていると思考力が奪われる。
少女は男を見詰めたまま言葉にならない言葉を漏らした。
「俺は……君に何かをしようと来たわけではない。――安心してもいい……」
と口先だけで言っても少女の恐怖心を和らげることのできないことは十分に判っていた。実際、“捧げ物”として囚われた少女たちがファメルに無事に帰った例はないのだから、それも仕方のないことだ。しかし、男は少女の心を解きほぐそうと腐心していた。少女と会話しなければ男の任務は果たされない。男はこの哀れな少女をシャリアン城から奪いに来たのだ。
「あ……、う……、寄らないで……。近寄らないで」ただ、それだけ少女は言った。
男は少女に近付くに近付けず、ある程度の距離を保って少女が落ち着くのを待った。少女がファメルから連れてこられてからまだ二日も経っていない。落ち着けと言っても無理な話だったし、日にちが過ぎれば過ぎるほど恐怖が、不安が募ってくるのだ。
「――俺は」注意深く言葉を選ぶ。これ以上の警戒心を植え付けては元も子もない。「君を……ここから助け出しに来た――」
涙の浮かぶ少女の瞳と男の真剣な眼差しが出会う。凍り付いたような時間。この男は何者なのか判らない様子で少女は男の瞳の深淵を見詰める。容易に信じることのできない言葉が男の口から発せられたのはどういうことか。疲弊しきった思考回路では男の真意を推し量ることもできない。少女は少しだけ怖れを忘れて男の次の言葉を待っていた。
「君の居場所はここではない」
不思議な言い方をする。少女はその言葉に体をぴくりと震わせた。
「私の居場所はここではない……」平板なイントネーションで少女は繰り返す。「私の居場所はここではない……」
焦点を結んでいない死んだような目付きで少女は確認するかのようにボソリと呟いた。
「そうだ、君の居場所はここではない。君の居場所はもっと他の場所にある」少々、ぶっきらぼうだったが男は続けた。「端的に言おう。俺は君を……シャロン・クロフをピクサス・シャリアンの手から救いに来た。――クレアの一族」
「クレアの一族……」聞いたことはあった。「黄泉の封印を守護する者の一族」
「そうだ、俺はクレアの末裔。封印を守護するもの。君をピクサスの元に置いておくわけにはいかない。ピクサスは復活間際の黄泉に操られ封印を解こうとしている。君を使い、封印を解く。次の新月の時。千年に一度の封印が弱まるとき、奴の影響力は最大になる」
「私は……関係ない。私はそんなのとは関係ないのに、誰も信じてくれない」
少女は男に心を開きかけているようだった。心の空を固く閉ざしたように喋らず、涙をためていたその目もほんの僅かだけ和らいでいた。この男はシャリアンの手先ではないと無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。鎧も全てがシャリアンの紋章がはいり、シャリアン公付きの兵士であるというのに。態度が違った。男は何故か少女に優しく接してくれるのだった。
(目覚めていないのか……。いっそのことそのまま目覚めなければいい。このまま終わればいい。だが、そんなことは有りえない。黄泉の完全復活にシャロンが必要なように、クレアにもシャロンがいなければ黄泉を封印しきることはできない)
「君は自分が何故この場にいるのか判らないのかい?」
「きっと、何かの間違いなのよ。私は、きっと……間違って……連れられてきただけ。黄泉なんて知らない。黄泉なんて関係ない。――シャロンの血を引くものなんかじゃない……」
虚ろな目付きで少女は言った。この言葉が少女の全てを物語っているのかもしれない。男はそう思った。少女は何も知らずに今日までの時間を生きてきたのだ。それが突然、こうなった。少女の日常は崩されたのだ。
(『シャロンの血を引くものなんかじゃない』か。そうかもしれないな)
「行くぞ。さあ、立つんだ、シャロン。君はこの場にいるべきではないとさっきも言ったはずだ。いきなり、信じろと言っても無理な話だろう。だが、俺を信じろ。このままピクサスの手にかかり朽ち果てたくなければ俺に付いてこい」
男は言った。少女は壁際にうずくまったままの姿勢で男の顔をまじまじと見詰めた。信じるべきなのか。その初対面の男に全てを賭けていいのか。絶望に打ちひしがれていた少女の心に差す一条の光。泣き腫らした目に希望という名の輝きが戻る。もしかしたら、生きて故郷に戻れるかもしれない。淡い期待。儚い夢。それが再び現実になるかもしれない。
少女はたった今まで恐怖におののいていたことを忘れていた。この男は信用できる。何故かそう思った。理由などない。敢えて信じてみようと思ったのはその真っ直ぐな瞳を見てしまったから。シャリアン城兵士たちの欲望に濁った瞳ではなく、澄んだ、南の海を思わせるような青い瞳。使命、任務を遂行しようとする純粋な煌めきを見た。少女は立ち上がる。足はまだ、微かに震えていた。だが、ここにいるよりは十分ましだと少女は思った。
気丈な娘だ。と男は感じていた。捧げ物として連れてこられたどの少女よりも精神力があり、そして、行動力があった。それだけでも十分過ぎるくらいに神に選ばれた娘のようだった。普通の町娘だったのなら男の誘いにはのらなかったろう。男の言ったことが本当でも少女たちは命を奪われると言う何ものにも勝る恐怖のために動けない。ところが、この少女はどこの馬の骨ともしれぬ男に自分の希望を託す道を選んだ。
「あなたに付いていく……。ここにいたらきっと何も判らずに死んでいきそう。あなたと行けば、クレアの一族に会えれば少なくとも何かが判るような気がする」それだけを少女は言った。クレアの一族と名乗る男を信じるしか少女の生延びる道はなかったのかもしれない。「ただ、行く前にあなたの名前を教えて。なんて呼んだらいいのか判らない……」
「俺はリョウ・クレア。封印を守護するもの」
これからシャリアン城、脱出行が始まる。少女は涙と恐怖を忘れ、男は守るべきものを得た。
今日は新月の二日前。黄泉の影響力が極大に達するまでに残された時間は非常に少ない。邪神に心奪われた、黄泉の傀儡、ピクサスが行動を開始する前にクレアは黄泉を封印し直さなければならない。
〈そうだ、それでいいのだよ。全ては予定通り――。寸分の狂いすらもない。お前とシャロンとの出会いから全ては始まりゆくのだ。お前が哀れな少女たちを流れの中に巻き込んでゆくのだ。クレアの末裔よ。お前は神々の手駒に過ぎない〉
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