sharon

04 珈琲の香に乗って……珈琲の香り……。それは束の間の休息だった。


 

 クレアの隠れ家とはシャリアン市街地の北西を流れるスラント河のほとりにある水車小屋のことだった。シャリアンを擁するアーメリアル地方はコルネオや、その他の大陸地方に比べて水の豊富な地方だった。そのため、シャリアンでは水稲や小麦の栽培が盛んだった。主食は無論、米である。小麦は喫茶店などの軽食としてパンとして消費されていた。 
 つまり、この水車小屋はもとは小麦粉を作るために使われていた。今はちょうど、小麦の収穫直前で稼働はしていない。だから、静かなものだったし小麦の粉が舞っていることもなく、比較的過ごしやすい空間となっていた。そこに夕方から暗くなるまで隠れ、深夜に市街地に入る予定だ。そこではクレアの頭領とも言うべきジャンリュックが待っているのだ。 
「無事には着いたようね」ティアが水車小屋の入り口を閉めながら言った。 
「ああ、無事には着いたさ」リョウはここで少し間を置いた。「だがな、無事に終わった訳じゃあない。どちらかといえば残りの二日間の方が問題だ。あの状況からしてピクサスが黙っているとは思えない。何か仕掛けてくるに違いない。シャロンは全ての始まりだ」 
「――皆そう言うのね」シャロンだった。幾分、疲れたような表情を見せながらもピンピンしている。「私は全ての始まり……。本当なの? 私はたまたまシャロンという名を貰っただけのはずなのに。それ以上の意味なんてないはずなのに」 
「いずれ判る……。そのために君をさらってきた。クレアの長に会えれば何かが判ると君も言っていただろう。彼が君に全てを教えてくれるはずだ」 
 リョウの言葉にシャロンは黙って頷いた。そうだった。何故、自分なのか。それを知るためだけに信頼できるのかすらも判らない男の口車に乗ってここまで来たのだ。自分の行く末、自分の未来を見通すためにクレアの一族と名乗る男を信じてみたくなった。 
「シャロン、君は休んでおけ。馬車の中でも話したが、夜中になったら街に出る」 
「判った……」 
 ティアがシャロンを案内する形で前に立ち、奥まった部屋に向かった。粉ひき部屋の奥には仮眠所が備えられていた。時刻は夕方。仮眠を取るにもかなり早い時間ではあるが、深夜に出発せざるを得ない以上やむを得ない。粉ひき部屋は男二人きりになった。 
「……馬は?」ティアが戻ってきて落ち着いてから、リョウはフェイに尋ねた。 
「放った。あの馬は軍馬としても調教されているから勝手に城に戻る。馬車は城のものではないし、正規軍はあの有り様だ。しばらく、襲撃した連中が誰なのかは判らない。手間取るだろう」 
「だといいが。ピクサスには黄泉の亡霊が憑いている」 
「黄泉か。伝説の邪神。……そして、シャロン、その娘か……」フェイは腕を組んで壁に寄りかかった。「ここまでは全く本当に伝説のようだな。鍵の娘。黄泉の傀儡らしい男、ピクサス。役者はそろったか」 
「いや、まだ足りないさ。伝説の中の覇者は誰か判っていない……」 
「覇者。覇者……ね。覇者か……」一瞬、フェイは薄笑いを浮かべて天井を見詰めた。それから、視線をリョウに戻した。「ま、それもシャロンと同じくいずれ判るだろうさ。リョウは休め。疲れただろう。……俺は一足先に城に戻っている。あまり大勢いないと怪しまれるからな」 
「ああ、そうだな」無感情にリョウは言うとその場の床に座り込んだ。 
(娘の命の鍵を握ると言う覇者は誰だ……。伝承の通りになるというのならば、必ずそいつはどこかにいるはずだ。生贄の娘は死に、黄泉は復活する。覇者と黄泉は別ならば、もう現れなければならない。――だが、……伝説の通りにさせるわけにはいかない。娘は死なせないし、黄泉は復活させない。邪悪と暗黒などにこのアーメリアルを支配させるわけにはいかない。それがクレアの使命だ。そのために女神セレスは俺たちを遣わせたはずだ。出所の判らぬ伝承など俺は信じない) 

* 

 深夜。シャリアン城下町は恐ろしいくらいの静けさが支配していた。シャリアン城であれだけの騒ぎがあってのこの静かさは逆に不気味な様子だった。町が死んだかのよう。いつのころからか、シャリアンの町も無感動に見入られてしまっていた。シャリアン城を飲み込みつつある辛気臭さが町にも影響を与え始めたのかもしれない。新月が近付くにつれその様相は強くなっていた。 
「月がもうすぐ夜空から消える……。千年に一度、三回目に封印が弱まるとき。新月」 
「新月よ。急ぎましょう。あまり、いい気はしないわ」 
「ああ。だが、今夜は奴らも動くまい。たかだか千数百の反乱軍に遅れを取ったのだからな。今ごろ城ではピクサス様がお怒りのことだろう。問題なのは残り二日、特に明後日だな」 
 ティアとリョウはシャロンの頭を飛び越すようにして会話を続けていた。 
「――儀式の日ね」 
「儀式というほど格式ばったものではないらしいがね」 
 それ以上、リョウは言葉をつながなかった。これから先のことは言わないほうが良いだろうと判断した。黄泉の封印を解くためには生贄の娘の血、即ち、シャロンの血が必要なのだ。 
「さ、民家もだいぶ混みあってきたことだし、お喋りはやめにしよう。何、そんなに遠くはない」 
 リョウたちが歩いていくのは表街道から数本奥に入った生活道路だ。シャリアンでは夜間の治安を維持するため警備兵を巡回させていたから、リョウたちにとってそれが邪魔者になるのだ。深夜、町を歩くものはいなかったし、いるとしたら犯罪者くらいのものだ。しかし、最近ではその犯罪者さえも夜の街を出歩いたりはしなくなった。 
 夜半を回ると邪悪な波動をビリビリと感じるのだ。昼間でも感覚の鋭い人はそれを感じることができる。少しずつ少しずつ、目に見えぬ何者かが支配力を増しているかのようだ。町全体を、そしていつかはアーメリアル王国の全てを呑み込んでしまうのだろう。 
「ここだ……」 
 あれから幾つかの交差点を過ぎ曲がった後、辿り着いたところが目的の場所。シャロンはリョウの指さした方を見た。それ程大きな建物ではなかったが、独特の雰囲気をたたえている。道路側の壁はどうやら全面がガラス張りになっているようだった。当時、ガラスは大変高価な品物だったからこの通りでは目立つ存在だった。店なのだろうか。シャロンは不思議そうな面持ちでそれを見詰めていた。奥の方からは薄暗いランプの明かりが漏れていた。その中で人影が揺らめいている。 
「ここ……喫茶店……なのかしら……」 
 シャロンは言葉を切りながらゆっくりと言った。自分の発言にあまり自信がなかったのだ。 
「ああ、そうだ。よく判ったな。ともかく中に入ろう。暖かい珈琲が待ってるぞ」 
 そう言うとリョウは扉を開けた。すると、扉の上に取り付けられた呼び鈴が心地よくカランカランとなった。その澄んだ音は深夜の静けさを切り開いて響いていた。ティアはその普段は心地よいはずの音色にぴくりと身を震わせて、辺りをキョロキョロと見回した。そして、音に気が付いたものがいなさそうなのを確認するとほっとした様子になった。シャロンは気にも止めず奥に進む。 
「……いい香りがするわね。――珈琲の香りかしら。観葉植物もあるの?」 
 シャロンは昼間の出来事などすっかり忘れて元気になっていた。元来、シャロンは湖のほとりなどの草むらに佇んだり、座り込んだりして湖面を眺めるのが好きなのだ。こう言った落ち着いた雰囲気の場所がいい。心をリラックスさせることができるから。 
「ああ、この辺りでは珍しいだろう」リョウは自慢気に言った。 
 シャリアンの、アーメリアル地方ではその気候柄、珈琲の栽培には不適なのだ。従って、珈琲豆は国外からの輸入品なのだ。店にある観葉植物も熱帯に近い地方から珈琲豆と共に運ばれてきた。だから、シャロンが生まれてこの方一度も見たこともないような珍しいものがたくさんあった。 
「取り敢えず、二人とも珈琲でも飲みながら休んでいろ。俺はじいさんに知らせてくる。親父、二人のお相手は頼んだ」そう言うと、リョウは地下へと続いている階段を下りていった。 
 それと同時に、カウンターの奥の小部屋から人が姿を現した。口髭を生やしたやせ形の男。それがシャロンの第一印象だった。しかし、温和な顔立ちをしていて暖かそうな人柄のようだった。 
「いらっしゃい、お嬢さん方。喫茶店“シャロン”へ」 
 それに驚いたのはシャロンだった。自分と同じ名前の喫茶店。偶然にしては出来過ぎているような気がした。けれども、そんな妙にさざめいた感覚の中にほんの少しだけ安心感が隠れていることも確かだった。信頼できる人たちがここにはいると直感めいたその思いがシャロンを知らず知らずのうちに安堵させていたのかもしれない。 
「どうしたのかな? 遠慮せずにカウンターの席に着きなさい……」店主は優しく言った。溢れんばかりの笑みを浮かべてシャロンを包み込んだ。「……まだ時間はある」 
 そう言って店主は珈琲カップを二つ差し出した。ゆらゆらと珈琲が波紋を描き、湯気が立ち上っている。それはまるで忘れかけていた何か大切なもののよう。ここに来た数日間でなくしそうになったもの。日常。それを珈琲が象徴していた。シャロンは珈琲カップを手に取って香りを楽しんでいた。すると淋しさが込み上げてくる。何でこんなことになってしまったのだろう。揺れる液面を凝視する。手が小刻みに震えて止まらない。哀しい夢。顔が楽しかった過去の思い出に歪む。涙が溢れる。こぼれ落ちた涙の雫が揺らめく液面に波紋を残す。理不尽さを耐え抜いた緊張の糸が途切れたのか、もう止められなくなっていた。 
 ティアはそんなシャロンを隣で黙ったまま見詰めていた。 
「……シャロン、準備は整った、クレアの族長が君を待ってる」 
 リョウが先程の扉の辺りから現れてシャロンを呼んだ。シャロンは涙を拭うと毅然とした態度に戻る。族長の話を聞きに来たのだ。情けない姿は見せられない。リョウはそのシャロンの気持ちを知ってか知らずか言葉を続けた。 
「俺の来た扉をくぐって一番奥の部屋まで行けばいい。君一人で行ってくれ。俺たちは君が戻ってくるのをここで待っている」 
 静かにシャロンは頷くと、リョウのいる扉を駆け抜けていった。 
「――泣いていたなあの娘」リョウはシャロンの座っていた温もりの残る椅子に座った。 
「ええ、泣いていたわ」ティアは珈琲を一口飲んだ。「きっと、親兄弟のことを思い出していたのよ。リョウは知っていたかしら。――あの娘、今度の新月で十八だそうよ。……それなのにあの娘はもう、この世を去らなくちゃならないのよ。神々の世界が崩壊した理由、リョウは知ってるでしょ? 黄泉の封印を特にも強めるにもあの娘の血が必要なのよ。判っているの、リョウ。私たちはあの娘を騙しているのよ」 
「判っているさ。俺だってあの娘を死なせたくない。しかしね……まだ、どうなるか判らない」 
 犠牲者はできるだけ出したくない。それは皆の共通の願いだった。けれども、そんな綺麗事だけで現実が動いていかないこともクレアは知っていた。誰かが犠牲にならなければこの戦いは終わらない。それが黄泉の復活に出会ってしまったクレアの宿命。避けられない神の意志。