sharon

07 地下牢の夕べ……裏切り……。それは身近で起きた。


 

 シャリアン市街で最高層を誇るシャリアン城の最下層。そこは囚人を押し込めるために使われている場所だった。雑に削られた石煉瓦の壁はどこからともなく染み出してくる地下水のためにそこら中が緑色に苔むしていた。天井からは水滴が滴り、床に打ち付けている。その音は気の遠くなるような、現世から隔絶されてしまったような錯覚を囚人たちに与えていた。 
「辛気くせーな。天井も床も……心さえも苔むしてやがる」 
 リョウは湿気った堅い材質の簡易ベッドに横たわり天井を見詰めていた。フェイに騙されていたショックは隠せない。腕を頭の後で組んで歯ぎしりをする。ピクサスばかりに注意がいってしまい、身近なところにいた伏兵を見過ごしていた。黄泉はピクサス一人だけに影響を与えているのではないことをすっかりと忘れてしまっていたのだ。邪な心をもつものを黄泉はつけこむ。 
(……俺もまだまだ甘ちゃんと言うことか。フェイの企みを見抜けないとはな。――どちらにしてもこの辛気臭い、気の滅入りそうな場所を出なければ。グズグズはしていられない。どのくらい時が過ぎたのかも判らんし、……シャロンが気になる) 
 光が宿る。リョウは自分のすべきことを思い出した。身をよじって立ち上がるとティアの姿を求める。地下牢に連れてこられたときは一緒だったはずだから、この牢の中にいるはずだ。 
「ティア、ティア? 聞こえているなら返事をしろ」 
 リョウは虚空に向かって問い掛けた。地下牢には燭台さえも置かれず真暗闇だ。 
「……なあに、リョウ」 
 元気なくティアが比較的近くで答えた。こちらはこちらで正規軍に捕らえられる切っ掛けを与えてしまったために落ち込んでいた。絶対に犯してはならない初歩的なミスをしてしまったのだ。弁解の余地などなかったし、リョウが話し掛けてくるまで沈黙を守っていた。 
「いいかげんに元気を出せ。別にティアだけが悪いわけではない。そう何回も同じことを言わせるな。俺たちがしなければならないことは落ち込むことじゃあない。シャロンをピクサスの手に渡さないこと。シャロンを奪い返すことだ」 
「私たち一体何をしてるんだろうね。シャロンを巡って。奪ったり奪い返されたり。リョウ、あなたの嫌う運命に弄ばれているだけだと思わない? だからと言っても私たちにはシャロンがいなければ何もできないし、……何も始まらないんだけど……さ」 
「ティアの言うことも正しいのかもしれない。だがな、俺たちにできることはそんなことくらいさ。騙して、騙され、裏切ったり裏切られたり。人の心を土足で踏みにじってもそれに気が付かない。――最初から気づいてはいたさ。シャロンの奪い合いをしたところでどうにもならないことはね。そう、俺たちの都合だけでシャロンの人生を台なしにしたようなもの」リョウは一旦言葉を切ると簡易ベッドの上に楽な姿勢に座り直した。「ティア、こっちに来い」 
 ティアは床から腰を上げるとリョウの左横に腰掛けた。簡易ベッドがしなって軋む。 
「どちらにしても……シャロンはピクサスやフェイの手のうちから奪い返さないとならないわ」 
「ああ、そうだ。……シャロンはシャロンの歩むべき道に返すべきなのかもな。……封印の完全に解かれていない黄泉となら、万が一にでも勝てるかもしれない――しな」 
「シャロン、なしに戦うというの?」 
「ああ、黄泉がいなくなればシャロンは必要なくなる。死なずに済む」 
 重苦しい静けさが地下牢に訪れた。それがどれだけの意味をもっているのか二人は知っている。シャロンを自由にすることは即ち、黄泉との全面対決。封印できないのなら黄泉の存在そのものを抹消するしかない。それがクレアに課せられた運命なのか。 
「――ところで、リーフは? あいつは無事なのか? ……待て、誰か来るぞ」 
 遠くから水をはねる足音が微かに聞こえていた。時折、足音が止まるのは途中の牢屋を覗きながら歩いているかららしい。ただ、それは確信に満ちた足取りで、明らかに足音の主の捜す誰かがここにいることを疑っていない様子だった。段々それは大きくなる。 
「私は無事でいるわ」どうやら、リョウの声が聞こえていたらしい。聞きなれた声がして、蝋燭の橙色の光が視界に入ってきた。「私はクレアの一族とは直接関係ないから、フェイの目にかからなかったのかもしれないわ。今、鍵を開けるから」カチャカチャと鉄格子の鍵を開ける音がする。 
「なんだ、リーフか……。無事で良かった」リョウは感慨深げに静かに言った。 
「あなたもね、リョウ」鍵が開く。「さあ、ティア、リョウ、急いで。復活の儀式が始まるわ」 
 リョウとティアは身をかがめて牢の狭い入り口からリーフの前に姿を現した。何だか少しだけ安心する。この看守すらも来ない地下牢に閉じ込められたまま出られないかと不安だった。自分たちだけで鍵を開ける策もなく途方に暮れそうになっていたから、リーフはそれこそ救いの神に見えた。しかし、本当の戦いはこれから始まる。 
「復活の儀式だぁ。それは明晩からじゃなかったのか」リョウは不審な目付きでリーフを見た。 
「計画を前倒ししたのよ。黄泉も焦っているんじゃないかしら。反乱軍に組みするものも増えてきたし、ピクサスのその不透明な、不可解な行動から反公爵派も勢力も伸ばしてきている。この間、シャロンを奪うために城を襲撃させたわよね? その影響もあるだろうから、黄泉の波動に町が呑み込まれつつあるのに反ピクサス勢力の結集には目を見張るものがあるわ」 
「黄泉の波動に呑まれつつあるから日ごろの鬱積がピクサスに向かったんだ。町のあの剣呑な嫌な空気はリーフも知っているだろう。――黄泉はこの世界を冥府の一部にでもしたいのだろうさ」 
 比較的冷静にリョウは言う。それは黄泉の復活の兆しが現れたころから予想してきたことだったので、リョウにとっては別段、驚くに値したいことだったのだ。 
「でしょうね。……だから、早くシャロンを取り返さないと手遅れになるわ」 
「ああ。で、シャロンがどこに連れていかれたか判るか?」 
「ええ」リーフは確認するかのように瞼を閉じ、数秒後ゆっくり開いた。「儀式の……間よ」 
「儀式の間? 初めて聞いたぞ」リョウは訝しげな表情をしてリーフを見詰めた。 
「私も今朝方知ったばかりなの。シャリアン城にはこの地下牢とは別にもう一つ地下に続く階段があるのは知ってる?」リョウは首を横に振った。「知らない。ま、それも当然でしょうね。ともかく、その地下室の奥に黄泉を祀った祭壇があるらしいんだけど……」 
「だが、黄泉を封じた神殿は近くの遺跡だぞ。封印も何もかもがあそこにあるんだ」 
「落ち着いて、リョウ。このシャリアン城にももう一組同じものがあるらしいのよ。その儀式の間にね。この城も相当に古いものだから、誰がいつどんな目的で造ったのかは判らないけれど。私が調べたところでは封印を刻んだ石盤は完全にシンクロしているそうよ」 
「……少々お喋りが過ぎるぞ、リーフ」 
「誰?」唐突に何者かの気配を感じて、リーフは後に振り向いた。燭台の明かりにその顔が照らされる。「フェイなの?」顔をしかめてリーフは信じられないと言った様子で小声で言った。 
「――やはり、お前もクレアに関わっていたのか。残念だよ」 
「え?」その次の瞬間、リーフの時間が止まった。手に持った燭台が弧を描きながら床に落下する。乾いた音が地下牢に共鳴した。それはリーフの震える足下を照らしていた。 
「リーフ? リーフ」 
 聞き覚えのある男の声とリーフの小さな悲鳴の後、リョウは何が起きたのか判らずにリーフを呼んだ。そして、床に転げた燭台を慌てて拾い上げる。蝋燭の火はまだ消えていない。リョウはそれをリーフの顔にかざした。口から一筋の赤いものが流れ落ちている。リョウの心臓が信じがたい突然の出来事にキュッと縮んだ。燭台をゆっくりと下に下ろしてゆく。怖かった。シャリアン城脱出に命を賭した時よりもリョウの心は得体の知れぬ怖れに支配されていた。 
「リョウ? ……何があったの? フェイが……いたの? ねぇ、リョウ……?」 
 リョウは答えられなかった。リーフの背中から腹にかけて不自然なものが突き出している。銀色のそれからは赤い液体が流れ、先から滴り落ちた。下を向いたリーフの瞳は信じられないものを見たときの様相を示し、左手が無意識のうちに床に落下する血液を受け止めていた。血の真紅の滴が弾け飛んで飛沫ができる。生暖かかった。これだけの条件がそろっていながらもリーフは自分に何が起きたのかしばらくの間理解できなかった。痛みはなかった。いや、本当は体中に激痛が走っていたのかもしれない。感覚が遮断されてしまったような感触がリーフに残っただけだ。 
「フェーイ! 貴様。俺のリーフに何をした!」 
「邪魔……なんだよ」フェイはリーフに突き刺した剣を引き抜いた。リーフはその反動でリョウの腕の中に倒れこむ。フェイは剣から血を薄い布でふき取ると鞘に収めた。 
「邪魔だと?」虫の息のリーフを両腕に抱えて、リョウは訝しげに言った。 
「そうだ、俺の望みを果たすためにはお前たちは存在してはならんのだ。クレアの一族。それに手を貸すもの。仇をなすものは全て敵だ。……リョウ、次はお前の番だ。リーフとともに天に昇れ」 
「断る。この世を去るのは貴様が先だ!」 
 リョウはリーフの体を強く抱き締めフェイに向かって叫んだ。それから視線を下ろし、リーフの顔を見る。血の気の失せたその顔にもはや精気はない。 
「……リョウ。……私の……リョウ。……私……の……剣を……使って……」 
 リーフはリョウの腕の中で静かに息を引き取った。 
「……命をもってこの罪を償え」リョウは唇を噛みしめ、フェイに鋭い視線を突き刺した。