08 渇望する魂……フェイとリョウ。親友だった者たちの哀しい対決。
リーフの亡骸は苔むした石造りの床の上に横たえられていた。リーフの目が開くことももう二度とない。リーフとの再会がこのような残酷な幕切れを迎えようとは考えにも及ばなかった。失って初めて判るリーフの存在感。そうだった。今思えば、いつだってリョウの隣にリーフがいた。そのリーフはもういない。リーフはもう喋らない、もう笑わない、泣いても、怒ってもくれない。他愛のない思い出の数々が瞬間的にリョウの脳裏を横切ってゆく。
「リーフ? リーフ? ほんのついさっきまで喋っていたのに……」ティアは動かなくなったリーフの横に力なくぺたんと座り込み、答えるはずのないリーフに話し掛けていた。「リーフ? 死んだふりしてるだけだよね。眠ってるだけだよね? ね、答えてくれるよね」
こうなってくると、逆にティアが哀れに見えてならなかった。
「悲嘆にくれる必要はないぞ、ティア。リョウの次にお前もリーフの元に送ってやる」
「おい、フェイ。お前は俺たちのことを邪魔者だと言ったな。ならばお前は初めからそのつもりで俺たちに接近したのか。お前は最初からピクサスの手下だったのか。いや――、そんなことに興味はない。何故、お前はリーフを殺した。殺す必要などなかった!」
それでもリョウは冷静だった。リーフを失ったその哀しみ、怒りと判別のつかぬ負の感情を理性で押さえ付けた。哀しみに打ち拉がれることはいつでもできる。今は、この場を生き残ることだけを考える。死んでしまったらリーフのために涙を流すことすらできなくなる。それはごめんだ。
「……俺はピクサスの手下ではない。ピクサスが俺の下僕だ」
「何だって?」意外な事実を知らされてリョウは戸惑った。
「ピクサスなど手駒に過ぎないと言っただけだ。全ては俺が画策したのだよ。最初から最後まで、お前がシャロンを連れて脱出する時に、正規軍を来ないように仕組んだのも俺さ。シャロンを奪い返したのも、リーフを殺したのも俺だ。邪魔なものは全て消し、必要なものだけを手に入れる。……奴など椅子に踏ん反り返って何もしていない。結果が集まるのを待っている奴などに黄泉様の力の恩恵にあずかる権利などないのさ。醜い、やり方が美しくない!」
「つまり……、シャロンをファメルから捜し出したのはピクサスではなくお前だということか?」
「そうだ。片翼の天使の羽のあざをもつ少女。捜すのに苦労したぞ。クレアのジャンリュックのように天使の片翼など俺には見えんからな」嘲るような目付きでリョウを見詰めた。それから、リーフの横にうずくまっているティアに視線を向ける。「なあ、ティア」
するとティアは顔を上げ、ハッとした表情でフェイを見た。リョウは肩をわなわなと震わせた。それからゆっくりと頭をティアの方に向けると眉間にしわを寄せ険しい顔でティアを睨んだ。
「シャロンを見つけたのはティアだったのか?」ティアは力なく頷いた。「……だとすると、シャロンをこの過酷な運命に巻き込んだのはお前だぞ。シャロンを命を奪われる方向に進ませたのはお前だぞ。――ティア、お前は自分の言ってることの矛盾に気が付いていたのか……。巻き込んでおきながら命を救えなどと言った矛盾に気づいていたのか。答えろ、ティア!」
「うん……」ティアは溢れ出てくる涙を掌で拭いながら言った。「でも、だって、片翼のあざをもつ少女を見つけないとリョウの命は保証できないって。黄泉がリョウを二目とみられない姿にして殺すんだって。だって、私、リョウとリーフが死ぬのなんて見たくなかったんだもの! その時は知らないシャロンなんかよりリョウの方が大切だったんだもの。でも、何か変だった……」
後悔しているようだった。フェイにそそのかされてとんでもないことをしてしまったという意識に、リーフの死を通してようやく気が付いたようだ。けれども、リョウの追及はまだ続く。
「――喫茶店から飛びだしたのもわざとなのか?」
ティアは黙って頷く。しばらくの沈黙。リョウはその間、ティアの涙に潤んだ瞳を見詰め、フェイはその様子を面白そうに眺めていた。時折、天井から落ちる水滴がこの場の雰囲気をより深刻な状況に陥れる。その規則正しい音がティアの心を追い詰めてゆく。
「……こんなことになるなんて思っていなかったから。リーフが殺されるなんて考えてもいなかった。――誰も……殺さないって言ったじゃない。心を哀しみに曇らせたりしないって言ったじゃない! だから……だから! シャロンを捜したのに、フェイの言い付けを守ったのに。フェイの言う通りにしたら誰も死なないって……言ったのに」
「正確にはこう言ったはずだぞ。『大人しくしていればシャロン以外は誰も死なない』とな。リーフはお前らを助けに来なければこんなことにならなかった。だが、もう手遅れさ。リーフは死んだ。そして、お前らもここで死ぬ。もう、お前らに用はないのさ」
「結局、諸悪の根源はお前か、フェイ」リョウはいきり立って唾を飛ばしながら怒鳴った。「お前がティアをそそのかし、黄泉完全復活のお膳立てをして、リーフを殺したのか」
「ハン? 人聞きの悪いことを言うな。諸悪の根源などではない、世界は黄泉様の統治する未知なる新しい時代に突入するのだ。そこに人間などの下らぬ者の入り込む余地はない」
「お前、脳みそでも捻挫したのか?」フェイの発言の救いようなさにリョウは思わず言っていた。
「捻挫だと?」フェイは気分を害したかのようだ。しかめっ面をしてリョウを睨む。「まあ、人間のお前などに黄泉様の素晴らしさが判るはずもない。そして、これからも永遠にだ。さあ、リョウよ。剣を取れ。リーフの願いを聞き、その剣を使ってやれ。ハッ。尤も、選択の余地などないのだがな」フェイは既に勝ち誇ったような笑みを満面に浮かべていた。「生きてこの地下牢から出たければ俺を打ち倒せ」
「どけ!」
リョウは一言言った。リーフの仇を討つことをやめたわけではない。リーフの言伝を真に受けるのならば降魔儀式が始まってしまう。フェイのことだから、儀式は既にピクサスにより始められているだろうとリョウは踏んだのだ。こんなところでのんびりとしていられない。
「お前の相手など、後で好きなだけしてやる。どけ!」
「どくわけにはいかんなぁ。俺はお前のその自信に満ちた態度が気に入らん。いつもいつもお前の思い通りにならないことを教えてやる。さあ、リーフの剣を取れ。でなければお前は今すぐ剣の錆びだ。俺がお前を打ち倒す最初で最後の男になる」
「お前に言わせれば俺は珈琲切れでないかぎり死なないのではなかったのか」
リョウはにやりとした。この高まる緊張感が心地よくてたまらない。言葉の一つ一つに命を賭けなければならない微妙な駆け引きに心がくすぐられる。戦うために生まれた男。それがリョウだ。
「あれは言葉のあやだ。お前は真に受けたのか?」
フェイの問いに答えないで、リョウは言葉をティアに投げ付けた。
「リーフの剣を俺によこせ! 早く」ティアは動かない。
「ティア! その剣で今すぐ、リョウを突き殺せ。背中を見せたリョウなどお前でも一撃で倒せる。そうしたらお前は殺さないでおいてやる」フェイはのけ反って高笑う。「さあ、どうする?」
“殺サナイデオイテヤル”それはティアにとってまるで神の言葉のような響きをもっていた。リョウを殺せば自分はフェイに殺されずに済む。欺瞞とも思える浅はかな考えがティアの頭を横切っていく。本当なのか、嘘なのか、それを判断するだけの心の余裕はティアにはない。ティアはリーフの腰ベルトに付いた剣を虚ろな表情で鞘から抜いた。そして、片膝をついて立ち上がると、剣を体の軸に直角になるように構えた。そのまま突進したらリョウを殺せる。
「ティア、リョウを殺してしまえ。お前は自由だ!」
遠くでフェイの声が聞こえる。そう言って、リーフの命を奪ったのは誰だったのか。今、本当にしなければならないことは何だったのか。ティアの瞳が蝋燭の薄暗い明かりの中鋭く煌めいた。
「リョウ! この剣でリーフのために戦って。虫が良すぎるってことも判ってる。でも、頼れるのはあなたしかいない……」ティアは剣を素早く持ち帰ると、リョウに手渡した。
「ああ。……お前の思惑は外れたぞ。次はどうする」
「どうもしないさ。面白いショウが観られなくなったのが少々残念だがね。身内同士の争いというのも……また、いい」
「御託はやめろ。……フェイ、剣を抜け。――どうやらお前を信頼していた俺が馬鹿だったということらしいな」リョウは静かに、しかし、心のうちに怒りの炎を燃え上がらせていた。
「やっと、剣を交える気になったか」フェイはほくそ笑んだ。
一度、鞘に収めた剣をフェイは再び引き抜く。それはリーフの生き血を吸って輝きは鈍い。
「壁の燭台に火を付けろ、ティア。それぐらい、いいよな、フェイ」
たった一つの持ち運び用の小さな燭台に灯された明かりだけでは心もとない。リョウがいくら強いと言われても暗がりの中ではその力を完全に発揮することはできない。それはフェイとて同じことのはずだ。リョウは挑発する鋭い目付きで橙色に輝くフェイの目を見据えた。フェイは何も言わずにリョウの目を見詰め返す。その様子をリョウは肯定のサインと受け取り、ティアに火を付けさせた。辺りがぱっと明るくなる。因縁の舞台は完成した。
視界が開けるようになると、二人は改めて間合いを取った。静寂。燃える蝋燭の匂いと、苔の青臭い匂いが鼻を突く。ティアは地下牢の奥、リーフの亡骸の後ろの方に移動していた。二人が真剣にやりあえば、迂闊なところにいたりしたら巻き込まれる危険があるのだ。
フェイとリョウはお互いの瞳を見合ったまま、まだ動かない。
ほんのつい先程まで友人、仲間だと信じていたものと戦わねばならない。情があるだけに戦いづらい相手だった。リョウは心臓を締めつけられるような嫌な思いを抱いていた。戦い自体は嫌いではない。ただ、フェイはリョウの数少ない、本当に心から判りあえたはずの親友だった。それが今は志を異にする敵同士。最愛のリーフを殺した憎き仇。
(どうした、リョウ。何をためらっている。奴はもう何でもないんだ。黄泉の傀儡に成り下がったただの下衆野郎だ)
リョウは自分自身を納得させるかのように頭の中で呟いた。剣を引き抜き構えたうえで、躊躇する理由などないはずなのに次の一歩が踏み出せない。微かな希望なのか。フェイが正気に還るかもしれないという甘い考えがリョウの頭から出ていかないのか。両手からは汗が滲みだし、剣は微かに震えていた。裏切られようともやはり、フェイは失いたくない大切な友の一人だった。それがどこで狂い始めたのだろう。
そのようなリョウを見てフェイは行動を起こした。瞬間で間合いを詰めると、フェイはリョウの肩口に斬りかかる。ぼんやりとした淡い光に異質の白い光が入り込み、鋼のぶつかり合う鈍重な音が響いた。
間一髪でリョウはフェイの打ち込んだ剣を受け止めた。フェイの顔が近くにある。
「気を抜いている暇なんかないはずだ。今すぐ死ぬか、下僕になると言うならそれでもいいがな」
フェイは視線をティアに向け、リョウの耳元で囁いた。そして、体重を剣にかける。
「ふざけるな」息の詰まる苦しげな声でリョウは言った。「それにだ。そんな提案をするのならリーフを殺す前に言え」
「また、それか――? 余程リーフが愛しかったと見える。下らんな、お前ほどのものが」
蔑みとも哀れみとも取れる表情にフェイの顔が歪んだ。リョウはその言葉にカチンときた。今まで、理性で押さえ付けていたはずの何かが弾ける。それはためらいという名の同情。リョウがフェイに向けてきた自身も気が付くことのなかった感情。それが他愛のないはずだったたったの一言に崩れ去った。今、リョウに思い出させてはいけないものを呼び覚ましてしまったのだ。
理性で辛うじて抑制されてきたリョウの力が暴発する。
「どけ!」
怒声とともにリョウは両腕に有りったけの力を込めた。剣の刃が擦れ合う音が地下牢に響く。リョウを押していたはずのフェイの剣が徐々に押し戻されていく。いくら力を込めようとももう、リョウの剣を押し戻すことはできない。フェイは剣ごと後方に飛ばされた。それでもなお、足を踏ん張り転倒することだけは防ぎきった。しかし、動揺は隠せない。“リーフ”という弱点を攻めれば脆くなると踏んだが、そう単純でもないらしかった。フェイは訳の判らない自尊心を傷つけられたようで不機嫌な感情を前面に押し出し、そしてまた悔しさを瞳に映し出していた。
フェイがリョウに戦いを挑んだ理由。それはリーフをリョウに奪われたと思い込んだ瞬間からの蓄積。フェイの思い違いの復讐への発端だった。人知れず事態は進行した。
一度は恋した女、リーフを手にかけ(これは偶然にすぎなかったが)、リョウをも殺そうとした。フェイにとって黄泉の復活とは復讐を果たすための絶好のチャンスだったのだ。しかし、頼りの黄泉はまだ完全に覚醒したわけではない。全てを手に入れるためにフェイは奔走した。それは今日、黄泉の復活とともに果たされる。
地下牢の雰囲気が何の前触れもなく急に重苦しいものに変わった。それは一度、喫茶店シャロンで味わったものに非常に似通っていたが、微妙に何かが異なっていた。二、三日前に感じたそれよりもより強大に、パワーを感じるのだ。
〈フェイ……〉陰湿な声色が狭い地下牢一杯に響き渡った。〈鼠の相手などいつでも構わん。私の元に来るのだ。復……活の時は間近だ……。ピクサスでは駄目だ。お前が私の近くにいろ〉
フェイはそれ見たかというと言うような顔をした。
「――黄泉か」どこから聞こえるのか判らぬ声はリョウにも聞き覚えがあるものだった。何も知らないティアだけが主のいない声に困惑気味にオロオロと辺りを見回していた。
〈クレアの一族……。あの時の威勢のいい若者だな。どうだ、私の言う通りになっただろう。貴様はシャロンを殺せなかった。私が蘇るのは運命の定めたこと。――シャロンが私の手元にいるかぎり、止めることは叶わぬぞ。それでも貴様は私に挑むのか?〉
「ああ、そうだ。まだ、負け戦とは決まってはいないんでね」
〈どちらでも好きにするがいいさ、もがくものよ。貴様らがいくら足掻こうとも水面に波風を立てることすらもできはしない。――さあ、フェイ。我が元に来い〉
「御意のままに」フェイは大きな声で返事をする。「お前を倒すのはまた、次の機会だ」
「行くな! お前は黄泉に騙されているだけだ。利用されているだけだ。まだ、間に合う」
先程までの戦いの理由を忘れて、リョウはフェイを呼び止めようとした。だが、リョウの言葉は届かずに重圧感のある空気の消失とともにフェイの姿は掻き消された。そこに誰かいたという証拠も一かけらも残さずにいなくなった。リョウは黄泉の魔力がこれほどまでとは思っていなかったのか、しばしフェイのいた跡を精気なく眺めていた。
それから、リョウは怯えて震えているティアの方に向き直った。
「行くぞ! ティア。己の行いを悔いるならば、それを行動で示せ。その手でシャロンを奪い返せ。色んなことが渦巻いているが今はそれしか考えるな。シャロンを俺たちの手に戻さないかぎり奴は蘇る。それが奴の言ったようなことにしかならなくても、しないよりましだ」
リョウはティアの返事など待たなかった。リーフの言い残したもう一つの地下室を探し出すために階上に行こうとした。リーフの死に報いるためにはそれしかない。
と、去っていこうとするリョウの背後から声が聞こえる。
「リーフの体は?」その言葉がティアの口を突いて飛び出した。
「……後で運びに来る」ティアの顔さえ見ずにリョウは言った。自分の恋人が親友と信じていた男に殺されたというのに心の揺れをほとんど見せなかった。リョウが心のうちで実際に何を考えているのかティアには判らない。ただ、リョウの背中には背筋の冷たくなるような冷徹さが漂っていた。それが感情を押さえ付けた姿なのか本性なのかはティアには全く判らなかった。 |