sharon

09 鍵……たった一つの鍵……。それが道を切り開く。


 

 リョウは立ち止まったティアを無視して一気に階段を駆けのぼった。何しろ時間がないのだ。戦意を喪失したものを構っている暇はない。しかし、さて、困った。リョウはリーフの言っていた地下室の場所を知らない。左右を見て、立ち止まる。 
(……何時、誰が何のために造ったのか判らない地下室か。そうは言っても、黄泉を意識して造ったことにほぼ間違いないだろう。――ティアなら知っているか?) 
 そこへティアがあがってきた。ようやく、リーフの死を吹っ切ったらしかった。 
「ティア、リーフの言っていた地下室の場所を知っているか?」 
「知らないわ。フェイは何も教えてくれなかった」すまなそうにティアは言う。 
「そうか……」しかし、リョウは大して気にしているふうでもない。「と、なると少々厄介だな。だだっ広いシャリアン城のどこにその入り口があるのか。長年詰めた俺でも判らぬ場所、一介の兵士などが立ち入ることのできないところだな。――領主様のお部屋というわけだな。行くぞ」 
 リョウはほくそ笑んだ。得物を狙う獣の目だ。確信をもち絶対に逃さないという決意を秘めた顔をする。フェイの処遇に対して揺れる心はついに決した。黄泉に自らの意志で取り入ったフェイに情けを掛ける必要はない。フェイにその罪を償わせ、黄泉を冥府に屠るのだ。シャロンを取り返すのだ。 
「ピクサス、いや、フェイか? ともかく、お前らの手からシャロンを取り返して見せる。お前らの好き勝手にはさせない。ティア、来い! 頼りになるのはもうお前しかいないんだ」 
 ティアの目が涙に潤んだ。いくら、リョウやリーフのためを思ってしたこととは言え本来は許されぬことだ。しかも、結果的にクレアに不利な要因を増やしてしまったのだから。だが、リョウはそんなことにいつまでも囚われていなかった。味方は一人でも多いほうがいい。 
「ありがとう、リョウ」ティアは左手で涙を拭った。 
「別に感謝される筋合いはない。さっきも言ったぞ。後悔しているならその行動で示せとな。……全ては成り行き上そうなっただけのことだ。お前だけが悪いわけではない。ただ、そう、俺はお前の気持ちに偽りはなかったと信じている。それだけのことだ……」 
 もっと気の利いたことを言えないものかと思うが、口から出た言葉はそれだけだった。泣いている女は苦手だ。泣き声や涙をすする様子を見たり聞いたりすると思っていることも喋れなくなる。 
「……お涙ちょうだいは終わりだ。泣きたいのなら後にしろ」 
 不器用にリョウは言って、駆け出した。ピクサスの部屋を目指す。リーフの残した唯一つの手掛かりを元に地下室を探す。リョウたちは以前にシャロンの捕らえられていた“貴賓室”の一階にいた。階段をそのまま上がれば無論、そこに出るわけだが、この階段からはピクサスの部屋には行けないようになっていた。ピクサスと言えども伊達に公爵をしているわけではない。不審者を近付けないための警備は厳重だ。他の上り口に行かなければならない。 
(ピクサスの私室は確か……、二階だったな。成り金趣味の、悪趣味な扉が目印だったような) 
 城内に十数はある階段から一つを選ばなければならない。リョウの記憶によればピクサスの私室にまで通じているのは二つか三つしかないはずだ。隠し通路もあるだろうがリョウは知らない。勘だけを頼りに進まざるを得ない。しかも、私室に辿り着けたからと言って必ず儀式の間に行けるとは限らないのだ。リョウは僅かに焦りを感じていた。黄泉がフェイを呼び寄せたのは儀式が始まろうとしているからにほかならない。 
 程なく、リョウたちは正面ホールにまで来ていた。頼りない記憶の糸を手繰って奥へ向かう。床は二日前にこの場で戦いがあったことなどなかったかのように綺麗にされていた。 
(全てが幻だったら……)ティアは思った。(悪い夢で目が覚めさえすればいつもと変わらない日常が待っていてくれれば――) 
 そうはならないことはティアもよく判っていた。しかし、考えずにはいられなかった。 
「ティア? 何かおかしいと思わないか」妙に緊張した面持ちでリョウが言った。「常駐のはずの警備兵すらもいないぞ。俺たちみたいのが地下牢にいたというのに、看守もいなかったよな。来たのはリーフと後を付けてきたらしいフェイだけだった。どういうことだ?」 
 リョウの言葉を聞いたのか廊下の交差する場所から銀の鎧を身に付けた男が姿を現した。 
「全員、町に派遣したのだ。ピクサス様直々の命によって一人残らずな」 
「何だ、軍団長殿か」特に慌てる様子もなく平素にリョウは言った。攻撃してくる素振りを見せなかったからだ。「兵たちを町にやっておいて、軍団長殿がこんなところにいていいのか」 
「フン、余裕だな。それだけ己の剣に自信があるわけだ」剣を腰に下げたままお喋りをする軍団長をリョウは眉を顰めて、訝しげに見詰めた。「随分、不服そうだな。俺は何もお前らを殺そうというのではない。どうせ、お前らはピクサスの地下室を探しているのだろう。それを教えてやる」 
「何故? あなたは正規軍の軍団長なのでしょう」ティアだ。 
「……理由は多分、お前らと同じだよ。黄泉を復活させシャリアンを冥府に沈めようとしている奴に従えないね。――この俺でさえ、黄泉の声を聞いたときは震えたものだ。神々の世界を滅亡に追いやったと言われる邪神に魅入られ、狂気に満ちた奴の目を見てしまったのだよ……。あの若造といい、ピクサスといい狂ってやがる。町を冥府にしてしまったら俺たちの居場所がなくなる!」 
「黄泉に魂を売り渡した連中には関係ないのさ。奴ら自身が冥府の住人になる。ティアも判っているだろう」リョウはティアの顔を一瞬見た。「黄泉の波動が、闇がこの町を呑んでいる。シャリアン全体が徐々に冥界に寄っていっているのさ。黄泉が復活すればこの辺り一帯は冥府になる」 
「いくら、ピクサスに忠誠を誓っても邪神に魂は売れない。俺には待っている家族がいる」 
 軍団長の意外な一面を見たような気がした。悪者そうに見えながらも心は澄んでいる。 
「成程。で、軍団長殿の部下たちは黄泉に魅入られ町を冥府に沈めに行ったか。ますます、厄介なことになってきたな。町はもう元通りにならないかもしれない。――それで地下室はどこだ」 
 リョウは短めに話を切り上げると軍団長の提示してきた話題に戻った。信頼できるかできないかは別にして聞いてみるだけの価値はありそうだと判断した。場所を間違えてから改めて探しているほどの時間はなさそうだ。頼りない記憶よりは幾分ましになるだろう。 
「……お前も大方の予想は付けていただろう。ピクサスの私室から下に降りる。あの悪趣味な肖像画があるだろう。あの裏に隠し扉がある。それから」僅かの間、軍団長の言葉が滞る。「奴の部屋に入るには鍵が必要だ。奴の部屋の扉は特別製だからな。お前の持っているような剣では壊せん」 
 軍団長はリーフの剣に視線を落として言った。それから、リョウに自分の持っていた鍵を投げ渡した。チャリと言う音がして、鍵がリョウの掌の上に落ちる。どこにでもありそうな何の変哲もない鍵だ。これならばピクサスの私室の鍵だとは考えにも及ばないだろう。そんな形状だ。 
「この鍵はピクサスと俺しか持っていない。俺はもう裏切りもと言うわけだ」 
「いいのか?」リョウは少々心配げに言った。 
「今のお前に人のことを心配している余裕があるのか。どちらにしろ、俺は邪神を魂を売ってまで生き永らえようとは思わない。……一度はピクサスに信用を回復させたいとも考えたがな。あの赤く不気味に燃える瞳を見てしまってからは……もう駄目だ。狂った瞳を見ちまった」 
「ああ、そうだな。奴らは狂っている」 
「だから、俺は下ろさせてもらった。後はお前らの好きなようにしたらいい」 
「なら、どうして私たちに鍵を渡すの。あなたは一体何なのよ。騙してるんじゃないの?」 
「……お前らはクレアの……一族なんだろう。確か。黄泉の封印を守護するもの。黄泉の復活を阻止する命を受けた存在。本当かどうかは知らんがあの若造が言っていた。と、すると鍵を渡す相手は自ずから決まってくる。それに今更、騙しても意味なんかないだろう」 
 どうやら、軍団長の言う“若造”と言うのはフェイのことらしかった。リョウとティアがクレアの一族であることをしっているのはこのシャリアン城ではリーフとフェイしか知らぬことだった。 
「だが、ティアの言うように軍団長殿を信用する根拠などどこにもない」リョウはあくまで慎重だ。 
「ほんのさっきまで敵だったからな。いきなり信用しろと言っても無理な話しか。あの若造に出し抜かれたばかりだしな。だが、俺はあの若造ほど腐っちゃあいない。たまには間違うが俺は俺の信じている方向にしか手を貸さないことにしている。……俺の信じたのはクレアの一族。俺は生まれ育ったこと町を闇に呑ませたくない。そう思ってもな、兵たちはほとんど黄泉に魅入られ、残った奴らは辛うじてどこかに身を隠したか、消されちまったよ。この町を狂気の縁にいるピクサスから救えるのはもう、お前らしかいない……」 
 ガックリと肩を落として軍団長は言った。シャリアンを守るためにいるはずの正規軍はその本来の目的のためには役に立たないことが辛く、哀しいようだった。信じていたはずの部下は既に軍団長の命に従わなくなっていたのだ。だから、彼だけが置き去りにされてここにいた。 
「……判った、それだけで十分だ」リョウは言葉少なく言った。長く言葉をつないだところで彼を慰めることなどできない。「ティア、急ごう。町が猛獣どもの手に落ちる前にけりを付ける」 
 リョウは再び、ピクサスの私室に向かって駆け出した。今度は軍団長の情報も仕入れただけにかなりの確信がある。ピクサスの部屋から儀式の間に行けることはほぼ確実だろう。しかし、かなり以前の段階で正規軍が軍団長の手から離れていたと考えると彼の手にしていた鍵がピクサスの部屋の扉を開けるために使えるのかは疑問が残るところだった。 
「ねえ、リョウ。あなたはあの軍団長の言うことを信じるの。罠かも……しれない」 
「……今は信じるしかないだろう」ティアに背を向けたままでリョウは低い声で言った。 
 硬い石の廊下を駆け、城の中央付近の階段を上る。ここまで来るには四、五重の防衛戦を突破しなければならないのだが、兵は配置されていなかった。軍団長の発言通りに正規軍兵士はシャリアン市街地に派遣されているのかもしれない。階段で二階に上がると右に折れる。そのまま廊下を突き当たりまで進めば、そこがピクサスの私室のはずだった。 
「ここだな、多分」 
 私室の扉は質素に作られていた。そもそもここは公爵の私室として使われてきた部屋ではなかった。従来、公爵の私室は四階に広く取られていたのだが、ピクサスが部屋の位置を変えたのだ。彼の用心深い性格がそうさせたのかどうかは定かではないが、何かがあったらしいことは確かなようだ。そして、地下室を見つけたのだろう。そう考えるとピクサスが部屋を換えた前後からシャリアン城の雰囲気がおかしくなった感じがあった。或いは黄泉がそう導いたのかもしれない。 
 リョウは軍団長からもらった鍵を懐から取り出した。鍵を鍵穴に合わせる。確かな手ごたえがあった。緊張が走る。扉の向こう側に正規軍が息を潜めて隠れていないとは限らない。もし、そうなっていたら全巻のおしまいとなってしまう。色々と賭けてきたものが無駄になる。しかし、開けなければ終わらない。緊張で震える手でリョウは鍵をおもむろに回した。ガチンと鍵の開く音がする。その音がシャリアン城全体に響いたような錯覚にも囚われた。 
 緊張の一瞬。リョウはドアノブを握り締め、すぐ横に立っているティアを見た。準備はいいか、と目で合図を送る。ティアは黙って頷いた。準備オーケーとは言ってもティアは何も持っていないのだが。心構えだけはしておく必要がある。 
 リョウは扉を思い切りよく開け放った。僅かな空白。その豪華な調度品に彩られた部屋に人の気配は全くなかった。リョウたちにとってそれは喜ぶべき状況なのだが、却って気味が悪い。 
「どうやら、罠ではなかったな」リョウはピクサスの部屋に踏み込んだ。「……趣味、悪いな。これで公爵だからな、始末が悪い……」ぶつぶつと文句をたれながらリョウは問題の肖像画を探す。 
 この部屋は幾つかの部屋をぶち抜きにして作り替えられているようだった。客間にしては妙に広く、そこに用意された調度品なども無論、ピクサス好みのものになっていた。 
「リョウ! 肖像画があったわ。……軍団用の言ったように悪趣味なやつが」 
 リョウはティアの指差したほうに首を向けた。そして、絶句。リョウの目に飛び込んできた絵はとても肖像画と言える代物ではなかった。色使いは斬新であり、構図は大胆且つ美麗。しかし、その評価は抽象画だったらの話だ。どこをどう見てもその絵はピクサスの肖像ではなかったし、歴代公爵の肖像にも見えなかった。芸術に疎いリョウには絵の具の線がうねっているようにしか見えない。色は赤や紫を主体としていて全体的にケバイ印象を与えていた。 
「――まあ、いいか。どうせ、芸術的な価値なんかでないだろう。下がれ」 
 そう言うと、リョウは剣を振り上げてキャンバスの中央にバツ印を描くように切り裂いた。すると、隠し通路が不気味な黒い口を覗かせた。顔を突っ込んでよく覗いてみると、それは通路というよりも壁と壁の狭い空間に作られたはしごだった。 
「ティア、お前はこの場に残れ。ここから先は俺一人で行く」 
「な? リョウ一人で行って何をどうするって言うのよ。後悔してるなら行動で示せと言ったのはリョウじゃないの! あれは何だったのよ」 
「これ以上、仲間を失うのを見たくないだけだ。それに俺にはこいつがある」リーフの剣をリョウは持ち上げ、それを見詰めた。「……こいつがあれば俺は負けない――」 
 ティアに言葉はなかった。リーフを殺させてしまったのは自分のせいだと思っていたから。リョウを止める言葉は見付からない。リーフの剣をベルトにくくり付けて、はしごを降りて行こうとするリョウの姿をティアはなす術もなく見詰めていた。 
 リョウの心の傷はティアの思っているよりも深いのかもしれなかった。