sharon

11 狂った歯車……動き出した運命は誰にも止められないのか?


 

 四つの生きた瞳と二つの生死の境界線上を彷徨う瞳に見詰められながら戦いの幕は落とされた。リョウに残された時間は少ない。可能なかぎり急がなければ全てが水の泡になる。 
「――黄泉様に力を授かったこの俺にお前が勝てるはずはない」 
 リョウはもう、何も言わない。何度も引き留めても聞く耳を持たなかったフェイに言う言葉などないのだ。リーフの死さえどっかにやって、フェイの心を現実に引き戻そうとしたのにできなかった。そうなれば、フェイは単なる仇に過ぎない。 
「どうした、リョウ。かかってこないのか?」剣を体の前でひらひらさせる。半分、リョウを馬鹿にして、半分、余裕のあざけりの姿だった。「俺に敵わぬと観念したか? ハハ? 命をもって罪を償えと言ったのはお前だぞ、リョウ。俺にほんの少しでも傷を付けなければあの世でリーフに会わす顔がないんじゃないのか」 
「……弱い奴ほどよく吠える」 
 ぼそっとリョウが言った。フェイにその声は聞こえなかったようだが、黄泉には届いたらしく左の唇を釣り上げてにやりとした。それから左手で顎を撫で、興味津々と言った様子で二人を見る。黄泉の目から見れば二人の実力差は歴然としていることが判る。剣術は力だけではなく、技術の勝負でもあるのだ。力で押すだけでは駄目なのだ。 
「お前から来ないなら俺から行く」わざわざ、説明してどうするとリョウは思う。 
 フェイとリョウの視線は互いの瞳の奥を貫いて動かない。一瞬たりとも目を離せば確実に刃が飛んでくる。どちらも相手の僅かな隙を見付けだそうと、作り出そうとしているのだ。集中力が先に切れたほうが後れを取る。相手の隙をつくるために自分が動けば自分の隙をもつくってしまうかもしれない。じれても迂闊な半歩を踏み出すことは危険なのだ。 
 そして、先にしびれを切らしたのはフェイだった。 
 彼の剣術には技に裏打ちされた切れがない。洗練されていない剣さばきからどこに振り下ろされてくるのか見当がついてしまう。リョウとフェイの剣が彼らの体の正面で十字に交差し、橙色の火花が散った。ぎりぎりと鋼の削れる耳障りの音が力のせめぎ合いを周囲に知らしめている。それ以外に二人は行動を起こさない。フェイは下唇を噛んで悔しげな雰囲気を僅かに醸し出しているが、リョウは冷静にフェイを睨み返していた。この状況においてはほんの少しフェイが有利そうだ。剣は押されてリョウの顔すれすれのところにある。 
「お前の実力はこんなものなのか」フェイは地下牢で負けそうになったことも忘れてリョウを挑発する。「本気を出せ……」黄泉の力に影響されてすっかりその気だ。 
「フェイの本気は所詮この程度のものなんだな。――こんなんだったら、リーフを正面切って倒せないはずだ。言っておくが、リーフの実力はお前の“本気”以上のものだ。背中から刺さなければやられていたのはお前の方だ」ドスの利いた声色でリョウは言う。「……いい気になるな」 
 そう言った次の瞬間、リョウはフェイの剣を押し戻し形勢逆転となっていた。フェイの顔が怒り歪む。プライドを傷つけられたと思ったらしく、目付きが変わる。余裕の笑みのあった明るい目付きからそんなものは消え失せた真剣さとはまた違うただ突き刺すような目付き。己の力を過信し、それに気が付かない哀れなものの目付きかもしれない。 
 フェイは身を右によじりながらリョウの剣をかわす。リョウの剣は空を切らずに止まると体勢を整えた。最初に戻る。しかし、精神状況を考えると圧倒的にリョウが有利になっていた。常に心を安定させようとするリョウと、感情に身を任せて行動を起こすフェイとの決定的な差がここにある。リョウは危険を低減させる術として感情をコントロールする精神力を身に付けていた。 
「リョウ、お前だけは許さない……。お前は俺から何もかもを奪っていった。軍団長の信頼も、リーフも、お前が城に来てからおかしくなった!」 
 感情を露にする。リョウは無言。フェイは剣の柄を両手で握り、下段に構えた。アクションが大きいのでリョウにはフェイがどこを狙ってそのような体勢を取るのか判ってしまう。冷静を欠いたほうが負けだ。フェイは剣をそのまま体の右側から振り上げ、脇の辺りに構えた。 
「死ねー」怒鳴ってフェイは行動を開始した。 
 その声を聞いた直後、彼らの勝負を見切ったかのように背を向けた。そして、口元を歪める。 
 血走った目をして、髪を振り乱し、自分がどんな目的でリョウを打ち倒そうとしたのかも忘れて剣を下ろす。そこには何もない。今、剣を振るっても得られるものもないことに気が付いていない。全身の力を込められて振り下ろされてくる剣をリョウは軽くあしらった。力だけであるだけに剣で力の方向を変えられてしまうのだ。フェイはバランスを崩し片膝をつきそうになる。 
「――自分の実力をわきまえて行動しろ。力だけに頼るとこうなる」 
「何?」フェイは逆上した。「俺のどこが力に頼っている。ふざけるな!」 
 同時にフェイは攻撃を仕掛けた。崩れた体勢も建て直さずにそのまま、まるで剣術を知らない子供のように。フェイはリョウの敵ではなかった。襲い掛かってくる剣を剣ではじき飛ばす。剣はシャロンの近くに立っているピクサスのところにまで飛んでいき、床の継ぎ目に刺さった。リョウは容赦しない。容赦しなければならない理由など見付からなかったのだ。剣を飛ばした後、すぐに剣を引き戻し、呆気にとられているフェイの脇腹を狙う。勝負はついた。リョウの剣はフェイの脇腹を確実にとらえ、肉をえぐった。フェイの呻き声を聞く。しかし、勢いに任せて失速するまで剣を振る。それは背骨に当たって止まった。フェイは崩れ落ちる。 
「……あの世に行ってリーフに謝罪してこい」 
〈意外にあっけない勝負だった〉背中を向けたまま黄泉は言った。〈もう少しは使える奴だと思っていたのだが、全く役に立たなかった。形ばかりで中身のない奴はこれだから困る。――そうは思わぬか〉黄泉は頭を後に向けると冷たい視線でリョウを見た。 
「……お前か。フェイをそそのかしたのはお前なのか」 
〈正確を記するのならばそうではない。フェイとか言ったか。奴の邪の部分が私の波動に反応しただけのこと。私の波動など奴の心への切っ掛けに過ぎない。私は今の今まで人間界に直接の影響をもたらすことはできなかったのだから。――どちらにしろ力の使い方の判らぬ奴のことなど忘れてしまえ。お前の恋人の仇だったはずだろう〉 
 どこでそんな情報を仕入れたのか、途中から黄泉は笑いをこらえ切れない様子で言った。リョウは瞬間に淋しそうな表情を見せた。だが、あっという間に気を取り直すと黄泉に吠えた。 
「冥府に帰れ。この世界はお前に用事はない。帰って大人しく、その赤い目を閉じて寝ていろ」 
 空気が暗転する。先程から黄泉の存在自体が出していた、リョウ自身も感じたことのなかった狂ったような、この場にいるだけで冷や汗が体中の汗腺という汗腺から吹き出してくるような嫌な雰囲気がより強くなった。シャリアンがまた冥府に近付いたのか、それもとも黄泉を怒らせただけなのか。どちらにしてもリョウの行き場のない感情のうねりは高まってゆく。 
〈気の強い奴だ。ジャンリュックの地下室で発言を聞いた通りの奴だ。……だが、封印は解けてしまった。解けてしまった以上は私もただでは戻れないのだよ。その上、封印を仕掛けた女神の末裔はいない。その血全てに念を込めなければ私を封印することなど叶わぬ。何か妙案でもあるか〉 
 赤い瞳が深紅に染まる。少なくてもリョウにはそう見えた。全てを見透かされてしまっている。あのことすらも隠しとおせてなどいやしないのだ。知っていながら知らない振りをしているだけ。別に騙そうとしているわけでもなく、ただ、リョウの反応を見て楽しもうとしているようだった。 
〈隠してどうする。お前はクレアの一族。私の封印を守るためだけに存在してきた。……そして、お前がこの上まで連れてきた娘は……片割れ〉 
 リョウは心臓を射抜かれるような感触を覚えた。けれども何も言わない。 
〈顔色がすぐれなくなったな、若造よ。誰も知らなかったのだろう。お前もつい先程までは気付かなかったようだしな。きっかり三千年目の新月の日に全てがここに収束するように運命づけられていた。双翼の天使も、お前も、そこにくたばっているや奴も、そして、私の力を手に入れる野望をもちながらも、最後の勇気がない哀れな男〉黄泉は動けないでいるピクサスを突き刺すように見た。が集うことも決まっていた。それは僅かな揺らぎすらもなく現実のものとなっていく。まもなくここは冥府になる。その序曲は始まっているのだよ。……さあ、ピクサスよ。己が手でその娘の腹を割きその肉を喰らわば冥府に沈んだシャリアンの主にしてやろう〉 
 黄泉の腹まで響く低き声が自分に向けられたことに気が付くとピクサスはびくりと体を震わせた。そして、自分の前に飛んできたフェイの剣に視線を向けぼーっと眺める。しばらくして、自分が右手に短剣を握ったままでいたことを思い出した。右手を目の前にもってきてシャロンの血に染まった短剣を注視した。 
「フ。フフ、これで私は黄泉様の力を手に入れられる」ピクサスは狂ったような顔つきで、ふらつきながらシャロンに近付いていく。「そうだ、私が、フフ……フ、私がこの世界の支配者? だ。絶対だぞ、……絶対的な権力だ。誰も私に――逆らうことはできない」 
 のろのろと手を上げ、どす黒い赤に染まった衣服を切り裂く。 
「やめろ! ピクサス。シャロンに手を出すな」 
 リョウは怒鳴った。だが、ピクサスの行動を制することはできない。狂気に彩られた彼の耳にリョウの声など聞こえていない。リョウは黄泉を牽制しながらピクサスを止めようとしたが、どれだけの実力がるか判らない相手に大きな隙を見せられない。 
 と、リョウの背中から剣が空気を切り裂く音を発しながらピクサスに向けて飛んでいった。背中だ。角度も計算され尽くしどうあってもシャロンには傷付かないようになっていた。それも瞬間的な出来事だったのでリョウにもよく判らない。何者かの剣がリョウの視界に入った次にそれはピクサスの背中を貫き、左の脇腹辺りに突き出したいた。しかも、ピクサスを貫いただけでは足りずに体を壁に打ち付けるまで止まらなかった。 
〈誰だ、私の邪魔をするのは〉シャロンの壁を見ていた黄泉は入り口に向き直った。 
「軍団長。何であなたがこんなところに?」 
 一番驚いたのはほかならぬリョウだった。味方などもういないものと思っていた。冥府に沈みかけたシャリアンに邪悪の影響を受けず、なおかつ、黄泉に怖れをなさないものは数少ない。 
「何故かは判らん。ただ、お前らを残してそのままシャリアン城を去ってはいけないような気がしたのだ。ここは俺の町だ。どこの馬の骨とも知らん奴にこのシャリアンは渡せない」 
〈言いたい放題言ってくれるな、軍団長とやら〉黄泉は目を細めて突然の来訪者を不快そうに眺めた。〈……だが、そう。いいことを教えてやろう。冥界に位置を移しつつあるシャリアンは簡単に元に戻すことはできぬ。私の意志とはもはや無関係に、この町の人間どもの負の感情がシャリアンを冥界に沈めてゆくのだ。その感情、怒り、絶望、不安、お前たちは理由の判らぬ恐怖に戦慄く人間どもを安堵させられるのか〉不敵な笑みを浮かべて黄泉は言う。 
「さあ、知らないね。俺の興味のあるのはお前を封印することだけだ。リーフもフェイもシャロンもお前が封印のそこで大人しくしていたら傷付かずに済んだ。……お前が憎い」 
 リョウの中に憎悪の炎が燃え上がる。今の今まで押さえ付けてきた何かが切れる。力をセーブする理由はなくなった。リーフを殺したフェイでさえも赦そうとした甘ちゃんのリョウだったのに。 
〈私は今すぐにでもお前を捻り潰せるのだぞ。一人で何ができる。いくら、粋がって見せたところで所詮お前はひ弱な人間に過ぎぬ。運命は変えられぬのだよ。人間の時代は終わりを告げ、魍魎たちの時代が始まる。……それでもお前は戦いを挑むのか。勝機などありもしない〉 
「お前は勘違いしている。……俺は一人じゃあない。それに勝機はあるものではなく作るものだ」 
 運命の歯車は静かに狂いだしていた。それぞれの思いとは無関係に。黄泉を魔力を得ようとしたはずのピクサスもフェイも亡く、全ての後始末はリョウに回ってきた。それは因果律なのだろうか。黄泉の言ったように最初から予定されていたことなのだろうか。終末は無情に迫ってくる。