07. calling angels(天使召喚)
古の記録。それはリテール協会が地域信仰を呑み込み影響力を増大させていた頃に完成された魔法だと言う。天使召喚術。トリリアンが協会の圧力から完全に逃れるためにはもはやそれしか手段は残されていない。かつて、協会がしたように天使を使役し、トリリアンが協会を後継するに相応しいことを世に示す。
一三〇三年、十四世紀初頭。一二九二年に協会五本山の一つであるシメオンが崩壊し、協会は権威失墜の憂き目に遭った。色濃く残る魔力の影響でシメオンでの本山再建はままならず、協会はテレネンセスを新しい本山に定め千年以上も前に打ち捨てられた街に新たな息吹を吹き込んでいた。かつて、協会レルシア派の礎を開いたレルシアが生まれた街に。
その頃、トリリアンと言えば第四代・ソノア総長の時代。先代、グレンダ総長の協会を瓦解させるための作戦は完全ではなく……シメオンの街自体は完全に瓦礫の山となってしまった……、トリリアン自体への被害もそれなりにあったが、トリリアンの宗教的価値を高め、協会を貶める効果はあったようだ。
しかし、それでもリテール協会の存在は圧倒的で、トリリアンが付け入る隙はほとんどなかった。だから、ソノアは一枚の手札を引いた。天使召喚術と言う名の禁断の魔法を。
「――それでは始めましょうか……」
ソノアは厳かに言った。
部屋の床には一面に巨大な魔法陣が描かれていた。古代エスメラルダ文字により呪文が描かれた外周円、それに内接する六芒星、さらに六芒星の内側に形成される正六角形には通常、閉じられた右目が描かれる。
魔法の復元に間違いはないはずだ。万が一にでも復元の間違いがあれば、大きな魔力を扱うだけに協会を中心とした一帯が綺麗さっぱりなくなってしまうだろう。しかし、成功したら、トリリアン復権への大きな一歩になることもまた事実。
ソノアは壁際から中央に向けて進み出て、目の下の三角形部分で足を止めた。千年の時を隔てて蘇らせた天使召喚術が真の意味で蘇ったかを確かめるには実践する他ない。天候制御魔法どころではすまないほどの膨大な魔力を必要とするだけに失敗すると最悪の状況が展開される事になるだろう。しかし、これがうまくいけば、天使兵団を形成し、第二のリテール協会として君臨するのだ。
「親愛なる光の瞳よ……。我が前にココロを示せ……」
ソノアの声を合図に魔法陣の目の部分の下からそよ風が吹き上がった。初動はうまくいったらしい。召喚魔法を始めるにあたり、十分……とは言えないまでも最低ラインの魔力を確保出来た事だけは確かめられた。
ここから先は呪文の一つ一つが賭けだった。魔法は呪文の正確さよりも如何に実行する魔法をイメージできるかが鍵なのだ。が、天使召喚術がどのようなものであるかを知っているもの、完全にイメージできるものがこの場にはいないのだ。だから、補助的な役割でしかない呪文や、魔法陣に全てを頼る他ない。
「光の司祭の名において、古に共に歩んだはらからなる世への扉を開けたもう……」
ほわ〜っとした緩んだ空気が、瞬間で緊張感をはらむ。ソノアが呪文を発した時に、魔法陣のうちより立ち込めだした青白い霧のようなものは螺旋を描きながら上っていく。やがて、それは光の円柱に姿を変えた。しかし、その一部分はまぶたに妨げられる形で真円にはまだ遠く、書物に記されたような美しさを備えていない。
やはり、知識と道具を揃えただけでは足りないのだろうか。天使の召喚と言うものを具体的にイメージできなければダメなのだろうか。
大きな不安を抱きつつも、ソノアの呪文詠唱はさらに続く。
「星霜の彼方より語られし、あまたの世の架け橋を閉ざしたる者に告げる。我は解錠を望むものなり。描かれし眼の向こうに在りしもの、……サライよ。はらからなる世に通ずる架け橋を開放し、その証を示せ。かつての同胞、翼をもちし天のお使い天空に住まう異界の世。開放を望むはソノア……」
その刹那、風が湧き上がり、部屋を澄んだ不思議な空気が満たした。光柱は明度と力強さを増し、部屋を照らす。ソノアの前には瞳から天井に向けストレートに光柱が立ち上っていた。幅は人の肩幅二つ分くらい、高さは天井に遮られるまでの約四メートル。異界への架け橋が通じたに違いない。確証はないが、信じてみる他ない。
「さあ、こちら側にいらしてください……」
ソノアは光柱に語りかけた。古の書の通りならば、光柱に声をかける事で、異界の天使の何かを引きつけるのだと言う。それは精神の波長だったり、様々な要因が介在するらしいが、あまり細かい事は書物には残っていなかった。
「……心配には及びません。あなたに危害を加える者は誰もいません」
その瞬間、光柱が微かに揺らいだ。
光柱が揺らいだ瞬間には灰色のシミのようなものが見え、それは布に染み入る水のようにさ〜っと広がり、翼を持つ人の姿にまで成長した。まるで、それはバックライトに照らされたかのように人影が浮かび上がる。召喚は成功した。
「成功したようですね……」ほっとした声色。
魔法陣の上から薄く青みがかかった白い煙のようなものが晴れ、次いで光柱がぱっと消え失せる。次第に召喚された者の姿形が明瞭さを増してくる。背中から生える翼は黒っぽい色に見える。ただ、小さい。普通の天使であれば、人間と同じくらいの身長があるそうだが、今ソノアの目の前に現れた天使の影は何をどう見ても子供の背丈だった。
本当に天使なのだろうか。天使に見える小さな影は本当は天使ではないのではないか。だとしたら、そこにいるのは一体、何者なのか。
途方もない不安と疑念がソノアを支配した。
「――そこにいるあなたは……?」
「……ここはどこ? お母さんは? ママはどこ?」
召喚されたのはウサギのぬいぐるみを大事そうに抱えた女の子だった。不安そうに瞳をキョロキョロとさせ、すがるような眼差しを周囲に向ける。けれど、だれも女の子の視線を受け止めるものは誰もいなかった。
「……子供の……天使……?」
「魔法陣に供給する魔力が成人した天使を召喚するには少なすぎたのかもしれません」
天使を異界より召喚するには莫大な魔力が必要だ。リテールから遥か遠くの異界への通路を開き、さらにこちらの呼びかけに意識的、無意識的に関わらず反応した天使がリテールへ召喚される。そして、やはり、大人の天使、天使階級の高い天使を召喚するためには召喚するためにはこちら側にも非常に多くの魔力を必要とする。つまり、召喚できる天使のレベルは供給できる魔力に比例する。
それが大幅に足りなかったのだろう。かろうじて、女の子を呼べるくらいにしか。
「子供の天使などいるのですか?」
「知らん。だが、そこにいるのだから、いるのだろう」
「いえ、ですが、子供の天使が召喚されたという記録は一件もありません」
「なら、これが最初の一件だ。――しかし、子供とはいえ天使だからな。それなりに魔法も使えるだろうし、魔力も我々よりも大きいだろう。それだけで、十分に利用価値はあるのだよ。最悪、その娘自身が攻撃の旗手とはならなくても魔力の供給源として利用できる。それだけでも、我々は協会よりも優位に立てる。違うか?」
「それは……」
確かに、ソノアの言う通りだった。天使の魔力を手に入れる事で、リテールにおける宗教勢力地図が塗り変わるかもしれない。塗り変わらないまでも、協会はトリリアンに一目置かざるを得なくなるだろう。現状を考えれば、それだけでも十分と言えた。
「ともかく、今回は一応の成功を見ただけでも十分な結果だろう。……とりあえず、その娘をどこか部屋につれて行け。あとの事はそれからだ……」
総長の命令に従って、誰かが不安げな天使の子供を連れ出した。
「……ベリアル、少し付き合いなさい……」
落ち着いた口調でソノアは言うと、ベリアルを中庭へと連れ出した。人間よりも長く生き、実際にトリリアンにいるどの人間よりも年長のエルフ・ベリアルは知識の宝庫として重宝されされていた。彼女を相談相手とするのは総長たるソノアも例外ではなかった。
「――正直なところ、どう思う。ベリアル?」ソノアは唐突に切り出した。
「どう……と申されますと……?」
「言わずとも決まっているだろう」ソノアは少しだけもったいをつけた。「天使のガキを利用するのだよ。一人しかいないとは言えあれは大きな魔力を持っている。――天使を使いこなせれば、初期協会のような圧倒的な権力を得られる」
ヒトとはどうして、目先のことに捕らわれてしまうのだろうか。口にも、表情にも出さないが、あまりに長期的な視野を欠いているような気がしてならない。
「本気ですか? 天使とはいえ、まだ子供ですよ? 兵器利用しようなどとは非人道的です。わたしたちが追い求めた教えはこんな陳腐なものだったのですか」
ベリアルはそれとなくきつい口調で言った。ソノアが本気でトリリアンのことを考え、宗教と言うものを大事に思っているのなら、考えを改めるのではと思った。
「崇高な理念を実現するためには力が必要なのだ」
「それは判ります。しかし、わたしたちに必要なのは暴力ではありません」
「暴力?」ソノアは厳しい眼差しをベリアルに向けた。「暴力などではない。皆が神聖な天使という理想にかしずくのだ。全て、灰となるがいいっ!」
全てを灰にしてしまっではトリリアンを信じてくれる民さえいなくなってしまう。
「――少し興奮しすぎたようだ。……明日、早速、試してみる事にしよう」
それがトリリアン冬の時代の始まりだった。
*
期成同盟軍は一路、アルケミスタを目指していた。今のところ、トリリアンは動きを見せない。前面にたってアピールはしていないが、トリリアンも私設軍隊を持っている以上はこの街道筋に見張りなり何なりをたてているのは間違いないだろう。
だからこそ、トリリアンが動きを見せないことの方が気にかかる。
期成同盟の動きはすでにトリリアンに知れ渡り逃げてしまったと言う事も考えられなくはないが、逆にここから先の丘陵に隠れていないとは言い切れない。そうなってくると、にわか仕込みの軍隊にはきつ過ぎるので作戦の変更を余儀なくされる。
迷夢としても今回の戦は最小限の被害にとどめたいだけに思案のしどころだった。
状況の読みを大幅に外してしまうと、迷夢がある程度考えた方向に物事が進まなく恐れがある。これがうまくいかなければ、超短期間で決着を見る事が出来ずに、トリリアン、リテール協会を巻き込んだ泥沼の戦に陥りかねない。自分中心の迷夢と言えど、それは望むところではなかった。
「ねぇ、ウィズ。ちょっと、付き合ってくれない?」
迷夢は近くにいたウィズを見付けると、クイクイと指を使って呼びつけた。
「迷夢、どうせ、大した用事じゃないんだろ? 後にしてくれ。それに、指を使って呼ぶのはやめてくれないか? 俺はお前の手下じゃないんだぜ?」
「うん? だって、キミはあたしのお気になんだもの。呼びつけて当然よ」
「……どういう論理なんだ、それ……?」
「あらぁ? 女の子にそこまで言わせるつもり?」迷夢はウィズの肩を抱き寄せてウィズの耳元で囁いた。「わ・か・る・でしょ?」
「何だって、俺なんだ? 他にも大勢いるだろう?」
「さあ? 何でだろ?」迷夢はキョトとしたように言った。「でも、誰でもいいってワケじゃないのよ。それはもちろん、判るわよね?」
ウィズとて、それが判らないほどの朴念仁ではないが、こんなところでそんなことを言われても困ると言うものだ。そして、恐らく迷夢には他意はないはずだ。ただ単に面白がってウィズをからかっているに過ぎないのだ。
「なぁによぉ〜。その胡散臭そうな目付きはぁ」
不満たらたらに迷夢は言った。どうせ、ウィズの事だからそんな態度をするだろうと予想はしていたけれど、実際にそんな態度をとられたら何となく腹が立つ。ウィズには理不尽なことだが、迷夢には特にこれと言った不都合はない。
「胡散臭くもなるだろう? 大体、迷夢の言うこと自体、胡散臭い」
「あのね……。キミたちはその胡散臭いのの情報に従って行動してるってこと忘れないでよ?」迷夢は勝ち誇った笑みを浮かべた。「ちょぉっと言い過ぎかもしれないけどさ、キミたち、あたしがいないと何も出来ていないのよっ!」
「ぐっ」そこまで言われては何も言えない。
「だから、ちょっとそこまで付き合いなさい。別にとって喰おうってんじゃないからいいじゃん。と言うか、折角、真面目な相談事なのに……」
「だったら、最初からおかしな事を言わずに、真面目にしてくれっ!」
「いや、それだとキミの反応を楽しめなくて面白くないから」
あははと笑われて、ウィズは肩を落とした。正直、やってられない。どんな危機的状況になろうとも迷夢はこうなのだろう。実際、ウィズの記憶が自分の都合いいように覚え違いになっていなければ、迷夢は奇妙な楽天家でどんな強敵、難敵に出会おうとケラケラとしていられるたちのようだった。ハッキリ指摘したら、たちが悪い。
「ま、いいから、ちょっとこっちへ」
迷夢はウィズの落胆したようなガックリきたような様子に全く構わずに馬ごと道端へと引きずっていった。その間も隊列は一路、アルケミスタを目指す。
「で、ウィズさ。キミ、ちょっと、先走ってくれない?」
「は?」迷夢の意図が読めなくて、ウィズは間の抜けた声を出してしまった。
「いや、向こうも来ちゃったみたいなのよねぇ。天使が」
「はい?」もう、訳が判らない。
「ガーディアン到着にはまだ時間がかかるだろうけど。天使は空を飛べるから速いのよ。そりゃ、当たり前よね? で、天使はあたしが引き受けるとして、キミたち……というかキミの精鋭部隊に先走ってもらってガーディアンの出鼻をくじこうと思って。そこに、サム率いる本隊がぶつかればもー言うことなしっていうの?」
「はぁ……」迷夢独特の空気に呑まれて、ウィズはじーっと迷夢の瞳を見つめるばかり。
しかし、ゆっくりと回転し始めたウィズの脳みそは急速に迷夢の発言を理解しつつあった。一言で言えば、期成同盟の予想を裏切ってトリリアンが仕掛けてきたのだ。
「……つまり、先制攻撃を仕掛けるってワケか?」
「一応、そのつもりなんだけど。キミたちが先に行って、情報を持ち帰ってもらわないと正確な事は言えないのよねぇ。天使が単独で行動していると言えなくもないし……」
要約すると、行き当たりばったりと言うことらしい。迷夢らしいと言えば、迷夢らしいが、それをもとに作戦行動をとらされる方はたまったものではない。しかし、往々にして迷夢の意思決定が当たると言うのもまた事実なのだ。
「判った。今、お前が言ったことをサムに伝えて、俺は一小隊を連れて先に行く。そこでガーディアンに遭えば突っつき、伝令をよこす。それで、迷夢は天使にあたると?」
「ま、そゆこと。あぁっ、それからキミたちは久須那を連れていきなさい。あたしほどじゃぁないにしろ、一騎当千の強者には変わりないんだから」
「了解です。迷夢さま」ウィズは幾分冗談めかしてた。
それから、馬を本隊に向け手短にサムに経緯を話した様子を見せたあと、ウィズは数十騎を伴って本隊を離れて行った。さらにその後ろから、白い翼の久須那が追いかけて行くのが見えた。恐らく、ウィズの小隊はこれで何とか任務を果たせるだろう。
それから、サムが率いる本隊が追いつき久須那がいたら、期成同盟は楽勝はしなくとも善戦はするだろうと迷夢は踏んでいた。その当てが外れると、迷夢の立てた緻密な(?)作戦も木っ端微塵になってしまうだけに重要な局面だ。
そして、最大の課題は遠くからでもびりびりと波動を感じさせる天使の存在。
恐らく、あれはユーリスカ上空で迷夢と遭遇した時に何かを感じたのだろう。それが何なのか、流石に迷夢にも判らない。だが、迷夢が思うよりも先にあの天使の興味を引いたのは間違いないようだ。想定外には慣れているが、対天使になるとワケが違う。
と、あれこれ考えるのも面倒くさくなって、迷夢は上空に舞い上がった。
考えようが、どうしようが、あれがこっちに仕掛けてくるのは確実なのだから。
「……あなたがジェットね?」迷夢は言った。
迷夢と対峙する黒い翼の天使は迷夢を見つめたまましばらく動きを見せなかった。まるで、ユーリスカの空の上で遇った時と同じようだ。けれど、一点だけ違う。今回は極至近距離だ。一瞬の判断ミスが期成同盟をも巻き込んだ致命的な結果になるかもしれない。ギリギリの状況を数多く切り抜けてきた迷夢でも緊張は免れない。
「――。……お前が……迷夢か……」
「何だ、あたしのことを知ってるなら話が早いや。キミ、あたしのところに来ない?」
「……。興味はない。お前は……目障りだ……」
「目障りか……。ちぇ、ちょっと残念。じゃあ、目障りでなくなるまで。キミの眼に本物の天使を感じさせてあげる。もう……忘れちゃったでしょ。“本気”ってやつを?」
迷夢は意味深に悪辣な笑みを浮かべた。忘れたくても忘れられないように鮮烈なイメージを植え付ける。召喚されたのがソノアの時代と言うのなら、すでに二百年以上、天使と会っていない計算になる。その間、無くしたものが多くあるだろう。
「……さあ、かかっておいで。キミの役目はあたしを滅ぼすことなんでしょ?」
迷夢は嘲りを含んだ笑みを浮かべ、相対する天使を激しく挑発した。
*
一五一九年の暮れも押し迫った頃、ヘクトラは教会の地下室へと続く階段をゆっくりと下っていた。幽閉された天使を執務室まで連れ出すつもりでいたが、それは危険すぎるとクローバーに押しとどめられた。せめて、“術”が利く事を確認してからにしろと。
強引に展開を図るヘクトラにもクローバーの言い分も多少は考慮に値した。
だから、地下室の鍵を持ってヘクトラは一人で地階へと向かった。クローバーの吠え面を早く見たい。ヘクトラが入手した呪法は間違いなくかつて、天使召喚術に組み込まれていたものなのだ。結論は見えている。クローバーは天使を意のままにするのは不可能だと思い込んでいる。しかし、それは先入観に過ぎない。
「アリクシア、わたしを見守っていておくれ。必ず実現する……。お前が求めた理想郷を必ず実現する。だから、待っていておくれ。わたしがお前の願いを叶えてあげるよ」
トリリアンの理想を今ここに。
カチャ……。ヘクトラは鍵穴に鍵を差し込んで回した。ギギギィ……。ドアが軋む。
「……誰……?」か細い声が部屋の奥の方から聞こえた。
「わたしはあなたを救いに来たのです……」
「わたしを……救う?」
「そう、暗いところから、光射す表の舞台に」
ヘクトラはジェットの額を右手で鷲掴みにし、それから、何ごとかを唱え始めた。遥か昔に消滅したとされる言語、エスメラルダ古語。現在においては復活させられた魔法や呪法を操るような限られた用途でしか使われる事はない。
「さあっ! 天使・ジェット、我が意に従え。己が良心を深層に沈め、傀儡となれっ! 我が志こそ、そなたの意志。我が意に従わざれば行く末は死のみ!」
ヘクトラは有らん限りの魔力を右手に集中させた。呪文を魔力に変換し、ジェットに焼き付けるのだ。そうする事によって、ジェットの意志はヘクトラの意志に完全に支配される。いや、そんな半端なものではない。ジェット本来の意志は深層に封じられ、新たに呪法で形成された意志がジェットの身体を支配する。
「うぁあああぁああっ!」
ジェットの額に朱色の呪文字が浮かび上がった。
「……成功ですね。では、今しばらくここでお待ちなさい。どんなに遅くとも、明日にはここから出して差し上げますよ……」
ヘクトラは満足げに微笑むと地下室を後にした。呪法がうまくいったのなら、長居は無用だ。むしろ、クローバーを丸め込んでおく方が重要だろう。ヘクトラは足早に廊下をすり抜け、時間的にクローバーのいるだろう食堂に足を向けた。
「……クローバー」ヘクトラはクローバーの背中に声をかけた。「あなたは信用していなかったようですが、あの呪法はうまくいきましたよ。もはや、ソノア総長のような失態もあり得ません。これでジェットは我がトリリアンの重要な戦力となったのです」
「……そうですか……」
クローバーは短く答えた。あからさまに反論しても、取り合ってもらえないだろう。もはや、ヘクトラにトリリアンの目指すべき理念だけを説いても届かないとクローバーは感じていた。無力だ。アリクシアがいたら、その暴走を止めるのは簡単な事だったろうが、クローバーが幾ら諭したところでヘクトラは聞こうともしない。
ヘクトラには目先の事しか見えなくなっている。
「ジェットがおれば、わたしたちに刃向かおうとするものなどいなくなります」
「ですが、力で信仰を集めても意味がありません」
「――そうでしょうか? 黒き翼の天使を信仰の対象としたらいい。圧倒的な力、枯れ果てることのない魔力。聡明な知力。まさに現代に現れた神に他なりません」
「しかし、我々の教えは人、エルフ、精霊が共に手を取り合って生きていくことを……」
「綺麗事を言うんじゃありません。今、必要なことは民衆の耳目を我々に向けさせること。向けさせることさえ出来れば、いくらでも教義を広めることは可能であろう? その為なら、あの封ぜられた力を使うことも厭わない」
ヘクトラの瞳は美しい光を湛えていた。
「……それに天使との共存などわたしたちの教義にはありませんから」
それはあまりに危険な発想ではないだろうか。教義に書かれていないからないものとするというのは。今となっては推測するしかないが、ヒト、エルフ、精霊の協和以外にも天使が入っていたはずだ。恐らく、天使が絶対数を減らす中で教義の見直しが行われ、失われたのだろう。
「しかし、天使も……」
「ところで……」ヘクトラはクローバーの言葉を意図的に遮った。「最近、ベリアルを見ませんが、どうしたのですか?」
「……さあ……。ですが、色々とお忙しいようですよ」
実際、これ以上のことはクローバーも知らないのだからどうしようもない。
「“色々”と忙しいようですか……。まぁ、ベリアルのことは除けておきましょうか。……あのヒトは知りすぎています。却って、いない方が好都合です」
いらない事は詮索しない方が無難だろう。近ごろのヘクトラはまるで癇癪持ちのようだった。少しでも自分の気に入らない事があれば怒鳴り散らし、そのまま半日は機嫌が悪い。アリクシアが亡くなって以来、ヘクトラはピリピリとしだし、落ち着かない。とにかく、腫れ物に触るようにしか接する事が出来なかった。
「いいですか、クローバー。これから言うことは決して、ベリアルには話さないように」
「はぁ……」クローバーは返事に窮した。
ヘクトラが何を思ってそんなことを言っているのか見当もつかない。トリリアンの歩く歴史ともいわれるベリアルに話を通せないような事とは何なのだろうかとクローバーは思う。だが、半ばうわ言のように繰り返される“天使”と言う言葉にちょっとだけ引っ掛かりを覚えていた。恐らく、ベリアルが嫌う天使に関わる事なのだろうと。
「……明日、ルーミンにジェットを行かせます……」
クローバーは耳を疑った。誰をどこに行かせるかしかヘクトラは言わなかったが、意図は明白だった。天使の意識を抑え意のままに操る呪法をかける事に成功したのだろう。それだけなら、害はない。クローバーも感心することはあっても驚きはしなかっただろう。
「つ、つまり、ルーミンを……?」
言葉に出す事さえ、クローバにははばかられた。
「あなたの予想通りです。――トリリアンは生まれ変わります。リテールで最も大きな影響力を持つ宗教へと……。――おっと、集会の時間です。皆さんが礼拝堂でお待ちですから、失礼しますよ。細かい事はまた、夕方にでも話しあいましょう」
そうとだけ言うと、ヘクトラは礼拝堂へと続く廊下へと足を向けた。
足取りは軽い。いよいよ、理想が現実に変わる瞬間が近づいている。権力の分散化が招いたトリリアン各支部の不調和を取り除き、天使の名のもとに中央集権的にまとめあげる。しかも、それだけではない。各支部がまとまる事で、それぞれの直下にあったガーディアンもまとまり兵力もそこらの弱小国よりも増すのは確実だ。
トリリアンはアリクシアが総長だったころの輝きを取り戻すのだ。
ヘクトラは礼拝堂の扉を開け、ゆったりと祭壇へと歩いた。人間、エルフ、精霊の三つの種族の協和を示したロジャーの三角形の真下に立った時、ヘクトラは口を開いた。
「わたしの選んだ道は正しい。決して間違ってなどいません。あなた方はわたしの行く道に従うだけでよいのです。――道は開けます。わたしの歩いたあとに必ず道は開けるでしょう。わたしたちを異端などとは呼ばせずに、わたしたちが信仰の中心となるのです。遙か昔、神話の時代のように精霊、エルフ、人間と表面上だけではない深いつながりを持つのです。信仰を温めるのです。その結果、道は自ずと開かれるでしょう……」
ヘクトラの演説に心打たれたものも数多くいただろう。
事実、アリクシアを除く歴代総長で最も敬虔だともっぱらの評判だった。そのヘクトラが何かを言えば、信心深い信者たちはその全てを疑う事なく信じてしまうだろう。事実、ヘクトラも自分の考えている事は正しいと信じて疑わなかったのだから。彼を批判できるものもまた、ここにはいなかった。
文:篠原くれん 挿絵・タイトルイラスト:晴嵐改
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