12の精霊核

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09. foretaste of purge(粛正の予兆)

 もう、数時間も経てば、夜が明ける。そんな時刻に小さな教会の二階の窓から仄かで儚げな灯が漏れていた。街も森もまだ深い眠りの中。そこで動くのは思い出という名の……残像。その微かに揺らめく頼りない幻を追い求めてテレネンセスの時が刻まれる。
「もお、寝ようぜ? あくびがとまらねぇ」サムがふぁぁあとおおあくび。
「でも、わたしはまだ眠くない……。今聞かないと、聞けないことがたくさん……」
「あ?」サムが納得できないと言いたげに不機嫌なすごみを利かせた。「明日じゃあ……」
「ダメなんだ! 明日になったら掴みかけた何かが零れ落ちそうな気持ちが……」
 何をそんなに焦っているのだろう。自分の胸の高鳴りを感じて久須那は思った。ジングリッドが今にもテレネンセスに攻めてくるかもしれないから? 玲於那のこと。レルシアのこと。協会のこと。どれをどうくっつけてもはやる気持ちの説明にはならない。
「知っても、知ってもその気持ちはなくならないでしょう……」シェイラルが言った。
「え?」久須那は驚いたふうにシェイラルに振り返る。
「雫はもう零れ落ちてしまったのですから……」短い言葉に意味深な不思議な響きが宿っていた。
「へっ。また、みょ〜に哲学的なことを言い出したもんだ!」
 サムは扉を閉めて久須那のベッドとは反対側にある壁際のソファに腰を下ろした。
「落ちてしまったから、その雫がどこかにあたって弾けるまで追いつけない。……後から落ちていく雫の宿命です――」
「……そりゃ、そうかもな」
「イクシオンもそんな思いを抱いたからここまで来たのではないですか」
「そお言うてめぇこそ、何かを掴んで俺を捜してたんだろ?」サムは腕を組み、片目を瞑ってシェイラルを見た。「ただ、昔話を聞かせるためだったとは言わせねぇ〜ゼ?」
「……どれもこれも昔話です……」
「そっか――。そうともいえる。零れ落ちた雫は戻らない。だがな」
「終わらせましょう……」シェイラルはサムの言葉を聞いてなかった。戸口にたったまままだ明けきらぬ 四角く切り取られた夜の空を見詰めていた。
「オ・ワ・ラ・セ・ル……ね。そんな簡単なら、こんな茶番なんかとっくに終わってるぜ。……気にいらねぇが、まあ、いいさ。そろそろ夜もおちおち眠れねぇ生活に嫌気が差してきた」
「捻くれてますね」落ち着いた口調でシェイラルが微笑んだ。
「改めて言うな。あ〜もう、俺、寝るわ。細かいことはまた明日……」
 そう言いながらサムは立ち上がり、掌をひらひらさせて、照れ臭さのあまりなのかシェイラルの前から逃げようとした。すると。
「待ちなさい」
 シェイラルは去ろうとするサムの上着の裾を思いっきり引っ張った。そうでなければ振りほどかれてしまうのだが、今回は力が余ったのか、サムがよほど虚を突かれたのか、サムは後ろにひっくり返されてしまった。シェイラルはあららと困惑した顔をするも言いたいことを言ってのけた。
「わたしの知っている最後の欠けらをお話します。これでホントの終いですから、聞いてからおねむになさい、イクシオン」
「へ〜い」不満そうな返事。シェイラルに手を借りて起き上がると再びソファのところに歩いていってどすんと投げやりに腰を下ろした。「早く終わらせようぜ」
「最後の欠けら?」久須那が言った。
「ええ」シェイラルが頷く。「しかし、これだけではパズルは解けないと思います」
「最後の欠けら……ね。司祭さまの知ってる」サムは天井を見上げて考えた。とは言っても、シェイラルが協会のとんでもない事実を握っているとは思えない。レルシアと連絡が取れるとはいえ、反協会の発言など、否定的な情報がここまで届くことはありえない。
「レルシアに関係すること……だな。取り敢えず」
「その通りです」シェイラルは両手を身体の前で合わせて静かに頷いた。
「まさか」ピンと巻が働いた。「レルシアのやつ、ジングリッドを召喚したことを……」
「知っていますよ……。そして、玲於那を消したのが彼であることも……ね」
「じゃあ、それは最後の欠けらにはなりえないだろ? 何度も聞いた、ジングリッド八ヶ月前召喚説がただの大嘘って事の証明になるだけ。って、え? 玲於那を消したのがやつ?」
「ジ、ジングリッドさまが玲於那を……? 司祭さまの言っていた天使長はジングリッドさま? で、でも、わたしが協会に来たころ天使長はジングリッドさまではなくて」え〜と、え〜と、頼りない記憶の糸を手繰り寄せる。「あ! 現枢機卿のイグザイアさま……だったような気が」
「違います。前天使長が解任された六年前から八ヶ月前までの間、そのポストは空位 。ジングリッドが代行する形で収まっていました。ですが、事実上は彼が天使長だったようです。協会史に姿を現すのは久須那の言っていたように八ヶ月前なんですけどね」
「はぁ〜ん。協会もまどろっこしいことが好きなんだね」サムが面倒くさそうに茶々をいれる。
「でも、ジングリッドがず〜っと昔から、協会にいたことは皆知っていましたよ。ただ、誰が召喚したのかだけは判らなかった。しかし、彼はあの前後まで目立ったところのない人の良いと言うか、何というか、慈愛に満ちた暖かい天使に映っていました、少なくともわたしたちの目には」
「それがど〜して、ああなるんだよ?」
「判りません。だから、あの日の天使がジングリッドで、しかも、まさか、レルシアの召喚したのだとは夢にも思いませんでした」
「何で? 司祭さまはやつが召喚された直後に会ったんじゃあないのか」
 サムの瞳だけがシェイラルを捕らえ、シェイラルの目線がそれに重なった。
「会ってなんかいませんよ。言いませんでしたか? 全ては予想外のところにあったと……。それにレルシアが召喚したと判ったのはつい最近で、ほとんど偶然でした」
 そんな馬鹿げたことが起るはずがない。ベッドに座ってシェイラルを見つめる久須那の瞳が語っていた。天使が召喚されて初めて会う人間は自分を召喚した召喚士と相場が決まっている。
「判っています、久須那。普通はそんなことは起きません」
「では、どうしてそんなことに?」久須那は訝しげに問った。「召喚されたものは通 常は召喚士のいる魔方陣のところに……」そこまで言って久須那はハッとした。
「気が付いたようですね……。ジングリッドの召喚は普通ではなかった」
 シェイラルの顔からはいつの間に決して絶やすことのなかった微笑みが消えていた。
「術を使ったのは確かに玲於那の祭壇でしたよ。でも、彼が現れたのはそこではなかった」
「では、一体どこに……」久須那は固唾を呑んだ。
「それは今となっては判りません。ただ、この教会のどこか、とだけしか……」
「つまり、十五年と言う時間は長すぎたって事なのさ。そうだろ?」
「そう言うことになります。そして、彼はそのままこのテレネンセスから姿を消してしまった」
 シェイラルの言葉を最後に三人の間には沈黙が訪れた。サムはやっぱりおおあくびをし、久須那は自分が信じてきたものが音を立てて壊れていく感覚に捕らえられ、シェイラルは過去を見ていた。時計の針の時を刻む音だけがやけに鮮明に耳に届いて、心に焦りを残して流れ行く。
「あ〜、もう、そんな話はどうだっていいよ。どの道過去は変えられねぇんだ。うだうだ言ってても始まらねぇよ!」
「そうですね」シェイラルは遠い目をしていた。「――では」
「寝るのか?」サムの目がキラリとした。
「いえ、これからがホントのわたしの知ってる最後の欠けらです」
「話、長すぎ、司祭さま。昔からそうだったけどな……」呆れた眼差しをシェイラルに向けつつも、サムの心は温かかった。シェイラルの横顔を見ていると自分にもまだ帰る場所があったんだという仄かな安心感が芽生える。「それで……?」
 サムが横目で眼を捕らえると、シェイラルが応えた。
「……二日前にレルシアから手紙が届きました」
「よく協会の検閲を逃れられたな。で、何て書いてあった?」
「近況報告」
「あ?」背もたれから起き上がってシェイラルを訝しげにまじまじと見詰めてしまう。
「そんな、怖い顔をして睨まないでください。それとも判りませんか? 協会の検閲を逃れるカモフラージュですよ。近況報告と……魔力で封印された本文。だから、わたしには何が書いてあるのか判りませんし……。そして、それは久須那に覚えがあるはずです……」
 シェイラルはポッケから一通の封書を取り出し、久須那に差し出した。

『これを封印しなさい。久須那でなければ絶対に解けないように、痕跡を残さぬ ように』

 久須那の脳裏にそう言ったレルシアの姿が思い浮かんだ。その瞬間、久須那は確信した。レルシアはこうなることを望んでいたのではなく、予期していたのだと。だけど、何故、シェイラルは封印の存在に気付いたのだろう。
「何故、司祭さまは……?」
「封印に気が付いたのかと、尋ねたいのですね」
 シェイラルのにこやかな微笑みが久須那の胸に迫った。ずっと絶やすことのないその笑顔の裏には何が隠れているのだろう。修羅の顔ではなく、哀しみの顔なのだろうか。でも、その笑顔で言われると久須那は何だか照れ臭くなってつい無言で頷くだけになってしまうのだった。
「ですが、それも後ほどイクシオンに問いただしてみてください。今は……」
「判りました」妙に納得できてしまって久須那は頷いてしまった。
「おいおい、何で俺を問いただすんだよ。ついでに『も』ってのはさっきのことか?」
「それも……後でな」滅多に見せない意味あり気な微笑みが久須那の顔から零れ落ちた。
 それから、久須那は封の切られた封筒を受け取って、一枚の便箋を取り出した。表には他愛のない日常文の羅列。そう、それは久須那の知っている研ぎ澄んだ冷たい視線を持ったレルシアのそれではなく、シェイラルの語ってきた少女時代のレルシアが書いたような文だった。
「それ、一枚きりなのか?」サムが不思議がって口を挟んだ。
「そんなに慌てるな。裏は真っ白だろ?」
「?」は久須那の言うことをサムが判らない。ちょっと悔しい気もするが仕方がないと諦める。
「ちょっと待ってね」
 そう言って、久須那は瞳を閉じた。硬く魔力で書けた封印を解く。便箋を掴んだまま、久須那の唇が何事かを唱えるかのように動くと、不可思議なことが起った。今まで、染みすらなかった便箋の裏に黒っぽいものが滲みだして文字を形作った。
「――エスメラルダ古語のようですね。貸してください」
 手紙を受け取り、読み終えたシェイラルからは随分と長い間言葉がなかった。夜の静寂の中にそこにあった全てのものが溶け込んでいくような奇妙な感覚。深遠な闇の中へ。部屋に灯されたランプ明かりもひどく儚げで頼りない。手紙に何が書いてあったのだろう。シェイラルの顔色からはあまり情報が得られない。シェイラルの瞳は紙面 に釘付けでピクリとも動かなかった。
「どうかしたのですか?」重苦しくなる沈黙に耐えられなくなって、久須那が言った。
「大規模な粛清が始まります。今までの精霊狩りや、魔女狩りなんかとは比較になりません」
 シェイラルの顔は強ばり、言葉は震えて届いた。
「へん。教団の純化とは恐れ入りますね。てめぇらこそ、不純物みたいなクセしやがって」
「それは――レルシア派狩りとも言えるんですか?」真摯な真顔で久須那は問った。
「……ちょっと違います。確かに彼らにとってレルシアは目の上のたんこぶでしょう。ですが、この粛清の名の元には内部抗争など毛ほどの問題にもなりえません」
「それはどういう意味……」
「それは粛清……つまり、イクシオンの言う純化の名を借りた謀略。粛清などではなく、自らの野望を果 たすべく、それを隠れ蓑に大掛かりに精霊核集めをやるようです」
「その……野望って何だ……」サムはぼんやりと天井を眺めながら言った。
「わたしは……知らない……」久須那の目は床を向いた。物憂げでどこか淋しげ。協会の中核にいながら蚊帳の外にいたような、そんな感覚が久須那を追い詰めていた。
「そおだろうな――そう」サムの目線はより虚ろになって宙を彷徨う。
「真意は判りません。ただ、精霊核集めにこれ以上の時間は割けない。そして、エルフの森が彼らの精霊核集めの最後のターゲット。レルシアによればあと二日です」
 それはこのまま黙って見過ごせば、リテール一帯がなくなってしまうかもしれないことを意味していた。協会の“狩り”があった付近は無残な残骸を晒すことはほとんどセオリーとも言えるくらいだった。それが協会天使兵団が悪魔より悪魔的と言われる所以。
「たった二日……」久須那は呟く。立場が変われば絶望感に支配される。
 圧倒的な力の差の前に襲う側に死の想念など全くなく、虐げられる人たちの痛みなどホンの僅かも考えたことはない。いつも、ジングリッドの背後から焼かれる街を無表情に眺めていた。
「ここで待っていても埒が明かない……。レルシアに会いに行くか?」
 それは協会を叩き潰す最初で最後のチャンスなのかもしれないとサムは思っていた。天使兵団がテレネンセスに攻め入る前に、レルシアに会っておきたい。そして、決別 のあの日、レルシアがテレネンセスの小さな教会を去ったホントの訳が知りたかった。
「会えば、何かが変わるような気がするんだ」
「そ? そんな無茶な。シメオンまでは片道に半月もかかるんだぞ」
「それは歩いたらの話だろう? 久須那の翼なら、一日で往復できるはず……」
「でも、ジーゼは……」何故、そんなことが自分が口走ったのか久須那にも判らなかった。「レルシアさまに会いに行けば、アルケミスタに向かったジーゼは……」
「仕方がない……さ。協会の真意がどこにあるのかを探り出すほうが先だ。そうしなければ、今、ジーゼを捜しに行っても無意味になる。……だから、明日の朝一番でシメオンに行こう」
 サムの瞳にはいつになく精気がこもっていなかった。どこか虚ろで、何かを思考のほかへ叩き出そうとしているかのようにゆらゆら視点が定まらず宙を泳いでいる。
「ジーゼを見捨てる気なのか? 森の精霊は……」
「そんなこたぁ言われなくたって判っている。だが、いいか、久須那。森の精霊核がやられたらジーゼはそれでお終いなんだ、考えたのか? 森がなくなればジーゼは消えるしかない。目先か未来か、てめぇだったらどっちをとる?」
「でも、彼女は彼女だ。消えて……死んでしまったら、同じ性格、同じ記憶をもったドライアードは生まれない! ジーゼがいなくなっては森の精霊核を守る意味なんて!」
「……久須那がジーゼを庇うような発言をするなんて意外だね」
 いつになく冷めた口調でサムは言った。
「茶化すな!」食いつきそうな勢いで久須那はサムに迫った。
「茶化しちゃいないさ」落ち着きを取り戻した静かな口調でサムは言う。「久須那の言うことは勿論だと思う。だけどな。ジーゼという“個”のためにここを危険に晒せない」
 説得されても、何故だか心のもやもやは晴れずに、更に奥深くなっていく。正しいけれど間違っている。そう久須那の心は訴えかけているかのように。
「だけど……!」そこから先が言葉にならない。
「エルフの森が絶えれば、リテールは守り神を失う。そこから先は――てめぇなら言わなくても判るだろ? 精霊核を失った周辺がどうなってしまうのか……」
 知らないはずはなかった。だからこそ、久須那は握り拳を作って俯くほかなかった。精霊核は言わば光。光が消えれば、そこは暗黒の魍魎どもの徘徊する死の領域へと姿を変える。久須那もその凶夢のような現実を幾度も見てきたはずだった。なのに……。
「サムらしくない……。わたしの知ってるサムは誰も犠牲になんかしない……」
「じゃあ、俺は久須那の知らないサムなんだ」
(わたしの……知らない……サム)久須那は追及する言葉を失った。
 知っていることより知らないことの方が遥かに多かった。なのに、勝手にサムの人格を決めつけて『自分の中のサム』のイメージに反する行動をなじっている自分がいた。
「そ、それでも、サムは、そんな、冷たいはずは……」
 出てくる言葉はそんなのばかり。今はジーゼよりもかつての主・協会の粛正を止めるほうが先決。そのためにはどうしてもシメオンに行かなければならない。でも、戻れない、戻りたくない。気がつけば知らず知らずのうちに久須那は涙ぐんでいた。
「そんなに……シメオンに行くのが嫌なのか?」
 久須那はふるふると首を横に振った。だけれど、その思いは隠せない。久須那の涙に潤む瞳にはサムの心配げな眼が映り込んでいた。
「久須那は自分の現実と向き合うことを恐れているんですね」
 シェイラルは久須那に優しく話しかけていた。
 久須那は見透かされたようなゾッとした冷たい感覚を心に抱いて、思わず凍りついたようにシェイラルを見つめていた。そう、ひょっとしたら自分はジーゼを捜すことを名目にして協会から逃げ出したいだけなのかもしれない。
「あ、わ、わたしは……」
 シェイラルは困惑の色を隠せない久須那の瞳に真摯な眼差しを送っていた。