12の精霊核

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11. look before you leap(跳ぶ前に見よ)

(ドライアード、ドライアードか。旅の道連れは可愛い精霊さま……) 
 申は夜中に目を覚ました。狭いソファでいくら寝返りを打っても、目は冴えてゆくばかりで全然眠れそうにもない。月明かりに照らされた仄かに明るい部屋を見回せば、ちゃっきーは床でご〜ご〜と高いびき、ジーゼはすっかり丸くなってス〜ス〜と静かな寝息を立てていた。 
 そして、申は旅立ちの日、師匠からもらった紙切れを月光に照らして眺めていた。 
『申へ。 
 西へ旅立ったのなら、あなたは道中、魔物、人ならざる者と出会うでしょう。 
 助けなさい。その者はあなたの救いを求めています。 
 見掛けではなく、その者の澄み切った心を信じなさい。 
 その者を信ずれば、いずれ北へ向かうこととなるでしょう。 
 離れずゆきなさい。揺るぎない信念をもってその者を信ずれば、 
 あなたは最果てで母と会でうしょう。』 
 申は紙切れを丁寧に折り畳んで薬箱の一番下の引きだしにしまい込んだ。 
(俺のゆりかごに入っていた予言書。それとお師匠さま宛ての書簡が一通 ……。人ならざる者……魔物、化け物……見掛けではなく、澄み切った心を信じなさい。……か) 
 そっと音を立てないように立ち上がると、申はジーゼの眠るベッドの傍らに立った。 
(ジーゼか……。これで、俺より遥かに年上って言うんだから不思議なもんだよね) 
 申はジーゼの寝顔を眺めると、自分も隅っこのソファに身を沈めた。 

* 

「おっは〜。申〜、ね〜ね〜起きたぁ? もお、お日さまも高ぁ〜く昇っていい天気だよ」 
 奇声を発するおかしな物体が横になった申のわき腹の辺りでぴょんぴょん跳ねていた。 
「あ〜う〜、うるさいな。まだ、眠たいんだ。放っておいてくれよ……」 
 申はシッシッとちゃっきーを追っ払う仕草をするとソファの背もたれの方に寝返りを打った。 
「え〜、そんなのんきなこと言ってっていいのかにゃ〜」 
「何だよ〜。惰眠をむさぼってちゃダメなのかよって、ありゃ?」 
 申は瞬間、自分がどこにいて誰と喋っているのか判らなくなった。昨日まで一人旅だったし、話し相手は薬箱という始末だったのに。ソファに寝転がって、薄いタオルケットをかぶっている。そして、何故だか、人か何者かに背後でゆらりゆらりとまじまじと見詰められているような感じがして妙に落ち着かない。 
「……?」申は恐る恐る後に振り向いた。すると、ジーゼの碧眼と視線がかち合った。 
「いつまで寝ているつもりですか? 寝ぼすけさん!」 
「――ジーゼ?」おずおず尋ねた。 
「そおですっ! わたしの前でひっくり返っておいて忘れた、知らないだなんて言わせません!」 
 そう言うジーゼの瞳はにこやかさに満ち溢れていて、朗らかだった。 
「いや、だけど」申は起き上がって姿勢を正しソファに座り直した。「ど、どうも、女の人と二人きりってのは苦手で……女っ気のほとんどないとこにいたから――」 
 ちょっと恥ずかしそうにうつむいて申は頭を掻いた。 
「あ〜れ? 申ってばけっこううぶなのね。不細工で、なよなよで、その上うぶ! いいとこ全然ないじゃんねぇ。それこそカッコわる〜なおにいちゃま?」 
「うるさいよ。ツチノコ!」申は横に並んで見上げるちゃっきーをキッとにらみつけた。 
「お! だんだんと判ってきたようだね、チミ」 
「判りたくもないけどね。適当にかまわれてたら満足なんだろ? お前は」 
「別にこんなのかまわなくてもいいよ。時間の無駄だから。ね、それより申。あなたはど〜してここにいるのかしら?」ジーゼはストンと申の隣に腰を下ろした。 
「むぎゅぅ」ちゃっきーが潰れたようだが、二人とも気にも留めない。 
「ど〜してって、ジーゼがここまで運んでくれたからだろ?」 
「ううん、そう言うことじゃなくて」ジーゼは瞳を閉じて静かに首を横に振った。「その額の“申”って文字」ビシッと指さす。「昔誰かにずっと東の……東方遊牧民系の人たちだって聞いたことがある。でも、その人たちはリテールまでは決して足は伸ばさない。……なのに」 
「捜しに来た……」ジーゼの言葉を遮るように申は呟いた。 
「え?」ジーゼはきょとんと首をかしげた。 
「捜しに来たんだ、ある人を」半ば上の空のように床を見詰めて申は言った。 
「誰を……?」淋しげな色に染まった申の横顔を眺めてジーゼは言った。 
「……忘れ物を届けに行くのさ……。十五年前の……サラフィの寺院の前に……忘れられたゆりかごの中身をちょっと。でも、いいんだ。そお、そんなことより……」 
 かねてからの疑問をジーゼにぶつけてみようと思った。リテールには踏み入れないサラフィの住人と言われても申は結局は人だった。土地に縛られている訳でもなく、その気になれば空と湖、大樹海以外ならどこでも着の身着のまま好きに行けた。けど、ジーゼは違うんじゃないだろうか。 
「……申の聞きたいことは、判る気がする」ジーゼはすでに申の感情を察知していた。 
「ちょっと、ちょっとおぉぉ。いいかげんにお尻の下からだしてぇ。やぁ〜らかくていいけど」 
「ドライアードなのにどうして森を出てふらふらほっつき歩いているのか……でしょ」 
 そう言いつつジーゼは尻に敷いたちゃっきーを捕まえると反対側にポーンと投げてしまった。 
「うけ? それはあんまりひどいんじゃあ」 
「……」申は儚さを湛えるジーゼの表情に言葉を失った。 
 ドライアードのジーゼをそこまで追いつめて、突き動かしたのは何なのだろう。と、ジーゼはフイっと申を見て微笑んだ。 
「――わたしは、忘れ物を探しに来た」 
「忘れ物?」今度は申がジーゼの横顔を見詰める。 
「サムにまた会えたら、多分、過去に置き忘れたそれを見付けられるような気がするの」 
 ジーゼはしんみりとした表情で膝の上に組んだ手をじっと見詰めていた。すると、妙に心臓がドキドキして緊張感がみなぎりだした。まずいと思うと、申はサッと立ち上がってジーゼの側を離れた。ここでまた、気を失おうものなら末代までの恥というよりは笑い話になってしまいそうだ。 
「申? ど〜したの?」ジーゼにあどけない表情で言われれば申は言葉を失う。 
「いや、特にどうというわけは……」背を向けてつい、うなじをぼりぼり。 
「こいつぁ〜相当な重症でっせ。横に並べなくちゃ女の子といちゃいちゃ出来ないっしょ? すけこまし野郎のサムっちとはまるで正反対♪ 純なの〜。それとも、ただの意気地無し?」 
「からかわないの、ちゃっきー。本人、そ〜と〜悩んでるみたいだから」 
 ひそひそ声での耳打ちのつもりだけど、しっかりと申の耳に届いていた。 
「それを言われるとちょっと、つらいなぁ」 
「あとは慣れるしかないんじゃないかしら……ね。はい、申っ! こっち向いて〜!」 
 明るい声でそこまで言われるとかえって照れ臭い。申はジーゼと向き合えずに正面 の壁を見澄ましてちょっぴり恥ずかしげに言葉をつなげた。 
「そ、それでジーゼはどっちに行くのさ?」 
 そのうちにきっと聞かれるだろうと思っていた問い。それは申の口から場つなぎ的にヒョンと飛び出してきたただの思いつきだったのかもしれない。ジーゼは答えた。 
「もっと、東の方へ……」朗らかな声色は影をひそめて、とても淋しそう。 
「それでホントにそのサムってやつに会えるのかい?」 
「……」申の問い掛けにジーゼは力なく頷いた。確証はない。ただちゃっきーを信じて、ここまで来るのにサムらしい人の噂や頼りに進んでいたから。噂で聞いた天使の翼でアルケミスタを越えて飛んでいった人間と言うのがサムじゃないかと思ってひたすら東に進んでいた。 
「そっか、確信はないんだ……」静かな憂いの混じったような口調。 
 そして、申にそう言われてしまえばジーゼはただうなだれるしかなかった。確かなことなんて、サムが天使とともにテレネンセスの方に行ったことだけだった。そこから先はあやふやで不確かさだけが倍増していく。 
「でも、待っているだけなのはやめにしたから……」 
「でっも、でも、ジーゼちゃまはサムっちがすっきだからぁ」 
「……好きでも嫌いでもいいんだけどさ。そのサムっちって、つまり、誰?」 
「ありゃぁ。もう、焼きもちなにょ? 手が早いっての、足が早いっての」 
「俺はなまものじゃないよ」 
「じゃあ、焚き火で焼いてみる? 焼けなきゃ焦げなきゃ干物だって認めたげる!」 
「俺は乾物かい!」 
 ちゃっきーが喋ると調子が狂う。けど、それはいい意味で二人の間に流れそうになる緊張感を解きほぐしているのかもしれなかった。ちゃっきーとのやり取りで、ジーゼが呆れたり、クスッとしてくれると何だかとっても安心できる。自分もジーゼを変に意識しなくてすむし。 
 と、会話が途切れた瞬間、外の物音が微かに聞こえてきた。静かな湖面 がそよ風でさざめくような不安。危険な香りのいやな予感がする。ジーゼを狩りに来たハンターだろうか。  
「この部屋ですか? ドライアードと魅了された哀れな少年が泊まっているというのは」 
 扉の外からガサゴソと不穏な空気が流れ込んできた。 
「隠しても無意味です。ドライアードと哀れな連れがこの宿に入ったという知らせがあるのです」 
(ははぁ。昨日のゴロツキハンターかな? 協会公認より犬か?) 
「どうかしたの? 申」 
「ジーゼ、ちょっと静かにして……」心臓がドキドキする。 
「……」宿の主人らしき人の困ったような沈黙の息遣いだけが聞こえていた。 
「協会の教義に反することを求めているのではないのです。ご主人、あなたは正しいことをしているのですよ。それとも――異端として査問会にかけられますか」 
「そっ、それだけは」伏せた面を上げた。「ですが、やはり、その、土地神さまみたいなものですし。その、精霊狩りが教義に反していないとおっしゃられても……」 
「宿代が心配なのですかな?」 
「ぼ、牧師さま、何をおっしゃいますか? わたしはそんな下衆なことを……」 
「ならば、鍵を開けなさい。……協会信者に手荒なまねはしたくありません」 
 牧師の明らかな苛立ちが閉ざされた扉を越えて伝わっていた。力尽くでも、合法的でもこの小さな安らぎの場に通 ずる扉が開かれるのは時間の問題のようだった。 
「逃げるか? ジーゼ」申はとがった視線をジーゼに向けた。 
「……でも、このまま黙って逃げたら、おじさんに迷惑がかかる。――わたしがドライアードだと知りながら泊めてくれた心優しい人。この街で唯一の……ね」 
「ふ〜ん、なるほどね」申は鍵穴から無理な体勢で外の二人のやり取りを盗み見ていた。「つるっぱげだけど人のよさそなじいさんと、インテリジェンスな冷たい眼差しの牧師さまね。十字架を首から下げて聖書片手でも、あったかそうにも聖職者にも見えないねぇ」 
「であ、決まりですのね。ターバン巻き巻き箱少年!」 
「ヘンなあだ名を付けるなよ」 
 申は無防備にちょこちょこと寄ってきたちゃっきーをむんずと捕まえてジーゼに放った。 
「ご主人、わたしにも我慢の限界というものがあります。今のうちですよ」 
「頃合いかな。……ジーゼ、鍵」申は囁いた。すると、鍵と一緒にちゃっきーまで飛んできた。どうも、ジーゼもちゃっきーは邪魔だったらしい。「……ちゃっきーは要らないんだけど」 
「まあ」ちゃっきーは申の肩に飛び乗った。「そお言わずにあんなのケチョンケチョンに」 
「とりあえず、俺はお前をケチョンケチョンにしてやりたいよ」 
 ちゃっきーに悪態をつきつつ申は音を立てないように鍵穴に鍵を差し込んだ。コトン。小さな物音がして鍵が開いた。ギギギ……。くたびれた蝶番が悲鳴を上げて扉が開く。申は柱に身をもたせ掛けて腕組みしながらこう言った。 
「だぁれが、『哀れな少年』だって?」 
「……ずっと聞いていたのですね」 
 驚いた風でもなく牧師は申の顔をつらっと一瞥をくれた。 
「ならば、話が早い。その」顎をしゃくった。「ドライアードの娘をこちらに渡しなさい」 
「精霊さまに用事はないだろ。用事があるのは精霊核の方。違うのか?」 
 牧師は申から目線を外してフッとあざ笑った。これだから異邦人は。とも言いたげで、明らかに申を侮蔑し、見下していた。 
「精霊核を探すために精霊に用事があるのです。違いますか、異邦の方」 
「屁理屈だろう。それは」申はあきれて思わずぽかんとした視線で司祭を見詰めてしまった。 
「同じ協会でもシェイラル司祭とは全然違うんだ……」 
 ジーゼが申の背中越しにひょっと顔をのぞかせて呟いた。それを牧師が見とがめて、柔和な表情、けれど、ジーゼの今まで感じたどんな視線よりも冷たく突き刺さる背筋まで凍えるような視線がジーゼを捉えていた。 
「シェイラルの名は出さないでいただきたい。……が、お前はテレネンセス近くのエルフの森のドライアードですかね。あそこに精霊がいると聞き及んだことはありませんね……」 
 そんなことを言われても、いるものはいるんだから仕方がないでしょ! とジーゼは言いたくなった。でも、言えない。申の背中に隠れて黙り込んでしまった。 
「Hey, you! シャイなジーゼちゃまをいぢめないでくれる〜? いぢめたらぁ、ジーゼちゃまの白馬のナイト・サムっち……代理の申がチミをクチャクチャにしてあ・げ・るっ!」 
 ちゃっきーの妖艶な声色に一同沈黙。申、ジーゼどころか宿の主人も牧師でさえもこの世にも珍奇な生き物に視線釘付けになってしまって、その場に途切れた会話の修復のしようがない訳の判らない場の悪さが現れた。 
「だ、代理というのは気に入らないが、そう言うことだ。牧師さま」 
 特に“さま”に嫌味を込めて力強く発音した。すると、アルケミスタの牧師は平然とした冷めた目線でシゲシゲと申を見詰めて、ちょっとだけ考えてから口を開いた。 
「――その娘にかけられた懸賞金は金貨三百枚です。あなたこそ咽から手が出るほど欲しいのではありませんか? 質素に暮らせば十年はゆうに働かず、気ままに生活できる金額ですよ」 
「ジーゼは金貨三百枚か……たったの?」 
「『たったの』ですかな? 市井の民にはかなりの大金だと思いますが」 
「ジーゼを買うってことは森を一つ買うのとおんなじことなんだろ? 俺はジーゼの森がどんなんか知らないけれど、ドライアードがいるくらいだから広大なんだろうね。それが三百枚? どう考えたって桁を一つか二つ間違ってるよな」 
 そんな申の発言を聞いているとジーゼはドキドキしてきた。申の気が変わって自分は協会に売られてしまうんじゃないだろうか。もしホントにそうなったらどうしよう。ジーゼは申の肩に右手をかけて、左手を不安げに口元に当ててもう気が気ではない。 
「では、三千枚出せばその娘を渡してくれるのですか?」牧師の目が一瞬きらりとして見えた。 
「俺が言いたいのはそう言うことじゃないよ。ま、いいさ。どうせ、あんたに話したって判らない。協会の教義とかに凝り固まったノータリンじゃあ、埒が明かないし」 
「少年。それが大人に向かってきく口ですか」微妙にかみ合わない淡々とした口調が勘に障る。 
「――あんたは大人じゃない」 
 きつい視線が牧師を睨んでいたけれど、牧師は至って平常心。全く気にも留めない様子だった。 
「そう思うのでしたらそうでも構いません。異邦の価値観は異邦人のもの。わたしたちのものではありませんから。そちらはそちら。こちらはこちら。そこまで否定する気はありません」 
 飄々としてまるでとらえ所が無い。そして、拒絶されればされるほど腹立ちが募る。 
「ですが……その娘は置いてゆきなさい。それがあなたのためです」 
「協会のため……俺にはそう言っているようにしか聞こえないよ。あんたたちが何を目指しているのか知らないけれど、誰かの犠牲の上に立つ幸せなら手を貸す義理はない……だろ?」 
 申はジーゼに振り返った。瞳が揺らいでまるで無言のうちに逃げようと言っているかのよう。申は考えた。将来、仇をなしそうなものは今、始末しておくのが常套手段。幼少のころから退魔師として仕込まれた申には当たり前のことだった。命請いをされて情けをかければ明日には自分がいなくなっているかもしれない。けれど。 
「わたしは……こおいう人間が嫌い。こおいう人が……」むぐっと、口をつぐんだ。 
「と言うことだ。それに俺はジーゼを今、離すつもりはない」 
「その娘があなたを離さない。の間違いではないのですか?」 
 ドライアードは森に迷った旅人を魅了して森で死ぬまで仕えさせるのだと聞いたこともある。でも、ジーゼに限ってそんなことはないはずだった。牧師の一言で申の中に一人で払拭できない思いが芽生えてしまった。ジーゼは利用した? 自分があの時“助けなくちゃ”と感じた瞬間から、実は心奪われていたのかもしれない。 
「いいや……。俺がジーゼを離さないんだ」ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。 
「いやぁぁあぁ、申ったら、ひょっとして、サムっちよりあれなの?」 
「か〜。どれなんだよ!」 
 ついつい、ちゃっきーをかまってしまう。と、ちゃっきーの小さな姿を見て、突然思いついた。どうせ逃げるのならついでにちゃっきーを厄介払いしてしまおう。それにちゃっきーをだしにしたらそのまま牧師を蹴散らすより、多少の時間が稼げるに違いない。悪魔の囁き、天使の嘆き。でも、そんなことはどうだっていい。逃げよう。全てがその一言に集約していたから。 
「ジーゼ!」申は怒鳴って振り向いた。 
「は? はい〜?」 
 申はジーゼの眼を瞬時、見詰めて意志疎通したつもり。次いで、肩に乗ったちゃっきーをガッと捕まえると牧師に投げつけた。それから、びっくり仰天のジーゼの細い腕を掴んで部屋に飛び込んだ。薬箱を背負って、ジーゼに十字銃を放り渡して、状況がよく飲み込めないでオロオロするジーゼを“お姫さま抱っこ”して申は部屋を駆け抜けて、バルコニーに飛び出たつもりが……。 
「うそだろ〜〜」ただの出窓だった。 
「な、何ですか! これは」 
 とわめいて、牧師は顔にへばりついたちゃっきーを廊下に思いっきり投げ捨てた。 
「へい。ちょ〜有名人を捕まえといて、何とは何じゃぁ?」 
 床から牧師に文句をたれても、全然視界に入っていないうえに、声も届いていないらしい。それどころか、閉じた扉を開くときに、ちゃっきーを踏みつぶした。そのプチッとした妙な足下の感覚にも気付かずに牧師はものけの空になった部屋を見渡した。 
「……逃がしてしまいましたか。しかし、テレネンセスのあれなら……構わないでしょう。あそこには間もなく天使長が直々に討伐するとも聞きますし。放っておいても咎められることは……」 
 牧師の目は大きく開け放たれた窓のひらひらとはためくレースのカーテンを注視した。 
「……ご主人。あの窓の下には何かあるのですか?」 
「確か――町内のごみ捨て場が……」頭の中を探るような迷いの表情が現れた。 
「ごみ捨て場、ですか。見に行くのも少々はばかられますね……。ま、今から行っても、もう逃げおおせた後でしょうが……。ともかく、ご主人、あなたは彼らに感謝しなくては……ね。これでは彼らを匿ったことにはできない――査問会はなしです」 
 宿の主人は言葉なくただ、お辞儀をして牧師を送りだした。 

* 

「……ね〜、申、大丈夫〜?」ジーゼは申に抱っこされたまま、その顔をのぞいていた。 
「はは、俺ってとことんカッコ悪いね。ジーゼの前じゃ。にして、よくケガなかったよ……」 
「――跳ぶ前にはよく前を見ようね……」 
 申とジーゼは路地裏のごみ捨て場で泣き笑いの状態だった。カッコ良く、バルコニーに飛び出てそのまましばらく屋根伝いに姿をくらまそうと考えたのだが、足場になるものは何もなくて地面 に真っ逆さま。傍から見ていたら、目も当てられない有り様だった。 
「と、ともかく、こうしちゃいられない。早く、逃げよっ!」 
「はいっ! 白馬のナイト、代理さま。期待しているから、よろしくお願いします」 
「って、え、えっ? 俺はもう、キミと一緒に行くことになってるの?」 
「Yes, Sir! 巻き巻きくんがじーぜちゃまにボッて一目惚れした瞬間に運命は定まったのれす!」 
 どこからともなく、ちゃっきーの声が聞こえたかと思うと、申の薬箱の上でくつろいでいた。 
「な? お前はどこから現れたんだよ。牧師さまといちゃいちゃじゃなかったのか?」 
「だあって、あれ、おいらの好みじゃないもん。おいら、おじさんよりおに〜ちゃんがす・き!」 
 ちゃっきーのニヘラ〜っとした笑い顔が申の後にいたジーゼの目に映った。結局、ちゃっきーとはすでに切っても切れない縁が出来てしまったかのようだった。でも、ジーゼは時々会話の潤滑油にこんなヘンテコなのがいてもいいかなと思ったりもする。 
「進め〜、すっ進め〜。愛しのサムっちはいずこ〜! でしょ?」 
「は、恥ずかしいから黙ってなさい!」 
 ジーゼの鉄拳がちゃっきーに炸裂した。