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       16. flying fall down(飛びながら落ちてゆくの)  
       カッカッカッカ。長い回廊に二つの足音が重なって反響していた。協会シメオン大聖堂、二階の一室でちょっとした作戦会議が行われた後だった。エルフの森襲撃まで一日半。   
        「コトは首尾よく進んでいるのですかな? ジングリッドどの」   
        「もちろんだ、枢機卿。フン? 多少のイレギュラーは付き物だ、心配ない」   
        「そうですか。……では、いよいよですね? リテールはエルフの森で最後……」   
        「そうだ。あの森にはわたしたちの求めるものがある。あそこにあった魔術師の館跡。それを見付けだし、全種の精霊核と、……本当の最後に残ったのはあれだな。扉を開くための鍵……」   
        「――鍵……ですか?」意外なことを言われたと言うかのように枢機卿の顔が歪んだ。   
        「そう、鍵だ」ジングリッドは回廊の曲がり角を見詰めて、ほくそ笑んだ。   
        「つまりは当てがあるということですな?」   
      「無論だ。やつがあの場に知らず知らずのうちにも引き寄せられていることに気付かなかったのかな。イクシオンか久須那かどちらかが必ず鍵になる」   
      
        * 
 
         空気は澄んでいた。空はどこまでも青く、突き抜けるほど高い。それをいつから疎ましく思うようになったのだろう。空を飛べる玲於那がとても羨ましくて、見上げるだけの自分は切なくて。この空を最後に玲於那と一緒に飛んだのはいつだっただろう?   
  (レルシア、てめぇと大ゲンカしたのもこんな空の下だったよな……)   
   遙かな思いもサムの中に目覚めていた。そのレルシアと決別した日から十五年、それから二人は会いもせず仲直りもしないまま、それぞれの道を歩き出した。そして、これは天使が与えてくれた仲直りの最後のチャンス。サムはそんな気がしていた。   
  「なぁ、久須那……。自分の翼で空を飛ぶってのはぁどんな気持ちなんだ?」   
   朝早くにテレネンセスをあとにして僅か半日もたたないうちにサムと久須那はシメオン上空にまで達していた。サムがシメオンを見下ろすのは初めてのこと。テレネンセスよりは大きいとはいえ、こんなせせこましいところで泣いたり笑ったりしているんだと思うとちょっぴり淋しい。   
  「どうしたんだ? サム。薮から棒に……」   
  「いやな、別にどうもしないんだが……、なあ、三次元の自由ってどんななんだろうってさ」   
  「『三次元の自由』か。考えてみたこともない。飛べることが当たり前だったから……。飛べなくなって歩くだけしか出来なくなるとも――」   
  「そおだよなぁ。俺もこうなるとは考えてもいなかった。あの時……」   
  「どの時?」面白がって久須那は問った。   
  「う? くっ、ど、どの時でもいいだろ!」   
  「フフ、サム……自分のウソをつくのはホンット下手なんだな! 嘘の付き方読本が泣くよ?」   
  「う、うるさいよ。久須那」   
  「いいじゃないか、たまには」久須那はクスリとした。「やられっぱなしじゃ割に合わない」   
  「ほお? 俺がいつ、久須那ちゃんをいじめましたか?」   
  「うん? いつもじゃないか」   
  「全く、ひでー言い草だぜ」   
   爽やかな笑いが空の向こう側まで溶け込んでいく。知り合ってたったの三日しか経っていないのに、久須那はサムとずっと昔から二人一緒だったようなおかしな錯覚に囚われていた。   
  「……サム」淋しそうな色を湛えて小さく呟いた。「やっぱりわたしじゃ代わりになれないのか」   
  「何だ、急に? テレネンセスで変なものでも食ったのか?」   
  「違うよ、バカ! お前は乙女心が判ってない!」   
  「……」しばらくぼ〜っとして、面倒くさそうにため息をついた。「そんなわけ、ねぇだろ」   
  (そんなわけは……)   
  「おっと、あれがシメオンだ」久須那は無感動に言った。「直接入ったら目立つから郊外に……」   
  「そうだな……」久須那に抱かれたままサムは言う。   
   眼下に見えるのは生きている巨大都市。二年前までサムのいたエスメラルダ王都よりも煌びやかな協会の聖地、聖なる都・シメオン。どこまでも続く白亜の町並みがある。そのほぼ中央の一際存在を主張しているのがシメオン大聖堂。   
  「折角、ここから遠ざかったのに、また、戻って来ちまったな。でも、今度は逃げねぇぞ。心強いパートナーも出来たし。ここらで清算しておかないとあとでちょっと……」   
  「例えばもつれにもつれたじょせー問題とか?」何でもない風にさらりと言ってのけた。   
  「そ〜そ〜。てな、ちゃっきーの言ったことを全て鵜呑みにされても困るんだけど」   
  「どこが違うんだ?」澄ました顔にも刺がある。   
  「てめぇねぇ、そんなに俺のことが気になるのか?」   
  「……ああ」前だけを見てサムの顔はこれっぽっちも見やしない。「わたしをあんなに……まともに暖かく構ってくれた人間なんてサムが初めてだった。それまでのわたしはただの道具」   
   物憂げな久須那の顔はサムの見たくないものの一つ。   
  「考えず、命令されたことだけを、感情を交えずにこなすことだけを……」   
  「……昔のことなんか忘れちまえ。てめぇは俺のもんだ。誰にも渡さねぇ」   
  「あ……う……ありがとっ――」恥ずかしそうな小声で久須那は呟いた。   
  「勘違いするなよ。俺はてめぇのことなんて好きでも何でもねぇんだからな!」   
  「判ってるさ。判ってるよ。ただ、わたしと対等に話してくれたのが嬉しかった」   
  「レルシアがいたんじゃねぇのか?」   
  「……レルシアさまは違う。いつもあったかくて優しかった。けど、いや、何でもないんだ」   
   久須那は言葉尻を濁した。レルシアと知り合い、幼なじみだというサムにこんなことを言ってしまっていいのだろうかという思いがあった。でも、久須那が言葉を切るとサムが続けた。   
  「――ホントに久須那を見詰めてくれることはなかった――。そうだろ?」   
   抑揚のない平坦な口調でサムは言った。久須那は光のない瞳で頷く。   
  「ああ――。レルシアさまの瞳はどこか遠いところを向いていた。――少なくともわたしにはそう見えていたよ。でも、わたしにはそれだけでも十分すぎるくらい嬉しかったんだ」   
  「まあ、残りが木偶天使とシオーネじゃなぁ」   
  「あまり、天使の悪口は言わないでくれ」   
   ことのほか切なそうに久須那は言った。天使に心がないんじゃない。不完全な召喚術は天使たちから“色”を奪い取っていくのだと。   
  「ま、今日のことはこれで許してあ・げ・る!」   
   と、言って久須那は重力に倣って垂直降下を始めた。   
  「でぇ? だから、久須那。急のつく動作はやめろっと言っただろ!」   
  「うん? 急降下はするなと言われてないぞ」クスリとした笑いがサムの耳元に届く。   
  「なにぃ? 死ぬ〜。久須那ちゃん、許して〜」   
   悲鳴を上げるサムをよそに久須那は降下を続けた。   
   そして、久須那は優雅に着地。その横でサムが尾端と地面とあつ〜いキスを交わしていた。   
  「……途中で手を放すんじゃねぇ!」   
  「あ――」思わず久須那は手のひらで口を覆った。   
  「『あ』じゃねぇだろ。『あ』じゃ。全く」げっそりとしてふらふらと地べたを歩く。「俺やっぱ、高所恐怖症になっちまいそうだ」   
   シメオン郊外の田畑の続く街道筋からサムと久須那はシメオン市街地へと分け入った。確かに二人にとっては懐かしい街。二年前とも四日前とも変わらない賑やかな街だった。   
  「さあ! いらはい、いらはい。シメオン銘菓、碧の恋人はどうだい?」   
  「いやいや、チョコ菓子なんか、この暑さに溶けてまずいことこの上なし! ここはいっちょ奮発して氷菓子だ。旦那がた」と、売り文句を口に出して客引きがサムや久須那に寄ってくる。   
  「どっちもいらねぇよ。身体の心まで凍えてんだ、俺。凍っちまうよ」サムは久須那を見た。   
  「わたしのせいだと言いたいようだな」   
  「当たり前だ! もお、三回目だぞ。いいかげんにしてくれ」サムはかなり不機嫌だった。   
  「まだ、三回だよ」久須那にニコリとしてそんなことを言われてはサムはぐうの音も出ない。   
  「四回、五回ってやる気なんじゃないだろうな? いいかげん、やめておかないと。その羽根むしって飛べなくしてやるぞ」   
  「サムには出来ないよ」久須那は明るい笑顔で言った。   
   サムと久須那は雑踏に紛れて、シメオンの街中を白昼堂々と歩いていた。だからと言って協会の連中がつけてるとか、誰かが見張っているということもないらしい。ただ、何でもない言わば聖地の日常を歩いていた。   
  「へへ、お兄さん。天使を射止めてラブラブとはなかなか隅に置けませんな」   
   誰かがサムにすり寄ってきた。   
  「何だ? てめぇは。用事もねぇのに近寄ってくるな」サムは鬱陶しそうにシッシとした。「やっぱ、都会はあまり好きになれないな」   
  「わたしもだ。どちらかというとテレネンセスのような小さな街が好きだ。……しかし、その、サ、サム。敵の本拠地は堂々と歩くものなのか?」   
  「あ? 協会は敵じゃねぇさ。そもそも『敵』なんて形あるものはいねぇのかもしれない」   
  「でも、わたしたちは指名手配されているんだぞ?」   
  「ヘン! あんないかれポンチの集団に俺たちがやられるかってんだ!」   
  「……ジングリッドさまがいなかったらな」先日の体験から、冷静に久須那が釘を刺した。   
  「ジングリッドは……天使兵団を連れて森にゆく。今が最大かつ最高のチャンスだと思わないか」   
  「なるほど。そお言う考えはサムらしい」久須那は頷いて感心していた。   
  「レルシアに会えなければ、ここまで出向いた意味がねぇんだ」   
  「けど、レルシアさまと会えても、ジングリッドを止められなければ元の木阿弥」   
  「そりゃそうだ」   
   ケロッとした様子でサムは言う。手を頭の後ろに回して、ふんふんと鼻歌まじりに歩き続ける。   
   賭だった。ジングリッドと直接対決しても全くと言っていいほど勝ち目がないことはサム自身がその身で体感したことだった。天使・中級第三隊パワーズのジングリッド。と、一介の魔法剣士。天使・下級第三隊エンジェルズの久須那。二人に+αの味方がいたとしても情勢にはほとんど変化はないだろうとサムは考えていた。だから、レルシアの助けがいる。   
  「でも、ま、せっかく、シメオンまで遥々来たんだから観光でもしましょ? いや?」   
  「い、いやも何も、何というかその、落ち着かない……」   
  「そおか? 慌てるのもよくないから、どうだ? お茶でも、馴染みの店がある」   
  「デ、デート? そ、そんな、不謹慎な」   
  「何、オタオタしてんの?」何を今更、と言いたげなキョトンとした顔が久須那を覗いていた。   
  「えええ?」もう、何をどうしたらいいのか判らない。   
  「あのなぁ。別に変なことをしようってんじゃないんだから、そんなにびくびくするな!」   
   と言って、サムは久須那をひょいっと抱っこしてしまった。久須那はドギマギして真っ赤っか。為す術なしでお姫さま抱っこされたまま。   
  「サム……、あの、みんな見てるし、と、とても恥ずかしいんだけど、お、おろして?」   
  「ダ〜メ♪ だって、降ろしたら一緒にお茶飲みに来てくれないだろ? だから、ダメ」   
   子供のように煌めいた優しいサムの瞳。どこか懐かしくて、暖かくて久須那の知っていたどのサムとも違っていた。凛々しい戦士。冷たい眼の策略家。ああ、どれも違うんだ。その瞬間、久須那はホントのサムの姿見ていたのかもしれなかった。悪戯な少年。シェイラルから聞いた少年・イクシオンがそのまま大きくなって。   
  (サム……好きなんだ……)   
   伝わらない思いなのだろうか。久須那の頬を一筋の涙が零れ落ちた。        
      
       カラランラン。結局、サムと久須那はそのまま、奥まった通りにあるこぢんまりとした喫茶店に腰を落ち着けていた。位置はシメオン大聖堂の裏手で、街の開発から半分忘れられたようなところ。繁華街ではなくて、住宅街でとっても静かで、路地を吹き抜けていく風が心地いい。都会・シメオンのどこか無機的なイメージとは裏腹に生活感の滲み出した不思議な場所。  
        「落ち着いた? 久須那?」  
         久須那は両手でティーカップを口元に運んだまま、上目遣いにコクンと頷いた。  
        「いい店だね」当たりを見回して、半ば独り言のように呟いた。  
        「だろ?」身を乗り出して、まるで子供のようにはしゃぐサムがいた。「俺、ここが好きなんだ。協会の裏手だし。案外、死角のようで、天使の追っ手が来たことなんて一度もねぇぜ。ついでに客もいねぇし、マスターは無口だから居心地が……ね」  
        「――そのマスターが無言の圧力をかけてるんだが、そお言う場合はどうするんだ?」  
        「ここに天使のお客さんが来たのは初めてのこと。だから、緊張してるの」  
        「ホントか?」信用できないような怪訝な眼差しがサムを見詰める。  
        「ホントさっ!」ニコリ。「だから、こお言う場合は、はい、久須那ちゃん、マスターを見詰めてぇ〜。心から会心の天使の微笑。はい、やってみる」  
         久須那はちょっとためらいながらもサムに言われたように実践してみた。すると、やっぱり無言だったけど、マスターはすごく嬉しそうなにこやかな表情になった。  
        「……」久須那はサムに向き直った。そして、ひそひそ。「男ってみんなあ〜なの?」  
        「いんや、俺の探偵事務所が調べ上げた限りでは、ただ単にシャイなだけ」  
        「はぁ〜ん。でも、ま、マスターの淹れた紅茶はおいしいし、怪しそうな人でもなさそうだからいいけど……。そおだね。折角、いいお店を紹介してくれたから、サムには一つ、いいことを教えてあげようか?」どういう風の吹き回しなのか、久須那はそう言っていた。  
        「どんないいことなんだ?」サムはティーカップを口に運んで紅茶を含んだ。  
        「……玲於那はわたしの一つ違いの姉なんだ」  
         サムは驚きのあまりに口に含んだ紅茶を勢いよくぶ〜っと久須那の顔面めがけて吹き出してしまった。一瞬の気まずい沈黙。その後、久須那の突き刺さるような鋭い視線がサムの上で止まったきり動かなくなった。  
        「……」言葉すらもない。  
        「あはは、水も滴るいい女! 久須那ちゃん。ごめんごめん」  
        「ごめんで済むなら、け〜さつは要らないんだ!」  
         と言いつつ、久須那はたった一人しかいないウエイターにタオルを持ってきてもらって顔をゴシゴシと拭いた。  
        「はは、玲於那が姉貴で久須那が妹ね」サムは一瞬頭を抱えそうになった。「何つ〜かそのおかしな気分だ。けどな……、二人で弓使いなのは判ったような気もする……。ところで、久須那っていくちゅなのさ?」  
        「知りたいのか? 知らないほうがいいと思うぞ?」口に運んだティーカップをトンと置いた。  
        「はん? 俺よりずっとずっと年上なのは間違いないだろ」ニヤリ。「人間で十八、十九に見えるったら二世紀は生きてるよな?」  
        「その通りだ。でも……それ以上は聞かないで欲しい――」  
        「と、言ってもさ、じじいになって朽ちるのは俺の方が先だろ?」ニヤリとした。  
        「それはそうだが……。お前はやっぱり乙女心が判ってない」  
        「ヘン! そんな朴念仁のつもりはないんだけどね」思わずイーッとして見せた。  
        「サムなんか、唐変木で十分だ!」腕を組んでぷいっとあっちを向いてしまった。  
        「ありゃりゃ、拗ねちゃった」サムは笑いながら頬杖をついていった。「へへっ、お堅いイメージの久須那がどんどん崩れていくね。可愛いよ――。やっぱ、俺のもんにしてよかったな。ジングリッドの右腕なんてもったいねぇぜ」  
         すると久須那はボンッと真っ赤っかになってしまった。その様子をサムは面白、おかしそうな眼差しを向けて、“久須那の百面相”を楽しそうに観察していた。  
        「か、からかうな。恥ずかしい……」  
        「からかってなんてないぜ? これはホントの気持ちだ」  
        「ホントの気持ち?」か細い、今にも消え入りそうな声で久須那は言った。  
        「張りつめて切れそうな糸だったてめぇが真実の姿だったなら。俺は久須那をここまで連れては来なかったよ。たった三日だ。だけどね、こんないいパートナーと組めたのは初めてさ」  
         それは久須那の見た、初めてのサムの真顔だったのかもしれない。笑いの見えないサムの顔。どんなに真剣なときだって、サムはどこかおちゃらけていた。少なくとも、行動を共にした久須那にはそう思えていた。  
        「ホントのホントなのか?」ちょっと瞳を潤ませて嬉しそうな眼差し。「だったら、わたし――やっぱり、サムのことが……」久須那は泣き出しそうになっていた。  
        「気の迷いだ」取り付く島もないようにきっぱりとサムは言い放った。  
        「でも、わたしのこの気持ちは……」左手を胸に押し当てて、テーブルの上に身を乗り出した。  
        「早まるなよ、久須那。まだ、三日、四日だ」  
        「……うぅ、うん――」サムにそう言われてしまうと、久須那には先の言葉がなかった。  
         何故、あの日から自分はそんなにサムに好意を寄せるようになったのか、自分でもよく判らないところが多すぎた。“輪”をとられたから。違う。サムは久須那のもっていないのもを持っていた。純粋な憧れなのかもしれない。  
        「じゃ、紅茶も空になったし、そろそろ乗り込みますか?」  
        「ま、待って。サム。行く前に、一つか二つ。聞きたいことが。もお、きっと聞けない」  
        「いいよ。すっごい“秘密”を教えてくれたから」  
         でも、何かが違うんだ。と言う、もどかしさを久須那は感じていた。いつものサムならこんなはずはない。二言三言、言い返してからでないと質問に答えてくれなかったのに。どうして、こんなに素直で、暖かくて、切なく思ってしまうの?  
        「おっと、今日は泣くなよ、久須那? 綺麗なハンカチはあいにく、品切れでね」  
         どうして、今日に限ってそんなに優しいんだ。もっとつっけんどんに。もっと邪険に扱ってくれないと、サムが可哀相に思えて涙が止まらなくなってしまいそう。  
        「? どうかしたのか、久須那」  
         久須那は首を大きく横に振った。  
        「何でもない、何でもないからちょっと待って……」深呼吸して乱れた気持ちを整える。「……サム。ずっと、ずっと気になっていたんだけど、シェイラル司祭とは何者なんだ」  
        「……どうしても知りたいか?」前だけを見てサムは言った。  
        「知りたい。わたしの封印を見破った初めての人間なんだぞ」  
        「それがあの小さな街の司祭さまじゃあ納得いかないか?」  
         久須那は小さく頷いた。  
        「――召喚士だった。実際にね、玲於那を召喚したのもシェイラルのおっさんなのさ。判るかい、久須那。つまり、彼は――」  
        「一流の魔法使い……」  
        「そお言うことだ。へっ、どうしてそんなやつが小さな街の一司祭なのか、解せねぇって面してるぜ? ……それはレルシアが知ってる、レルシアに聞けばいい」  
        「いや、今教えろ!」真顔で問い詰めたら、すぐに答える。  
        「玲於那とラブラブ、逃避行をしたの」  
        「真面目に答えろ!」  
        「これでも十分真面目に答えたつもりなんだけどな」けれど、久須那はサムを睨んでいる。  
        「しゃあねぇなぁ」サムは面倒くさそうに頭をボリボリと掻きむしった。「――天使のラブラブの司祭とあっちゃあ協会の威厳に関わるとかで追放されたのさ。玲於那共々ね。だが、召喚士であることにはかわりなく、そんなのを野放しにすることもできねぇ。けど、この教区にも置いておけない。で、テレネンセスに左遷ってわけさ」サムは頬杖をついた。  
        「気に入らないようだな」  
        「そりゃ、気にいらねぇさ。あんないい人なのにな……。――三十六年だ。確かにね、あの人がテレネンセスにいなければ、今の俺はいなかっただろうさ。けどね、あの人にとっては貴重な時……とわ、永遠だった。――俺はあの人の協会を取り戻したい」  
         シェイラルの協会を取り戻す。八ヶ月前、初めて天使に襲撃されたとき果たしてサムはそう考えたのだろうか。久須那は思った。協会から追われなくなる手段を講じられればそれで良かったはずなのに。もしかしたら、サムはジングリッドを退け久須那の居場所を作るために……?  
        「……お前は死ぬ気だ――」久須那はティーカップを弄びながら呟いた。  
         ドォオン! 久須那の囁きは突然の雷鳴の大音響に叩き消された。それから、間をあけずにビチビチと窓ガラスを打ち付ける雨粒が落ち始める。  
        「あちゃ〜。今日は一日もつと思ってたんだけどなぁ」  
         雨音と雷鳴に引き寄せられてサムは窓際に行った。額に手をかざして、薄暗くなった空をサムは見上げていた。  
        「戦況は難局。一筋縄じゃいかねぇってことなのかなぁ」  
        「サム! そ、そんなことは判りきったことじゃないか。勝ち目は……勝ち目なんか……!」  
         久須那は恐ろしくなって、両手で口を覆って黙った。すると、サムはそんな心配はねぇさと言うように久須那に目配せして見せた。  
        「マスター。今度、ここに親父を連れてくるよ。マスターの紅茶、飲ませてやりてぇんだ」そして、サムは久須那に振り返った。「もちろん、てめぇも一緒だぞ。ジーゼも、ちょっとうるせぇけどちゃっきーも見っけてこなくちゃな」  
         サムとゆっくり話をすることなんてこの先、二度とないんだ。サムは久須那の思いを置き去りにして、今、この瞬間だけが一際輝いて思い出のなかに残る。サムはみんなと一緒にここに来るつもりはないんだ。サムの今までにない無垢な優しい微笑みが久須那にそう語りかけていた。
       
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