23. decisive battle(決戦の日)
待ち人来たらず。そうなってしまえばいいとここに来て何度考えたことだろう。何もないまま、夜が明けて、何もないままに日が暮れる。それが何日も、どれだけ日が過ぎたのかも忘れるくらいに繰り返されて、関わりを持った全ての人の記憶の彼方に行ってしまえばいい。
一通りの話をした後三人はジーゼの精霊核の前で待っていた。ジングリッドはここに来る。彼が可哀想な光の玉を欲するのなら、ここで待つのが正解というもの。けど、あまりに長く待ちすぎて緊張感なんか半分どこかに吹き飛んでしまっていた。そこへ……。
「やはり、ここにいましたね。久須那」
「誰だっ!」申が声のした方を振り返った。
茂みががさっと割れると見覚えのあるずんぐりむっくりした姿が久須那の瞳に飛び込んできた。
「枢機卿……。何故、あなたがここに? ジングリッド……さ・ま……は?」
「ジングリッドは関係ない。ウィル・オ・ザ・ウィスプ……渡してもらおうか」
「し、しかし? イグザイアさまは……?」
ウィル・オ・ザ・ウィスプ、鬼火、彷徨える魂を欲したのはジングリッドではなかったのか。久須那は思った。ジーゼの精霊核の近く、或いはそのものにあるという異界への出入り口を開くのだとジングリッドは言っていた。
「ジングリッドに何を吹き込まれたのかは知らんが……渡してもらおうかな?」
「渡せません。これは……ジーゼの」
「いいえ、久須那。あなたには断れない理由があります」イグザイアはパチンと指を鳴らした。
「!」言葉がでない。この場に絶対いてはいけないはずの人が天使と一緒に空から降りてきた。
「どうです? これでも断りますか?」
「レ、レルシアさま??? 何故、ここに。どうして、イグザイアさまが……?」
「あなた方は大司教を匿ったつもりなのでしょうが、シメオンは協会のお膝元。捜す気になればすぐに見つけられますよ。――さて、もう一度だけ言います。それを渡しなさい」
「久須那。渡してはいけません。枢機卿には天使長とは違う目的が……」毅然とした態度。
「そ、それはそうですが、その……」
あまりに突拍子もない出来事に久須那は頭の中が真っ白になってしまいそうだった。
「知りたいですか……?」口元が歪んでおぞましい笑みに久須那の瞳には映った。
「知りたくねぇな」久須那の後で静観していた申が意地悪な微笑みを浮かべて前に出てきた。「協会の枢機卿が何を考えていたとしても俺たちには関係ない。久須那さんの持ってる光の玉は渡せない。そいつはジーゼと久須那さんのものだ」
「ケガをしたくなければ大人しく帰りなさい」ジーゼが申を制して、たおやかに言った。
「……ドライアード、ですか。では、ひょっとすると、この辺りにあるのですかな?」
瞬間、みんなで焦った。枢機卿が何を望んでここに来たのかまるで見えない。久須那の知るかぎりではイグザイアはジングリッドに利用されているだけの人に過ぎないはずだった。
「図星のようですね。では、ウィル・オ・ザ・ウィスプとその娘をもらい受けていきましょうか」
「どうするつもりだ?」
久須那は背中にかけた弓を手に掴んだ。場合によってはもう避けられないのかもしれない。
「……知りたくなかったのでしょう? 今更、教える義理はありませんな」
「……枢機卿は協会を乗っ取る気です……」
「流石、玲於那の娘ですね。洞察力に優れている。久須那の姪っ子とは思えませんね」
「どうして、そんなことまで知っている? わたしは誰にも……」目を白黒。
「久須那からは聞いてませんね。しかし、そんなことはすぐに判るものです。……!」
イグザイアは自分の気に入らない空気を感じて、天を仰いだ。その次の瞬間、再び、森が騒いだ。枢機卿が茂みをかきわけて現れたときよりも数段大きな緊張感が森を覆いだした。人とは明らかに異なるパワーの波動が感じられた。久須那にはそれが何者なのか、姿を目視する前からはっきりと感じ取っていた。
「ジングリッド……」
宙から舞い降りてくるジングリッドを睨み付けながら久須那は言った。けど、久須那や申、ジーゼにも全く目もくれず枢機卿・イグザイアの眼前にストンと降り立った。
「こんなところで何をしている、枢機卿」ドスの利いた怒りに満ちた硬い口調。「辺境までわざわざお出ましとは……わたしの信用もその程度ということなのかな? イグザイア」
「最初から信用などしていませんよ。途中まで目的が同じだったから、手を組んだだけです」
すると、恐ろしいまでの冷徹な蔑みを含んだ眼差しがイグザイアに降り注いでいた。
「……そうか、ならば、お前はもはや用済みだ。消えろ」
「無理ですね。あなたの消滅魔法などわたしには利きません」
「……。本当にそうだと思っているのか? 対魔法シールドの効力など高々知れているぞ」ジングリッドは鼻で笑い、ほくそ笑んだ。「なぁ、レルシア」
イグザイアの背後で天使に捕らえられたままのレルシアは無言だった。レルシアの母、玲於那を消したのは当のジングリッドだった。天使が天使を消す。高次のエネルギーを持つ天使を消すには更に多くの力を必要とする。そんなジングリッドに人を消すのは造作もないこと。
「……まあ、良い。――いらぬ野望を抱かねば長生きできたものを。消えてしまえ」
ジングリッドの凍てついた視線がイグザイアを捕らえた後、彼の姿は風景の中に溶け込んでいた。その存在を示すものはなく、最初からいなかったかのように綺麗に消えていた。
「さて、邪魔者は永遠に消えたことだしな……早速で悪いが本題に入らせてもらおうか」そして、ジングリッドはそこに居合わせた面々を見定めた。「しばらく見ないうちに新しいお仲間が増えたようだな。そっちの緑の娘はこの森のドライアードと言うわけか……」
「そんなにジロジロ見ないで下さるかしら?」
「フン……。お生憎だが、精霊には興味ない。精霊核にのみ用事がある……」
「そおお?」ジングリッドの足下から甘いあどけない声が聞こえた。「おいらはあ〜んなカチンコチンの色気のないクリスタル〜よりも、色気まんしゃいのア・ダルティ〜なジーゼちゃまの方が好き〜。けど、悪戯一杯、やんちゃジーゼは大嫌いなの〜」
「……何だ、こいつは?」ジングリッドはちゃっきーを思わず指差して言った。
「あまり気にしないほうが」ちゃっきーに関しては敵味方問わずに邪魔者らしい。
「……。ともかくだ。久須那。――お前の手の中にある光の玉、渡してもらおうか」
「何度も言ったはずだ、断る」厳しい眼差しでジングリッドを睨み、毅然とした態度で答える。
「そう言うとは思っていたがね……。では、交渉決裂ということでいいのかな?」
初めから穏便にことを済ますつもりなどないくせに。ジングリッドのどこか楽しげな表情を見ていればそう思わざるを得ない。帰ることだけが絶対の目的とは思えない。いつしか、本来の目的が“戦う”ことと入れ替わってしまったのではと勘ぐりたくなるくらいに。
「天使長……。無益な争いはやめましょう……。あなたのマスターとして言います」レルシア。
「……。無理だな……」瞬間、切な素っ気無い笑みが見えた。「降りてこい」
短いその一言が始まりの合図だった。森の彼方から十人の天使たちが無表情で降りてきた。手に手に得物を持ち、ジングリッドの合図を今かと待つ。
「ウィル・オ・ザ・ウィスプと精霊核が手に入ればあとはどうなったって構わん!」
ジーゼは身震いした。本気なんだ。この人たちは欲しいものが無事に手に入れば周りが灰燼と化そうとも良心が痛むことないに違いない。恐ろしい。
「ただし、久須那の相手は俺だ。お前たちは雑魚とそう、レルシアは殺さず、捕らえよ」
意志なき天使兵団が動き出す。
「そうはいくか!」久須那が弓を引き、矢をつがえる。申の実力は知らないが、十対二+αでは勝ち目はない。事実、あのサムでさえ天使兵団には苦戦していたのだ。若い申にそれほどの実戦の経験があるとも思えないし、久須那は苦悩する。「お前たちは引っ込んでいろ!」
(……言うだけ、無駄なのかもしれない)
と思った瞬間、久須那は矢を放った。ジングリッドが斬りかかってくる前に申を援護しなければ。イグニスの矢が次々と天使たちを襲う。が、同じ属性の天使たちに圧倒的な効力は期待薄だ。
「久須那さん! ジングリッドが!」
申の怒声が久須那に届いたとき、ジングリッドが背後に迫っていた。
「小僧への援護射撃とは随分と余裕がお有りだ」
久須那は弓を持ち替え、振り向きざまそれでジングリッドの剣を受け止めた。しかし、ジングリッドの剣圧を受けるには玲於那の魔力が宿っているとはいえ弓では心許ないこと限りない。たった今でも、折れなかったことの方が不思議なくらいだった。
「くっ!」
「間合いが取れなければ、弓は使えまい?」意地悪な笑み。
久須那はジングリッドの悪辣な光をたたえた瞳を睨み付けながら渾身の力を込めて剣をはじき返した。不利だ。剣を使えないこともないが、弓ほどの力が出せない。けど、ジングリッドは矢を放てるくらいの間合いは絶対にくれないだろう。としたら、射程の短い道具がいる。
『あなたなら、出来る……』久須那とジングリッドには聞き覚えのある声が微かに聞こえた。
「え?」
久須那は仄かに暖かくなった弓を見た。玲於那の魔力。そのパワーなのか、久須那の弓が変化を始めた。瞬間の出来事。弓が剣に変わる。そして、フタの開いたウェストポーチの中で大人しくしていた光の玉が久須那の“輪っか”の辺りにまとわりついてそこを居場所と決め込んだ。
「申っ! レルシアさまとジーゼを頼む!」
「いや、その、えええ?」目を見開いて久須那の後ろ姿をまじまじと見詰めてしまった。
「大丈夫、レルシアさまはそんなに弱くない」
瞬間、振り返って軽く微笑んだ久須那の顔がやけに印象的だった。それから、久須那はこれまでにないくらいの真顔になっていた。剣の柄を無駄な力なしに握り、滞りなく流麗に構えた。久須那はこれまでにほとんど剣など使ったことはなかった。ダガーが関の山。それもとどめを指す程度のもので、はっきり言えば剣術に関してはド素人みたいなものだった。
「剣は使えるのかな? 麗しきお嬢さま」プチンといってしまいそうなくらい腹立たしい。
「さあね。けど、わたしたちには希代の英雄・イクシオンがついてる」
そう考えれば、どこからともなく力が沸いてくる。久須那は自ら打ってでる。先手必勝とまではいけないだろうが、せめて一矢報いないとサムに会わせる顔がない。そして、慣れない剣の使い方は“輪っか”にとまった光の玉が教えてくれる。
ギィィィイン! 久須那とジングリッドの剣がかち合った。久須那には初めての経験だった。ジングリッドのパワーに圧倒される。けど、久須那も負けない。歯を食いしばり押し返す。
(引いて、やつの剣を流し、身を翻せ……)アドバイス?
久須那は光の玉の指示に素直に従う。久須那は瞬時に決断を下し、身を左後方に引き、剣を右手に強く押しながらジングリッドの得物を振り払う。その勢いのままジングリッドの後方に回り込もうとしたが、流石は生来の剣士、あっさりと阻まれた。
「流石と言うべきかな?」ニヤリ。「しかし、それでは勝てない」
ジングリッドは降り下ろす。久須那はそれを寸でのところでかわし、地面に倒れ込んだ。このままではまずい。久須那はすぐさま立ち上がると、ジングリッドに次の一撃を加える。決して、か弱くない久須那の打撃もジングリッドにはまるで利かない。ジングリッドは軽く流し、余裕の笑みを浮かべる始末。
それから、ジングリッドの怒濤の攻勢が始まった。既に手加減は一切なく、久須那は押される一方。攻撃の手を出そうにも防戦しかできない。剣でジングリッドの攻撃を受けるだけで手一杯。ジングリッドの剣圧に剣を握った手がビリビリと痺れてきてしまい、打たれるたびに剣を落としそうになる。久須那はじわじわと下がっていくしかなかった。小さな広場に逃げ場はない。
「どうした? 久須那。イクシオンがついているのではなかったのか?」
(ゆ、弓を使えなければ……)圧倒的不利は返せない。
そして、ジングリッドはついに久須那の剣を叩き落とした。
「あぐっ!」
久須那は短い悲鳴を上げ、キッとジングリッドを睨み付けた。ジングリッドはそこに出来たわずかな隙に付け入って剣を久須那ののど元に押し当てた。
「久須那、負けるんじゃありません!」レルシアの声援も届く。
「……得意の弓を使ってこないとは……お前、さては飛べないな?」
「!」図星。ジングリッドに接近されても、飛んで間合いを広げられない。剣の間合いでは弓が引けず、引いたとしてもその間にやられてしまう。
「なるほどな……」
ジングリッドの気が緩んだ隙に久須那は地面に突き刺さった剣を拾い、突き立てようとする。
「やっ!」
「――ウィンドカッター!」久須那のタイミングに合わせて、ジーゼは魔法を放つ。
けれど、久須那の刃もジーゼの刃もかすりもしない。ジングリッドは空中を舞っていた。
「ねぇ〜。ジーゼちゃまの魔法にnameなんてついてたっけ?」
「こ、こんな時におかしな突っ込みを入れないでください」
一方の申は天使二人相手に苦戦を強いられていた。
「いやや、こ、これは久須那さんの援護なんてしてる場合じゃないぞ。ジーゼ! ちゃっきーなんか構ってないで、ちょっとこっちも……援護してくれ」
そこへ更に久須那のイグニスの炎を逃れた天使が二人、三人と申の前に舞い降りてきた。死んだ魚の目。ただ機械的に与えられた任務をこなすロボットのよう。けれど、動きは申の戦った幾多の魔物たちよりも遥かに俊敏だった。
「……天使にこれって利くのかしら?」
ジーゼは申の薬箱に括り付けたままになったままの十字銃を手に取り構えた。普段、使うことはほとんどなく、最後に使ったのが何年前なのか、何十年前なのかもさっぱり覚えていなかった。だから、手にした十字銃は飾りのようなものだった。
そして、いつもは人を傷つけることをためらうジーゼも今度ばかりはそうも言っていられない。ジーゼの銃は実弾ではなくて、魔法弾(弾の代りに魔法を込める)を発射する。ついでに魔法の込め方を忘れてしまっていたりする。
「レ? レルシアさんは何かできない?」
「あれ? あれあれ?」ジーゼは慌てて銃身を覗き込む。
「ジーゼ! 何やってんだよ、頼むよ。一人で五人だなんて、無茶苦茶だぁ〜」
申は凍りついた表情の天使と剣を交えていた。退魔師と言えど、魔法を使う余裕がなければただの剣士。相手が多すぎては隙も作れず魔法剣の準備もままならない。
「あ! もうオッケーだよ。申」
ジーゼの声色が申に届いたとき、その周囲の気温が急激に下降したのを感じていた。何が起きる。言い知れない焦りみたいな感情が申を覆う。天使は炎術。ジーゼも自分もそんなものは使えなかったから、冷気が来るのは甚だ不可解だ。
「レルシアさまって、氷術使い?」横に並んだジーゼが振り向きざま問い掛けた。
「そうです。――申くん、下がりなさい」
レルシアに言われて、申は強引に天使をなぎ倒すと後に飛び退いた。それと同時に、地面から数本の氷柱が凄まじい勢いでせり上がってきた。そして、無表情な天使たちを氷に閉じこめる。
「申! まだ、一人残ってる」ジーゼの金切り声。
「判ってる。一人なら何とか……」
能面のようにかたい面の天使が迫ってくる。怖いぐらいに無言で、死んだように光のない目。けれど、その瞳の奥底は任務に対する忠誠心なのかあからさまな殺意に煌めいていた。
「申くん。あの子たちに罪はないの。だから……」
「へぇ?」素っ頓狂な声をあげて、方針転換。
目論んでた魔法剣をやめにして、雷の魔法を放つことにする。その間にも天使たちは申を狙う。申は剣を引っ込め、レルシアの無理難題に付き合って飛び退いた瞬間、さっきまで申のいた場所に天使の剣先が突き刺さる。と、次にはその場所は溢れ出る炎の魔力を受けあっという間に焦げてしまった。そして、軽く宙を飛んで地面に片足をついたとき、申は最も簡単な雷の呪文を完了する。
「いっけえ〜!」
目前での雷撃は音と閃光が同時に来る。しかも、落雷の衝撃をまともに喰らう。ジーゼはレルシアの気持ちを察して、その天使を得意の蔦で縛り上げてしまった。もがいても蔦がめちゃくちゃに絡まっていて、ほどけずに却ってこんがらかってしまう。
「久須那さん!」
申はようやく余裕が出来て、ジングリッドと久須那の方を向いた。
「ジングリッド! 久須那さんをいじめるな」
「申! やめろ、ジングリッドには手を出すな」申の行動に一番驚いたのは久須那だった。
「大丈夫、いけるっ!」
「ダメだ!」光の玉は久須那の頭の上で伸び上がって驚いてる。
(油断しなければ……〕
もはや申には久須那の声は届いていなかった。申は地上に降りたジングリッドに刃を向ける。
(ああ、何かないか? ……剣は……投げたら困る)
と、久須那は「我関知せず」を決め込んで、精霊核の真下辺りで寝そべっているちゃっきーを発見した。そこから先は考えるよりも先に身体が動いた。ちゃっきーを投げつけてやれ。いつかのサムの行動が思い起こされた。居眠りちゃっきーを必至の形相でで引っ掴むとジングリッドをめがけてぶん投げた。
「あ〜れ〜?」ちゃっきーにとっては意味不明の飛行のままジングリッドの顔に軟着陸。
「Hey, boy!! おいたはいけませんのことよ」よく判らないけれど、とりあえず言ってみた。
「……! 鬱陶しい!」
ジングッリッドは顔からちゃっきーを引きはがすと地面に落とし、踏みつけた。
「もぎゅっ」ちゃっきー、受難の日である。
「お前は邪魔だ」ジングリッドは潰れてぺちゃんこのちゃっきーに一瞥をくれた。
「申っ! 引け! 頼む」悲鳴にも似た久須那の声。
このメンバーでジングリッドの真の強さ、残虐性を知っているのは久須那しかいなかった。けど、久須那の願いは届かない。申はジングリッドが隙を見せたときに魔法剣のための呪文の詠唱を完了し、瞳を爛々と輝かせてジングリッドに立ち向かう。
「お前じゃ無理だ!」決して言わなかった最後の一言を言い放った。「ジーゼ、レルシアさま」
その有り様に、ジーゼは慌てふためいて十字銃を構え、ジングリッドに狙いを定めた。そして、パァァァアン。乾いた銃声が森中にこだまして、ジーゼはその反動で後ろにひっくり返っていた。一方、レルシアはと言えば、困惑のどん底にまで落ちていた。
「うぁぁああぁ!」ジングリッドの鬨の声と申の悲鳴が重なった。
「し〜んっ!」心配などとうに通り越して、胸が張り裂けそうな女声が響く。
見えてしまった。ジングリッドの炎の刃が無遠慮に申の身体に吸い込まれていくのを。もっとも見たくない瞬間だったはずなのに目は釘付け、最高潮に達した緊張感にその様子の一部始終がスローモーションにジーゼの瞳に映り込んでいた。
「――精霊ごときに傷を負わされるとは……俺もやきが回ったか?」
ジングリッドは腹を押さえていた。押さえた手の指の間からは真っ赤な鮮血が滴り落ちる。申を打ちのめすことだけに気をとられ、その遠く後ろにいたジーゼの動きが見えていなかった。
「ジングリッド! お前は……お前だけは許せない!」
「許して欲しいなどとは思ったことはない。わたしは異界に帰れればそれでいいのだ」
「天使長……。あなたは……そんなに身を身を滅ぼしたいのですか……」
「……。大司教さまには黙ってていただこうか」ジングリッドが、レルシアに右手の平を差し向けた瞬間、レルシアはかなり後方まで弾き飛ばされていた。「……あなたは殺したくない……」
レルシアは気を失い、ジングリッドの言葉が届くことはなかった。
「では、決着を付けてしまおうか! 久須那!」
久須那は歯を食いしばる。もはや、絶対におくれをとれない。その久須那の手の中で、剣は再びイグニスの弓へと形態を変化させていた。そこに宿るのは久須那と玲於那の炎の魔力。久須那の弓から普段は百パーセント見ることは出来ない、青白い炎のオーラのようなものがゆらゆらと立ち上っていた。久須那の怒りがイグニスの弓の潜在能力を引き出す。久須那も知らないその限界性能は一体どこにあるのか。
ジングリッドはその傷の深手も感じさせず久須那に迫り来る。
久須那は間合いを詰められては矢を放てないと、飛んだ。しかし、傷つけられた翼に激痛が走り、思い通りの軌跡が描けない。実際、ジングリッドの炎術にやられた傷は癒えていず、宙に浮かぶのもやっとの状態。これでジングリッドが魔法を打ってきたら一巻の終わりだ。
けれども、ジングリッドにはそんな余裕はなさそうだった。予想に反した、ジーゼの一撃はかなり堪えたようだった。ジングリッドの刃に映る炎の魔力も幾分弱まっていた。ラストチャンス。久須那はそんな気がしてならなかった。
(……外したら次はない)
背水の陣とも言える異常なほどの高まりを見せた緊張の中に久須那はいた。
そして、イグニスの矢が久須那の手元を離れていく。そして、連射。一本きりでは、剣で弾かれたらその先がない。久須那だって次にジングリッドに剣を突きつけられたら、避けられない。既にどちらも限界を超えているのかもしれなかった。
久須那の放った青白い高温の炎をまとった矢は微妙に軌跡を異にして三本、四本とジングリッド目掛け飛翔する。
(外れるな!)祈る。
一本目は案の定、真っ二つにされた。二本目、三本目はジングリッドのスピードが追いつかなかった。考えられない事態にジングリッドの瞳が大きく見開かれた。いつものジングリッドなら余裕でかわせる矢もかわせない。ハイパワーのパワーズ・ジングリッドといえど、高出力のイグニスの矢を何本も受けてはただでは済まない。
「がっ!」
ジングリッドの悲鳴(!)久須那は初めて聞いた。そこへ、ここが好機とばかりにジーゼは泣きながら十字銃を撃ち、一発撃つ度にひっくり返っていた。ジングリッドを退けなければ、申に近づくこともままならない。
「くそっ! 久須那や精霊ごときにやられるのかっ!」
その言葉を最後にジングリッドは爆炎の中に姿を消した。倒したのか。全てを確認するまでは安心できない。森の広場を間の悪い沈黙が支配していく。久須那は滞空し、ジングリッドのいた場所にねらいを定めて矢を番え、ジーゼは振るえの止まらなくなった手で握った十字銃で狙っていた。
そして、徐々に煙が晴れてゆき、煙の中から紺色の煌めきを持った久須那のものより一回り大きな羽根が一枚。ひらひらと舞い落ちてきた。それを見て、ジーゼは十字銃を放り投げ、申に駆け寄り、久須那の“輪っか”にちょこんと収まっていた光の玉はジングリッドのいた場所で何か物思いに耽るかのようにふわふわくるくると漂っていた。
(ジングリッド……)気絶から覚めたレルシアが歩み寄る。(どうして……)
レルシアはジングリッドの大きな羽根を拾った。そして、その紺の煌めきの中にレルシアは誰も知らない、誰にも語ることのなかったジングリッドの思いを知る。
(そんなに……帰りたかったのですか……。狂気と戦って、そんな暴力的な方法しか――。わたしが……あなたを召喚してしまわなければ、こんなことにはならなかった――)
レルシアはジングリッドの羽根を強く握りしめたまま地面に崩れ落ちた。
その一方で、久須那は墜落するかのように空から降りてくると、ジーゼに膝枕された申のところへ駆け寄っていった。
「ジーゼ! 申、申はっ!」足がもつれて、転びそうになる。
それ以上言葉にならなくても、ジーゼには久須那が何が聞きたいのか判る。でも、ジーゼこそ、久須那に返す言葉がない。目に涙がたまり、しかも、この状況をどう伝えたら。混乱してしまう。こんなことあっていいはずがない。天使兵団を蹴散らし、ジングリッドを倒し、勝ったのに。
「せっかく、勝ったのに、こんなことって……」
ジーゼはフルフルと力無く首を横に振った。傷が深くて、あまりに悲惨で直視できない。
(そう、お母さんのお膝……)
(そっか……ジーゼだったんだ。ずっと、捜してた。十五年……。長かったよ)
「申、申っ! 死んじゃいけない! 未来が……、キミにはまだ未来が」
(ジーゼ、そんな哀しそうな顔しないでよ)
「久須那! 何か知らない? こんなとこで死なせたくない」
「大丈夫! オホホ、申ちゃまは殺したって死なねぇ〜のだ! って、あれ? 死にそうね?」
どこからともなくちゃっきーが復活してきて余計なことを口走る。
「うるさいっ!」ジーゼが珍しく本気で怒った。
ちゃっきーの一言がジーゼの感に障って特大級の雷撃がちゃっきーを襲う。一瞬の閃光とドォォオンとと言う大音響が晴れた後、ちゃっきーの姿は綺麗さっぱりなくなっていた。
「ねぇ、久須那。お願い。何とか、わたしの力じゃ無理なの。天使なら、何とか」
「自然の理を変えることは無理だ。そんなことできたらっ、サムだって死んでない」
「そっか、そうだよね……」ショボンと切なく申を見詰めた。
(何、怒ってるの? どうして、ジーゼ、そんな哀しそうなの? 俺は大丈夫だよ)
(ただちょっと、眠いだけなんだ――)
(そう……ただ、ちょっとだけ、眠いだけなんだよ……)
「申っ! 目を閉じないで!」ジーゼは申の頬を平手で軽く叩く。
「ジーゼ……」
久須那はーゼの傍らに立ち、彼女と申を見下ろしていた。と、ジーゼが久須那を見上げた。
「久須那……。もお、いやなの、わたしのせいで人が死ぬのはもう、見たくない」
(ああ……。お母さんの膝枕ってこんなに……あったかかったんだね……)
「ジーゼ――。もうダメだ……、諦めろ」
「どうして、そんなクールでいられるの?」
「これがクールでいるように見えるのか!」久須那は瞳いっぱいに涙をためていた。「申はわたしたちよりもずっとずっと若いんだ。そんな子が……。……止めたのに、どうしてお前は!」
今更、何を言っても遅いんだ。そんなことはよく判っていた。けれど、言わずにはいられない。申はこの戦いとは完全に無関係だった。久須那たちの戦いに身を投じる必要はなかった。
(死ぬのは……サム一人で十分すぎたのに……)
「ジーゼ……。申をサムの隣に……」
「……」無言の返事しかできない。「申……。申っ! 喋ろうよ。死んだふりなんかしないで」
申が死んだなんて信じたくない。そんなことがあってたまるか。でも、動かなくなって、次第に冷たくなってゆく申の身体がジーゼに事実を認めよと訴えかけてくる。そこへ、光の玉が戻ってきて今度はジーゼのそばをまるで彼女を慰めるかのように漂いだした。
「お前はわたしを慰めてくれているの?」差し出されたジーゼの手のひらに光の玉はそっととまった。「……ありがとう……。でも、わたしは大丈夫だから……」
「レルシアさま……申を……葬りに……」
久須那はジングリッドが逝った地面にうずくまるレルシアに声をかけた。
「え? ええ。……」レルシアの瞳に微かに涙がたまり、零れ落ちてゆく。「久須那……。イクシオンのお墓に……ジングリッドの集めた十一個の精霊核が……」
「えええ?」訳が判らない。そのまま、二人ともしばらくの間、絶句してしまった。
「――ジングリッドがイクシオンに預けておいたと……」レルシアは右手に握ったジングリッドの羽根を久須那にそっと見せた。「ジングリッドが教えてくれました……。そう……イクシオンは……死んだ……のですね。――この森を守って……」
レルシアの言葉に久須那はただただ黙ってうなだれるしかなかった。
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