12の精霊核

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26. siria has a nightmare(醒めない悪夢)

「え〜とぉ、そうしたら何さ? 結局、迷夢の目論見は成功し、マリスの画策は失敗した。まずはそこまででいいのね?」セレスは自分の考えをまとめるかのように言った。
「ま、そんなところだ」
「過去語りは置いておいて、でぇ、でよ?」セレスは念を押した。「今年になって、マリスの氷の封印は解け、死んでたと思っていた迷夢が生きていて、わたしたちがここに来た。マリスは異界とここを繋ぐことをまだ諦めていなくて、迷夢はえと、異界とここの境界面を完全に修復することを望んでる。そいで?」
 デュレにはそこから先は既に自明のことだった。自分たちは完璧ではないにせよ、これから起こりうることの一部分を見てきているのだ。何がどうなるのか、判然としない部分が大方を占めているとは言っても、シメオンが数日以内に二百二十四年後の廃墟に向けて第一歩を踏み出すこと。迷夢の望みが叶うことを指している。そして、さらに二百二十四年後のリボンが言っていたことから類推すると、マリスは1516年になって再度現れる。
 その点と点との間を埋められないのがデュレを少しばかり苛つかせていた。
「今年に集中してきたのは条件が揃ってきたからですね?」
「正直なところ、オレにはさっぱり判らん」リボンはさじを投げたようにさらっと言った。
「な?」驚いたのはデュレだ。「予兆を感じるんじゃないんですかっ!」
「……」リボンは上目遣いにデュレを見た。「ことさら自分に関わることはぼやけてよく見えないのさ」静かな口調で意味深な発言をする。
「それはどういう意味ですか?」デュレはリボンの発言が引っかかる。でも、シリアは無視した。
「まあ、落ち着いて全部聞けよ。もうすぐ終わりだ」
 リボンはそっと目を閉じて、再び続きを語り出した。

 シメオン上空にマリスが現れたのはそれから間もなくのことだった。吹き抜ける一陣の風のごとく、マリスはこことはほぼ反対側のシメオン郊外から飛んできた。その後ろには久須那の陰がチラリとしたのを迷夢は確認していた。
「迷夢っ!」マリスは迷夢を激しく怒鳴りつけた。
「あら、随分遅かったじゃない、マリス。もう、これでおしまいよ」
 迷夢はつっと振り返り、流し目でマリスを捉えた。その瞳の中には微かに勝ち誇ったような色が見え隠れしていた。マリスを出し抜けた事への優越感は大きい。
「やめろ、何をしようとしてるのか判ってるのか?」
「判ってるよ。あなたの邪魔をしているの」と言えば、マリスは凄まじく怒りに満ちた形相で迷夢を睨み付けた。「こ、怖くなんかないもん」
 と言いつつも、迷夢は青ざめた。
「今すぐに術を解け、そうしたら許してやる」
 迷夢は目を閉じて首を静かに横に振った。
「許すとか許さないとかそう言う問題じゃないよ。ホントは判ってるんでしょう? 境界が崩壊したらあなたのしようとしてることは無意味になる」迷夢は引きつりながらも微かに微笑んだ。「けど、むしろ、二つの世界はダブってしまった方がいいのかもしれない」
「ダメだっ! 一つの空間に二つの世界の物質を押し込むことはできない」
「そう、だったら、あたしの正しさが判るでしょう?」
「二つの世界は別々に歩めばいいか。お前は久須那と同じ事を言う。それはそれでいいさ。だが、ここに取り残されたわたしたちはどうする? このまま苦汁を飲んでろと言うのか」
「そんなことは言っていないよ。順番を間違えないでと言いたいだけ」
 しかし、マリスに迷夢の思いは届かなかったようだ。怒りの形相は影を潜め、表面上はいつものクールな研ぎ澄まされた眼差しを取り戻していたが、内面は煮えたぎっていた。
「古代魔法を持ち出したお前にそんなことを言われる筋合いはないな」
「でも、今回はあたしの勝ちよ、マリス。悔しかったら、止めてご覧?」
 迷夢はついマリスを挑発する発言をしてしまった。普段なら、マリスは戯れと思って意に介さない。しかし、今日は違った。
「! ……今のわたしを挑発するとは言い度胸だな、迷夢」マリスは大きく息を吸った。「天空に住まう光の意志よ。我が右腕に宿り、全てを滅するパワーを体現せよ。光弾!」
 短い呪文を詠唱すると、マリスの右手に光が集まりだした。
「うわ、あれはまずい」迷夢はあたふたとする。
「落ち着いて、わたしがいます」ずっと迷夢にしがみついていたゼフィが言った。
「わたしがいますって、どうするのよ?」声が上擦っていた。
「……わたしが闇使いだと言うことを忘れていませんか?」ゼフィは真摯に微笑む。「闇は光の抑止力。その逆もまた真ですが、迷夢より役に立つわよ?」そこはにやり。
「い、今そんなことで虐めないでよ。ほ、ほら、もう、来ちゃうよ?」
「大丈夫です」
 マリスの魔力を目の前にして何を根拠にそんなことが言えるのかと迷夢は思ったけど、いらぬ発言は控えた。マリスについて今まさに、失言は放ちたる矢のごとし、取り返しがつかないと実感したからだ。
 そして、ゼフィは大きく深呼吸をするとギンとその目を見開いた。
「漆黒の闇を統べしもの、シルトよ。氷雪と闇の使者、ゼフィの心に描きし思いに応えよ。空隙に飛翔する光の魔力……エネルギーをあまねく次元の彼方に吸引せよ」
 それは闇魔法、フォワードスペルの亜種であり、その出口を一時的に塞いだものとも言えた。だから、吸収する一方で、後に放出する必要もあったし。用意した異空位間に入りきらなければ、滅多なことはないが、エネルギーが暴走し辺り一面が消し飛ぶ可能性もあった。ゼフィはより注意深く呪文を詠唱し、目標をマリスの光弾に定めた。
 その間にもマリスの放った光弾は白い軌跡を描いてゼフィと迷夢を目指す。
「……サクション!」
 炸裂の直前、ゼフィの前に不意に円形の穴が開いた。光弾の殆ど全てはその中に吸い込まれていく。が、一部分は穴の外周部にぶち当たり、白い光の飛沫を周囲に散らした。その瞬間、ゼフィの身体に大きな衝撃が走った。
「あうっ」悲鳴が上がる。
 一緒の迷夢もろとも遙か後方に吹き飛ばされそうになった。しかし、それでも光弾のメインストリームはゼフィの形作った穴の向こうに消えていく。通常、それ以外の方法では光弾はミラーフレームなどで跳ね返すしかなく、それだと他の場所に甚大な被害をもたらすことが多かった。一度放出すると、それは消せないのだ。
「……」不機嫌な眼差しでマリスは二人を見やる。「……氷の精霊王、サスケの右腕は伊達ではないか……。初めてだな、こんな事は……」しかし、少しは感心していた。
「だ、大丈夫、ゼフィ?」
「え、えぇ、多分。想像以上に魔力が大きくて一時的に反発したようです」
 光弾の消失とほぼ同時ににマリスの後方から迫ってきた久須那がイグニスの矢を放った。薄暗い空の下を青白い輝きを放つイグニスの矢が飛翔した。
 マリスは鋭い眼差しを久須那の方に向け、勢いよく左手を突き出した。
「……バニッシュ……アイズ」マリスはしめやかに呪文を唱えた。
 同時に久須那のイグニスの矢が分解しながら虚空に溶け込んだ。
「マリスには虚仮威しは通用しないか……」
「当たり前だ。お前だって、そうだろ?」
「まあ、そうだが、……矢を弾かれるならともかく、いとも簡単に消されるのではな」
 意気消沈もするだろうと、続けようと思ったがそこはあえて黙った。
「久須那は十分強い。相手が悪かっただけだ」マリスに言われても慰めにもなりはしない。「しかし……二方向から攻められるのは厄介だな」
 マリスにとって二人を相手をすることなど造作もないが、敵が二方向にいるのは分が悪い。しかし、迷夢は呪文の詠唱中だけにそちらへ大きく集中力を向けていた。迷夢はフィールドイレーズを使っている限り本領を発揮できないはずだった
 ならば、敵は一人だけだ。マリスは迷夢たちから目を離し久須那を見やった。
「お前は判っていない。このままではわたしたちは報われない」
 後方から声が届き、振り向けば迷夢が首を横に振っていた。
「ううん。マリスの努力は報われているよ。ゆっくり少しずつだけど。変わろうとしてくる。けど、マリスがそれに気付こうとしないだけ」
「その変化をゆっくり見ている時間はない」
「どうして? マリスの望むことは時間が解決してくれるはず」
「――そう言う、迷夢は何故急ぐ?」マリスは疑問を投げ返した。
「境界の崩壊は待ってくれないよ。特にマリスがあれをやる前にケリをつけておかないと、手遅れになると思って。……あれが終わったら、もう」
 術の完了が近づいて、迷夢は半ば安堵したように喋っていた。
「まだ、終わってないんだな」マリスの目つきが変わった。「ああいうのはお前の十八番だと思ってるだろうが、わたしも扱えるんだぞ」
 視線は迷夢から離さずにマリスは左手を光の柱の立ち上るシメオンに差し向けた。
「ストリーミングブレークダウン!」
 刹那、シメオン市街立ち上っていた光柱が突如巻き起こった乱流に投げ出されたかのように激しく揺れ動いた。マーカーから発せられたそれぞれを結ぶ光のロープも揺らぎ始め、すでに幾度となく消えかけていた。術が完成する前にそれが決壊すると行く先を失ったエネルギーの奔流がシメオン全域を巻き込んで全てを無へと帰してしまう。
「やめてっ、マリス。そんなことされたら……」迷夢の声はわなないていた。
 それでも消費しきれなかったエネルギーは術者の迷夢に逆流する。
「迷夢っ! 半分をこっちに回してください。外に逃がします。早くっ」
 ゼフィは先ほどマリスの光弾に対して使った“サクション”を応用しようと考えた。
「ダメ。ゼフィには無理」落胆と恐怖が迷夢の瞳を支配していた。
「無理でも早く。あなた一人にも受け止めきれない」
「ゼフィ、ダメだよ。あなたは大切な友達――」呟き、そして。「あれは光弾の比じゃないの。マリスが街一つを楽に壊滅できようが、あれほどじゃないのよっ!」
「聞き分けなさいっ!」
 ゼフィは迷夢の耳元にいるにも関わらず、大声で叫んでいた。
「どっちが聞き分けないのよ。ダメったらダメっ! 都市の潜在的魔力の大きさをゼフィは知らな過ぎる。これの十分の一だってゼフィには受け流せない! 黙って、大人しくしてなさい。まだ、終わった訳じゃない」
 迷夢はまだ一度も試したことのない魔法を試してみようと思った。
 行き場をなくした魔力を一時的にプールする魔法だ。莫大なエネルギーを長時間溜めておくことはできないが、マリスとの決着をつける間は何とか維持できるだろう。その後、改めて呪文を発動させるが、プールしたところから再開するように指示を出せばいいはずだった。その実、迷夢はしくじった時のリスクの大きさも心得ていた。
「闇に住まう光の言霊。虚空に漂いし、シメオンの魔力を停時空間へ移送せよ。――スプールフィールドっ!」
 その刹那、辺りは異様な静寂に包まれた。マーカーから発せられていた光が消え、シメオンの一角を包み込んでいた光柱も次第に薄くなり、やがて暗くなった。マーカーの効力が薄れ飛び散ろうとしていたエネルギーはとりあえず、無事にスプールフィールドに引き込まれたようだった。
 そして……。
「光に住まう闇の言霊! 根性で何とかしろっ!」
 迷夢は怒鳴った。根性でどうにかなるものではないけれど、そう言わずにはいられない。迷夢の使ったこの魔法は精霊との直接対話がその根底にあり、名指しで放った言葉はほぼすべて相手側に筒抜ける。そして、先ほどまで迷夢とゼフィの目の前にいた例の瞳が再びギョロリと姿を見せた。
「我を邪魔するのは何やつだ?」
 それは迷夢を見て言う。だから、迷夢は右手の人差し指でちょうど瞳の反対側にいるマリスを指した。すると瞳はくるりと反対側を向いて迷夢立ちに背を向けた。
「……お前か、黒き翼の天使」瞳は黒ずくめのマリスを一頻り眺め回した。
「だったら、どうした?」クールな目つきで、毅然と言う。
「……我を邪魔するのはいかようか……?」
「古に忘れられた名もない精霊のくせに生意気な口をきくな」マリスは口元で嘲笑った。「どんな理由でお前の邪魔をしようとわたしの勝手だ。お前に指図される覚えはない」
「……罪深きものよ。我が怒りを受け取れ!」
 瞳から突如、光がほとばしった。しかし、マリスはまるで何事もなかったかのように意に介していなかった。それどころか、余裕の笑みさえ浮かべていた。
「そんなものは返り討ちにしてくれる」マリスはギンと瞳を睨む。「ミラーシールド」
「!」
 瞳の放った光線は軽く跳ね返され、瞳に向かった。しかし、その瞳とて古の精霊の端くれ、異界の天使ごときに後れをとらない。と、瞳は直接やり合う必要はないと判断したのか、フイッと虚空に姿を消した。
「――迷夢だな。――正直、ここまで出来るとは思っていなかった」
「でも、ちょっと、いやぁっ」
 マリスがミラーシールドで跳ね返した光線が迷夢とゼフィを狙う。光弾よりも威力は弱そうな気配だが、それでもあんなものを食らうのは冗談ではない。迷夢は叫びながらも咄嗟に身を翻し、辛うじて光線をやり過ごした。
「ゼ、ゼフィ。生きてる?」
「ま、とりあえず、何とかね……。ただ、もう少し、お淑やかにお願いしたいわ」
「あはっ! でも、まだ余裕ありそうよね。……あたしより」ポツンと言う。
 と、マリスを目の前にしたまま間抜けたやりとりをしていると、遙か下からシリアの声が届いた。
「マリス、迷夢。やめてっ!」
「シリアくん」これはゼフィ。
「シリア!」二人の声が重なって閉ざされた空に下に響く。「お前の言うことでも聞けない。もう、滑り出したんだ。止められない、止める気はない」
「だって、友達でしょう。だったら、仲良くしてよっ」
「……シリアのお願いでもそれだけは聞けないな」
 答えたのはマリスだった。冷めた表情の中に哀れみが混じっていた。それは束の間の微睡みに消えたのだとマリスは言いたいかのようだった。
「マリス、迷夢!」
「黙れ。これ以上ぐだぐだ言うなら、お前も消す!」
 マリスは虚仮威しではないことを示すために威力を半減させた光弾を放った。着弾地点はシリアのすぐ脇。ドォォ〜ン! 着弾すると大地は地震のように激しく揺れた。
「そんな……、マリス」
 まるで信じられない。シリアは後ずさりながら、呟いた。昨日まであんなに仲良くしてくれたのにシリアは呆然と立ちつくした。しかし、マリスはシリアを傷つけるつもりはなかった。居たたまれないのだ。シリアにこの場からいなくなって欲しい。
「シリア! 下がってなさい」ゼフィが怒鳴る。
「でも……」
 反論しようとすると、ゼフィはシリアを睨み付けた。そうしたら、シリアはゼフィの言うことを聞かない訳にはいかなかった。後でのお仕置きも怖かったけど、そもそもシリアは魔力的にまだゼフィには敵わなかった。
 マリスもその様子をボウッと見ていたのではなかった。ゼフィとシリアのやりとりを視界の隅で見ながら、今この瞬間、攻撃を仕掛けるのも可能だったが、そうはしなかった。マリスは迷夢の溜めたエネルギーに目をつけ、そのスプールフィールドをチェックしていた。
「久須那! 精霊核はダメだと言ったな? ならば、これを使えば文句はあるまい!」
 マリスは厳しい形相で久須那を睨む。迷夢が再試行する前に横取りして目的を果たすのだ。
「実際、純粋さが足りないから、どうなるか判らないが、……責任はお前が引き受けろ」
「断る。その責任はマリスが引き受けろ」
「四分の一とはいえシメオンの魔力が相乗されてる。わたしがこの余剰魔力を解放したり、霧散させるのは不可能とは言わないが、どんな結果が待ち受けてるかは自明だな」
「……ああ」不本意だが、それは認めないわけにはいかなかった。「だが、迷夢はまだ、諦めていないぞ。そうでなければ、迷夢だってこんな賭にはでないだろ?」
「ちっ。ゼフィがいたか」マリスは瞬間的に理解した。
 街一つを容易く破壊できるのと、その魔力を溜めるのとは別の次元のことなのだ。それはマリスでも同じ事で、迷夢一人ではことさら不可能なことだった。しかし、ゼフィがいると話は違ってくる。迷夢がメインで、ゼフィがバックヤードを支えてやれば、二人分の魔力である程度の時間スプールフィールドを維持できる。マリスがそのエネルギーを奪うにはそのフィールドを破らなければならない。
「――スパークルアロー!」マリスが叫ぶ。放たれた言葉は魔力に転じ、光の矢に姿を変えた。一本、二本……それは十数本の矢になって、スプールフィールドを目がけた。
「うわっ。しまった」
「マジックシールド」
 マリスの後ろで久須那が叫ぶ。瞬間、シールドが立ち上がり、殆ど全てがシールドに当たり弾け飛んだり、シールド直下に落下した。また、一部は流れ矢になりどこかへ飛んでいく。
 と、そこへ白い影が迷夢の視界に入った。どこかの民家の屋根の上。シールドの真下だ。
「そこ、危ない、どいて!」視線を下に向けた。「って、サスケ??」
「迷夢?」刹那、目があった。
「うわちゃっちゃ! 早く、そこ、どいて。来る、来ちゃう」
「どうした、何をそんなに慌てている?」
 サスケが一歩前に進んだ瞬間、元いた場所に何かが降ってきた。ドカンっと言う大音響と共に激しい震動がサスケを襲った。屋根が砕け散り、その一部が欠片になって宙に舞う。イヤな予感。
「……冗談だろ。おい」
 サスケは後ろを向いて、さっきまでいた場所がブスブスといやな音を立てて焦げ付き、さらに大穴があいているのをも見てぞっとした。幾ら何でもあんなのの直撃を受けたら死んでしまう。
「ダメ、サスケ。邪魔をしないで」
「邪魔をしに来たんじゃないさ」
「え?」思わぬサスケの言葉に迷夢は間の抜けた声を出してしまった。
「気配を消してずっとやりとりを聞いていた。迷夢のやり方はスマートとは言えないが、ここまでやってしまったなら、最後まで行くほかあるまい?」サスケは口元を歪めてニヤリとした。「……マリスは俺たちが引き受けてやる。お前は術に集中しろ」
「ありがとう……」迷夢はサスケの提案に涙する。
「――礼を言われる筋合いはない」
「お前の相手は俺だ。犬っころっ」
 突然、空中から怒声が響いた。ずっと姿を眩ませていたレイヴンが現れた。
「……犬っころとは精霊王も馬鹿にされたものだな」憮然としたようにサスケは言う。
「レイヴン。どこに行っていた」
「それはこっちの台詞だよ。マリス。エルフの森への途中で落ち合おうと言っておいて、全然来ない。どうなってるのかと思えば、この有様……」レイヴンはふと言葉を切って、不意にひどく淋しげ表情をした。「マリス……。誰も傷つけないと約束したのに。……約束は反故にするんだね……」
「……わたしと共にあるのがイヤになったというなら、それもやむを得ない」
「いいや」レイヴンは首を横に振る。「そんなことは思わない」
「ならば、サスケは任せた。わたしは久須那だ」
 しかし、そう簡単にはいかなかった。強い弱いを超越し、サスケは巧みなのだ。レイヴンが自分と対峙する前に行動を起こした。レイヴンが空から降りてくる。それをサスケは見計らっていた。マリスはずっと空の上、自分は地面。サスケにもそれなりのジャンプ力を持っていたから、その中間に足場があれば、マリスの届く。その瞬間を狙っているのだ。
 実際、戦いを始めてしまえば天使たちに制空権を握られているだけに分が悪い。そうなる前に決着をつけてしまうつもりだ。そして、レイヴンがサスケのジャンプ力で届くギリギリのラインに来た時、サスケは飛んだ。
「!」
 予測してない。レイヴンは驚き、後方に退こうとしたが間に合わなかった。サスケはレイヴンの胸を蹴り上げ、さらにマリスに向けジャンプした。マリスはちょうど久須那に向き直ろうとしているところで、サスケに注意を払っていない。レイヴンが対処すると信用していたからだ。
「マリスっ! 後ろ!」レイヴンが叫ぶ。
「何?」振り返ろうとしたその瞬間、サスケはマリスの肩に飛び乗っていた。
「フローズンビンディング」タイミングは決して外さない。
 精霊王の使う魔法は短い呪文の簡易魔法でも凄まじいまでの魔力を宿すことが出来る。フローズンビンディングは凍らせるよりはむしろ、筋肉をこわばらせて金縛りの効果が強い。
「――ふざけたことをしてくれる……、サスケぇ!」
「迷夢、ゼフィ! どっちでもいい。やれっ!」
 しかし、サスケの魔法も異界の魔力の固まりとも言える天使には効用が薄いようだ。普通ならば、もう黙っていてもその効果は続くのだが、マリス相手では術をかけ続けなければ崩壊してしまう。
「サスケ! よけて、キミに当たっちゃう」
「いいから、やれ! この機を逸したらもう次はない」
 マリスの強力な魔力をはぎ取らない限り、封印はできない。マリスが封じられることを望まぬ限りは力を弱め、その上で氷雪の封印をかける必要があった。
「上手くいけば、マリスを封印できる。イヤ、封印しろ、命令だっ!」
「迷夢っ! やめて、父上を……。父上の言うことを聞かないでっ、お願いだから……」
 しかし、迷夢はシリアの意を汲む訳にはいかなかった。サスケの言ったように今、やってしまわなくては後々に禍根を残すことになる。ならば、迷夢はシリアに恨まれてもとるべき選択肢は一つしかないことを心得ていた。
「……シリア。ごめんね」迷夢は儚い笑みを浮かべていた。それから、凛とした張りを取り戻して呪文の詠唱を始めた。「目覚めよ、光の瞳。その美しき光玉の彼方よりあまたの次元を駆け抜ける真実の道しるべ我が前に現せ!」迷夢は大きく息を吸った。
「迷夢……! 許さないぞ。オレは許さないんだからな」
「……許してもらう必要なんかない。恨むんだったら、恨めばいい」
「うあ……」途方もなく研ぎ澄まされた視線にシリアはたじろいだ。
 シリアはそんな冷たく毅然とした迷夢の姿を初めて見た。迷夢はいつも朗らかで笑顔を絶やさず、冗談めかしてその本心を他人に気取らせることはなかったのに。
「オレにもっと力があればこんなこと、絶対にさせないのに。ゼフィ、どうして、黙っているの。ゼフィ! 父上がいなくなったら、ゼフィだって……」
 それはゼフィには自明のことだった。氷の精霊王とその精霊は魔力的に強く結びついている。切っても切り離すことの出来ない密接な関係なのだ。万一、サスケに致命的な何かがあればゼフィもただでは済まない。そして、もちろん、迷夢だって知っていた。
「……ゼフィ……。恩を仇でしか返せそうにないよ……。出来るだけのこと、やってみる。でも、でも……。マリスだけを狙うのは出来ないよ。あたし、そんなに器用じゃない……」
 ゼフィは無言でいた。そして、迷夢に抱きついたままでその首筋に頬を寄せる。
「わたしはサスケに従う……。何があっても迷夢のせいじゃないよ……」
「ごめんね、ゼフィ。……開けっ! クラッシュアイズ!」
 迷夢の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。