12の精霊核

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41. it can not be(あり得ないこと)

「迷夢の剣。これを使えって……」
 セレスは床に突き刺さった漆黒の迷夢の剣を恐る恐る引き抜いた。天使の剣は魔力で出来ていると言うし、何よりも黒い炎が刀身に巻き付いているように見えて何だか怖い。
「……熱くない……」
「貴様にそれが使いこなせるとは思えんな」マリスは遠慮などしない。
「そ、そんなことないっ!」セレスはムキになって、迷夢から託されたサーベルを振り上げた。
 しかし、魔力が実体化しただけのはずのサーベルはセレスの想像以上に重く、よろけてしまた。迷夢は同じものを軽々と扱っているのにどういうことだ。セレスは軽い焦りを感じていた。短剣よりは重く、ウィズの剣よりは軽そうに見えたのだが、見かけによらぬものらしい。
「どうだっ!」
 セレスはどうにかこうにかバランスをとって剣を正体に構えた。が、様になっていない。セレスが剣を使っていると言うよりは剣に使われているようにみえる。元来、俊敏性を売りにするセレスに迷夢のサーベルは重すぎた。構えるには構えたが、持つだけでやっとで攻撃に出られない。
「――バカバカしい。構えるのがやっとで、何をする? ……」
 マリスは右手を前に伸ばし、人差し指を手前にクイッと引き、セレスを誘った。
「バ、バカにするなっ!」
 焦り半分、怒りも半分。あまりに腹立たしくて、頭に血が上る。弓を主たる武器として使っているが、剣も使える。セレスはそれを示したくて堪らない。それに。それにバッシュのこともある。考えれば涙に視界が歪み、思考が哀しみに埋め尽くされてしまうから、リボンに諭された時から考えないようにと頑張ってみた。けれど、もう我慢できない。
 セレスは足を駆った。“母さんを返せ”今ならば、父・アルタのしたことの意味が判る。バッシュから死を遠ざけるためにアルタは自分を引き離したのだと。その行為が正しかったにしろ、間違っていたにせよ、アルタにはそうする他なかったのだ。
「――自信があるなら、かかってきな」
 セレスは挑発に乗った。嘲られると感情の暴走を止められない。或いは本能的に燃え上がり、本人の意志とは無関係に行動を起こしてしまうのかもしれない。セレスはマリスを斬った。少なくとも、セレスはそう思った。剣を垂らし、セレスが迫っても動きを見せなかったのだから。
 ギャリィッ。耳を突くような音と衝撃の後、サーベルが飛んだ。
「いったぁ……」
 セレスは右手首を押さえてが飛ばされた方向を向いて、そのまま硬直した。
 弾かれた剣がキャンバスの角に突き刺さっている。ちょうど、レイヴンの署名と“再び、この瞬間が訪れることを願って”と記述されいるはずの場所だった。無論、リボンからの聞き伝えであるし、詳細は判らない。けど、何か、取り返しのつかないことになってしまったような気がした。
「……惜しいな、もう少しで切り裂く手間が省けたのに」
「――そんな、こんなことって」デュレもセレスと同様の気持ちになった。
 いや、より強く危機を感じたのに違いない。あの時、遺跡の地下で初めて見た久須那封印の絵には傷一つついていなかったのだから。
 デュレは時の理の崩壊の足音を聞いた。帰る場所がなくなる。そこにあったのはそんな小さな“恐怖”ではなかった。デュレが負うにはあまりにも大きく、対処できない。デュレは狼狽を隠しきれるはずもなく、フと脛にふわふわとした感触を感じて、足元を見た。リボン。彼は動ずることもなく、ただ、傷ついた封印の絵を見定めていた。
「……だから、言っただろ。未来は万人に開かれている。――オレたちにとって時の流れとは一定不変。だが、時の流れとは本来そう言うものではない。……過去は未来であり、未来は過去でもある。現在とは過去の積み重ねにより存在し、未来を包括する。何故なら、時は“流れ”てはいない。流れるものではないからだ」
「それは……クロニアスにとってのことだろ? 我々には流れ去るだけだ」
 マリスは聞き耳を立てていた。絵を切り裂くチャンスを捨ててまで、何故。
「クロニアスか……。双子のクロニアス。その存在をつまびらかにするのは御法度のはず。何故、お前が知り得た?」ここまで来ては焦る気にもならない。
「……純白の年代記……、神々の日記帳……」マリスは囁く。「この謎を追うものは最後に必ずクロニアスに辿り着く。真の歴史を記すクロニカルさえもその存在に疑問を挟む」
「そりゃそうだ。あいつらに会えるようじゃ終わってるんだよ」
「じゃあ……」
 デュレは何かを訊こうと思ったが、気がつけばリボンは足下で首を横に振っていた。仕方なく、デュレはこらえた。けど、リボンは確実に何かを知っている。しかも、自分が1516年から来たことを大した葛藤もなく明らかにしたよりも、単純ではないところで。デュレも確かに、クロニアスという名を聞いたことはあるが、詳しくは知らない。
「……クロニアスって何?」セレスが口を開いた。
「わたしも詳しいことは知りません。ただ、時の精霊で双子らしいってことくらい」
 デュレが自信なく物事を語るのはとても珍しい。セレスは微かに興味をそそられたように小首を傾げ、瞳をキラキラさせてデュレの暗い顔を覗いた。一方、デュレの足下にいるリボンは二人を構っていられない。時間の話をしているうちに突然、大切なことを思い出したのだ。
「時間……。今、何時だ。サスケ、時計塔を見てこい。急げ、もさくさしていたら時機を逸する。そうなれば、何もかもが水の泡だ。サスケっ、聞いてるのか」
「聞こえているよ。……全く、狼使いが荒いぜ、親父」
「文句を言うな。自在に実体化できて、壁を抜けれるのはお前しか居ないだろ」
「壁抜けの必要もないと訂正しておこう」
 サスケは軽い意地悪をして、すいっと姿を消した。
「全く、口の減らない奴だ。……あれでオレのシルエットスキルだから信じられん……」
「信じられなくてもそうなんだから仕方がないだろ?」虚空からサスケの声だけが届く。
「ま、まだ、いたのか、お前!」リボンはひやりとした。
「居たら悪いのかい、親父殿」軽い調子のサスケの声がさらに響く。
「オレって内面にあんなのを抱えてるのな」リボンはげんなりした。
 リボンがしばらくトテトテと力をなくしたようにソワソワと歩き回っていると、サスケが戻った。
「十六時三十五分」つらっとした口調でサスケは言った。
「もう、そんな時間なのかっ」リボンは目を丸くした。
 思っていたより時間の経過が早かったのだ。そして、その時間はオチオチしていたらタイムリミットを迎えてしまうことを示唆していた。リボンの知る未来、この時の流れを予定調和に導くためには次のアクションを早急に起こさなくては間に合わない。
 しかし、この選択は正しいのか判らない。
 この道を選ばなければならないことは疑いようはない。が、大筋では“正しい”だろう時の流れに小さいけれど幾つもの矛盾が孕まれつつあることをリボンは感じていた。リボンがかつて、エルフの森で過ごしたこの時と何かが違うのだ。だから、時の流れがきっちり元の鞘に収まるのか予測不能になっていた。収まってくれなければ、この先にあるのはデュレとセレスの未来ではない。そんなことになってしまってはバッシュやレイア、久須那のシルエットスキルと過ごしてきた千五百年にもなった番人としての時間が意味あるものではなく虚無に成り果ててしまう。
 リボンは激しく歯がみして、意を決した。すべきことはただ一つ。しかし、その一つを成すためには多大な犠牲を払わなければならない。不確定に埋没するその事象は、リボンにだけはすでに確定したことなのだ。因果律が完全に崩壊する前に手を打たなければない。それができるのはここに居る誰でもなく、リボンだけだ。
 リボンは険しい眼差しをもって、未だ立ち尽くすデュレとセレスに向き直った。
「いいか、よく聞け……」重い口をようやく開くような感じでリボンは喋り出した。
「待ってください」デュレはリボンを制止した。マリスが動くのが見えた。
「さて、改めて……」
 マリスは再度、久須那封印の絵の前に立ち、剣を掲げた。このキャンバスを切り裂けば、あと少し。久須那がこの世に帰ることは叶わない。しかし、それはデュレが許さない。封印の絵を切り裂かれては因果律の崩壊を招く。それは自分たちがここに来た始まりそのものが消失してしまうことであり、未来永劫に渡り居場所を失うことに他ならない。
 それはどうあっても避けなければならない。
「我が名はデュム・レ・ドゥーア」
「!」マリスは危険を察知し、絵の傍から大きく後ろにジャンプした。
「闇の力を操るものなり」
 呪文の詠唱を始めると同時に、見慣れた魔法円が虚空に浮かび上がるように描かれ出す。直径は数メートル。外側の円から始まり、エスメラルダ古語の羅列、内側の円、二つの正三角形が六芒星を形作り、その内側に大きな眠りについたままの眼を描き出す。
 その正面に位置し、移動可能な物は基本的に持ち去れてしまう。無論、ターゲッティングは可能だが、目標に近すぎる物は区別できない場合がある。
「闇は邪にあらず、追憶の片鱗に住まう孤独の想い。善良なる闇の精霊、シルトよ。我が呼び声に応え、空間を歪め、飛翔する力を分け与えたまえ――。フォワードスペルっ!」
 魔法円に描かれた瞳が開ききる瞬間、マリスは呪文消去の魔法を伴い割り込んだ。
「イリミネイトトランザクションっ!」
「しまっ――!」
 気付いた時には、すでに遅し。マリスの魔力を受けてデュレのフォワードスペルは崩壊を始めた。しかも、術は実行の途中だ。封印の絵はほぼ異空間に消えつつあった。このままでは封印の絵が永遠に失われてしまうかもしれない。そして、後には何も残らなかった。絵の傍に倒れたままになっていたバッシュの亡骸もフォワードスペルの巻き添えを食いともに消えていた。
「ど、どこに行ったの?」セレスが慌てる。
「判りません……。完全に消滅したか、異空間に囚われたのかも……」
 どちらにしても、マリスには好都合だ。封印の絵がなくなればマリスの禍根も共になくなる。過去に、久須那に後ろ髪を引かれることなくことを成せる。
「貴様らの切り札は潰えた、さあ、どうする」
 デュレは奥歯を噛みしめ、怒りのこもった眼差しでマリスを睨み付けた。どうすると言われてもどうしようもないのが現実なのだ。だが、全ての道が閉ざされたかというと、否。当人たちが気付かないだけで、抜け道は絶えず存在する。
 気付くか、気付かないか、それだけの話なのだ。
「まずいことになったな、久須那」
 サムは少し離れたところから、不本意ながら事の顛末を見守っていた。
「そうだな」
 久須那は困惑するような態度はまるっきり見せず、サムが心配になるくらいにひどく落ち着いていた。サムは何だか、心許なくなって久須那に問うた。
「……? 絵がなくなっちゃぁよ、てめぇは存在できねぇんじゃねぇのか?」
「うん? 一日、二日くらいなら魔力の補充がなくても何とかなるぞ」
「いや、てめぇ。その後はどうするつもりなんだ?」
「別にどうもしない」久須那はキョトンとしていた。
「どうもしないって……」どう言えば、久須那に真意が伝わるのかサムはちょっとばかり困った。
「だって、どうもしないだろ? わたしが消えたところで、オリジナルが死ぬ訳でもなし」
 とりつく島もない。サムは項垂れて、追及を諦めた。久須那が何とも思っていないなら問いつめるだけ意味がない。サムとしては淋しい限りだけど、久須那が淡泊なのも昔から。今から、性格を変えろと言ってもほとんど変わりようがないような予感がする。
「そりゃあ、そうだけどよぉ」サムは頭をボリボリと引っ掻いた。
「……」久須那はしたり顔をする。「お前が淋しいとはっきり言えばいいんだ」
「うがっ、な」思わぬ指摘に目を白黒。一瞬、語るべき言葉を失った。「……。負けたよ。そうさ。てめぇがいなくなると俺は淋しいんだよっ! シルエットスキルとはいえ、てめぇは久須那だからな。その……放したく……ねぇ」
「初めて、言ってくれたな。――昔、あの時に言って欲しかった」
「しょ、しょうがねぇだろ。あの時は会ってから日が浅かったしよぉ……」
 サムはしどろもどろになりながら、ようやく久須那に答えていた。
「さあ、どうする?」
 マリスは意地悪な小悪魔のように再び問う。簡単に答えの出せない問いかけだと心得ているからこそ、問い掛ける。デュレはきつい目線でマリスを突き刺していた。そして、ここに至るまでに幾度となく否定してきた残された唯一の選択肢に気がついていた。
 ただ、選択を決定するのが恐ろしい。間違った選択をしたら、そこでお終いになってしまいそうだ。デュレはリボンを見下ろした。が頼みの綱のリボンはマリスの方を向いていた。
「リ、リボンちゃん」
「……シメオン時計塔に行け……。行けぇっ!」
 リボンは必死の形相でマリスを睨め付け、激しく怒鳴った。もうすでに勝ち目はないことは明らかだった。レイヴンは迷夢に任せた。階級差だけの実力なら、楽勝とまでは行かないだろうが迷夢は勝利を収めるだろう。しかし、マリスとなれば話が変わってくる。
「お前たちはとにかく帰れっ! 帰らなければ、何も始まらないっ!」
「……それは……どゆこと……?」セレスが振り向く。
「どういうことですかっ! リボンちゃん」セレスよりも遙かに大きくデュレは怒鳴った。
 リボンは再び自問自答した。どこまで、答えるべきなのか正直なところ、判断しかねる。自分の言動によって、因果律は崩壊してしまうのかそれとも否なのか。否であるならば、遠慮することはない。しかし、そうでないならば。リボンは答えに窮するのだ。リボンの感じる“予兆”もフェンリルが本来もつ能力の付属物に過ぎず完璧ではない。
「……クロニアスにでもお伺いを立てたい気分だよ」ぶつぶつ。
「クロニアス……って何?」
 渡りに舟とばかりにセレスは訊く。時も場所もシチュエーションも選ばず飛び出すセレスのとんちんかんな質問だ。ちょっと調べたら判ることから、フツーなら知っているはずのことまで質問する。セレスには悪意も悪戯心もないし、ただ、調べるのが面倒くさいだけなのだ。
「そんなことは後で訊け。さっさと行くんだ」
「けど、絵が、絵が……」デュレはうわごとのように呟く。
「――大丈夫だ。サスケと久須那のシルエットスキルが居残ってるだろ? 絵は近くにある」
 リボンはニヤリと口元を歪め、デュレを安心させるために言った。が、ホントのところはそうではない。未来を見知ったリボンは封印の絵の所在を知っている。封印の絵はデュレのフォワードスペルとマリスのイリミネイトトランザクションの混和により、異空間の狭間に落ちた。説明している暇もないので、端折る。そして、リボンとデュレはしばらく、互いの真意を推し量るかのように瞳の奥を見つめ合った。
「判りました。わたしたちは元の時代に帰ります」
「ちょっと、ちょっと。マリスはどうするのよ。ピンピンしてるんだけど、いいのあれ?」
 セレスは思わぬデュレの答えに唖然としてしまった。帰り方が判らない片道切符の旅だから、どうしたものかと考えあぐねていたせいもあるけれど、今や、バッシュの仇となったマリスを無傷のままにしておくなんて考えられない。
「よくはありません。けど、今は引くべきだとリボンちゃんが言っています」
 有無を言わせぬデュレの眼差しがセレスを抑え付けた。その訳が判るだけに反論の余地がない。ついさっき、セレスも感じたばかりなのだ。あの重い剣を自在に振り回し、魔法を駆使する天使に準備不足の自分たちは完膚無きまでに叩き潰されるだろう。この世で魔力的には最強と言われる精霊核をもつ精霊たちでさえ、天使の前に屈してきた。黒き湖のウンディーネ・エルダ。北リテールは氷雪平原のフラウ・ゼフィ。中央リテールはエルフの森のドライアード・ジーゼ。
「……悔しい。――こんな外道に何も出来ないなんて、悔しすぎる……っ!」
「セレス、余計なことを言わないで、早く、ここから出ましょう」
 とのデュレの発言にリボンは目を閉じて、そっと頷いた。
「――逃げれるやつは羨ましい」マリスは嘲り、焚き付ける。
「何だって?」デュレに腕を引っ張られてその場を去ろうとしていたセレスは止まった。
「挑発に乗らないでっ!」
 もはや、デュレは悲愴な気持ちになってきた。セレスが言うことをきいてくれないこともあるが、何よりデュレ自身が本当はここを去りたくない。封印の絵を行方知れずにしたまま去ってはいけない気さえしてくる。けれど、それこそが思い込みだとリボンの真摯な眼差しが告げたのだ。
「うるさいっ! キミは黙ってろ!」
 セレスは怒りに燃える瞳を差し向けて、デュレに短剣の切っ先を突きつけた。
「あ……」動けない。これ程までに激情に駆られたセレスは見たことがなかった。
「やめろ、セレス! 死ぬぞっ!」
 リボンの怒声はセレスには届かなかった。
 セレスはタンと床を蹴り、悠然と構えるマリスに突っかかっていった。
 マリスは右足のハイキックでセレスの短剣を蹴り飛ばす。勢いに乗じて、セレスの頭を両手で掴み、ぐっと引き寄せた。それから、セレスのみぞおちにマリスの膝蹴りが炸裂した。
「あぐぅ!」
 セレスはそのまま、押し倒され、マリスが馬乗りになった。マリスは素早く、床に対して垂直に剣を持ち上げ、セレスの喉元に突き立てようとした。もう、セレスを守るものは自分しかいない。デュレはそう悟った瞬間、決死の思いで、マリスに体当たりを喰らわせた。
「やぁぁあぁ!」気合い入れとも、悲鳴ともとれる大声を出す。
「何だ、貴様ぁ!」
 流石のマリスも、デュレが来ようとは思っていなかったらしく、無下もなく飛ばされた。
「はぁ、はぁ――。セレスをわたしから奪わないでください」
 呆気にとられたのはリボンもマリスも同じだった。刹那、我に返った。マリスはさっと立ち上がり、デュレとセレスに向け剣を振る。デュレは必死の形相で倒れたままのセレスの右腕を引っ張り、どうにか剣をかわそうと躍起になった。
「い、いたたぁ。腕が抜けるっ! デュレ、無理だって」
 喚きながら、セレスは何とか起きあがって、デュレと共に駆け出した。
「帰すものかぁ!」
「ウォォオォォオオオォオォォ」
 マリスが叫ぶ、リボンが吠える。マリスは何事かの呪文を唱えようとし、リボンは地下墓地を自らのフィールドに転じようと声に魔力を乗せてさらに吠える。
「光の眷族、天使・マリスの名に於いて全能なる光の支配者、ウィル・オ・ザ・ウィスプの戦いへの妄執を召喚せり。虹色に彩られささやかなる煌めきを宿す光の鏃、我の身体を長弓となし。光の矢として威力を示せ! 出でよ、スパークルアローっ!」
 光の鏃が姿を現し、ついで、矢柄が鏃から伸び出して、矢の形態を作り上げる。完成した瞬間、それはマリスの足先から頭までを長弓と見なして使い、標的に向け射かけられる。デュレとセレスはマリスに対して背を向けていた。
 しかし、デュレは背中に激しい殺気を感じ、闇護符を掲げて後ろを向いた。闇護符ならばあらかじめ封じられた魔力が発動するので、最小限度の魔力で展開できる。
「闇の魔術師・デュレの名に於いて、護符の深淵に封じし魔力を解放する。キャリーアウト」
 闇護符から迸ったのは簡易的なマジックシールドだった。マリスの強大な魔力から生まれた“光の矢”をどれだけの間止めておけるか判らないが、それでもないよりはましだ。デュレとセレスはそのシールドがマリスに打ち砕かれる前に逃げ出さなければならない。
「小癪な」吐き捨てるようにマリスは言った。
「お前の相手はオレだぜ、マリス」
 マリスはギラリと目を光らせ、リボンを見下ろした。
「貴様に用事はない」マリスは僅かでも足止めを食ったのが惜しかった。
 もうすぐ、全ての運命が自分の手のひらの上に乗る。運命の波打ち際に辿り着いた一艘の小舟を沈め、迷夢を殺めれば全て手中。氷の精霊王・フェンリル、シリアと人間のサムなどとるに足らない存在と成り果てる。マリスはタンと床を蹴って舞い上がる。
 今こそが最大の好機。迷夢は未だレイヴンと対峙し、その守護者たるリボンから離れた。
「逃げるのか、マリス」リボンが叫んだ。
「貴様の相手など無意味だ。あいつらを始末したら、わたしの勝ちだっ!」
 マリスは悟っている。リボンにとってそれは驚愕の事実だった。可能な限り悟られないようにしてきたつもりだったが、それこそが無意味の極限に辿り着いてしまった虚無感に包まれる。
「逃がさないぞ、マリス」
 マリスは飛翔する。逃げ道、抜け道、隠し通路などはすでに調査済み。万一、こんな事態に陥っても事なきを得られるように作戦は完璧に練っていた。リボンはマリスを追おうとしたが、肝心のマリスはあっという間に暗闇に紛れて姿を消していた。
「くそっ! 結局はマリスの方が一枚上手なのか」
 リボンは地団駄を踏む。腹立たしい。けど、その腹立たしさに任せて闇雲にマリスを追っても何の解決にもならない。リボンはまるで自分の尻尾を追い掛けるかのようにその場でくるくる回り出した。じっとしていても良い考えが浮かばない時はとにかく動く。
(……どうやって、あいつを止める……?)
 しかも、マリスを止めた上で、まだすることがある。
 デュレとセレスを地下墓地大回廊から追い出し、時計塔へ向かえと命じたにはリボンしか知らないワケがある。そのワケが解決できなければ、時の精霊・クロニアスさえ頭を抱える事態に陥りかねない。あれを元の場所に返すために彼女たちを呼んだのだ。
 一人では何も出来ない。リボンは結論した。ならば、誰かに助けを乞う他ない。久須那とサスケはもはや論外。サムに“ドミニオンズ”マリスの相手を頼もうなど、死に行けと言ってるようなもので正気の沙汰とも思えない。だから、候補はたった一人に限られた。
「迷夢、どこにいる。迷夢、迷夢!」
 リボンは形振り構わずに、迷夢を捜し求める。その頃の迷夢は、すでにレイヴンを倒し、亡骸をどうしようかとかなり本気で思案しているところだった。放っておけば腐敗する……のではなく、天使であるならば、やがて、魔力に還元し、身は滅ぶ。
「迷夢ぅ、何してる、手伝え。マリスが!」
 こちらはこちらでかなり必死だ。連れて行く相棒は誰でもいい訳はない。せめて、マリスに後れをとらないだけの力量を備えていなければならず、そうしたら人選は迷うことなく迷夢になる。久須那には何となく悪いような気がするけど、今は一時の感情を気にしている場合ではない。
「――感傷にふけってる時間もないワケか……。ま、そうなんだけど……」
「……? レイヴンを弔ってやりたいなら後にしろ……。バッシュのこともあるしな……」
「そうだね……。バッシュのこともあったんだ……」
 迷夢はレイヴンの亡骸をそっと冷たい床に寝かせると、再びケロッとした顔に戻った。哀しみは哀しみであるけれど、いつまでもめそめそじめじめしている迷夢ではない。することは山積みだし、泣きたくなったら、その時に泣けばいいのだ。
「――さて、あたしもそろそろ時間だな。マーカーに灯を灯さないと間に合わない……かな? 例の魔法もかなり進行してるだろうし、お外は一体どうなってるだろうねぇ。吹きすさぶ嵐、轟く雷鳴。う〜ん、何かいいかも。エキゾチック。ロマンチック?」
「だから、お前は何をやってるんだ。一時でいいから、マリスを止めるんだ」
「せっかちね。精霊王ともあろうお方が」
 迷夢がぶちぶち文句を言っていると、リボンはそんなのは戯れ言と聞きもせずにサムと久須那の元に駆け寄った。現状ではどう考えても正攻法でマリスに打ち勝つことは不可能だ。だから、万全を期す。昔のように上手くいく保証はないが、封印の下準備を始める。
「サム、久須那っ! お前らは今のうちに準備しておけ。何を準備するかは判るな」
「ああ、判るから大声出すんじゃねぇ。てめぇの声は頭に響くんだよ」
 壁際にうずくまっていたサムは久須那の肩を借りてようやく立ち上がった。
「ねぇ、久須那。これちょっと、預かっておいてよ」
 迷夢はスカートをまさぐって丸いものを取り出すと、久須那に放った。
「ロミィって呼んであげてね♪」
「ロミィ……?」久須那は意味が判らず、小首を傾げて思案した。
 それから、迷夢とリボンは二人で仲良く駆けていった。
 時間がないのだ。来るべき日はもう明日なのだ。Gem. 24, 1292の十三時。アルタの残したメモ書きとセレスの夢からの類推に過ぎなかったが、それはリボン自らの“予兆”が加わってより正確な未来を描き出す。と言っても、“予兆”の揺らぎの幅は未だ大きく、どこに落ち着くのかまでは予測できない。しかし、そのリボンにも一つだけ判っていることがあった。それは……。
「いいか、迷夢。タイムリミットは明日の午後一時だ。それまでに何としても、デュレとセレスを送り返す。それに、お前の魔法もだ。それまでに完遂しろ……」
「何でまた、キミは急にそんなことを言うのかな? 時間切れって言っても、あれでしょ? レイヴン原案マリスの魔法だって明日の昼までにはここを魔都に落とすまでには足りないよ」
 迷夢は走りながら、足下を併走するリボンの後頭部を見やった。
「時間切れなのはマリスの魔法じゃないんだよ……」リボンは迷夢を見上げる。
「じゃ、何よ。他に時間が関わって、タイムリミット間際ってのはないと思ったけど?」
 迷夢はキョトとしたように言う。
「……足りないのは……オレの時間さ。――親父も昔、同じことを思ったんだろうな……」
 リボンはより一層淋しげな眼差しを迷夢に向けた。迷夢は愕然としたようにリボンを見下ろしていた。今はまだこんなに元気で、軽口を叩く余裕もあるのにどうして。という思いが迷夢の脳裏を席巻していく。だから、リボンの言葉には疑問が残った。
「――死ぬってこと……?」迷夢は恐る恐るリボンに尋ねた。
「簡単に言えば、そうなる。1516年まで無事に生き長らえたらジーゼに聞いてみたらいい……」
 その言葉は迷夢の耳奥でこだまして、しばらく消えることはなかった。