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43. secret of clock tower(時計塔の秘密)
土砂降りの雨の轟音と雷鳴がその小さな空間を支配していた。光源はただ一つ。文字盤を外界に映し出す大きなランプのみ。そのランプの光もセレスたちのいる奥の部屋にはあまり射し込んではいなく、申し訳程度に明るいくらいだった。。
「何故、こんなところに封印の絵があるんです? ここを狙った覚えもないし、フォワードスペルでの移送ルートにも入ってない。だって、わたしはサムの家を狙ったんです。マリスの魔法の影響を受けたとしても、……この場に落ちるなんてほとんどあり得ない。――。――それにどうして、バッシュまで一緒にここに……」
仮に偶然が重なり合ったにしても、これはあまりに出来過ぎているとデュレは思った。なくした絵がここにあるのなら、それほどいいことはない。だけど、釈然としないのだ。
「答えてください、リボンちゃん!」
「――お前たちがクリルカの耳長亭に運び込んだ絵がこの……ここにある絵だと言ったら?」
リボンはひとつひとつ言葉を選ぶかのようにゆっくりと言った。
「どういう、ことですか?」
デュレは半ば放心してしまったかのような眼差しをリボンに向けた。
「時の狭間に落ちていたのさ。今日からずっと将来にわたって。一言で言えば、お前たちの目の前にあるその絵はさっき、マリスに空間転移を邪魔された絵と直線では繋がっていない。つまり、この絵をお前たちが1516年に持ち帰り、そこで初めてお前たちの物語が始まるんだ」
「……意味が判りません……」
珍しくデュレは途方に暮れてしまったかのように呟いた。
「何でもいいから、持って帰れ、そうしたら判る」
と、適当にあしらってみようとしたが、デュレはそのくらいのことでは納得するはずもなかった。リボンは瞳を閉じて大きなため息をつくと諦めたかのように続きを始めた。
「……未来は万人に向け、開かれたものだといつか言ったな。時は流れるものではない。……それの証拠にキャンバスの右隅をよく見てみろ」
リボンに言われるがままに絵の右隅を見て、デュレは心臓が胸の奥で激しく脈打つの感じた。
「破れていない」囁くようにデュレは言った。
「過去は過去であり、今は今、未来は未来であり、関連を残しつつ、それぞれが独立している」
「つまり、この絵はあの絵じゃない?……」デュレは怖ず怖ずとした様子で尋ねた。
「そうだ。それはお前であり、お前でないデュレがこの1292年で空間転移させようとしたものだ。存在としては同じものと言えるかもしれないが、完全に同じものではない」
「……わたしであってわたしではないわたし?」
「そう。ま、ほとんど受け売りだから、オレも詳しいことは言えないがね」
「でも、それじゃあ、この絵がここにあることの説明になっていません。例え、わたしではないわたしが失敗してこうだろうと、わたしが失敗してこうだろうと――」
「時計塔に絵があるはずはない」リボンはデュレの言葉を横取りした。
「それはいいんです。とりあえずは……。きっと、わたしが今からあなたに訊こうと思ってることの答えが得られたら、必然的に判ると思います」デュレはとても真剣な面持ちでリボンの顔を見詰めた。「いいですか……。破れた絵は今どこにあるんですか?」
「破れた絵はこれからジーゼの家で眠っているはずのオレが探す。この絵は半年前にオレが見つけ出したと言うか、何というかだな。つまり、前の組のデュレの失敗がこれ、お前の失敗したやつはまだ、異空間の狭間か、時の狭間か、どこかそこら辺に漂っている。端的に言えば、この場合の過去と今はそれぞれ独立した存在だ。多少の干渉はあるが、ほぼ無関係と言ってもいい。過去未来が一直線に繋がったものという考えを捨てないと理解できないぞ」
「では、わたしがメッセージを残して、呼ぶはずのわたしたちは誰ですか?」
デュレはリボンの言葉をふまえた上で発言した。
「お前たちであって、お前たちではないものだ。それはお前たちの過去でありながら、過去ではない。もう一つ言っておけば、オレが経験した……お前たちが出発したあとのな、と、この時代にいるオレが経験する1516年は異なったものになる。……次のサイクルは今のサイクルとは異なった可能性を歴史にもたらすかもしれないってことだ。しかし、この先、この歴史が正史でなくなろうとも、この歴史で起こったことは変えられない。基本的に全ては揺らぎに収まってしまう。だが、今度は振り子の振れが大きすぎて元に戻らないかもしれない」
デュレはしばし考え込んだ。リボンの思考が読み取れたら、考え込む必要もないのだろうが、生憎デュレはテレパシーなどと言う気の利いた能力は持っていない。こと時のこととなると、話が抽象的になりすぎて、なかなか意味がとれない。
「揺らぎ……、振り子……」
気になった言葉を口に出して繰り返す。
「クロニアスが好んで使う言葉だな。だが、最も的確に本質を捉えている。時は流れず、たゆたうもの。“時間”を“立体”“空間”と捉えると判りよいと思うが……。そう、歴史は固定しない。生命が活動し生き続けるように時もまた新陳代謝を繰り返す。そして、見た目はほとんど同じだが、微妙に異なる史実を作っていく。判るか? 過去も未来もダイナミズムに支配されているんだ」
判ったような判らないようなと言うのがデュレの正直な心象だった。
「……そこはかとなく判ったような気がしますけど、どうなんでしょうね?」
「理解できなくても大した問題ではないよ。そもそも、オレもよく判らん」
「けど……その封印の絵が異空間の狭間に落ちていたとして、いつ、どこで見つけたんですか?」
不意にデュレは尋ねたくなった。それだけはどうしても訊いておかなければならないような気がしたのだ。自分の失敗で異空間に投げ出された封印の絵はどこに行き、いつ見つけたのか。
リボンの目が険しく煌めく。同時に畏敬の念を湛えるかのような温かさを宿していた。
「1498年――」
「1498年。わたしの誕生年です、それって。でも、そしたら、1292年にどうして?」
「デュレの誕生年は偶然だと思いたいけどな。それに慌てるな。話はまだ終わっていない。……しかし、全く、散々だったよ。頼れるのは誰もいなかった……。と言ったら、ジーゼとサムが怒るかな。そもそも、どうやって探していいのかも判らなかったし、運良く見つけたとしてどうやって、こっちに引っ張ってくるかが大問題だった」
リボンは懐かしいものを見るかのように絵を見詰めていた。
「ともかく、ジーゼの強運とでも言うような切っ掛けで絵は見付かり、異空間から引っ張り出すとっかかりまでは掴んだんだけどなぁ……」
その取っ掛かりというのは恐らく、闇魔法の一種だろうとデュレは考えた。空間制御系の魔法は闇か光に限られる。現世において光魔法を扱えるには天使に限られると言っても過言ではないので、闇魔法しかあり得ない。サクションの逆とか、フォワードスペルを改良して何とかしようとしたのに違いない。
「それは……、失敗した?」
「ああ、見事に失敗した。色々頑張ってみたんだが、今……1498年に導き出せなかったのさ」
「それなのに、どうしてリボンちゃんはその絵がここにあると知ってたんですか?」
リボンはデュレを見上げて、しばし、見詰めた。
「ここまで話したんだからな……。洗いざらい全てを吐き出してもいいのかもしれない」
リボンは押し黙って、狭い空間を行ったり来たり。答えにはイエスかノーの二通りしかないのだが、その結論を導くには考えることがたくさんある。見た目の選択肢が少ないほど、殊更、その選択には注意が必要だった。
「話してください。毒を食らわば皿まで……とこの時代に来る前に言ったはずです。あなたがあのリボンちゃんならもちろん覚えてますよね……。けど、もう、お皿まで食い尽くして自分の手や腕を食べてるような気がしないでもないですけど……。――後へは退けません――」
デュレとリボンは互いに真摯な眼差しを向け、互いの脳裏に思い浮かぶイメージさえも交換しているかのようだった。先に、リボンが視線を外した。
「判った――。ゆっくり行くぞ。1498年で取り戻すことに失敗し、恐らく再び、時の狭間に落ちたと思われる久須那の絵を探すのにジーゼ……精霊核の協力を頼んだ。もし、過去の方に行ったのなら、精霊核の記憶に小さな“揺らぎ”として残っているはずなんだ。そして、とりあえず、見付けはしたんだ。ここら辺の時代のどこか、意外だったけどな」
「けど、この時代に落ちたなら、誰かが先に見付けていてもおかしくはないと。それに何故、リボンちゃんが見落としたりするですか?」
「……答えはそんなに難しくない」リボンはより真剣な面持ちになった。「絵が現れるだろう正確な日時が判ったからな。今から、およそ半年前、1291年の冬だ」
「それは精霊核の記憶から計算したんですか?」
「うんにゃ、それは出来なかった」リボンは首を横に振り振り。「が、思わぬ方から回答が得られたのさ。……な、デュレ」とリボンが声をかけると、デュレはキョトンとした。
「十日後のあなた。つまり、あなたが」デュレは目の前のリボンを指さす。「メッセージを自分自身に向けて送った?」
「ちょっと違うな。確かに時を越えさせろとメッセージは受けたが、そもそも、オレじゃあその正確な日時を把握する手段がないだろう? 結局、誰が答えを導いた?」リボンは悪戯っぽく瞳を輝かせる。そして、長い間言葉を発することなく、リボンはデュレの表情一つ崩すことのないクールな顔をただずっと見詰めていた。
「ひょっとして……わたし……ですか?」
「そう、お前だった。しかし、オレはお前に詳しくは教えてやれない。向こうであった時、そう言う約束をここで交わしたとお前は言っていた。だから、何も言う必要はないと」
「ええ、わたしが必ずその答えを導きます」軽々しく約束してしまっても大丈夫だろうかと思いつつも、デュレは答えた。そして――。「あ……」
デュレは口元に左手を当てて、絶句。半ば誘導尋問だ。ここで“うん”と言ってしまったから、
戻ってから自分で考える羽目に陥ったのかもしれない。
「そして、お前たちはこの絵を持って帰らなければならない。やっと、判った――お前たちは知らなかっただろうが、長い間行方不明だった絵がどうやって、あの場に戻ってきたのか。この絵の行くべき場所がようやく見付かった。これで……一応、因果律は果たされる……」
「わたしたちの時代に……?」
「その通り、それを持って元の時代に戻れ。それがお前たちの戦った久須那の絵だ……。お前たちがそれを持って帰らないと、1516年に久須那のシルエットスキルと腕試しをすることも出来ないし、学園に忍び込んで盗み出すことも出来ない。そうすると、お前たちがここに来るという史実は消え失せる。――つまり」
「つまり、わたしたちは時の理から弾き出され、帰る場所を失う……」
デュレはリボンの言葉を奪い取って、その先を続けた。
「もしかして、だから、何度も行われたシメオン遺跡の発掘でも、久須那を封じた絵は見付からなかったんですか? そもそも、最初からありはしなかったんだから……」
「ま、そうとも言えなくはないが、言ったろ? 選ばれた者しか、絵を手にすることは出来ない。ま、封じていたのはオレなんだけど……。さて、話はここまでだ。長い間話してたから、迷夢の時間稼ぎも限界だろう。お前たちはそろそろ帰れ、その絵とバッシュを連れて」
リボンは一際、淋しそうに言葉を繋ぐ。
「リボンちゃん……。ホントに母さんは死んでいるの?」
今まで、絵の傍らに立ち尽くすかのように佇んでいたセレスが口を開いた。
リボンは言葉で答える代わりに、静かに首を横に振る。そして、やっとの思いで言葉を発した。
「バッシュの亡骸も……一緒にいたんだ。まるで、時が止まったかのように。最後に別れた日のままだった。何もかもそのままなんだ。生きているみたいに、安らかな寝顔で、ただ眠っているみたいに。ちょっと揺すってやれば、『おはよう』と目を開いて、優しく挨拶をしてくれそうだった」
「……」セレスは目を伏せた。「そんなの……ないよ……」
セレスは後退って、狭い部屋の壁にとんと力無く寄りかかった。生きてるって期待したワケじゃない。ただ、あの瞬間がまだ信じられなかったのだ。自分を生かすためにバッシュは死んだ。アルタが言っていたことと、変わることなく。絵がなくなったことで、その“バッシュが死んだ”と言う事実を直視せずにすんでいたのだ。
リボンは流し目でチラとセレスを見て、デュレに再び向き直った。
「セレス、デュレ。……バッシュのことはよろしく頼むな。元の時代に帰ったら、エルフの森に埋葬してやってくれ。出来れば――オレの隣に……」
「誰の隣ですか?」
最後の囁きをデュレは聞き咎めた。しかし、リボンははぐらかそうとしてまともに答えない。
「ともかく、久須那はお前たちを選んだ。必ず、最後まで見届けろ。これで、1292年から1516年までの空白の年代記を埋められるぞ、デュレ」
「……そうですね。きっと。しかし、まさか、こんな複雑なことになっているなんて――」
「オレも知らなかったな」リボンは吠えるように笑った。
「何故、こんなことになってしまったんですか? 本来、あり得ない。……時の流れとは一定不変で、他からの干渉は絶対不可能なはずなのに」
「物事に“絶対”はない。基本的にオレたちは歴史……といったらちょっと語弊があるかなぁ、ま、いい、の一部だ。だから、新たに干渉することは出来ない。だが、いいか、歴史の一部だからと言ってそれに含まれる不確定要素までは否定しきれない。それが揺らぎだ。それが振り子なんだ」
「……誰が最初に振り子を揺らしたんですか……?」
「さあな」リボンは首を横に振った。「一つ判ったのは、レイアのことが切っ掛けの一つかもしれないと言うことだな。それで全てではなく、原因はかなり複合的な要素……、一つ一つはシンプルなのかもしれないが、幾つも折り重なって複雑怪奇に成り果てた。一つ一つ、解いていく時間は今はない。帰ってからじっくりやれよ。……お前たちにはそれだけの時間がある」
リボンはひどく儚げな笑みを浮かべていた。
「さあ、帰れ。このチャンスを逃すと戻れなくなるかもしれない」
「でも、どうやって帰ったらいいのか判りません。ここに来た時も、セレスの持ってた水色の欠けらとジーゼの精霊核を共鳴させてこの時代を選んだんじゃ……?」
すると、リボンはフッと力を抜いた笑みを浮かべた。
「オレは既にジーゼと会っている。そして、ここは時が刻まれる場所。さらにオレはお前たちよりもずっと先にこの場所を知っていた。……過去未来を“時”として一方通行ではなく、“立体”として自由に行き来できるあいつらの好きそうな場所だと思わないか?」
「……まさか……クロニアス?」
デュレは口元に手を押して、呟くように言った。
「答えは……イエス。もちろん、直接クロニアスの助けを借りるのは不可能だ。だが、この時計塔は時空間のあらゆる場所に遍在するとされるクロニアスとその精霊核の魔力を引き寄せている可能性はある。同時に、オレたちから見て“未来”の記憶を有する精霊核はクロニアスしかあり得ない」
言われてみたら、確かにそうなのだとデュレは思った。
精霊核の記憶を辿ってここに来たからには帰りも助けを借りねばならないはず。しかし、それだけでは足りない。精霊核の記憶を呼び覚ます補助的なアイテムが必要なはずだった。
「不安そうな顔をしているぞ、デュレ」
「仮に……擬似的に精霊核の記憶のエネルギーを集められるとしても切っ掛けは……?」
「ちゃんとある。心配は無用だ」リボンはニッコリとした。「言っただろ、ジーゼと会ってきたと。ホントはセレスが忘れずに“あれ”を持ってきてくれたら良かったんだけどな」
さらにニヤリ。ここまで言われると、流石にセレスもリボンの意図することが判った。
「あたしが父さんからもらった水色の欠けら……?」
「そうだ。歯車のフレームに置いてある。今度の帰り道はオレが開く。……不確定要素が多くなってきてるから、来た時みたいに上手くいくとは限らないが、それでも帰ってもらわなくては困るし、二進も三進もいかなくなってしまうからな……」
リボンはくるんと踵を返すと、機械室に向かって歩き出そうとした。
「……バッシュを忘れるな、セレス。向こうに着いたら、ジーゼのところに連れて行け。――話はもう、ついてるから。大丈夫だ。――絵も忘れるな。ここにあと二百二十四年も置いておくことは出来ないぞ。明日には何もなくなってる……」
「――リボンちゃん、わたしはまだ、帰れません」
再び、歩き出そうとしたリボンに向かって、デュレは呼び止めるかのように言った。
「お前なら、そう言うだろうと思っていたよ」
リボンは虚を突かれた様子もなく、柔和な表情を浮かべていた。一方、セレスは心臓が胸の中で飛び上がるほどに驚いていた。自分自身がそうであるだけに、デュレが何を言い出しても基本的にはさして驚くことはない。だけど、今度は話が違う。失うことが怖い。このあと、デュレは絶対にセレスは先に帰れと言うに決まってるのだ。
「セレス、あなたは先に帰っていてください」
「――どうして、デュレも一緒だよ」
予想し得たこととはいえ、セレスは動揺を隠しきれずにいた。
「判らないの? わたしが帰ったら、誰があなたを呼ぶの?」
「……」デュレの拒絶を受けて、セレスは一瞬ひるんだ。
「わたしがセレスを呼ばなかったら、誰がわたしを呼ぶの? わたしたちはもう時の流れの一部なのよ。起こったことは確実に演じないと、歴史そのものが崩壊してしまうかもしれない」
「でも! この街は助からない。あたしたちがここに来る必要なんてないじゃない」
「……ダメ。わたしたちがここにいるってことを忘れたらダメ。判る? 自分たちをこの街に呼ばないと、わたしたちの帰る場所がないの。時の理から弾き出されてしまう。いいこと? セレス。未来のわたしたちをここに呼ばないと、未来のわたしたちはここに来なかったことになる。でも、ホントのわたしたちはここにいるのよ。いい? けど、向こうも本物。――時の流れから行けば、わたしたちが偽物になる。1516年にわたしたちの居場所がなくなるのよ」
「小難しいことは嫌い。けど、デュレが戻ってこないんじゃ意味がないじゃん!」
「わたしは……帰るよ? 絶対。おねぇさまを一人で放っておけるわけないじゃない。先に戻って待ってて。絶対だから」
「……でも、あのデュレは『もう会えないかも』って言ってた。だって、あれはこれからのキミなんだよ。……デュレがいないなんてあたし、イヤだから、我慢できないから。……あたしを一人にしないで、デュレ。――お願い」
その瞬間、デュレは思った。リボンの言った通りなら、セレスの言う“あのデュレ”は自分であって、自分ではないかもしれない。としたら、これから未来へ届けるメッセージは違ったものとなる可能性も秘められている。しかし、デュレはその可能性を頭から追っ払った。リボンは“未来は万人に開かれた”ものだからと、何でもない風を装っているが、すでに危険な状態に陥っているのはリボンの言動を鑑みれば自ずと明らかになることだった。
「どうしたの、セレスらしくもない。いっつも言ってたじゃない。『デュレなんかいなくちゃえばいい』って」デュレは優しく包み込むかのように言った。
「そ、そんなの……本気じゃないの判ってるくせに……」
「判ってますよ……」
そう言われて、セレスは突然何かを思い出したかのように動いた。腰の辺りに手を回して、それがなくなっていないことに安堵のため息を漏らして、それを留め金から外した。
「デュレ……これ、持ってて。帰ってくるまであたしの代わりに……」
セレスがデュレに手渡したのは短剣だった。
「短剣を持っていても、きっと、わたしには使えません。だから……」
「いいの。デュレが持ってて。……その代わり――絶対、それ、持って帰ってきて。約束してくれるよね? 何が何でも帰ってくるって」
どうして、こんな思いが突き上げてくるのかセレス自身にもまるで判らなかった。“淋しい”でもなくて、“切ない”でもなくて、複雑な気持ち。焦りでありつつ、気のはやりのような。言葉だけでは説明しきれない。フと気がついたらセレスはデュレに抱きついていた。
「ホントは放したくない! こんな気持ち初めてなんだよ」
必死に泣きたいのを堪えているのがデュレにも伝わっていた。
「デュレがいなくなったらあたしはどうやって、誰を目標に生きてたらいいの?」
この娘は孤独なんだ。デュレは泣き出しそうなセレスの頭を優しく撫でながら思った。どんなに強がって、元気が良さそうでも、心は独りぽっち。デュレは誰よりもセレスを知っていると思ってた。なのに。自分は強がりセレスの何を知っていた?
「セレス。わたしが帰ると言ったら絶対に帰るの。信じなさい」
突如、激しく機械室が閃光に照らされて、特大級の雷鳴が辺りに轟いた。同時に、迷夢が割れたガラスの文字盤から転がり込んできた。黒い髪は振り乱れ、衣服もすり切れ、露出した素肌にはかすり傷がつき、血が滲んでいるのが見えた。
「ちょおっと、リボンちゃん、いい加減にしてぇ!」
迷夢は悲鳴とも似つかぬ怒声をあげた。
「迷夢ぅ〜! もう、お終いか! お終いなら、貴様ら、皆殺しだ」
「こんなの相手に時間稼ぎだなんて、どだい無理な話なよのぉ! それに時間が……、あれをやるタイムリミットまでそんなに時間がないっ! これ以上遅れたら、魔都に落ちる魔法の方が勝っちゃうわぁ。そうしたら、魔物がわんさかと来て、もう、どうしようもなくなっちゃうぅ」
降り止まない雨音がより大きく聞こえる。
「さて、抗議終了」
悲痛な叫びをあげていたと思ったら、次の瞬間には迷夢はケロッとして外に飛び出していった。迷夢としては全然、大丈夫ではないのだろうし、余裕もさほどないのだろう。だけど、強敵相手に楽観的にいられるその性格には唖然とさせられることが多々あった。
「そろそろ、迷夢が休ませて欲しいそうだ。さぁ、セレス、心を落ち着かせろ」
「そんなこと、言われたって……」
相変わらず雨の音が響き、せっつかれたのでは落ち着けるものも落ち着けない。
「フォワードスペルの闇護符を渡すから、これでジーゼのところへ」
「うん……」セレスはデュレから闇護符を受け取って、元気なく頷いた。
「そんなセレス、セレスじゃないみたい……」
「――必ず戻ってくるんだよ、デュレ」
セレスはデュレの首筋に手を回し、キュッと抱きしめた。
「ど、どうしちゃったんですか? セレスらしくもない」
「何でもないよ。さ、リボンちゃん、ちゃっちゃとやっちゃって、でないと決意が鈍るから」
「なぁに、準備はもう出来ているさ」
リボンは軽く言って、首をひょいと歯車と文字盤の方に向けた。すると確かに、あの時と同じような感じで辺りが見えていた。空間のあるところが完全に透き通った水面のようになっていて、その中央部分から波紋が広がっているように見えた。
「あらら、難しそうなことを言っていた割には早いのね」
「それはな。――別にお前と話しながら用意するなんて大したことじゃないんだぞ。お前ら、オレが誰だか忘れてるだろ?」ちょっぴり誇らしげに、そして、少しだけ腹立たしげだった。
「氷の精霊王ですものね?」
と、デュレが嫌味半分に言うと、機械室の向こうからセレスが一人で必死になって絵を運んできていた。重い上にがさばるものだから、思うに任せない。それでもセレスは強引に引きずって、波紋の中に押し込んだ。
「……。訊くの忘れたんだけど、あれ、どこに出るの?」
「全然、判らない」
リボンの答えにセレスはブスッとした表情で答えた。
「そうだろう? 何でもかんでも、最初から判るなんて都合のいいことは簡単には起きないことなの」
「ふ〜ん……」
何となく釈然としない様子で、セレスは再び奥に行き、今度はバッシュの亡骸を抱っこしてきた。
「じゃあ、行くからね。――必ず帰ってくるんだよ、デュレ」
セレスは後ろ髪を引かれるようだった。こんな危険な場所にデュレを置いていくなんて考えられない。それはもちろん、魔法に関してはデュレの方が自分よりもずっと上だろう。だけど、デュレは接近戦には長けていない。魔法使い同士でもなければ避けようもない接近戦をデュレは最大に苦手とするのだ。それをセレスは知っていた。だからこそ、この危険で、同時に自分たちの未来を左右するかもしれないこの場面から自分が退場することが信じられなくもあった。
「キミが帰ってきたら、すぐにでも、始められるように準備を整えておくから」
セレスからの珍しい一言。いつもは自分から準備をするなんて決して言わないのに。
「じゃ、また、後でね」
セレスはそう言い残すと、波紋に右足から入り込んで消えていった。
「何だか、――呆気ないですね。色んなことがあったのに、帰る時はこんなにシンプルなんですよ。……何で、セレス相手にこんなに淋しいと思わなくちゃならないんですか……」
デュレは半分、涙声になっていた。そして、一筋の涙が頬を伝う。デュレはリボンに見られてはならないと、気がついた時には過ぎに左手で目の辺りを擦っていた。無論、リボンがデュレのその仕草に気がつかないはずはなく、その心の内はそれとなく理解していた。
「デュレ……」
「――何も言わないでください」
デュレはぐっと涙を呑み込んで、何でもない振りをした。
「そうか……」
リボンは短く答えると、帰り道を閉ざした。長くあけておくと不安定になる可能性も……そもそも、クロニアスの精霊核のパワーを間接的に使って時を越える扉を開けているのも軌跡に近い……否定どころか大いにあり得る。さらには、この時点で迷夢が伸されて、いつマリスが突っ込んで来るとも限らない。その時、この時の扉が見付かってしまったら、きっと、恐ろしいことになる。
「大丈夫、まだ時間はあるはずです。セレスの話では切羽詰まったメッセージだったようですからね。今だったら、余裕がありすぎます。としたら……、そのメッセージは今じゃない……」
セレスが居なくなったあとで、デュレ一見すると明るく振る舞いつつも、塞ぎ込んだかのように考え込んでいた。最初で最後かもしれなかった機会を自ら棒に振り、居残りを決意したのは正しかったのか。虚空に身を包まれるような不安感がデュレを襲う。
「向こうはセレスに任せて、こっちはマリスを何とかしておかないと……。だって、そうですよね。わたしたちがウィズたちと絵を見つけた時、マリスはいなかった。と言うことはやっつけたのではないにしろ、動きは封じたのに違いありません」
「……」リボンはただ静かにデュレの言葉を聞いていた。
「でも、マリスを封じるのはリボンちゃんと迷夢だけでは無理なんじゃないですか……? だから、わたしがここに居る。いくら、因果応報、因果律の流れの中に全ての事象があると言っても、それ以外にわたしがここに居なければならない理由が見あたりません」
「謙虚だというか、健気だというか、何というか、あれだな。自信過剰?」
デュレはクスリと笑った。
「わたしの魔力は当てに出来なくても、サポートくらいは出来ます。少なくとも、ボロボロの迷夢よりずっと役に立つはずですよ」
「――セレスよりは物わかりのいい奴と思ってたんだけどな? 意外と頑固だ」
微かに口元を歪めるリボンに対して、デュレはそっと頭を下げた。
「それ程でもありません。わたしは素直です」
「そうか……?」リボンは澄ました顔のデュレを見上げた。
「ええ。少なくとも久須那さんの絵をどうかするくらいで、わたしのここでの役割が終わらないと言うことが判るくらいには……ね」
「フフ……、察しがよすぎるのも困りものだな。そうだ、オレと迷夢だけじゃ、マリスを殺すことも封じることも出来ない。トリリアンの魔術を止めることも出来ずシメオンは沈み、迷夢の思惑だけが辛うじて成功を収めるくらいかな……」
「でも、わたしが居たら……」デュレはリボンに訴えかける。
「どこまで出来るだろうな。ま、いい。悩むだけ時間の無駄だ。付いて来い。……ただし、オレと来たら、マリスとの二連戦は避け得ないと肝に銘じておけ」
きつい眼差しを向けつつも、リボンは微かに嬉しそうにしていた。
*
「さ・て・と、一人目は送還完了。二人目は……どうなる?」
ラールは流し目で大鎌の柄に寄りかかっているルーンを見た。
「お、大筋で前の時と一緒よ。まだ、問題ないわ。わたしたちが手を出すとしたら――」
「もちろん、判ってるよ、ルーン。けど、手をこまねいてみている間にも事態は進行するんだよ。例えば、デュレが帰れなかったり、万一、マリスが無傷で切り抜けたとしたら?」
「例え話でもそんなこと、言わないでよ。縁起でもない」
ルーンは左手を握って腰に当てると、眉間にしわを寄せてブスッとした。しかし、ラールはそんな姉の様子を気にとめるでもなく、軽く受け流して自分の言いたいことを喋っていた。
「けど、やっぱり、流石だよ。リボンちゃん。ぼくたちの性質をよく心得てる。でなければ、ぼくたちの精霊核を間接的に利用して未来へ帰ろうなんて、思いつかないよね?」
「伊達に精霊王ではないと言うことでしょう。と言うか、それぐらいの権威があるなら、思い浮かばない方がどうかしてるわ……。それから、一個だけ付け加えておくわ、リボンちゃんが利用したんじゃなくて、利用させてあげたのよ、わたしが。でなければ、あの子たち、永遠にここから動けない。そう言うもんなのよ。他の精霊さんたちは――」
ルーンの冷たい批評が空を舞い、虚空に呑み込まれていった。
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