どたばた大冒険

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11. wing of goddess (女神の翼)

『見捨てないで』
 その言葉の意味するところがどんなに深く重いのかベリアルは思い知らされた。最初、デュレの履歴を聞いていた時はホンの軽いつもりだった。デュレの深淵に隠された思い出がベリアルの想像をも軽く凌駕するほど凄惨だったとは欠けらも考えていなかった。
 それが今、ベリアルの前に広がっていた。
 短剣を持たされた少女が二人、互いに困惑しきった様子で対峙していた。
「こんな子供に何をさせているの……」
 言葉にもなりはしない言葉がベリアルの震える唇から零れ落ちた。その儀式は邪教と呼ばれるに相応しく、ドラゴンズティースが歴史の表に立つことのなかったのもよく判る。ここは見事なまでに外界から隔絶されたドラゴンズティース。この場ならば、例え、殺人が起きようとも誰にも知られることはないだろう。だから、非人道的な行為がまかり通るのに違いない。いや、恐らく、竜の巫女、竜の意志に従うことこそドラゴンズティースでは最も正しい行いなのだろう。
 竜と婚約できるものは一時に一人しかいないのだから。
「……。何をしておるのだ? ここから生きて帰りたければ、目の前の敵を殺せっ!」
 竜の巫女は激しく言い放った。それがドラゴンズティースの真実なのだろうか。ベリアルは目の前で繰り広げれることをただ見ていることしか出来なかった。この場において、ベリアルは傍観者に過ぎない。
「なるほど……。そなたらは我が聖地を終の住み処に選ぶのだな? 闇の翼よ、この娘らはお前の見立て違いのようだな。……そなたの手で楽にしてやるがよい」
「そうですな。それが最良の選択でしょう」
 その闇の翼の感情のこもっていない冷たい声が引き金になった。
「……。い……、いやあぁぁああぁあー!」
 悲鳴とも思える叫び声をあげて少女は短剣を振り上げた。そうする他ない。それしか選べない。妹を自分の目の前から葬り去らなければ、自分がここを生きて抜け出せない。
「お、お姉ちゃん」顔から血の気が引いた。
 殺される。鬼気迫る姉の表情にデュレは明らかな殺意を読み取った。仲の良かった姉。転んで泣いた時も、サイフをなくして叱られた時も、一番最初に手を差し伸べてくれたのも姉だったのに。そして、今まさに、手を最初に出したのも姉だった。
 その姉が震える両手で剣を持って、走ってくる。姉には妹の自分に切っ先を差し向けると言う迷いはあるのかもしれない。けれど、躊躇いはなかった。
「お願いっ! やめてぇぇぇえ」
 悲鳴とも似つかないデュレの叫びは届かない。必死なのだ。竜の巫女の言葉に偽りがないことも、闇の翼が……父が自分たちのことを愛していなかったことも実は本当だったのだとしたら……? もはや、信じられるものなど何もない。
 短剣の切っ先がデュレの胸に迫る。瞬間、デュレは地面を力一杯蹴って、半ば奇跡のように姉の短剣をかわした。姉は勢い余ってつんのめり、デュレ自身は地面に横向きに倒れた。しかも、倒れた時に短剣を転がしてしまった。
 すぐに拾わなくては。デュレは手を伸ばす。けれど、短剣は思ったよりも遠くにあった。立ち上がって拾うほどの余裕もない。かと言って、立たないでとれる距離にもない。
 と、足首を掴まれた。
 怖い。まるで、魔界の淵からやってきた悪魔に魅入られたかのような恐怖。逃げなければ。デュレは一生懸命になって、姉の手を振りほどこうとした。
「放してっ!」デュレは叫んだ。
 しかし、放してくれるはずはない。命が懸かっている。この手を放してしまったら、自分はデュレに殺されてしまうのに違いない。だから、デュレには反撃の機会を一瞬でも与える訳にはいかないのだ。実際にそこまで思考が回ったのかは定かではない。本能が手の力を緩めることを拒絶しただけなのかもしれない。
 デュレは足首を掴んで放さない姉の手を蹴った。何度も、何度も。姉の手の甲が血で滲もうと。そして、遂に力が緩んだ。デュレはその一瞬を逃さずに短剣に向けて身体を必死に伸ばした。とどけ。短剣の柄に人さし指が触った。けれど、柄を掴み取り、自分の手のひらにしっかりと収めることが出来ない。
 次の瞬間、突如、デュレは背筋も凍るような寒気を感じた。殺気。刹那、デュレは地面をがむしゃらに蹴って何とか立ち上がった。しかし、その手に短剣はない。
「……お前の武器は短剣だけなのか……」
 闇の翼が半ば呆れた冷めた口調でデュレに助言を与えた。無論、その言葉はデュレにだけではなく、同時に姉への助言にもなっていた。当然、この二人は極簡単なものとは言え魔法を使える。今、この場所で決着をつけるために闇魔法の基礎から叩き込まれ、厳しい訓練を積んできたのだ。
 そして、姉の方が早かった。訓練をしてきた時もほぼ必ずと言っていいほど、姉が先に魔法を覚え、それから、デュレが覚えていくというパターンだった。状況が呑み込めていない時ほど、先制できた方が有利になるというのに、また、デュレは好機を逃した。
 闇の翼はその様子を“さもありなん”と冷静に見守っている。
「光を退け、闇よ、爆ぜよ。ダークネスエクスプロージョンっ!」
 闇の魔力を何の加工をするのでもなく純粋にそのまま放出する。単純なだけにスキルはいらないが、破壊力は使う魔力の割には大きくない。しかし、防御の術を持たないものには絶大な効果をもたらす。
「あ……、う……」デュレは無意識のうちに手を付き出した。「マジックシールドっ」
 闇の破壊力と闇のシールド。互いに同じ属性を持つが故に大きく反発する。シールドが攻撃を僅かでも上回る出力を持っていれば、放たれた攻撃魔法は術者に返る。そして、指向性を持たない“ダークネスエクスプロージョン”そこ跳ね返されれば辺り構わずに拡散して被害を拡大してしまう。が、それだけでは相手に致命的打撃を与えられない。
 そのことはデュレも身体が理解していたようだ。訓練、修行と称して様々なことを小さいころから叩き込まれたら、チャンスには身体が勝手にアクションを起こす。
 ダークネスエクスプロージョンが拡散して辺りに砂ぼこりを巻き上げている陰で、デュレは動いた。幸い姉の視界は遮られ、地面に転がったままの短剣を拾う余裕もあった。デュレは地面を蹴り、姉がいるはずの場所に仕掛けた。
 砂ぼこりが晴れる。
 短剣こそ外したが、デュレは姉の動きを止めることが出来た。何らかの拍子に姉を押し倒し、完全に馬乗りだ。勝てないと思っていた相手に勝利のチャンスが巡ってくる。今、ここで力一杯に握りしめた短剣を振り下ろせば、この恐ろしい一連の出来事の幕引きが出来る。それは幼いデュレによく判る。そして、そうすればこそ、恐ろしい父の寵愛をこの身、一身に受けることが出来るのかもしれない。
「……。あ……、う……、お、お姉ちゃん……?」
「――とどめを刺せ、刺さねばわたしがお前の息の根を止めてやる」
 闇の鷹が冷たく言い放つと、もはや、幼いデュレに選択の余地はなかった。
 姉をこの場で殺さなければ、自分は生きてドラゴンズティースを出られない。帰りたい。けれど、それだけのためにこの手を赤く染め上げてもいいのだろうか。などと、思いを巡らせている余裕はもはやありはしなかった。
 デュレは短剣を強く握りしめ、短剣を振り上げた。このまま時間が止まったら、逃げ出す隙があればどれだけ良かったことだろう。しかし、現実は闇の鷹と竜の巫女が見守り、そんな隙はありはしない。それどころか、もはや逃げ出すという頭もなかった。
 デュレは短剣を振り下ろした。
 切っ先が胸に深々と突き刺さると、それに反応して身体がビクンとのけ反った。そして、傷から真っ赤な鮮血がほとばしり、デュレを紅く染め上げた。生暖かい、気味が悪い。だが、それは実体を伴わない“死”のイメージとしてだけそこにあった。
「よくぞ、やり遂げた。そなたが選ばれしもの、竜と婚約することを認められた証たる女神の翼の刻印を授けよう」
 けれど、デュレには何も聞こえていなかった。全てが遠く、現実感も乏しくて、まるで白昼夢を見ているようだった。夢を見ていたのだ。きっと、悪い夢を見ているのだ。昨日、姉と言い合いしたから。その後味の悪さがこんな夢を見させているのに違いない。
 竜の巫女はうずくまるデュレの背中に向けて手をかざすと、目を閉じた。唇だけが静かに動き、まるで虚空と対話しているかのよう。その異様な光景の中にあって、竜の巫女のかざした右手が仄かに光を灯した。それは光だけではなく、やがて、熱を持ち始める。
「あ、熱い……。熱いよぉっ!」
 その熱さが痛みに変わる。そして……。
「これでそなたは竜と婚姻する資格を得たのだ。今一度、己の魔力を見つめ直し、精進するがよい。……そなたを見初め、求める竜が早晩訪れるやもしれぬぞ?」
 竜の巫女の言葉などデュレには届いていなかった。手のひらをかざされた背中がひたすら痛い。その痛みを和らげる術がないのかと、或いは痛みがおさまるまで耐えるしかないのかと精神的にも肉体的にとても辛いことになっていた。
「あ……うぅぅうううぅ。い、痛い……」
「ふむ。耐えるのじゃ。耐え抜けば、そなたに竜の婚約者として相応しい魔力が備わる」
 この痛みを今すぐ、消してくれるのなら、そんなものはいらない。
 ソンナモノハイラナイ。
 何もかもがこの場からなくなってしまえばいい。そのどこか無意識のうちにあった思考が届いてしまったのだろうか。突然に、デュレの緑色の瞳が赤く煌めいた。それまで、全力で魔法を使ってもそんなことになったことはない。無論、デュレ自身が気が付いていないだけで、実際には魔法を行使すると何か身体に変化が出ていたのかもしれないが。
「……。眼が赤い……」いち早く、闇の鷹が気が付いた。
「何ごとだと?」竜の巫女はハッとした。
 危険な兆候だ。デュレに秘められた魔力が目覚める。その魔力を完全にコントロールすることが出来れば最高だが、今のデュレにそんな高等スキルは望めない。とすると、行き着く先は必然と決まる。いや、闇の鷹は魔法発動時に瞳の色が変わるほどの魔力をデュレが持つはずがないと高を括っていたのかもしれない。
「――! マジックシー……」間に合わない。
 次の瞬間、何ものか得体の知れないものが暴発するかの勢いで広がった。デュレの瞳は恐ろしいまでに真紅に染まり、そこから憎悪がほとばしったかのようだった。そして、それは闇の魔法というよりは純粋な魔力が周囲に拡散したという方が正確だろう。そしてそのデュレの身体から溢れた魔力はただの空気のようなものではなく、周囲に吹き散らかる時にはそこら辺にあったものの全てを巻き込んだ。それには途方もない破壊力が潜んでおり、それに触れてしまった物体は形を保っていられなくなった。
 岩も、そこにいた闇の鷹も竜の巫女も。形を失い、風にかき消される。
 そして、その場に訪れたのは死の静寂。動くものはもはや何もない。
「――。お姉ちゃん……?」
 凍りついたデュレの時間が再び動き出した。そして、その一瞬こそは自分の周りで何が起きていたのか、自分が何をしていたのかまるで理解できなかった。
 誰もいない。いや、むしろ、何もない。
 悪夢としか形容のしようのないことだったが、確かにここで何かがあったのだ。父と姉と、竜の巫女が目の前にいてゴツゴツとした石が転がるこの場所で。それが綺麗さっぱりと何事かが起きた形跡も何一つ残さずに無くなっていた。
 ただそこにデュレ自身がいるという事実を残して。

 

 そんなものを見せられたベリアルはただただ立ち尽くすしかなかった。衝撃的だった。ドラゴンズティースの最後の生き残りにして、竜との婚約を果たした女神の翼を持つ少女。秘教とも呼ばれ、とうの昔に滅んだはずのドラゴンズティースが極最近まで存在していた上に、その秘教中の最大の秘義を授かった最後の一人がいようとは……。
 そして、ベリアルは不意に我に返った。
「デュレっ!」
 けれど、ベリアルの声は幼いデュレに届こうはずもない。ベリアルの見たデュレの影とは恐らく、これだったのだ。けれど、これだけでは終わりそうにないことは周囲の状況が告げていた。このデュレのイマジネーションの世界から逃れられない。さらにベリアルの思い通りに誘導することもままならない。精神シンクロの主導権を未だ握れないこともデュレの持つ問題の奥の深さを物語っていた。
「……。このまま最後まで付きあえと言う事ですか……」
 この点に関してはどうやら諦めざるを得ないようだ。
 そして、ベリアルは待った。待てば必ず解決されると言う訳でもない。むしろ、混迷を極めてしまって二進も三進もいかないベリアルにとっては最悪の事態が訪れるかもしれない。けれど、中途半端な状態で強制的に帰ることはデュレに対する裏切りでしかない。この裏切りとはよくある背信にとどまることはなく、デュレ自身を壊してしまうかもしれない。そうなってしまったら、ベリアルが迷夢の信頼を裏切ることでもあり、相当にややこしい事態に陥ることは免れまい。
 その渦中のベリアルの杞憂と懸念をよそに舞台は動いた。
 ベリアルはその気紛れとも思える情景に付きあう他ない。
『ここじゃないよ。これからだよ。誰がいなくなったんだとしても大したことじゃないもん。だって、誰もデュレを愛していなかった。欲しかったのは力だけ……。でも、この先は違うの』この声はあの金髪碧眼の少女に違いない。場面場面、ところどころで現れてはベリアルに対して、何かしらの意見を残していく。『だって、あのヒトたちは初めて、デュレを心から信じて、愛してくれたんだもの。――ドラゴンズティースを滅ぼした、ドラゴンズティースの最後の一人だったのに……』
 その声は物憂げそうでありながら、どこか途方もない淋しさを抱えているようだった。
「……そのヒトたちに何があったの……?」ベリアルは問う。
『そう。キミは見たはず――』
 その曖昧な言葉を残して金髪碧眼の少女らしき雰囲気はすっかり消え失せた。
 そして、再び声が聞こえた。優しい女のヒトの声。優しい男のヒトの声。その温かさに包まれたのなら、きっと、幸せだと思えるだろう。その声の裏には打算も冷たい思惑の微塵も感じさせない凛とした誠実さが伝わってくる。
「今日から、わたしがお母さんよ」
「ぼくがお父さんだ」
 ダークエルフの夫妻が孤児だったデュレを引き取ってくれた日。優しいお母さんと頼りになるお父さん。朧げな記憶の向こうに夢見ていた家族。幼い心の中で自分にはそれを望む資格すらないと思い込んでいた。
「わたしの……お父さん? お母さん……?」
「そうだよ……。キミの新しい家族……」
 男は温かい微笑みを浮かべながらデュレの前で膝をついた。お父さんとお母さん、家族。いつも楽しげに通り過ぎ温かそうに見えていた家族。それが自分にも出来る。自分のことを思ってくれるのならば、血のつながらない赤の他人の父と母だとしても、血のつながった凍りついた感情しか持たない父と姉よりも良いのに決まっている。
「さあ、そんなに緊張しないで……こっちにおいで――」
「あ――。うぅ……。わたしのお父さん……」
 ぎこちなくどう答えたらいいのか判らないような雰囲気を湛えて、デュレはようやく言葉にしていた。その裏にはこの二人を信用し切って大丈夫なのかということと。そして、デュレ自身がドラゴンズティースと関わりをもっていることにあった。
「いいんだよ。キミは何も悪くない……」
 そんなに優しくされたのは一体、どれだけぶりのことだろう。デュレの瞳からは知らないうちに涙が零れ落ちていた。ドラゴンズティースでの一件があって以降、デュレはずっと身寄りの無いままに街の小さな孤児院にあずけられていた。
「お父さんと……お母さん……。わたしの……」
「そうだよ。――だから、お父さんのところにおいで……」
 遠慮し、躊躇っていたデュレの足が微かな一歩を踏んだ。ずっと心のどこかで望んでいた。自分の全てを許容してくれる誰かが現れることを願っていた。ただ願っているだけではどこにも届かないと頭では理解していたはずなのに。
「……お父……さん……? お母……さん?」
 デュレは心許なさそうに自身のなさそうに小さく声に出した。ちょっとでも大きな声を出したら、吹き飛んでしまいそうな、夢から覚めてしまいそうな、そんな気がしたのだ。
「大丈夫、逃げたりしないよ。ぼくたちはキミの素性はよく知っている。……あんなことがあったのだから思い出したくないかもしれない。けれど、ぼくはキミの本当のお父さんのことも、お姉さんのことも全部心得た上で、キミのところに来たんだよ。だから……、大丈夫。心配しないでぼくたちの傍においで。ぼくたちは絶対にデュレ、キミを見放したりはしない」
 力強くそう言った父となる男性の横で、母となる女声はただ静かに微笑んでいた。
 信じたい、信じたい。信じられたらどんなに楽だろう。心を閉ざし、殻に篭って他人に心を覗かれて、自分の過去が白日の下にさらけ出されてしまうかもしれない恐怖を完全に忘れて過ごすことが出来るのに違いない。
「あ……」言葉にならない思いがそこにはあった。
 嬉しくて、哀しくて、そして、やっと報われたような気がする。
 ただ、そんな慎ましやかな幸せな日々は長くは続かなかった。デュレの記憶の奥底に沈んだ、そして、以来、ずっと思い出すことすらなかった記憶の果て。思い出とも呼ぶことの出来ない思い出。遠くて近い過去。
 ドオオォォオン。
 激しい落雷があった。そして、雨。ベリアルは再びあの場所を訪れていた。精神シンクロを始めてすぐに見た光景。降りしきる雨の中で垣間見たのは絶望そのもの。二度までも見せられた光景。恐らく、ここなのだ。ベリアルは思う。ドラゴンズティースでのどんな悪夢のような出来事よりも、あの出来事の方があまりに衝撃だったのだろう。
「……怖い……」ベリアルは囁くように呟いた。
 瞬間、閃光が走り、雷鳴が轟く。薄暗い場所で降りしきる雨。希望の一切が絶たれた絶望の空間。その闇の中に焼き付けられた鮮烈なイメージが再び蘇った。
「うわああぁああ。デュレ、正気を、正気を保て。魔力に意識を呑まれるなっ!」
 それは悲鳴でありながら、懇願だった。しかし、その強い思いは届きようがない。
 コントロールし切れない大きな魔力はデュレの自由を束縛する。自分の意思ではもう、身体が動かない。頭では判っていて、確かにその目に映っていた。けれど、何一つ自由にならない。溢れる魔力が自立的に魔法という力を持つ。苦しい。指先一つ、自分の力では動かすことが出来ない。それはまるで、ほとばしり行き場を失いつつある闇の魔力が自分の意思を持ち、実体を持ち始めたかのようだった。
「あ……うぅ……。わたしは……」
 デュレの瞳からは一雫の涙が零れ落ちていた。
「――お……お父……さん。わたし……、わたしは……」
「デュレ! 闇に呑まれるな。闇に抗え! お前はドラゴンズティースの生き残りかもしれないが、ドラゴンズティースそのものではないんだ。二の舞いを演ずるな。――お前はお前自身の主であれっ! 婚約した竜の思い通りにされるな。お前なら出来る。お前なら、婚約した竜の力を自分のものに出来るはずだっ!」
「――うぁぁ……。た、助けて……ぇ」
 か細い声も裏返ってしまうくらいに苦しい。視界が霞む。いっそのことこのまま事切れてしまえばどんなに楽だろうと思ってしまうが、この苦しみは終わることなく永遠の輪廻の中に取り込まれてしまったかのようだった。楽になるためにはこの溢れ返る魔力を自在に操る能力を手にするか、解放してしまうかの二者択一の一方を選ぶ他ないのだろう。
 そして、何かが弾けた。
 そこから先はデュレ自身には覚えがない。むしろ、潜在意識の奥底で大事に大事に保管しておかれ、今この時こそに全てをさらけ出そうとしているかのようだ。固く閉ざされていた無意識が解放されて意識の表舞台へと帰っていく。ただ、その中にたった一つだけ覚えていることがあった。その時、意識が飛ぶ寸前に護身用にと持っていた短剣に手をかけたこと。それで一思いに胸を突いてしまいたい。
 が、デュレの身体はもはや、デュレの統制下にはない。
 手に取ったはずの短剣の切っ先の行方は、少なくともデュレ自身の胸ではなかった。
「デュレっ! お前になら出来る。諦めるな。必ず、自分のものに出来る……っ!」
「お……お父さん……、わ、わたしには……出来ない……」
 涙が零れ落ちていく瞳の先に映った父の耳にその掠れた言葉は届いたのだろうか。それとも、永遠に届かなかったのだろうか。
「はぁ、はぁ、はぁ……」フと気が付けば、デュレは肩で息をしていた。
 短剣を右手に逆手に持ち、その切っ先は真っ赤な鮮血に濡れていた。
 そして、その視線の先には――。

jet11


『これ以上、わたしを掻き乱さないで。来ないで。来るなっ! 誰にも触らせない。来るな、来るな! わたしは一人で生きていける。決めたんだ。――わたしと関わらないで。わたしと深く関わったヒトはみんな、不幸になってしまう――』
『でも、ベリアルならきっと、キミを助けてくれる……』
『誰もわたしに手を触れないでっ!』
『わからず屋。キミはいつだってそうなんだ』

 

 聞こえる。デュレと恐らくデュレを救いたい少女の声と。頑なに拒絶する冷たい少女の声と、外から差し伸べられる光明を何としても掴めという熱い少女の声と。
 わたしならきっとデュレを救える。例え、それがベリアルの思い込みだったとしても、デュレに救いの手を差し伸べられるのは今、ここには自分だけしかいない。ベリアルは精神シンクロの使い手としてできる限りのわざを駆使しようと考えた。
「……もっと深くまで潜って見るしかありませんね……」
 それは危険な行為にほかならない。しかし、より突っ込んでいかなければ解決をみないだろう。デュレの深層に巣くった悪夢から解放することは出来ない。ベリアルは目を閉じた、そっと両手のひらを合わせた。精神を集中させてより深いところへ……。
(わたしは……きっと、ベリアルのようなヒトを待っていたのかもしれない……)
「デュ・レ……?」
 次の瞬間、ベリアルは黄金色の草原に立っていた。そよ風が穂をさわさわとなびかせていく。ここがどこなのか、ベリアルには全く判らなかった。
「――ここは……?」
 そっと呟いた言葉の先にいらえはなかった。
 ただ、その中ではっきりしていることが一つだけあった。この黄金色の草原にベリアル以外にもう一人誰かがいる。その風にその髪を靡かせる黒髪の少女がベリアルに背を向けて、一人で佇んでいた。
「――。デュ・レ――?」
 少女から返事はなかった。けれど、ベリアルは臆することなく言葉を続けた。
「……あなたは一体、何者なの……ですか?」
「――、わたしはドラゴンズティースの最後の一人……」
 そう、デュレはドラゴンズティースの最後の一人。あの日を最後にドラゴンズティースは姿を消した。そればかりか、デュレの全てを受け入れ、愛してくれた者たちの全てをも奪い去った忌まわしき存在。自分でも完全に制御し切れないほどの闇の魔力をもった。
「――では、――まず始めに魔力のコントロールの仕方を覚えましょうか?」
 ベリアルは言った。突っ込んで訊きたいこともたくさんある。けれど、今はまだその時ではないだろう。今は根掘り葉掘りデュレの過去を掘り起こしていくことよりも、重要なことがあるはずだ。やがて、デュレが本当に落ち着きを取り戻した時に“現実の世界”でゆっくりとわだかまりを解いていけばよいだろう。
「……綺麗事はあまり言いたくありませんが」前おいてベリアルは続ける。「まずはあなたに与えられた闇の魔力をしっかりと自分でコントロールできるようになること。予想に過ぎませんけれど、デュレのご両親はそう望んでいたのではないかなと……」
 無論、そう考えれば辻褄があいそうな気がするとベリアルが勝手に思っただけのこと。しかし、そうでもしようと思わない限り、魔力の臨界点を突破して危険な状態に陥ることはそんなにはないはずなのだ。
「それだけで、デュレの持った全てが許されるものでもないとは思いますよ。けれど、一歩ずつ進んでいくしか、あなたに潜んだ闇と共存していくことは出来ないでしょうね……。デュレはその闇が許せないかもしれない。でも、それはドラゴンズティースで拾い上げてしまったあなた自身。受け入れてあげてください」
「わたし……自身」デュレは確認するかのように呟いた。

 

『そうだよ、デュレ。あたしはキミ自身なんだ』どこからともなく明るく爽やかな声が響い。『だから、あたしはいつもキミと一緒。忘れないで、キミは一人じゃない。一人でふさぎ込まないで、周りを見て。キミは一人じゃないんだよ。いつだって、キミを見守っているヒトがいるんだよ。だから、ダイジョブ。ただ……忘れないで』

 

「なるほど、そんな聞くも涙、語るの涙の過去がデュレにはあった訳なんだ」
 迷夢は腕を組んだままで、うんうんと大きく頷いた。その昔に滅んだとされたドラゴンズティースが実はつい最近まで存在していて、しかも、その最後の一人が生き残って自分の目の前にいるのだという。こんなエキサイティングなことは滅多にない。
「――つまり、デュレが秘めたあの魔力の源は竜ってワケね」
「恐らくは」ベリアルは確証を持てない様子で曖昧に言った。「……ただ、指摘させていただければ、源が竜だったというより、龍との婚約、女神の翼の刻印を受けたとことで魔力のキャパシティが増えたというのが正しいとは思いますけど……?」
「お。キミはあたしに意見するつもりなのかね?」少しばかり意地悪そうな笑みを浮かべながら迷夢は言う。「ま、通例から考えるとそんなところでしょうね。け・れ・ど、竜との婚約が成立して、今もそのままだって言うなら、実質、魔力は無尽蔵。使っても使ってもなくならない、井戸水が地下水から湧き上がってくるがごとく。って感じかな。それをデュレが自覚してるのかどうかは知らないけど?」
「自覚してないと思います」きっぱり。
「ほう! それは何故?」鋭い眼差しをベリアルに向ける。
「何故と言われましても、答えるのは非常に困難です。デュレの様子を見ていたら、そうなんだろうなぁという予測に過ぎません。そう言うのは迷夢さんこそ、得意なのでは?」
「わたしは嫌い」アッケラカン。「ま、根は深いとは言え、これでデュレの昔話件心理的問題点が明らかになったから、あとは誠心誠意を込めて治療してあげたらいいんでない? ベリアルちゃんが? 心の傷をしっかりと癒すことが出来たら、完全無欠の闇の魔法使いが誕生しそうじゃなくて? ドラゴンズティースと関わりを持って、さらに現在は闇の精霊をとも契約している。あー、わたしならこんな危険そうな魔法使いを敵には回したくないわよねぇえ? ――リテールの全てをデュレの手に……ってのも夢じゃないかも?」
 ひとしきり捲し立てて、迷夢はとても満足そうな笑みを浮かべた。
「物騒な発言をしないでください」
「ダイジョブよ。わたしが育てたいのは陰の支配者なんだから」
 それでも十分過ぎるくらい物騒だが、迷夢は嬉々とした表情でベリアルを見つめていた。

文:篠原くれん 挿絵・タイトルイラスト:晴嵐改