どたばた大冒険

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04. in the midnight(真夜中のおとぎ話)

 その夜、デュレは深夜まで起きていた。結局、考古学、遺跡発掘の報告書に及第点をもらえずに書き直しているところだった。期限を過ぎたとは怒られ、内容もいまいちよろしくないと文句を言われて、まるでいいことなしの一日だった。
「ねぇ、デュレ……」
「……? シルト。目が覚めちゃったの?」
 デュレは机上に羽根ペンを置いて、ペンを走らせる手を休めた。
「うん……」シルトは戸口の柱に抱きつくようにして、呟いた。
「こっちにおいで」デュレは両手を開き、シルトを促した。
 すると、シルトはトトトと走り寄ってきて、デュレの膝に抱きついた。
「怖い夢を見たの」そして、思いを吐露する。
「怖い夢?」
 デュレは膝に抱きついたシルトの背中を彼女の母親になったかのようにゆっくりと撫でた。
「大きな黒い獣がワタシを追い掛けて来るの。真っ白い闇の中。ワタシ独りだけ。……最後はワタシ、その白い闇の中に消えてしまうの。えと……、えと……」言葉を探す。
「……吸い込まれるように?」言葉に詰まったシルトに助け船を出す。
「ううん……」シルトは首を横に振る。「――溶けてしまう感じだった。だんだん、考えられなくなって、みんな、もやもやになって、訳が判らなくっちゃうの。ワタシ、消えちゃうのかな」
 シルトは誰に問うのでもなく、囁いた。
「ワタシ、どうしてあんなところに生まれちゃったの……。あんな暗い場所で独りぼっちはもう、イヤなの。外に出ても瓦礫の山。何もないの。鳥も動物たちもいないの。誰もワタシを見てくれない……。そんなのダメなの。ずっと、独りだったけど、デュレとセレスと会って、もう、独りじゃ居られないよ。耐えられないよ……。ワタシ、淋しいのはイヤ……」
 シルトはデュレの膝に顔を埋め、静かに涙を流していた。独りは嫌だった。廃墟を訪れる旅人はあるはずもなく、鳥や獣はそこに漂う異様な空気を警戒、毛嫌いして近寄らない。
「だから、――デュレを待ってた。ワタシに名前をくれた人。いつ来るか、判らなかったけれど、きっと、ワタシを迎えに来てくれるって信じてた……」
「……」
 デュレはただ言葉もなくシルトの頭を優しく撫でていた。かける言葉は見付からない。二年ほど前、シルトがどれだけの淋しさ、孤独さを持って地下室で時を過ごしたかを知っているだけに、シルトがあの場を忌避する理由が判る。無論、その全てではないけれど、自分がそんな立場だったら、帰ったらここに戻ってくる目処さえないあの場所には絶対に帰りたくない。
「デュレ、お願い……、助けて……、イヤ、独りはイヤ。話し相手が石ころや、風だけなんて、もう、そんなのイヤ。デュレのそばにいたいの。セレスのそばにいたいの。クリルカと遊びたいの……。誰ともお別れなんて、したくない――」
 とうとう、シルトは声を上げて泣き出した。今、この時になって、みんなで過ごした二年間が思い起こされて自分ではもはや感情をコントロールできない。シルトはデュレのスカートをぎゅっと掴んでワーワーと泣いた。まるで、泣くことしか出来ないかのように。
 そして、シルトはいつしか泣き疲れてデュレの膝の上で寝息を立て始めた。
「――大丈夫です。わたしとセレスを信じて……。必ず、アミュレットを見つけ出します。消えてしまうなんて、絶対にそんなことはさせません。――そんなことは絶対にないんです。――だって、あなたは……わたしたちの大切な妹なんですから」
 デュレは静かな寝息を立てるシルトの頬にそっと触れた。
「ねぇ、デュレ。ちょっと、いいかな……」
 少しだけ開いていたドアがすっと音もなく開いたかと思うと、沈んだ面持ちをしたセレスが静かに入ってきた。ドアの外でずっとシルトが眠るのを見計らっていたのだ。
「どうしたんですか、寝たんじゃなかったんですか? そんな深刻な顔をして?」
「うん……。ちょっと……」
 デュレはセレスの淋しげな様子にただならないものを感じた。デュレはシルトを抱き上げて、戸口に向かった。シルトをきちんとベッドに寝かしつけるのだ。
「向こうに行きましょ?」
「……うん」雨に打たれしょぼくれた捨て猫のように見えた。
 二人は静かに歩き、シルトの部屋に入った。デュレはシルトをベッドに寝かせるとタオルケットを掛けた。その間、セレスは後ろ手を組んだまま、黙ってデュレの背中を見詰めていた。
「今日は……困ったお客さんの多い日ですね」デュレは優しげな雰囲気で温かくセレスを包む。
「シルトが居なくなっちゃったら、あたし、どうしよう」
「また、急に、何を言い出すかと思えば。大丈夫です。アミュレットは必ず見付かります」
「でも、手がかり一つ見付かってないんだよ」否定的な見解を述べる。
「……いつも、楽天的なあなたが今日に限ってどうしたんです?」
「――判んない。ただ――」セレスは俯いて、そのまま口をつぐんでしまった。
 言葉にならない思いがたくさんあった。
「あたし、神様は信じない。けど、シルトがずっとここに居られるなら」
「こうしていると不思議な感じがします。あなたの方がお姉さんなのにね……」
「そうだけど。シルトがいなくなっちゃいそうなのに、あたしには何も出来ない。あの娘にもしものことがあったら、申し訳が立たないいよ」
「もしものことなんて絶対にありません。セレスとわたしがいる限りは――ね」
 デュレは何気ない自然な動作でセレスの乱れた前髪をそっと掻き上げた。
「そうだったらいい……。そうじゃなきゃ、あたしはただのバカだよ――」
 今宵のセレスはどういう風の吹き回しなんだろう。デュレは思う。セレスが弱気な一面をみせるなんて、まずないことだった。どんな淋しさを胸に秘めても、その思いを吐露することはない。人に悟らせない空元気の果てに、吹き飛ばしてしまうのだ。そのセレスが静かに語る。それはシルトがいなくなることはセレスには計り知れない痛手になるようだった。
「――自分を卑下するのはよくありません」
 デュレは淋しさに震えるセレスを諭すように言った。
「けど、あれにはシルトの精霊核が嵌ってるんだから、魔力的なサーチングに引っ掛かるはずなんだけど。落としたとしても、自分の波動を辿っていけば、フツーは見付かるはずなのね」
「魔力的な何かに囲まれている?」
「考えにくいけど……。ないとは……。――シルトがどこに行ったかさえ判れば」
 デュレは腕を組んで考え始めた。すでに考古学の報告書はそっちのけ、頭の中はシルトのアミュレットに席巻されていた。そして、何かを決心したようだった。
「シルトの心にダイブします。より正確には精霊核の記憶の中に……。上手くいけば、シルトの無意識のレベルでどこに落としてきたかの記憶があるかもしれません」
「でも、あんな記憶の海に乗り出したら、帰って来れないかも……」けど、目は爛々。
「そうね。けど、少しだけ見てみる価値はあると思います。あまり奥底にはいけないですけどね。それは。必要以上にかき回すとシルトのプライバシー侵害になってしまいますから」
 デュレは自らの戒めのためか、セレスの好奇心を封じるためか、声を大にする。デュレはやるべきことを決めると、自分の目覚まし時計を手にとって、シルトの部屋に戻ってきた。
「ちぇっ! やっぱ、判ってるんだ」にまっ。
「それは長い付き合いですから。それじゃあ、行きますか? ――タイマーセット。一時間で帰ります。答えが見付かっても、見つけられなくても。それ以上は危険です。それに……報告書、まだ、書き終わっていないんですよ……」
「それはいいけど、タイマーセットって目覚まし時計?」
 セレスは頼りなげな物を見るような目つきでデュレを見て、目覚まし時計を指さした。
「ええ、別に何でもいいんですけどね。魔法を使っても大丈夫ですけど、物理的にも網を張っておかないと、万一の時に逃げ場がなくなります」
「ほ〜。安全策を幾重にも、手抜かりなくか。流石、デュレ」
「……褒めても何もでませんよ?」眼を一際、細めてデュレは言う。
「いや、そんなことは一つも期待してないから……」セレスは呆れたように手をヒラヒラ。
「そうですか? ……では、セレス、わたしの手を握って」デュレは右手を差し出す。
「う? うん」セレスは少しばかり物怖じしたかのようにデュレの手を握った。
 セレスの温もりを感じると、デュレは囁きよりも小さな声で呪文の詠唱を始めた。じっと、耳を澄ませば声は届く。それはまるで歌声のようであり、セレスも滅多に聞いたことのないようなデュレの声色だった。セレスは目を閉じて聞き入った。呪文の意味が判るわけではないけれど、心に染みいるようにじわじわと浸透してくる。デュレはそのセレスを見るに付け、微笑ましげにクスリと口元を綻ばせた。
 そして、デュレの声が遠退いていき、ホンの一瞬、意識が飛んだのだろうか。次にデュレの声が聞こえるまで、記憶の中に僅かな空白が出来たような感じがした。
「――着きました。目を開けて……」
「――」セレスは目を開いて、少しの間、キョロキョロと辺りを見回した。「ねぇ、ホントにあたしたちシルトの心を見ているの?」
 どう見ても、二人はシルトの眠るベッドの横に立っていた。
「そうです。大抵は身近なところからスタートしますから。あのドアを開けてみたら、ホントかウソか判りますよ」デュレは事も無げにツカツカとドアに歩み寄った。「気を付けてください。何が出てくるか、冗談抜きで判りませんから」
「幾ら何でも警戒しすぎだと思うんだけどなぁ」
 と言って、セレスはドアノブを握り無造作にドアを開け、一歩踏み出した右足は激しく空を切った。バランスを崩す。ドアの向こうには何もない。足場も、家も、空も、何も。その空間はどこまでも闇が支配していた。
「ひぇぇぇええ」セレスはドアノブを両手で握り、奈落の底に落ちるのを辛うじてこらえた。
「だから、言ったのに。まぁ、所詮は心象風景ですから、落ちても死にはしませんよ。しかし、困りましたね。スタートから詰まるとは……。二百数十年の記憶の海から目的の記憶を探す糸口さえなさそうですねぇ……」
「でも、最近のなら近くにあるんじゃないの?」
「記憶に距離は無関係です。覚えてないって言うくらいだから、どこにあるんだか皆目見当もつきません。しかし、この部屋にいてもどうにもならないし、外に出ないと……」
 デュレは窓に目を付けた。廊下に繋がるドアがこの有様で、窓がどこに繋がるかなんてさっぱりだが、自らに課した制限時間をここでぼ〜っと過ごすよりはましな展開をするだろうと思う。
「こっちに行ってみましょう。自由落下よりましだといいですね」
 デュレはもう、躊躇うことなく窓を開けた。すると、開けたそばから水が止めどなく溢れ出し、デュレとセレスを狭い部屋の端まで押し流した。
「……相当と言うか、徹底的に嫌われてるみたいだけど、何で」
「全く、前途多難ですね。この前、ジーゼと試した時は上手くいったのに……」
「……それって、ジーゼの協力があったからじゃないの?」不意に核心を突いた。
「あっ――」決定的な違いにデュレは気がついた。
「『あっ』て、今更どうするつもりなのさ」
「もう、どうしようもありません。時間が来るまで、戻れませんし……」
「あの半分いかれた目覚まし時計が命綱とは頼りない」
「あれはセレスが寝ぼけて蹴飛ばすから、いけないんです」
「むう。確かに、そうなんだけどさっ」セレスは唇を尖らせた。
「……」
 デュレは拗ねてしまったセレスなんか放っておき、後ろ手を組んで狭い部屋を言ったり来たり。
 窓の外は漆黒の大海、その窓の下には木の葉のような小さな舟。反対にドアの向こうはその底がどこにあるのか判らないくらいに深い亀裂。
「セレス。奈落の底に転落と船酔い地獄とどっちがいいですか?」
「ど、どっちもいいわけないじゃない」
「この部屋は玄関みたいなものなんです。心理的な防壁。それでもまだ、眠ってるから無防備な方だと思うんだけど……。あまりに象徴的でよく判りません」
「まあ、何でもいいんだけどさ。シルトって本物の海はまだ知らないんじゃなかった?」
「イメージに過ぎませんから、ホントに知ってる知らないは二の次なんです。だから、本物よりずっと怖い。何が出てくるか判らないんです」
「……何が出てくるか判らないか……。でも、フリーフォールするくらいなら、荒波にもまれる方がずっとまし」にやり。「何度もそんなめにあったから、食傷気味で……」
「そ、そうですか?」デュレは狼狽える。セレスはその微かなサインを見逃さなかった。
「まあ、あっちに行こうよ」セレスはデュレの後ろに回って、背中を窓の方に押す。
「え? あ、その……。――う、海は嫌いなのよ〜〜っ!」とうとう本音を叫ぶ。
「はぁ〜ん♪ やっぱりね。それでこの間、海に行った時、砂浜から動こうとしなかったんだ。おかしいと思ったのよねぇ。シルトもいたら面白かっただろうに」
「ダ、ダメなんです。あの吸い込まれそうな黒い海は」
「って言うけど、海水浴は夜行かない。昼よ?」
「ひっ、昼でも夜でも一緒です。だって、だって、怖いんだもの」
「はぁ。これが冥界に引き込まれそうになっても臆さなかったデュレの言葉とは思えないや。けど、ま、デュレがそんなに嫌がるならしゃあないねぇ……」セレスはため息交じりに頭をボリボリと掻いた。「あたし、暗いところがキライ。だから、こっちも気が進まないんだけどぉ」セレスはちらと上目遣いにデュレを見た。「その怖がりようを見ればあたしの方がましか――」
 諦めた。セレスはドアを開けて、一歩下がり、大きく深呼吸をすると――。
「ダイブっ!」
 セレスは躊躇いなく暗闇の深淵に向かってジャンプ。デュレはセレスの後を追った。
 ひゅ〜ん……。
「ひぃぃいぃ、こっちには底がないのかぁ」
 ドシャン。ストッ。セレスがお尻で着地する隣で、デュレは足から綺麗な着地を決めた。
「ううぅ。どうしてキミはスマートに決まるのに、あたしはダメなのよ」
「セレスは三枚目ってことでしょう?」デュレは素っ気なく言い放つと服に付いたほこりをぱんぱんと払った。「さて、ここは一体どこなのかしら?」
 デュレは先ほどの精神的な痛手から現金なまでに素早く立ち直り、周囲の観察を始めた。二百数十年の広大な記憶領域から目的の小さな欠けらのような記憶を見つけるのは容易ではない。ひたすら続く暗闇と、荒れる海は一体何を指しているんだろう。
「ね、デュレ? あれ、見えるかな」
 セレスはデュレの肩に手を置いて、振り返らせた。その先には一筋の光が見える。闇の精霊にとって暗闇に差し込む光とは敵のようなもの。別段、光の精霊が敵だとかつまらない話ではないのだが、この場に於いてそれが希望の光でないことは明白なのだ。
「……イヤな予感がしますね」
「やっぱり? あたしも何か、背中に悪寒が走るなって……」
「とりあえず、逃げておきますか?」
「あら、デュレがあたしに訊くなんて珍しいじゃない?」
「あなたの野生の勘は信じるに値しますから」
「あたしゃあ、獣ですかっ、全く」セレスは身体の正面で腕を組んだ。
 しかし、そう長く憤慨している暇はなかった。来た。気分的には“何だありゃ?”現実的には闇の魔獣。そいつが牙をむき、赤い瞳を爛々と輝かせながらデュレとセレスの様子を窺っていた。
「あれ、狙ってるよね? 絶対。ついでに、あれ、何?」
 セレスは声をひそめ、デュレと肩をくっつけてこそこそと話をした。小手先のことなど無意味そうだったが、それでもそうせずにはいられない。がるるとうなり声を上げ、二人を威嚇する。
「確証はありませんけど……。シルトの暗黒面、或いは、知られたくない過去。……或いは、自分の一番弱いところを守る番犬。でなければ――」
「あぁっ。もう、いいってばさ」とうとうセレスは止めた。
「何ですか? 自分から訊いておいて」ちょっぴり、機嫌が損なわれた。「ま。とりあえずはこの場所から撤収します。逃げ切るかどうかは判りませんけど、あれが気を逸らした隙にでも全力疾走であれの視界から消え失せましょう。とりあえず、あの光が差し込んでる方へ」
「りょ〜かい」
 セレスは快諾。詰まるところ、目指す目印となるものがそれしかないのだ。何かの罠にかかりに行くようなものかもしれないが、二人が散り散りになってしまったのではそれこそ、シルトの心理的防壁の思う壺になりかねない。
「今ですっ」
 デュレは小声でセレスの耳に言う。そして、一目散に逃げ出した。魔獣はちょっとの間、去りゆく二人の後ろ姿をキョトンと小首を傾げて見詰め、それから、急にピンと来たかのようにニヤリと不気味な微笑みを浮かべた。瞳を悪辣な光で満たし、咆哮をあげた。
「あああ、あれ、本気だよね? 絶対、本気だよね?」
「そんなことは考えたくもありません」デュレは冷たく答える。
 けど、魔獣はセレスたちを途中まで追い掛けたところで、追撃をぴたりとやめてしまった。二人はその気配に気付くことなく、走り続ける。
「へへ。楽しんでもらえるかな? ワタシ特性の闇のアトラクション。どう思う? シーザー」
 声の主は下を向いて、その足下でかしこまっている魔獣に話しかけた。
 一方、デュレとセレスは魔獣の追撃を振り切ると、どこかの町中に佇んでいた。夕暮れの迫る時刻。どこをどう走ってくると、こんなところに辿り着くかの理由は考えるだけ無駄そうだから、セレスはすでに考えることは放棄していた。けど、尋ねるのはまた別の話。
「一体全体何がどうなるとこうなるのよ」
「そんなことをわたしに訊いて判るわけがありません」
「だぁって、デュレがここに連れてきたんだから、デュレに訊くしかないじゃん」
 セレスが凄く当たり前のことを言ってのけるも、デュレには返す言葉がなかった。連れてきたと言っても、デュレはこの魔法の全てを知り尽くしているわけではない。まだ、ホンの覚えたてでこの間、初めてジーゼに試したばかりなのだ。だから、全ての挙動が予測不可能。その前に、シルトの行動と思考の中から何が生まれて、どうなるのかなんて、デュレの想像の範囲を超えている。
「……! セレス。左、左に曲がってください。シルトが」
 瞬間、シルトのような人影がデュレの目に映った。あれを掴まえられたら闇の中をひた駆けるよりも、ずっと建設的に、より効率的に目的を果たせるはずだとデュレは思った。このだだっ広い空間を水先案内人なしに探索するのはどうしようもなく非効率だ。

「……。あれぇ、あたしも見たんだけどなぁ?」
 セレスは立ち止まって、困ったかのように後頭部に左手を当てた。確かに見たはずだった。視界を遮蔽する物は何一つなくて、見通しがきく。なのに、曲がる瞬間まで見えていたはずの人影は影も形も、居たという痕跡すらも消え失せていた。
「……? 幻を見た?」
「共同幻視ですか? あり得ないことじゃないと思うけど、シルトがそこまで出来るとは……」
「ここってテレネンセスの町中だよね?」
 トトト。街角からシルトが現れて、反対側に消えていった。
「いたぁっ!」叫び声を上げて、セレスは指さした。「逃がすか、このっ」
 セレスは走り出す。
「ダメです、セレス。不用意に動いたら何が起きるか判りません」
 と言ったところで、聞くはずがないのはデュレには周知の事実。ここでセレスと別れ別れになるのはどうしても避けたいので、デュレは無鉄砲の代名詞、セレスの後ろ姿を追って走る。走る街路は人影はなし。どこか仄かな温かさを感じさせつつもゴーストタウンの佇まいをみせていた。
「はぁ、はぁ、シ、シルトは?」デュレは膝に手をつき、肩で息をする。
「見失った。……けど、行けそうな場所はこの扉の向こうだけなのよ」
 セレスは突き当たりにある木製の大きな扉を指し示した。
「――あっちには何が……?」
「さあ? けど、案ずるより産むが易し。行く他ないんだよね?」
 扉を開く。その向こうはセレスの大嫌いな暗闇。けど、今はそんなことは言っていられない。デュレの存在に力を借りて中に踏み入った。視界はないように思えてそれなりにある。どうやら、背景が黒いだけで、本来の闇ではないようだった。
 そして、二人が完全に扉の内側に入った瞬間、扉が勝手に閉まり消えてなくなった。
「げげっ! ウソでしょう?」
「まんまとはめられたようですね……」冷静沈着な声色でデュレが言う。
 ガルルル……。奥の方から聞こえてはいけないうなり声が二人の耳に届く。さらにちゃりちゃりと石畳を爪で引っ掻く背中に悪寒が走るような耳障りな音。プラス遠くに赤い眼。
「!」デュレとセレスは顔を見合わせた。
 ここで会ったが、百年目。さっきの魔獣と再び相見えた。魔獣は舌なめずり、デュレとセレスはまるでメデューサに睨まれたかのようにカチコチに固まった。気分は最悪。もう、完全にまいたものだと思いこんでいた。
「……デュレ? あれ、どうする?」セレスはそっと、デュレに耳打ちをした。
「シルトを追うにはどうあっても、避けて通れないみたいですけど……?」
「けど……。……あたしはヤだ。あんなの相手にしたくない」きっぱり。
「でも、やっつけないと、かなりしつこそうですよ、彼……」
「だろうねぇ。気は進まないけど、派手に一発かましてやりますか」
 セレスはまるでいつものように背後に手を伸ばし弓を取ろうとした手が空を切った。
「……? あれ? あれあれ? もしかして、あたし、忘れてきた?」
「仕方がないですね。ここはわたしが……って、あああっ?」
 デュレは突然、奇声を発した。これにはセレスもびっくりで、たじろいだ。
「どしたの? デュレ?」
「ここでは闇護符を使えないことを忘れていました。ついでに、魔法も……ダメだと……」
 デュレは顔面蒼白に立ちつくす。服のポケットというポケットをまさぐった結果の果てに思い出したのだ。物凄く重要なことだったのに、今の今まですっかり失念してしまっていた。ここにいる自分たちは実体ではない。いわば夢、思念体、ここでは自分の姿もイメージに過ぎない。だから、来る前に持っていたはずの闇護符を持っているはずもない。あれはデュレの意識とは別物で物理的に存在してる物だから、こちらには持って来れないのだ。もちろん、最初から持っていなかったが、持っていたとしたらセレスの弓も同じことになるはずだ。
「じゃ、あれはどうするのさ?」セレスはあれを指さした。
「体力勝負がダメなら、逃げるしかありません」
「マジ?」
「マジです」目を見詰めて真顔で答える。「走ってっ!」
「い、言われなくても走るって。あたしだってあんなんに喰われたくないもん」
「けど、食べられたからって死にはしないはずです」
「それでもヤだ。どうしてもってなら、デュ、デュレが喰われてみてよ。そしたら、考える」
「何言ってるんですか。体力担当はセレスなんだから、あなたが先に」
 などと、意味不明の議論を戦わせながら頼りのない暗闇を駆ける。
 バンッ!
「いったぁ!」
 セレスは悲鳴を上げ、右手で鼻っ柱をさする。透明な見えない何かにぶつかったらしい。
 デュレはセレスから遅れること数歩のところを走ってきたので、どうにか難を逃れた。デュレは涙目のセレスを横目に、その透明な壁をそっと撫でつつ切れ目を探す。が、簡単にも見付からないようなイヤな焦燥感のような気持ちがデュレを支配していく。セレスは両手でバシバシとそれを叩く。どうやら、見えない壁際に二人は追いつめられたらしい。
「……。追いつめられたようです……。壁際に沿って、行きましょう。早く、追いつかれます」
 と何時にない真剣な表情でセレスにいい、デュレは駆け出す。
「あっ! 抜け駆けはずるい」セレスはデュレに追いすがろうと駆ける。
 しかし、再び透明な壁に行く手を阻まれた。そもそも、辺りが暗すぎてその壁がクリアなのか、真っ黒なのかも判りはしない。表面はつるつるしていて、磨いた黒曜石かガラスのよう。デュレは表面に出っぱりや引っ込み、溝がないかと必死に探すが、徒労に終わりそうな予感がした。
「デュレ! 早く、はやく」セレスは急かしながら、デュレの服を背中から引っ張る。
「うるさい。気が散る」デュレはすっぱり斬り捨てて、服からセレスの手を振り払った。
「そ、そんなこと、言ってる場合じゃ……」
 セレスの目は追いすがり、目前で雄叫びを上げる魔獣に釘付けになっていた。耳まで裂けた大きな口をより大きく開けて、ヨダレをダラダラ。もはや、蛇に睨まれた蛙のごとくセレスにはそののど仏を引きつった表情で見詰める以外、何も出来ない。
「うわっ、食われるっ!」瞬間、目を閉じ、手で防御を試みる。
 バクンッ。大きく開いた口が閉じた。
「……?」セレスは恐る恐る目を開けた。「消えた……?」
「消えたじゃないよ、全く、もぉ」
 憤慨して、ついでに呆れ果ててそれ以上のことは言えないというような雰囲気を湛えた声色と、タタタと比較的速いペースの足音が届く。
「シ、シルト?」セレスは近づいてきた人影を指さして、口をぱくぱく。「ねぇ、デュレ。シルトだよ? シルトの中にシルトがいるよ?」デュレの袖を引っ張る。
「いても、おかしくないでしょ? 全部イメージなんですから、ここ。わたしもあなたも実体じゃなくて思念。いわば、イメージ。だったら、シルトの中にシルトがいても不思議はないでしょう」
「そ、そう?」何だか、ちんぷんかんぷんだけど、セレスは適当に相槌を打っておいた。
 そこへ、シルトがやってきて、二人の前へ来るとぴたりと静止した。そして。
「もお、勝手に来ないでよね。……来てもいいけど、どうなっても知らないよ?」
 シルトは腕を組んで、ジロッと二人を下から睨み付けた。
「うぅ、面目ないですぅ」と頭を下げたのはセレスで、デュレはケロッと澄まし顔。
「だったら、だったら人の手を煩わせないで自分で何とかしてください」
 刺々しい口調で言い返すと、今度はシルトが小さくなった。
「そうだね。けど、ワタシは正確には本人じゃないから、起きたら本人は覚えてないよ。ど〜せ、そんなもん」シルトは頭の後ろで手を組んで投げやりに言い放つ。
「ねぇ、キミはシルトなんでしょ? キミはキミじゃないの?」
「ワタシはワタシだけど、ワタシじゃないのよ」
「はぁ?」セレスはひどく訳の判らなさそうな顔をして、シルトを見た。
「はぁ? なんて言われても、コメントのしようがないんだけどなぁ。デュレ?」
「わたしにもコメントのしようがありませんね。と言いたいところだけど、少しは解説できますよ」
「あ……」刹那、シルトは上を向いた。「まずいなぁ、気付かれちゃったかも……」
「何に?」
「シーザーの飼い主。ま、ワタシは撤収するね。じゃ、二人に幸運があることを、バイバイ」
 と、言うが早いか、シルトはあっという間に姿を消した。
「ねぇ、何に気付かれて、どうまずいのよ?」さっぱり判らない。
 その次の瞬間、呑まれた。暗闇が反転して、白い闇に転じた。何も見えない。隣にいるはずのお互いの姿も霞んで微かに輪郭をとどめる程度の視界しかない。そこへ、遠くから近づいてくる足音が届く。狭い場所でもないはずなのに、異様に残響音が聞こえ、不気味さを倍増させていた。
「ワタシの中を引っかき回してるのはだぁれかしら? 許してあげないんだもん」
「な? 何? 誰か、何か、喋った?」
 所在を確認できない声にちょっとだけセレスは取り乱し、ばたばたと声の主を探った。しかし、主は見える場所には居ないか、そこを取り囲む全体から聞こえているようにも感じられた。
「――タイムリミットまで、あと十五分です。……多分。何としても、生き延びてください。そうでないと、厄介なことになりそうな気がします」デュレの声色が緊張に微かに震えていた。
「でも、キミはもし、伸されても大したことはないって」
「そう思ってました。けど、森の精霊と闇の精霊では、やはり何かが違うみたいです。根本的な部分で。ジーゼの時は守ってくれるような機運があったんですけど、今回はなさそうですね。この意味……判りますか?」デュレは正面から視線を外し、横目でセレスをちらっと見た。
「いえ、……いまいち、よく、判らないかと……」
「わたしたちは今、魔法で自分の意識をシルトの中に飛ばしています。これは予測の域を出ないんですけど、ここで倒れたら、二百数十年の記憶の奔流に呑まれてしまいます」
「じゃ、向こうにいるあたしたちはどうなるんよ?」
 冷や汗を感じながらセレスはデュレに問う。対し、デュレはニヤリと少々悲愴な笑みを浮かべた。
「知りたいですか?」デュレの言葉にセレスはゴクリと唾を呑み頷いた。「一言で言えば、心のない抜け殻に、エルフの身体を持った人形、廃人になれますよ。ま、それも他人が見たらの話で、わたしたちには関係ないとも言えるし、関係あるとも言えますね」
「だから、小難しく言うな。判らないんだからっ!」
「ようはわたしたちは霧散するように消えちゃって、何もない身体だけが残るんですよ」
「うひっ? そ、そんなのイヤだ。迷夢にどんな悪戯をされることやら」
 セレスは両手で両肩を持って、自分自身を抱きしめた。
「それがヤなら、やられないでください」
「って、キミたちはこんなところで、何やってるのだ?」
 不意に何かが喋った。声の聞こえた方に振り返ると見覚えのある姿がゆっくり歩いてくる。
「……。デュレ。あれは何?」セレスは訝しがって、デュレに尋ねた。
「シルトでしょうね。フツーに」事も無げにデュレは答える。
「……あれが気付かれたらまずい奴なの? あたしにはさっきのもこっちのも同じに見える」
「だから、見た目に騙されたらダメなんです。あの姿はいわば仮の姿で、本当の姿そのものを表してるワケじゃないんです」
「あはっ♪ ワタシの中で悪さするなんていい度胸してるね」
 シルトは不審極まりないほどに可愛い笑顔を浮かべ、二人を見詰める。
「かなり、不吉ですね」デュレは可能な限りシルトから目を離さないようにして、セレスに耳打ちした。「感じ的に……、さっきのシルトは理性、魔獣は闇の精霊としての暗黒面、この娘は」
「この娘は……?」セレスはデュレの肩に身をもたせかける。
「無邪気な子供。つまりは童心です。感情的で、理性のブレーキがないから暴発したら止めようがありません。セレス、伏せっ」デュレはセレスの頭を押さえて、しゃがんだ。
 すると、しゃがんだ瞬間、さっきまで頭のあった位置を何かが飛んでいった。刃が煌めくブーメラン。二人の首を刈るつもりだったらしい。しかも、飛んでいったきり帰ってこない。
「ちぇっ」シルトは舌打ち。「残念」
「残念って、幾ら何でもそりゃないんじゃない?」
「何でもありなんですよ! ここではシルトが神さまなんだから、物理法則だって無視しまくりです。シルトのやりたい放題で、わたしたちなんか荒波に浮かぶ小舟と一緒です」
「為す術なしってことかい、そりゃ?」
「そうとも言えますね」
「そんなこと、軽く答えるなっ!」セレスはつい、デュレに詰め寄った。
「さて、今のうちかなぁ?」瞳がキラリ、そして、にやり。「喰らえっ! 落とし穴っ」
 刹那、地面(のようなもの)があった場所に丸い穴がぽかんと開いた。
「うわっ」「きゃっ」セレスとデュレの悲鳴が重なる。
「もお、二度と、悪さしに来ないでねぇ……」穴の上から覗き込んで、シルトが言った。
「なぁんだと、このぉ! キミこそ、悪さをするなっ!」余韻を残しつつ、自由落下。
 ざっぱ〜ん! 大きな水音と水飛沫を上げて、二人は果てすら見えない海のようなところに落っこちた。何がどうなってるのか、すでに訳が判らない。どこにいれば安全と言うことはないようで、ここの空間はブロックパズルのようにどこへでも移動可能で、しかも、接合可能らしい。
「ぷぁっ! いやっ、た、助けて。わたし、泳げないんですっ」
 水面から顔を出したデュレは必死の形相。手足をばたつかせるものの長く浮いていられない。近くにいるはずのセレスに掴まりたいけど、肝心のセレスは溺れそうなデュレに正面切って掴まれては一緒に沈みかねないと離れて、デュレの背後に回っていた。
「ほら、大人しくしてよ」そう言い、セレスは後ろから近づいて、デュレの首に腕をかけた。「あたしがいるから大丈夫。身体の力を抜いて……。大丈夫、沈まないよ。あたしがついてる」
「だから、海はイヤだって……」デュレは涙ながらにセレスに訴えた。
「なるほどね。引き込まれそうで怖いんじゃなくて、泳げないから怖いのね。最初っから、そう言えばいいのに。……そりゃ、海に行っても砂浜で波打ち際を眺めてるだけになるってさ」
「そ、そんなこと、恥ずかしくて言えるわけがありません」
「けど、もう、ばれちゃったし」セレスはニヒヒと笑った。「ま、別にデュレにこんな大きな苦手があったなんて新鮮で、逆にちょっと安心しちゃったな。……しかし、いつまでも、立ち泳ぎって訳にもいかないしなぁ。何か、ないかな?」
 ジリリリリ……。遠くで何かが鳴っている。
 ドクン。心臓が胸の奥で大きく脈打つのを感じ、パッと目を開くと、シルトの部屋にデュレとセレスは立っていた。ちょうど、出発した時と同じ格好で、二人は手を握っていた。まるで、時間は経過していないかのように感じらえたが、セレスに蹴飛ばされて半分いかれた目覚まし時計は出発した時よりきっかり一時間後をさしていた。
「帰ってきた? 間違いない? ここは現実?」
「……」
 デュレはコメントなし。しかし、セレスがあまりに矢継ぎ早に問いただしてくるので、デュレはセレスの頬を思い切りつねった。説明したところで、それが本当かなんて判るわけもないので、夢から覚めた時の確認の慣例に乗っ取って、つねってやったのだ。
「――この場合、無意味なんですけどね……」セレスのために注釈も忘れない。
「けど、デュレがそこまでするってことは一応戻って来れたってことだよね? ……ひぃ〜〜。散々だったよ〜。もう、絶対、シルトの頭の中を見たいなんて思わない」
「……わたしも同感です」
 デュレとセレスは背中合わせのまま一緒に床まで崩れ落ちた。
「で、何か収穫はあった?」
「いいえ、何もありませんでしたね。唯一、判ったのは……いらないちょっかいを出さない方が身のためだってことでしょうか?」
「それだけか……。つまり、結局、骨折り損のくたびれもうけと言うことか……」
「結局、そういうことになりますね……。……ふぅ」
 デュレは大きなため息をついて、セレスの背中に身をもたせかけた。
「コラ、重いぞ、デュレ」
「――たまにはいいでしょ。いつも、やられてるのはわたしなんだから」
「ま、そゆことにしといてあげるわ。あ〜ぁ」
「――? 誰? ワタシの部屋でため息をついてるのは?」
 眠りが浅くなっていたのか、クークーと静かで、穏やかな寝息を立てていたシルトが目を覚ましたようだった。眠そうに目をこすって、声をした方を向くと――。
「あれ? 二人ともどしたの? こんなところで……? 床に座ったまま寝てたら風邪引くよ」
「あ〜ん?」セレスは面倒くさそうにシルトがちょんと座るベッドに目を向けた。「キミに指摘されるまでもなく判ってるよ、そんなこと。――じゃ、あたしは寝るわ。明日は頑張らないとね。デュレは、ま、報告書、頑張って仕上げてちょうだいよ」
 セレスは疲れ切った様子でよろよろと立ち上がると手をヒラヒラと振ってドアに向かう。
「……わたしも部屋に戻ります。シルト、タオルケット、きちんとかけて寝るんですよ」
「はぁ〜い。けど、二人とも何してたの? ワタシの部屋で?」
 シルトはキョトとした表情で小首を傾げた。この勝負、無意識のうちにシルトの勝ち。

文:篠原くれん 挿絵:晴嵐改