12の精霊核

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20. angelic embrace(天使の抱擁)

 信じられなかった。こんなにあっけない幕切れがあっていいはずがなかった。地の果てまでも逃げて生き延びてやる。そう言って、にこやかな笑みを浮かべたサムを思い出す。
「ウソつき……。――ウソつきは嫌いなんだ……ぞ」
 淋しさの風が久須那の胸にあいた隙間を吹き抜けた。
「お涙ちょうだいはそこまでにしてもらおうかな、久須那」
 久須那とサムの別離を邪魔するかのようにジングリッドが言った。
「そのフワフワと浮いている白いモノをわたしによこせ」
 瞬間、久須那は思いも寄らないジングリッドの言葉に驚いた。下ばかりを見ていて気がつかなかった。視線を上げると久須那にまとわりつくように淡い白さを放つ光の玉が浮かんでいた。光の玉は久須那のそばから離れたくない様子で、その周りを緊張感ゼロでフヨフヨと漂っていた。
「ウィル・オ・ザ・ウィスプ?」
「何だ、よく知っているじゃないか。鬼火とも光の精霊とも言うが、……未練のあまりに天に昇れなかった哀れな魂――。よこせ、久須那!」
「いやだ」久須那はそれを窒息させそうなくらいギュウっと抱き締めて、ジングリッドを睨んだ。
 でも、久須那は判っていた。それはサムじゃない。サムの記憶を奥底に閉じこめた他のもの。久須那に懐いて離れなくて、他へ行こうとしないのは微かな記憶の残像に久須那が映っていたから。
「――」ジングリッドは髪をさっと掻き上げて大きなため息をついた。「出来の悪い娘を持つと苦労するものだな。うん? 久須那。お前はわたしの言いなりになっておればいい!」
「断るっ!」
「フン。ならば、玲於那のように塵と消えるか?」
 ジングリッドの不敵な脅迫。だけど、久須那はそれが脅迫にすらなっていないことを知っていた。ジングリッドが「消去」の魔法を発動させると久須那と座標の重なる光の玉まで消してしまうことになる。
「……! ジングリッド! お前はいつだってわたしから大切なものを奪ってゆく。消えろ! お前が消えろ。お前の存在、わたしが許さない!」
(ちっ! やはり、知っていたのか)ジングリッドは次にははったりが聞かないことを悟った。
「許されなくてもわたしはここにいる。いることが全てだ。久須那にわたしは倒せまい?」
「わ、判るもんか。まだ、終わってない」
 久須那は光の玉を無理やりポーチに押し込んで、ギリギリと弓を引いた。何故だか、手が震えた。さっきまでのジングリッドではないような気もしてきた。けど、彼はある意味、久須那の『師』だった。もちろん、いいことばかりではなかったが、久須那が十二天使に収まり、高みの見物を出来たのもジングリッドのおかげと言えないこともなかった。
「恩を仇で返すのだな? このバカ娘が!」
「わたしはバカじゃない! お前は絶対に倒す!」
「それがバカだというのだ。その“鍵”をよこせば帰れるのだぞ。扉は開かれるのだ。――どのみち精霊核が崩壊したらリテールは灰燼となる。そのエネルギーを有意義に使うのだ。何が悪い?」
「渡さない! これはお前に何か渡せない」
「ならば、奪い取るまでだ!」
 ジングリッドが久須那に迫る。剣を振りかざして鬼気迫る表情のジングリッドが。怖さのあまりに手元が狂って久須那は矢を射そうになった。射てしまったら、きっとジングリッドは逆上するに違いない。そうなったら、街一つ痕跡すら残さず抹消するまで止まらない。
 が、感情に身を任せて動くジングリッドなら、もしかしたら。
『久須那。てめぇにはまだやることが残ってるんだよ!』
 サムの言葉を思い出して、久須那は踏みとどまった。手傷を負った今のジングリッドならあわよくば倒せるかもしれない。瞬間、そんな淡い期待を抱いたのも確かなこと。けれど、確証でなければサムのいない今となっては危険すぎる橋は渡れない。弓引き、ジングリッドに破れてしまったら、せっかくのサムの思いが無駄になってしまう。
「くっ!」久須那は唇を噛みしめて、弓を降ろした。
 戦うのは今じゃない。けど、今じゃなくたって勝機への一条の光すら見えない。味方を付けないと一人じゃ勝てない。勝つことが全てじゃないけれど、そうしないと終われない。
(どうしたらいい、どうしたらいい?)
 いっそのこと泣き出して、全てを投げ出せたらどんなに楽になれるかと久須那は思った。うつむいて、握り拳を作って、先が見ない。
「逃げるのか? 久須那」
 悪辣な笑みを浮かべたジングリッドの顔が久須那の頭の中をよぎった。心臓がギュッと締め付けられるようないやな気持ち。ショック? サムの心を抱き締めて駆け出そうとした久須那の足が止まった。
「……」ジングリッドの蔑みの目線。「戦いもせずに逃げるのか?」
 久須那はジングリッドの目を見詰めたまま後ずさりをした。再び、自問自答の葛藤が始まる。
「――どうしても逃げるというのなら、逃げられないようにするまでだ!」
 ジングリッドの瞳が怪しく煌めく。ジングリッドは優秀な炎の使い手だということを失念していた。久須那にジングリッドの放った炎が炸裂した。眼前の空からわっと炎が湧き上がり、あっという間に久須那を包み込んだ。
「うわぁぁぁあぁ!」
 あの時のサムの悪戯の比じゃなかった。ジングリッドの炎は簡単には消えなかった。悪戯ではなくて、本気で燃えてしまえとジングリッドの意志を持った炎。が、久須那とてこれしきのことで屈するほど柔ではなかった。水の魔法。あまり得意ではなかったけれど、狭域なら。と、久須那が実行する前に頭の上から滝のように水が落ちてきた。
「……?」
 気がつけば久須那はぬれねずみ。何がどうなったのか、さっぱり呑み込めなかった。
「フン……。森も……味方に付けたのか」気に入らなさそうなしかめっ面だった。
(森がわたしを――?)
 森が久須那を助けてくれるなんてあり得ないはずの展開だった。でも、静かに森を感じてみるとジングリッドに向けられた空気と久須那を包んでいるそれは違っていた。
「ま、それはそれで構わん。久須那、それを渡せ。――さもなくば、瞬時にお前を消し炭にすることも出来るのだぞ」
 久須那は厳しい視線でジングリッドを睨みながら、後ずさりしていた。さっきの炎で翼を焼かれてしばらく飛べそうにもない。何か、術はないのか。ジングリッドの目を欺き、この場から逃げ出す方法は。悔しさ。狡猾な笑みを浮かべて歩み寄るジングリッドに為す術のない自分への不甲斐なさ。いつしか久須那の目尻にたまった一雫の涙が全てを物語っていた。
「渡せ。……渡せば――終わる」
「終わってたまるかぁ。ジングリッド」
 まだ、始まったばかりなのに。ジーゼの森も、シェイラルの、自分の協会も取り戻せていないというのに、終わらせたくない。このままでは死んだサムにあわせる顔がない。
「――姿を消しても無意味だ」
 スゥッと周囲に溶け込もうとする久須那を見咎めてジングリッドは言う。今じゃない。今じゃないなら、その時が来るまで逃げるしかない。久須那にしては珍しく短絡的な考えだった。けれど、この今を逃げ切れなかったらその先もないから仕方がない。
「……お前にわたしは捜せない」厳しい視線はいつしか決意の煌めきへと変わっていた。
「何故?」
「何故、だと思う?」と言ったとき、ジングリッドを睨んだ久須那の瞳は完全に虚空に消えた。
「ちっ! 厄介だな……。久須那の透明化能力を忘れていたぜ――」
 だけど、それほど慌てている様子はなかった。久須那の微かな気配は残っている。透明化は本当に透明になるのではなく、他人に自分の気配を感じ取れなくさせる魔法。その高度な使い手は完全に姿を消す。久須那は……?
 森を吹き抜ける緑の風が久須那の気配をかき消していた。ジングリッドがいくら神経を研ぎ澄ませても、感じ取れたのは森の囁き声だけ。
(ふん……。久須那も多少は成長しかのか)
 ジングリッドはちょっとだけ嬉しそうに微笑んだ。が、それはそれ。これはこれの別問題だ。少し緩んでしまった顔を引き締めた。
「精霊核の崩壊はまもなく始まる――。手遅れだ、久須那。諦めて出てこい。お前の望みはもう叶わぬのだよ。ならば、少しはそのエネルギーを有意義に使おうとは思わぬのか?」
 ジングリッドの高らかな怒声が焼けただれた森に響いた。
(まだ、終わってない。諦めるもんか。諦めの悪さは……サムに習ったんだ)
「まあ、いい。そう……もっとも古い精霊核が完全に崩壊し、連鎖反応が始まるまでには、……最低あと二日。それまで待ってやってもいいぞ。どのみち、お前はわたしの前に姿を現す。だが、もう、止められんぞ。――精霊使いでもいるなら好転するかもしれんがね」
 絶対的な自信の成せる技なのか、ジングリッドは傷ついた森に久須那を残して飛び立った。
「せいぜい、残り少ない自由な日々を楽しんでおけ」
 とわずかな時間ジングリッドが滞空している間に、テレネンセスの方角から天使兵団が合流してきた。来るときとは変わってしまった森の姿を何の感情も交えずに見下ろしさえしない天使たち。無機的な光景。かつての自分も地を這うことを余儀なくされた者たちからそう見られていたのに違いない。悪魔よりも悪魔的。ようやくその意味が認識できる。
 そして、天使兵団が帰投したことが示すのはテレネンセスが陥落したと言うこと。シェイラルがいかに頑張っていたとしても、生き残った人たちは数えるほどしかいないに違いなかった。
「テレネンセスはどうなった」
「は、予定通りに刃向かうものはみな処刑いたしました。ですが……」
「……」侮蔑の眼差しが向いていた。「シェイラルは逃がしたか」
「申し訳ありません」天使の一人がジングリッドに深々と頭を下げた。
「に・が・し・た・か……。あの男だけは捕らえたかったのだが、後々、面倒くさいことにならなければいいが……。ふむ、どちらにしても貴様は指揮官失格だな。覚悟しておけ」
 それら全ての会話が久須那の耳まで届いていた。かつて仲間だった天使がまた拷問部屋に送られていく。久須那は身震いした。自分も捕まったら百パーセントそうなるに違いない。幾度となく見た凶夢が現実のものになるかもしれない不吉な予感。
 そして、エルフの森上空にたむろしていた天使の集団はシメオン方向に消えた。
 すると、森の空気が柔らいで、さわさわと暖かい風が吹き出した。他の天使たちと比べて久須那はホンのプラスα程度のものかもしれないけれど、好意で迎えられたことを感じていた。
(……司祭さまは生きているかもしれない。でも)
 茂みからでてきて、為す術もなく佇んだ久須那の瞳に映ったのはフォレストグリーンのクリスタル。久須那の身の丈のゆうに二倍はあるそれは傷すら付くことなく、まるでいつものように浮かんでいた。まだ、会ったことも見たこともない精霊の精霊核に先に出会うなんて。幾多の精霊核を奪ってきた久須那でさえ、こんなパターンは初めてだった。心を許してくれたのかな?
(精霊核……。ジーゼ。教えてくれ。わたしはこれからどうしたらいい?)
 精霊核が答えてくれるはずもなかった。けれど、問わずにはいられない。久須那の味方は今のところ、緑色に透き通って輝くジーゼの精霊核しかなかったのだから。
(あなたは守れた。……でも、このままでは本当に束の間の夢になってしまう)
『……待ってて……。――ここではないどこかで……』
「……?」不安げに久須那はキョトキョトと当たりを見回した。「?」
『こっちだよ』
 声のする方向を向いてみても緑色の精霊核がフワフワしているだけ。精霊核に意志があるとは一度も聞いたことがない。もちろん、喋ったり、テレパスだったりするはずはないはず。だけど、風にざわめく木々が喋らないとしたら、話しかけてきたのは精霊核という可能性がグンと伸びる。
「誰……?」
 それから、答えてくれるものはなくて、代わりに精霊核が淡く輝いた。
 初めて、この森を訪れたとき、久須那はこの森の敵だった。久須那が空を飛んだとき、森の空気は緊張感に張りつめて、明らかに久須那を嫌っていた。なのに今は、暖かく包み込んでくれる。素直には喜べなかった。自分がここに来なければサムはまだ生きているはずだった。
「ここではないどこかで……」久須那は呟く。「……でも、どこに行こう」
 と、突然、ウエストポーチが激しく揺れだした。ふたを開けると光の玉がポンと久須那の目の前に飛び出してきて、「狭くて苦しかったんだ!」と言わんばかりの物言わぬ主張を始めた。久須那は唖然としてその可愛げで不思議な物体の様子を眺めてしまった。
 すると、ぷんぷん怒ったふうに久須那の周りをふわふわくるくる回りだした。
「な? な?」あったこともない状況にちょっとだけ困ってしまった。
「言いたいことは判るんだけど……。目立つからポーチに入ってろ!」
 伸び上がって驚いて逃げだそうとしたところを引っ捕まえてまたもやポーチに押し入れた。それから、それはしばらくの間ジタバタしていたけれど、ついには諦めたのか大人しくなってしまった。そして、久須那は大きなため息を一つ。
(本当にどうしよう――)憂えた顔で久須那は空を見上げた。
『北へ……』何者かがまた久須那に話しかけた。
「北へ? どうして?」辺りを見回してももう返事はなかった。白昼夢。風にザワザワと木々の揺れるお喋り以外にはしんとしていて耳に届く音はなかった。
『……森の北で……会おうよ……』
 その声はそよ風にさえかき消されて、久須那に届くことはなかった。
(でも、北に何があった? 北西に行けば……確か、キャロッティ)
 久須那は精霊核を振り返った。けど、そこにはもう何もなくて、草木がさわさわ戦いでいた。
「北へ……。か……。いってみようか、サム。も、それしか選択は残ってないよ……」
 森のざわめきにかき消された言葉が信用に足るかは判らなかった。でも、久須那が信じられるものはもう何一つ残っていなかったのもホントのこと。だったら、一縷の望みを「曖昧さ」に賭けてみるのも悪くない。北へ。西方向にシメオン。南東方向にテレネンセスがあることを頭に入れて、天使兵団の襲撃経路を考えたら、身を隠すにはまぁ妥当な線だ。
 久須那は歩き出した。

(また、わたしだけがおめおめと生き残ってしまいましたか……。わたしの死に場所はここじゃないのですね。玲於那。……では、エルフの森へ赴けと言うことですか? ……崩壊しかけた精霊核を封じるのがわたしの最後の仕事。――玲於那、せめてあなたがいてくれれば……)