12の精霊核

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19. no remain in history (歴史にない歴史)

 どうしてこんな事になったのか、セレスには判らなかった。たった一週間前までは面白くもない遺跡の発掘をしていて、それも発見がなければ二週間以内に引き上げるはずだった。なのに。自分は荒れ果てた街を真新しい瓦礫に足を取られながら走っていた。
 ウィズと出会ったあの風化した遺跡ではない。家々から火と煙が吹き上がり、ものの焼けるにおいが鼻につく。セレスが駆け抜けていくと必ずと言っていいほどうめき声が聞こえていた。
「どうして……。あたしたちの……せい……?」
 バッシュの向かった先にセレスも走った。
 いわれのない襲撃。歴史にない歴史の始まり。もう、帰る場所はないかもしれない。セレスはどうにもならない焦燥感を味わっていた。

「……敵に言う言葉ではないか? お前は……敵だったのか? レイヴン」
 出来うる限りの強がりを見せる。百戦錬磨のレイアといっても、天使が相手では分が悪いどころでは済まされない。ご機嫌次第ではそのまま黄泉の国までということもあり得るのだ。
「さあてね」レイヴンは意味深な笑みを浮かべた。「が、久須那を目覚めさせようと言うなら敵……かな。しかし、敵か味方かなどと、つまらない区分はしないでもらいたいね。二元論は時に真実を見落とす……」
「そうか? この場合、中間などあり得ないと思うが――」
「レイアさん。この方と知り合いなんですか?」
 デュレは会話を遮るようにレイアに問うた。アルケミスタをほんの数撃で壊滅させた黒い翼の天使と何故面識があるのか、気になって仕方がない。
「……知り合いではないな。顔と名前を知っているだけだ」
「そうだな。俺もレイアの名を知ってるだけだ。闇の使い手ナンバーワンと言えばお前のことだ」
 互いに瞳を見つめ合ったまま動きを見せなかった。あからさまな敵意はない。けれど、一触即発なのは確実だった。レイアはデュレとシェラを要らぬ戦いに巻き込みたくないのだ。
「……お前は?」レイアは質問をレイヴンに返した。
「黒炎のレイヴンと言いたいところだが……」
「マリスの方が上か?」
 と言って、二人は笑いあった。それは心からの笑いなどではなく、乾ききった笑い。駆け引きと言っても過言ではない。互いに何かを聞き出そうと、心理戦を展開しているようだった。
「まあ、どっちでもいいけどな」レイヴンは目を閉じ、鼻で笑った。「お遊びはおしまいだ」
 そして、まだ朗らかだった目つきが豹変した。その瞬間、レイアに緊張の色が見て取れる。
「デュレ! シェラさんを連れて撤退しろ」振り返って怒鳴る。
「撤退ってどこへ!」デュレも期せずに怒鳴り返していた。
「どこでもいいから早く。ここじゃなければどこだっていい」
 レイアが明確な指示を出せないところから察するに、事態は相当まずいのだろう。天使を相手にするのだから、それはそうかもしれない。けど、どこに逃げても結果は見えているとデュレは思う。幾らフォワードスペルの闇護符を預けたとはいえ、セレスとバッシュを放ってシメオンには帰れない。そう考えた瞬間、デュレは大事なことを忘れているのに気が付いた。
「ねぇ! リボンちゃんは!」
「!」刹那、レイアは見晴らしの良くなった礼拝堂の辺りを見回した。
 いない。教会が瓦解してから、いや、それ以前から姿を見ていない。リボンに限って万一ということもないだろうけど、急に不安になったのは否めなかった。
「シリアはいい。行けっ! あいつはあいつでなんとかするだろう」
「自分は犠牲になっても小娘と老婆は助けようとか?」
「生憎、わたしはそんなに美しくはないぞ」口元をニヤリと歪め、負けじと減らず口をたたく。
 デュレは二の足を踏んだ。決心が付かずに足が出ない。ここでの決断は最後まで尾を引くのに違いなかった。間違ったら取り返しがつかない。
「何をぐずぐずしている。わたしに構うな!」
「――いやです」デュレはきっぱりと言い放った。
 逃げたら後悔する。例え、シェラを守る大義名分があるとしても、レイアを置いていったら、当分自分を許せそうにもない。
「シェラさんはどうする?」
「――老婆に手を出すほど下衆じゃない。安心しろ」
 信用すべきか、否か。少なくとも、レイアの知る限りレイヴンは紳士だった。
「お前たちが俺を楽しませてくれたらね」レイヴンは嘲りともとれる冷ややかな笑みを浮かべた。
 刹那、微睡んだ奇妙な違和感をもった空気が吹き飛んだ。
 レイヴンが動いた。冷笑を浮かべ、右腕を身体正面に突き出す。そして、まるでレイアの準備が整うのを待つかのようにその瞳を見澄ました。
「……どういうつもりだ?」レイアは険しく言い放った。
「別に、お察しの通りだ」表情を全く崩さない。
「こんな事をしておいて、まだ、そんなことを言うつもりなのですかっ?」
「必要であれば、手段を選ばない。それが戦いだろう?」
「……これは戦い……?」デュレは肩を振るわせて、問うた。「関係のない人たちを巻き込んで、どうして、そんなに平気で、そんなにまでして何かを得る意味なんてあるのですか?」
 レイヴンは心外だと言わんばかりに眉間にしわを寄せた。
「――小娘に教える道理はないな。どうしても知りたければ最後まで生き残れ」
 悪魔の微笑み。レイヴンの微笑を見て、デュレは背中に寒気を感じた。人を殺したい。そんな狂った欲望は感じられない。けど、レイヴンは自分の目的を実現するには何事も厭わないことをはっきりと感じ取った。そして、デュレは言った。
「……あなたの目的はアルタとは違う……の?」デュレは訝しげにレイヴンを睨む。
「さあどうかな?」
 レイヴンは大きな深呼吸をすると、悪辣に微笑んだ。
「天空に住まう光の意志よ。我が右腕に宿り、全てを滅する破壊のパワーを体現せよ」
「デュレ! 下がれ! 下がって――」
 レイアはデュレを突き飛ばした。“あれ”だ。光弾を至近距離で喰らっては死を通り越して、跡形もなく蒸発させられてしまう。レイアもそんな物騒な代物を遮断する結界を広範囲に展開出来るほどの魔力はない。そして、あとを考えると必要最小限度で防ぎ切れなければ、次がない。
「深遠なる闇の支配者・シルト。闇の使者、レイアの思いを聞き届けよ。光の魔力を還元し、純粋なる汚れなき精神の営みに帰結させよ」
「ターゲット」レイヴンの眼が不敵に煌めいた。
「――我らを悪しき精霊使いより守護する結界を求む」
 瞬間、レイアは偶然なのか必然なのか、壁に立てかけてあった剣が倒れ、瓦礫の中からきらめきを放っているのを確認した。それがあれば、無力化の触媒に利用出来る。
 レイアはレイヴンの呪文の詠唱が終わらぬうちに剣に飛びついた。そして、崩れた石の中から剣を引きずり出し、あらん限りの力で床に突き立てた。これを頂点として二等辺三角形に結界を張る。吸収、反射しきれない魔力を左右に分断し、後方に逃がす。刃物はそれをより鋭利に、あるいは避雷針的な役割を果たさせるために用いるのだ。
 しかし、数メートルの極近距離の破壊魔法を防ぎきれるかと言えば、それこそ未知数だった。
「……特化結界っ。デュレ!」
 デュレはレイアの意図を心得て、レイアを中心にレイヴンとは軸の反対側に入った。
「光弾」レイヴンは静かに実行の合図を唱える。
 同時に、白い光の弾丸がレイアを目がけた。レイヴンはレイアの張った結界を避けることなく、真正面からはなった。散らばる瓦礫を巻き上げ、なぎ払っていく。レイアは弾丸の中央に刃を定めた。僅かにでも中央からそれると、エネルギーの不均衡により結界の左右バランスが崩れ、崩壊に至る。それだけ、レイヴンの魔力の高さが伺える。
 そして……。
「くうっ!」
 光弾が刃に触れた瞬間、吹き飛ばされるような衝撃がレイアを襲った。空気が激しく振動する。白い光の弾道が滑らかな結界表面にはじかれて、後方に受け流された。後ろを見やれば、その破壊力の凄まじさを感じられる。瓦礫はさらに粉砕され、砂のように風に舞っていた。
「……いつまで、そのままでいるつもりなのかな?」余裕の笑みに顔をほころばせる。
 レイヴンは光弾を“弾丸”として射出するのではなく、連続的に放出し続けた。
 確かに、そうなのだ。これだけのエネルギー放射を受けては十数分と持たない。絶えずパワーを供給していかなければ、結界と光弾の摩擦面から魔力が奪われ、やがて擦り切れるようになくなってしまう。
 レイヴンとて無限に光弾を出し続けられるはずもないが、魔力のポテンシャルからするとレイアが先に息切れするのは目に見えていた。守勢から攻勢に転じるためには切っ掛けが必要だ。レイアは思いを巡らせた。
「……デュレっ!」敢えてそれ以上は言わない。
 レイヴンもレイアが結界に注力している限り、攻撃はデュレからしかあり得ないと心得ていた。
「はいっ」
 けど、魔法で攻撃するためにはレイアの作った結界を内側から破らなければならない。ここに、セレスかバッシュがいたら弓を使ってレイヴンを揺することも出来たが、無い物ねだりをしても意味をなさない。デュレは瞬時に考えを切り替えた。何かあるはず。結界も完全ではないから、攻撃する抜け穴はあるはず。
「――二等辺三角形の特化結界――。底辺が手薄……」
 デュレは思いついた。光と闇なら磁石のように反発するが、闇ならば結界に干渉しすぎることなく上手く越えられるかもしれない。とすると、問題は方向をどうやってレイヴンに定めるかのみ。
「――! シェラさん、ミラーフレームを二基、そことあそこに……」
「出せますよ」シェラは瞬間的にデュレの意図を解した。
「お願いします。わたしは――ツインスペルで行きます。正式に――」
 それをやって時間が足りるのか、判然としないところもあった。闇護符を使えば、以前、セレスがやったような悪戯程度のツインスペルは出来上がるが、攻撃力は果てしなく疑わしい。だから、正式に呪文を唱えるしかない。時間が惜しいこの時こそ、手間を惜しむべきではない。
 デュレは心を落ち着かせるために目を閉じ、深呼吸をした。
「深遠なる闇の支配者・シルト。我は闇の使い手、デュム・レ・ドゥーア。闇は邪にあらず、追憶の彼方に住まう孤独の思考。我が呼び声に応えよ」
 デュレの黒い瞳が深紅の煌めきに取って代わる。
「闇の真髄、内に秘めた燃えさかる漆黒の情熱を示せ」
 デュレは実行の合図でもある魔法の名称を言わずに詠唱を中断した。そして、シェラがミラーフレームのスタンバイにかかる。
「闇の支配者・シェラの名により命ずる。微睡みの闇に住まう小さき闇の使い魔たちよ。我が命に従い、古に封じられし禁断の法力を蘇らせたまえ。デュム・レ・ドゥーアの魔力の波動に特化し、その魔力を増幅反射する器を現せ! ミラーフレーム」
 すると、シェラの指し示した空間に二メートル強の黒い亀裂が入り、それを軸にして回転する要領で巨大な漆黒の鏡が姿を現した。
「ダークフレイム」一呼吸、置いて。「フライングスペル・アクセラレーションっ」
 デュレの放ったダークフレイムはフライングスペルの加速をうけて、スピードを増す。さらに、ミラーフレーム二基によるクッションを通じて、狙いをレイヴンに向けた。加速させ、増幅しているが、それでも隙を作るだけで精一杯かもしれない。
 レイヴンも神経の大半を攻勢に回しているものの、デュレやシェラの動きを全く無視しているのではない。呪文が発動し、ダークフレームが〇コンマ何秒かの世界で駆け抜けるのをレイヴンは横目で見て、嘲った。右手はそのまま、左手でシールドを張ろうとしたその刹那。
「行けっ!」
 デュレは叫んだ。
「何?」
 ダークフレイムがホップし、シールドを張ろうとしたレイヴンの胸元に飛び込んだ。
「やった?」
 レイヴンの姿がダークフレイムに飲まれて、攻撃が途切れた瞬間、レイアは剣を引き抜き斬りかかった。チャンスは一度きり。どんな時でもそう思って行動しなければならない。特に自分よりも力量の上手のものを相手にする時は気を抜けない。
「たあぁああぁっ!」
 しかし、レイヴンはあっという間に体勢を整え、表情一つ崩していない。レイアが剣を振りかざし迫っても、それが当たり前のことであるかのように動じなかった。が、次にレイヴンは何事か極短い言葉を呟くと、空中に黒っぽい靄のようなものが湧き上がった。やがて、それは剣の形状になると固まった。ノックスの剣。イグニスの剣に対して俗にそう呼ばれることが多い。黒い炎を刀身にまとうその剣はまさに闇と呼ぶに相応しい。
 ギリリィリ。二つの剣が交錯し、激しい火花を散らす。
「今のはなかなか良かったぞ」
「そうか? 嬉しいな」
 二人でニヤついていれば不穏なことこの上ない。
「剣ならば、互角と思ったのか?」蔑みとも嘲りとも思える声色だった。
「少しはな」険しい眼差しをレイヴンに送り、さらに剣をレイヴンに押しつける。「天使の精神、肉体が幾ら強靱だといっても、魔力とは性格が異だからな。完全互角のつもりはないが……、甘く見られているようで心外だな?」
 レイアはレイヴンの剣を押し返し、飛び去って間合いを広げた。闇の使い手にして剣の達人。レイヴンも不用意には剣を振るえない。レイアとレイヴンは互いの瞳を見詰め、次のチャンスをうかがった。が、一対一である限り、レイアが不利なのは変わりない。
 黒い魔力をまとうレイヴンの剣はいわば魔法剣。それが触れるものは全て灰になる。
 レイアは考えた。どうしたら、レイヴンに一泡吹かせられるのか――。まずはこれだ。
「魔法剣っ!」レイアは剣を垂直にかざし、刀身に魔力を込めた。
 それは通常の剣に様々な魔力的要素をまとわせる法力で、レイアの場合は無論、闇属性だ。
「デュレ、サポートをしろ」険しい横目でデュレを見やる。
「ほうっ!」
 レイヴンは瞬間、面白おかしそうな表情をした。そして、きつくレイアを睨み付ける。
「……楽しませたら、文句はないんだろ?」
 いよいよ後がなくなれば、レイアは余裕を見せつけ不敵に微笑む振りをするしかない。
「まあ、文句はないが――。俺はレイアと遊びたい。邪魔者は失せろ。……フレイムショット!」
 剣を持つ右手とは逆に、レイヴンの左手からいくつもの黒い炎の球がデュレを狙い飛翔する。よけられない。いや、むしろ、よけられるはずがない。デュレが動くとシェラに直撃してしまう。デュレは瞬時に判断を下し、ある闇護符を掲げた。結界、シールドの類では確率百パーセントで」間に合わない。ならば――。
「フォワードスペル・ピンポイント」
 と、キャリーアウトした刹那、空中に闇色の小さな魔法陣がフレイムショットの球の数だけ現れた。そして、フレイムショットをかき消すように吸収し、それ自体もフイッと消えてしまった。
「あれ? 失敗した?」
 出口の座標を指定出来ないこの空間転移魔法なら、割と近場に出口が勝手に開いてそこに移動するはずなのだ。例えば、久須那と一戦を交えた時のように。
「た、たまにこんな事もありますよ……ね?」デュレはつい、シェラに同意を求めてしまう。
 一時的に戦いも忘れて、デュレを見入ってしまう。そして、レイアが先に我に返った。
 ギィイィイイン。
「少し、油断したな」苦笑する。
「ちっ!」レイアは舌打ちをした。
 それから、レイヴンの攻撃が続き、レイアは押され気味になってきた。しかし、その間にもレイアはレイヴンに悟られぬよう、唇をほとんど動かすことなく呪文の詠唱を進めていた。通常、呪文を唱えると現れる魔法陣を隠す術もあり、上手く活用すると発動直前まで魔法を隠すことも出来る。無論、簡易魔法は例外で、標準的な魔法で出現する魔法陣が現れない方が多い。
 そして、魔法同士が干渉しないようにフェイズを微妙にずらして詠唱を停止する。そうすると、異属性の複数の魔法を同時に展開することも可能となる。
 キィン。
 実行直前、レイアはやっとの思いでレイヴンとの間合いを開けた。至近距離にいては自分の魔法に巻き込まれる。
「デュレ、代わって!」といいつつ、レイアは剣をデュレに投げた。魔法の邪魔になるのだ。
「え……、えぇ?」デュレは予想さえしていないレイアの言葉に目を白黒させた。
「わたし、剣はちょっと――」しどろもどろ。
「判っている。黙ってもっていればいい。それ、放すなよ」ニヤリ。
 レイヴンは興味津々とばかりにレイアを見ていた。それはまさにこれから起きようとしていることを楽しみにしている好奇心に満ちた視線だった。
「これで少しは後悔してくれると有り難いんだけどな」ため息混じりにレイアは言った。「ターンアップ」瞳がぎらりと煌めいた。
 そして、数個の直径六十センチほどの色違いの魔法陣が地面とは垂直に姿を現した。フェイズをずらして、複数の呪文を同時に展開するのは非常に高度な技だった。通常の魔法使いにはまず不可能。それなりの鍛錬が必要で習得出来るものも少ない。デュレも比較的最近になってから練習をするようになった魔法で、まだ満足に複数の異属性呪文を使いこなすには至っていなかった。
「凄い……」
 展開された魔法陣を見ると、緋色、水色、黄色の三つがあって、それぞれ微妙に形状が異なっていた。闇の魔法に幾つかの例外が認められるものの“色”が属性を示す。
「イリミネイトトラン……」レイヴンは呪文消去の呪文を唱えだした。
「そうはいくか!」レイアは不敵に口元を歪めた。
 レイヴンがイリミネイトトランザクションを発動する前に全ての魔法を解放する。レイアはそこに賭けた。どんな高次の魔法使いでも呪文の完成直後には隙が出来る。そこにつけ込む。
「ウオーターストリームっ! キャリーアウト!」
 それと共に展開された魔法陣が縦軸にくるんと回転しながら空に消えつつ、呪文が発動する。空気中の水分を搾り取り、レイヴンの頭の上から勢いよく降り注いた。
「……何のつもりだ?」レイヴンはすっかり濡れ鼠。黒い装束からボタボタと水が滴り落ちる。
「こう言うつもりだよ」ここまで来て、レイアはクスリとした。「サンダーストーム」
 今度は黄色の魔法陣が消えた。そして、雷の嵐が吹き荒れる。水が電気の伝導率を上げ。
「うあぁあぁ……」
 雷撃がレイヴンの身体を駆け抜けた。水に気をとられ避け損なった。仮に避けたとしても水に触れている限り雷撃から逃れられない。レイヴンもレイアを侮っているので、空に舞い上がろうなどちょっとも考えていなかったのだろう。
「こ、小娘の分際で小癪なまねを」よろけながらレイヴンはいう。
「そうか? 取って置きのがまだ残ってるんだ。これはちょっと珍しいぞ」レイアはその魔法の最後の締めを唱えた。「深紅の煌めきを宿す異彩の精霊・サラマンダー。我、レイアの名により召喚する。我が魔力の右腕になりてそのパワーを発揮せよ!」
 最後の緋色の魔法陣がくるっと閃いて人の形に取って代わった。深紅の髪、逞しく太い腕。
「この場面で、俺さまを呼んでくれるたぁ、いいセンスしてるぜ、レイア」
 その言葉を聞いた瞬間、レイアはこいつはやっぱりこんなもんなんだと頭を抱えた。
「……これが取って置きなのか?」少し立ち直ってレイヴンは言った。
「お? それは聞き捨てならねぇなぁ」ニンと笑った。
「ティム! いい加減なさい!」
「まあ、慌てなさんなって。こんなのやつは俺が本気になればちょちょいの……」
 ティムはレイヴンに背を向けて、余裕の笑みでレイアと向き合う。レイアは頭を抱えて、そのまま丸投げにして、どっかに行ってしまいたい気分になった。召喚したのは失敗かと思いつつ、レイアは堪えた。ジーゼのような局在する精霊を呼ぶには高次のスキルがいる。炎のような遍在する精霊ならば比較的に容易に召喚出来るがこんなんだ。とは言っても、人よりも高レベルの魔力を持っているので戦力になるが……。
「へへ〜ん。喰らえ! バーニングトランザクション」
 ティムはレイヴンに向けて両手を広げた。そして、手のひらから火柱がほとばしった。
「子供だましだな。――ミラーシールド」
 ティムの放った魔法はレイヴンのシールドに難なく跳ね返され、ティムに返ってきた。
「ついでにこれをやるよ。受け取れ」レイヴンはシールドを解除すると。人差し指をティムに向け言った。「スパークショットっ」
 レイヴンの人差し指から光の弾丸が飛び出した。
「うぁぁぁあぁ!」ティムの悲鳴が破壊された教会に響いた。
 そして、ティムの姿が弾丸の当たったところから、ガラスが砕け散るかのように粉々になった。そもそもこの召喚は“天使の召喚”とは異なり実体を呼びつけるものではない。レイアの魔力を触媒に精霊の姿、そして、精霊核のパワーを呼び寄せる。これはアミュレットによる契約とも性格を異にし、精霊本体に直接危険が及ぶことはない。
「浅はかと言うか、判りやすいというか。アホだな」
「かもしれない――。召喚してはみたものの。サムの言ってたとおりだ」
「……はなから期待していなかったって事か?」レイヴンは幾分の嘲りを込めて言った。
「ああ。どうせ、お前には敵わないと思ってたからな。試しに……」
「ふっ。余裕だな。レイア。俺はお前のそう言うところが好きだ」レイヴンは衣服に付いた埃を払って、さらに続けた。「さてと、ま、余興も楽しませてもらったしな。そろそろ……」
「逃げるのか、レイヴン」
「ちょっと違うな。しかし、十分すぎるくらい時間稼ぎはさせてもらったからな」
「何?」焦ったかのようにレイアは言った。
「次に会うのもそんなに先のことでもないだろうし、一時休戦といこうとね……」
 思いがけない提案だった。街を破滅に追いやり、ただの時間稼ぎだったなどとは。
「たったのそれだけのために、お前たちはアルケミスタを潰したのか」
「そう――」全く悪びれる様子も見せずにレイヴンはあっさりと言った。「しかし、俺を恨むのはお門違い。恨むのなら、むしろ、イレギュラー因子たり得る」レイヴンはレイアから視線を外し、その後ろのデュレを見やった。「ダークエルフと」
「と?」思わず促した。
「島エルフの娘にしておけ」
 どういう意味なのかレイアには見当もつかなかった。デュレとセレスがアルケミスタに来たからこうなったと言いたいのはまだ判る。が、“イレギュラー因子”とはどういう意味なのか。理解の範囲を超えて、レイアは眉をひそめてレイヴンを見ていた。
「説明しろっ!」
「――そろそろ時間なんでね。失礼するよ」
 と言う、レイヴンの姿は足元からかき消すように虚空に溶け込んでいた。
「パーミネイトトランスファー……」レイアは放心したように呟いた。
 それは闇魔法の“フォワードスペル”よりもスマートに移動する高次の魔術だった。
「どうしても知りたいのなら、デュレに聞けばいい」
 虚空に消えゆくレイヴンは薄笑いを浮かべていた。やがて、レイヴンがいた場所はまるで最初から誰もいなかったような様相を呈した。瓦礫も石ころも天使がそこにいた痕跡をとどめていない。唯一、そこであったことを悟らせるのは床に残る二等辺三角形の傷跡。
「――はぁっ」レイアはシェラの元に歩み寄って、へたり込んだ。「疲れた……。もうダメかと思ったよ。ティムはあんなんだし、もうちょっとましなやつはいないのかなぁ」
「レイアが弱音を吐くなんて珍しいですね」
「シェラさん。天使が相手なのは久須那さん以来だし、手加減してくれない分、レイヴンは」
「手加減はしていましたよ。――あれを手加減というのだったら……ですが」
「え……?」
「シメオンに来てくれないと困る。だから、殺さない程度に、そうでなければ、わたしたちは虫けらのように殺されていたでしょう」
「――」デュレはコメント出来ずに押し黙った。
「ま、そんなもんか。奴は自身の言ったとおりに下衆ではないようだ。また、会うとか何とか言ってたけど、ちょっと安心だな。」レイアは頭の後ろで腕を組んで朗らかに言った。「例え、そうなったとしても。レイヴンなら悪い気はしない」
 何がどう悪い気はしないのかデュレには察しがついた。
「……デュレ、行くぞ、シメオンへ」
「……けど、セレスたちは……」
「心配なのは判るけどな。闇護符を渡したんだろ?」デュレは小さく頷いた。「それがダメだったとしてもシリアがいたら、そんなに遅れずに戻ってくると思うけどなぁ……」

 その一方で、
 セレスは息を切らして坂を駆け上がっていた。途中でバッシュを見失ってしまったけど、この丘につながる一本道に入ったのは間違いない。もうすぐ、追いつける。けど、追いついたからと言って、何がある訳でもないことを今更ながらセレスは気がついた。
 そして、道から外れた草むらに立ち尽くすバッシュの姿を見付ける。
「母さんっ! 父さんは? 父さんはどこ?」
「セレス、どうしてここに!」バッシュは声のした方に勢いよく振り向いた。
「教会から母さんの後を追ってきたら……。けど、途中で見失って」
「アルタは行った。一足、遅かったぞ……」バッシュの影からリボンがスッと姿を現した。
「リボンちゃん? な、教会にいたんじゃないの?」
「いないよ」リボンは素っ気なく答えた。
「――もしかして、昨日もここに来てたの?」フとセレスは言った。その何気ない問いは的を射たようだった。リボンの眼差しが厳しさを増し、ピクッと耳が動いた。
「ああ、アルタを待っていた。もう、来ないと思ってたんだがなぁ」
 リボンは空を遠い眼差しで眺め、雲を追い掛けた。
「セレス――」
 バッシュはセレスに背を向け、街を見下ろしていた。涼風に金色の髪がなびいて、とても不思議な感じがする。バッシュは振り返った。セレスと目が合い、儚くて優しい瞳、そう、記憶の彼方にすらない動かない笑顔しか知らなかった母の姿。二日も一緒にいるのにまるで初めて会ったかのようにセレスの目に映った。
「何? かあ……」慌てて口をつぐんだ。「バッシュ」
「今更遅いぞ、セレス。散々、“母さん”と呼んでおいて取り繕っても手遅れだ。それに――もう、いいんだ」
 リボンが驚いたようにバッシュを見上げた。言わないはずじゃなかったのかと訴えかけるように。バッシュはリボンを見下ろすと瞳を閉じて、静かに首を横に振る。
「お前はもう、生まれている。ずっと昔のことだよ」
「え――?」セレスは言葉を失った。
「セレスが普通に育っていたら、三百歳をちょっと越えたくらいかな。何となく判ったよ。お前が来たその日に。ああ、お前はあたしの娘なんだって。だからね、アルタが姿を眩ませてそれっきりかえらない訳も。いや、全部にケリがついたら帰ってくるつもりだったのかも知れないな――」
 風がスッと三人の間を吹き抜けていった。長い沈黙。リボンはただ、バッシュが言うにまかせて押し黙っていた。
「けど、判ったよ。アルタは隠し事が下手だからな――。あんな哀しそうな目で見たら……」
「……それ以上言わないで、母さん」
 セレスはバッシュに背後から抱きついた。
「言葉にしちゃったら、みんなホントのことになってしまいそうだから。お願い――」
 バッシュはセレスの頭をクシャクシャとなでてそっとセレスの腕を外した。そして、再び傷ついた街を見やった。
「アルタが言ったことを考えてたんだ。『もう、元には戻らない』アルタが時を越えて旅をしてたんだろうとは察してたさ」風と草の揺れる音がバッシュの声をかき消していく。「まだ、あの日から百年も経ってないんだよ、アルタには――」
「――」リボンにもセレスのも答えようのないことだった。
「セレスには二十年。あたしは三百年だ。不公平だよな。こんなに待ったのに。折角、掴まえたと思ったのに。雫のように手のひらから零れ落ちたよ――」
「母さん――」
「だから、何があっても絶対、零したくない。あたしはお前と一緒に行く。セレスの手を二度と放したりはしない。もう一度、――やり直せたらいいのにな――」
 それが叶うことのない夢だと言うことをバッシュは薄々感づいているようだった。セレスは未来の自分と会っていないことが判ってしまった時から、不安は感じていた。やがて、それが確信に変わることも……。