12の精霊核

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35. infinitesimal possibility(無限小の可能性)

 マリスとレイヴンは屋根の上。デュレとセレスは大聖堂地下に駆け込んで、バッシュとレイアの戦いに幕切れが訪れた折。マリスは幾ばくかの虚しさを心に抱きつつ、南西の彼方を見やった。その方向は聖都・シメオンからフライア、エルフの森を越えてテレネンセス、かつてのエスメラルダ王都・アイネスタまでを縦貫する街道筋。
「……」
 マリスは数分間、ただじっと遠くに梢の一部分の見えるエルフの森に思いを馳せていた。
「――わたしはエルフの森に行く。千年前と様相も変わっただろうし、確認の意味合いも込めてな……。それにジーゼと話してみるのもいいかもしれない」
 考えてみると、マリスは目的と定めたエルフの森の全容を把握していないことに気付いた。不意にまるで心あらずの様子でマリスは踵を返し歩き出した。
「どういう風の吹き回しだ?」
 レイヴンは訝しげに問う。いつものマリスなら、構わずに蹂躙したのに違いない。
「――久須那があの森に固執するわけを知りたいのさ。他意はない。心配するな。――今一度、精霊核の正確な位置も確認してくる。崩壊の度合いも進行しているだろうし、通路を開けるのにエネルギーが足りないと始末が悪くなるからな……」
 それは自分自身に対する口実だとマリス自身、判っていた。わざわざエルフの森に赴かなくても、列挙した事柄については調べられる。
「もし、足りなかったら、どうするつもりだ?」
「何も精霊核はエルフの森にあるのが全てではないぞ。他に数カ所知っている。それで補う。だが、そうなった場合は計画の変更が余儀なくされるけどな……。時間が必要だ……。だが、それではあの連中が納得しないのだろう?」マリスは意味深な笑みを浮かべた。「忙しないな……。生きている時が短いが故の焦りか……性か、それとも、過ぎたる欲望のせいか……?」
 半ば独り言のようにマリスは囁く。
「どうなっても、俺はマリスに付いていくさ」
「お前が裏切るとは思ってないよ。――フフ」マリスは鼻で笑った。「利用できるものは全て利用するだけのことだったな……。久須那も迷夢も判ってくれると思っていたんだが……。しかし、今度はあいつらをサポートできる奴らがいない。サスケやゼフィのような精霊、魔術に長けた奴らがいないと……わたしは止まらないぞ」
 マリスは感情を高ぶらせることなくひどく落ち着いた口調で喋り続けた。そう言うマリスは恐ろしい。レイヴンはマリスをよく知っていた。強く、気高く、美しい。鉄壁とも言える信念に裏打ちされるマリスは嵐の強風のようなことが起きようとも考えを曲げることはない。
「マリスを止められるものは誰もいない」
「ふ……。そう願いたいものだな。まあ、いい。戻ってくるまで、ここは頼んだ」
「――久須那は?」飛び立とうとするマリスにレイヴンは問う。
「……お前の好きにして構わない。久須那は――もう、いらない」身も凍るほどの冷たい響き。
 マリスの瞳から温かさは消え、かつて芽生え、育んだ友情は微塵も存在していないように見えた。しかし、マリスが感情を押し殺しているのはレイヴンにはよく判る。失いたくないもの。思想が違い、みんなは散り散りになってしまったが、それでも失いたくないものなのだ。
「判った。適当に処置しておく」
「ああ、頼んだぞ」マリスはレイヴンに背を向けた。
 瞳を見られたら、心の奥底に封じ込めた思いが見透かされてしまいそうだった。

 エルフの二人組は街の時計塔を目指し駆けていた。そこに何かがある。確証はないが、何故だか、確信はあった。物証は何一つなくあるのは状況証拠のみ。行くだけ無駄になる可能性も完全には否定しきれないが、それでも行動しないわけにはいかない。
「時計塔に何もなかったらどうする?」セレスは問う。
「何もないと困ったことになります」デュレはチラとセレスを見た。
「困ったこと?」セレスはオウム返しをした。
「手掛かりが途絶えてしまいます。ひょっとしたら、教えてもらった魔法を持って直ぐさま帰ることが正しい選択だったのかもしれません。――それにはもう手遅れかもしれないですけどね」
 デュレは瞳を悪戯っぽくくるりと閃かせて、セレスを見やった。
「はにゃぁ。って言うかさ。前から一度は訊こうと思ってたんだけどぉ」セレスは目線をデュレから外し、躊躇いを見せた。「……どうやって帰るつもり?」
「あ……」予期せぬ問いにデュレは絶句した。「そこまでは考えていませんでした……」
「だってさ、水色の欠けらもないし、ジーゼに会いに……、ジーゼの精霊核の助けを借りるにしても無事にエルフの森に辿り着けるかも判らない。どうすんよ? ってさ。はぁっ! ま、全部、吐いちゃってすっきりした。後は野となれ山となれってね?」
 セレスはデュレの背中をバシバシと叩く。
「い、痛いから叩かないで。暴力反対です」
「暴力じゃなくて、戯れって言ってもらえるかしら? 悪意だけはないんよ、あたし」
 デュレは頭を抱えて、やれやれと言わんばかりに首を横に振った。重要な話題を振っておいて、それをちゃらんぽらんにするのはセレスは大得意。シリアスに思い悩むのは嫌だけど、忘れても嫌だからそう言う態度を取る。気持ちは判らないことはないけれど、少々迷惑だ。
「もお、何でもいいです。どうにでもなってください」もはや、投げやり。
「――止まれ」不意だった。
 壁により掛かる黒いジャケットと白いスラックスの男が言った。金髪碧眼のエルフ。アルタはデュレとセレスの前におもむろに進み出ると、二人の行く道を遮った。突然。アルケミスタの丘で見た凛々しく淋しげな姿や、バッシュの家から迷夢に引きずられていった少々間抜けな姿がセレスの脳裏に思い浮かぶ。
「父さんっ! ――今までどこに」セレスは問う。
「迷夢に引っ張り回されて、迷子になりかけ……」真面目に答えそうになって、アルタはばつが悪そうに咳払いをした「そんなことは後で教えてやる。いいから、戻れ、戻れ! あの場を離れるな。取り返しの付かないことになる」
 必死の面持ちで、右手を振り、セレスたちが来た方向を指し示す。
 その理由が判らない。今日までつかず離れずを決め込み、直接的に助言めいたことを発言したことはないのに。アルタの心境の様変わりにデュレには解せないところがあった。もしかすると、傍観をしていられない事象が近づいているのかもしれない。デュレはアルタを揺さぶる。
「……何故、わたしたちがあなたのいいなりにならなくてはならないんですか?」
「デュレっ」セレスは驚いて素っ頓狂な声を出した。
「セレスはしばらく黙っていてください」デュレは困惑して狼狽えた表情のセレスをきつい口調で言い渡す。セレスは仕方なく、軽い不満の色を見せつつも大人しく引っ込んだ。「今まで、あなたは第三者に徹してきたのに、何故、急にわたしたちに近づいてくるんですか?」
 直球を投げつける。婉曲して言葉を伝える時間が惜しい。
「手厳しいな……」
 アルタはもどかしさを禁じ得ない。デュレが直球で聞き返してくるように、アルタには聞き返される時間がもったいない。そろそろ、レイヴンが大聖堂に着く頃だ。うかうかしていては、アルタが一番阻止したいことを、阻止できなくなってしまう。
「判った。手短に話す。……とにかく、ついてきてくれ」
 信用する道理がない。そうデュレは言いたかったけれど、セレスの手前、敢えてその発言は控えた。敵か味方か、そんなつまらない考えはない。しかし、今後の行動に自分たちの命がかかってくると思えば、セレスの父親とはいえ慎重に対処せざるを得ないのだ。
「……どうして、時計塔に行ってはいけないんですか?」
 大聖堂の地下室に戻れという言葉を逆の意味にとってデュレは問い掛けてみた。
「……」アルタは急に立ち止まった。「何故、そう思った?」
 アルタの尖った口調にデュレは時計塔に何かがあると読んだ。しかし、平静さを装いつつも微かな緊張感をはらんだアルタの顔色にデュレはここでの追求は得策ではないと判断した。
「――ただ、何となくです。何もないなら別に……」
「そうか、なら、いい」アルタは再び歩き出した。
 デュレはアルタの安堵の色を見逃さない。確実に何かある。しかも、表情にハッキリと出るくらいだから、アルタに無関係ではないのだろう。
「……何だろう?」デュレは呟く。
「父さん、どうして、戻るの? あそこには何もない。少なくとも今は。――久須那の封印の絵だって、解いたり、破壊する術を知らないなら、ないも同じでしょ?」
「そう見えたなら、お前たちもまだまだだ」意地悪く笑う。
 すると、デュレは気に入らなさそうにアルタの後ろ姿を睨め付けていた。何も知らないと思われたのは心外だ。デュレはデュレなりに多くのことを調べ上げた。アルタと比べると意味をなさないほど僅かなことかもしれないが、それでも腹立たしくて仕方がない。
「美術的価値は言うに及ばず、考古学、魔術的も……」
「――知らないとは言っていない。生きて動いている歴史をキミは知らなすぎると言うことだ。キミのはただの知識、理論武装は出来てるようだが……、真の意味で身に付いていないんだ」
「わたしがっ、頭でっかちとでもいいたいんですか?」
「違うのかい?」大笑いしながらアルタは言った。
 かつてないほどの屈辱を受けた。否定は出来ないけれど、そこまで言われたことはない。いつもはクールで決めるデュレもカッカと来て顔が少し火照り気味になっていた。
「しかし、経験を積めば身に付くよ。――だが、この話はまた後だ。今は地下室に戻るのが先決だ」
「……走りながらなら、訊いてもいいですよね?」デュレは問う。
「ああ、構わない」
「――単刀直入に訊きます」デュレは大きく息を吸った。「あなたの目的は何ですか?」
「俺の目的か……。――セレスは知ってるんだったな、あれは」独り言のように呟く。
 アルタはセレスをちらりと見る。セレスは何かを問われるのを嫌うかのように顔を背ける。
「無理でもいいんだよ。ただ、これが最後の機会だし、これで終わりにする」
「知ってるんですね? あなたの思い通りに事は運ばないことを」
「さあな。その問いに答える義理はない。……時の渡り鳥と呼ばれようとも、所詮は巨大なタペストリーに織り込まれた一本の糸に過ぎない。シリアもよく言っていたが、……知っている」
 アルタは苛立ちのこもった眼差しでデュレを突き刺した。
「――それがアルタさんの答えですか? だとしたら、あなたは何をしてるんですか?」
 デュレの頭には幾つもの疑念が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。しかし、デュレはアルタの思いはただ一つなのは知っていた。セレスやリボンの話からの類推で、推測の域を出ない。阻止する。セレスが殺してしまうと言う、バッシュの死を歴史から抹消する。
「ふん。叶わない夢を追い掛ける哀れな男……」
「……」何とも答えようのない答えにデュレは困惑を覚えた。
「――ホンの少しで構わないんだ。蟻の巣穴ほどの隙さえあれば……」
 アルタはギュッと拳を握る。“歴史は改竄を許さない”いつの間にかアルタの脳裏にはその短い一文が刻まれていた。たった一つだけなのに。その為だけに幾つもの考えを巡らせ、実行してきた。しかし、時の流れに手を加えられたように思えても、やがては元の流れに引き戻されてしまうのだ。アルタは“復元力”とでも言うべきそんな経験を数回してきた。魔物よりも、強力な魔力を誇る天使、セラフィムよりも手強い敵。
「俺はバッシュさえ取り返せたら、それだけでいいんだ」決意に閃く瞳。
「でも、それは一番難しくて……」デュレは次の言葉を言うのに躊躇った。「それはゼロで割ることと一緒です。出来るはずがありません」
「かもな。だが、これは数学とは違う。出来る可能性が無限小のだけで、出来ないワケじゃない。どんなちっぽけでも可能性がある限り、俺は諦めない。それだけの話だ」
 デュレは思う。アルタの思いこみの激しさはセレスやバッシュと同じだと。この親にしてこの子ありとはよく言ったものだとつくづく思った。

 レイヴンはシメオン大聖堂を取り囲む壁を一回りしたところだった。裏側のある一カ所から、正面を回って、また裏側へ。最初に目星をつけたところが隠し扉になっているのはほぼ間違いない。レイヴンは壁にある不自然に深い溝に目をつけ、指先でなぞった。
「……最近、出入りしたような形跡がある……」
 レイヴンは周囲の状況を確認すると、扉と思しき場所を押してみた。すると、ズズズと重い音はするものの、比較的軽い力で扉は内側に開いた。
「なるほど」ちょっとだけ感心する。
 レイヴンは建物の内部に進入すると、おもむろに扉を閉じた。中はさほど明るくない。その上、人っ子一人いないようだ。協会総本山のシメオン大聖堂にこんな場所があるとはレイヴンには意外だった。表の方は信者たちに溢れ、適当に賑わっていているというのに。こちら側は歩けば足音がどこまでこだましていくような静けさの中にある。
「驚いたな、これは……」石の壁に触れつつ、レイヴンはあちらこちらを観察する。
 通路然としていて、表ほどの華やかさはないが、それでも高品位な作りだった。
 そして、レイヴンはリボンの魔力の波動を感じ取った。遠くはない場所にリボンがいる。レイヴンは神経を研ぎ澄まし、リボンの魔力を追う。見つけた。廊下の右側に一見すると開口部があり、地下室へと繋がる階段のようだった。
「――地下監獄か……?」ゆっくりと階段を下りる。
 突然、何が襲ってきても大丈夫のようにノックスの剣を虚空より取り出し、右手に持った。予想しうる最悪のシナリオを想定して行動すべきなのだ。地下室に誰かいるとするなら、リボン、デュレ、セレス、久須那封印の絵。その他として仲間がいるかもしれない。力量からすると、レイヴンに分はあるが、油断をするとやられるのは自分だと心を戒める。
 レイヴンは螺旋階段の底の底に辿り着いた。
 そして、見つける。長年探し続けた久須那封印の絵。同時に六人の仲間たちの思い出の肖像画。忘れられない遠い思い出、キャンバスに封じられた幾千の思い。
「こんなところにしまわれていたなんて、俺の絵も妙に出世したもんだ」
 声が地下室に響いた。意図して、わざと聞こえるようにレイヴンは少し大きな声で言った。
「っ!」リボンが気付いた。「レイヴン! どうしてここが判った」
 ついで、サムも久須那も気づき、即座に臨戦態勢をとった。
「それはお前が唯一にして、最大のミスを犯したから」
 リボンはハッとした。心当たりが一つだけあった。レイヴンの指摘の通りに最大のミスかもしれない。ふらり現れたレイアに気を取られて重要なことを蔑ろにしてしまった。
「レイアか……」リボンは呻いた。
「お前が隠していたそうだな。お前が一緒にいることにより、その出入口、場所を魔力でかき消す。後から入口の辺りをよくよく観察すると微細な揺らぎのようなものが見えたが、流石は精霊王だな」レイヴンは揶揄する。「ただ共にいるだけで、俺に気取らせないまでの芸当が出来るとはね」
「そう言うことは他の機会にしてくれ」
「他に機会があればと思うが、そんな機会はないだろうし、作る気もないだろ?」
「当たり前だ。親父の仇も含めて、今、決着をつけよう」
「……マリスの言った通りか。あの時の意気地なし、おチビちゃんと同じとは思えない。随分といい大人に成長したな、シリア。ゼフィが生きていたら、きっとお前のことを誇りに思うぞ」
「そうあって欲しいと思うけどな。今のオレを見たらゼフィは嘆く」
「どうして、そう思う?」レイヴンは興味をそそられたのか、リボンに問い返した。
「お前をここに呼び込むという最大の失敗をやらかしたからさ」リボンはレイヴンを睨んだ。
「なるほど、お前の考えの方が正論かもな」レイヴンは嘲笑う。「では、さらに失望もしてもらうかな。たまにはいいんじゃないか? 退屈な生活に刺激を与えてくれる」
 レイヴンはスッと無駄な動作一つなく剣を構えた。
「待てよ、シリア。俺に相手をさせてくれ」飛び出そうとするリボンを制止、サムが言う。「……一応、レイアが対を張れるんだぜ? 俺だって一対一でやってみてぇ」
「バカはよせ。レイアの時は手加減をしていたいに違いないんだ。サム相手にそんなことする理由がない。こてんぱんにやられてそれで終わりだぞ。相手はオレだ、レイヴン」
「……別にお前らを殺しに来たワケじゃないんだが……。俺は封印の絵さえ手に入れられたらそれでいいんだ。しかし……、強い戦士がいれば手合わせは願いたい。どうする?」
 レイヴンはサムとの対戦に興味ありありのようだった。
「……判った、好きにしろ。ただ、負けそうになったら、首、突っ込むからな」
 リボンは不承不承、承諾した。やめろと言ったところできかないのに決まってるのだ。
「へっ、ありがとよ」サムは剣を鞘から抜き出しつつ、大股でレイヴンの前に進み出る。
 気分は命を賭けた戦いと言うよりは、むしろ、試合だ。
「サムっ」久須那は立ち向かおうとするサムに向け、一歩踏み出した。
「大丈夫。今度はてめぇを哀しませるような真似はしねぇ。適当なところでひくさ」
 大丈夫じゃない。正直なところ久須那はそう思った。久須那はサムの信条、誓いを知っていた。どんなことがあろうとも女を守る。それが久須那であろうと、他の誰であろうと関係ない。好色ではあるけれど、それについてだけは真っ直ぐなのだ。
「……信用できない……」久須那はうつむき、囁いた。
 それはサムの安否を気遣う久須那の思い。しかし、サムを止めることは出来ない。
「さぁ! 異彩の精霊・サラマンダー。来やがれ、ティムっ! 今度はきっちり、格好いいところを見せてくれよ。へっ、名誉挽回、汚名返上の大チャンスをくれてやらぁあ!」
「ありがとよ、旦那ぁ」ティム、ふわりと参上する。
「……」サムは言葉を失った。「だから、てめぇは頭に乗るな! 何度、言わせる」
「すまねぇ、旦那。そこは俺のお気に入りなんだ。登場する時はそこと決めてる」
「はぁ? ……そんなこたぁどうだっていい! てめぇはやることをやれ!」
 肝心な時に力を発揮できないティムの性格はどうにかならないのかと苛立ちも募る。
「――レイアも呼び出していたが、そいつ、何かの役に立つのか?」
「少なくとも時間稼ぎにはなってるだろ?」サムは口元を歪めて僅かに笑った。「そして、今度はこいつの本領を見せてやるさ。火炎術師・イクシオンとサラマンダーが組めば無敵なんだ」
 サムはぎらつく眼差しをレイヴンに向けていた。

 ザワザワザワ。森の梢がにわかにざわめいた。非常に冷たい空気を身にまとった何者かが森に近づいている。フライア側から森に入る街道から冷たく、けれど、とても熱い眼差しが注がれているのを感じとれる。やがて、その者は森に入り、興味深げに木々に触れ、辺りを見回していた。
「! 天使……?」木に触れた手から天使に特有の魔力の波動を感じ取った。
 ジーゼにいい予感はない。
 かつて、天使がこの森を訪れた時は降って湧いた悪夢に他ならなかった。無論、久須那のような天使もいるが、今感じた空気はあまり友好的なものとは思えなかった。その雰囲気にジーゼが身構え、緊張したのをシリアはジーゼが身にまとうオーラの変化で気がついた。
「ジーゼ? どうか、したのか?」
 包帯をぐるぐる巻きにされて、尚かつ、毛布にくるめられたシリアが言った。
「いいえ……。何でもありません。――少し、お散歩をしてきますね。留守をよろしく」
 シリアはいつものジーゼとの微かな違いを感じ取った。
「ジーゼ。オレも行くぞ。寝て待っているだけなんて、不甲斐なさすぎる」
「いいえ、シリアくんは大人しくしていてください。今度は言うことを聞いてもらいます」
 優しげな物腰にも刺があり、凛然とした有無を言わせぬ口調だった。
「それにきっと、大丈夫です」
 自分でも何を根拠にそんなことを言ったのか判らない。ただ、森を焼き尽くすつもりだったり、ジーゼの精霊核、本人に直接用があるなら、こんなにまどろっこしいはずはない。知らず知らずのうちにジーゼは昔の記憶を元にした判断を下したのかもしれない。
「――何かあったら、必ず呼ぶから。それまで大人しくしていなさい」
「判ったよ――」ぶつぶつ。
 そこまで言われてしまってはシリアも動くに動けない。シリアはふて腐れたようにそっぽを向いて、敷物の上で無理矢理に出来るだけ小さくなるように鼻先をお腹に埋めて丸くなった。
「可愛いというか……何というかですね」ジーゼは思わず苦笑した。
 その次の瞬間には、ジーゼは険しい表情に変わり、クローゼットに歩み寄った。そこには千年以上使うことのなかった一つの武器がしまわれていた。出来れば、それを使う機会がないことを願う。しかし、相手は天使。今は襲ってくる兆しはないが、もし天使がジングリッドのような野望を胸の奥底に秘めていたら……?
 ジーゼはシリアの熱い眼差しを背中に感じつつ、クローゼットの扉を開いた。台座に鎮座する十字型の銃。使わないと言いつつも手入れだけは欠かさなかった。ジーゼは険しい表情をより険しくして、銃を手に取った。
(……取り越し苦労に終わればいい。けど、万一の時、シリアを逃がす時間くらいは……)
 小さな決意を胸に秘め、小屋を後にした。
 天使(?)の居場所は判っていた。きっと、フライアからの街道筋をずっと歩いてくる。その予測が正しいことを森の木々は教えてくれたし、小屋を出てまもなくにジーゼは近づいてくるシルエット、背後には大きな翼が見える、を目視していた。
「黒い翼の天使……マリス……?」
 天使とは思っていたけど、黒い翼を持った天使が来ようとは夢にも思っていなかった。
「お初にお目にかかります、森の精霊さま」
 天使はジーゼに気がつくと丁寧な挨拶をする。ジーゼがドライアードと言うことをすぐに見抜いてしまったようだった。
「はい?」虚を突かれ、咄嗟に返事が返せなかった。
「そんなに警戒するな。今日はケンカをしに来たワケじゃない」マリスは堅い口調の中にもそこはかとない柔らかさを感じさせていた。「お前の仲間たちはわたしを信用してくれないようだから、無理強いするつもりはないけどな。わたしは戦いを好んでるわけではない。目的を果たすためのただの手段だ。結果、邪魔者が多すぎるから好んでるように見えるのかな……。言葉で判ってくれるものには力を行使しない。理解してくれないもののみ、実力で排除する」
「あなたの考えを改めることはしないのですか?」ジーゼは問う。
「……ありとあらゆる可能性は検討した。納得できる反証を持ってこない限り、わたしは自身の考えを曲げたり、撤回するつもりはない……」
 論理的な思考なのだろうか。圧倒的な知識と知恵に裏打ちされたマリスの自信の強さが窺われる。瞳を覗けば淀みも、一点の曇りすらなく、深く澄み切っている。マリスが望むことに疚しいことが一欠けらも存在していないのなら、その考えを翻させるのは困難かもしれない。
「……そうですか……?」ようやく答えられた一言はただの相槌だった。
 そして、しばしの沈黙。ゆったりとまるで止まってしまったかのような速度で森の時間は過ぎていく。そよ風が森をさざめかせ、小鳥たちが楽しげに囀っている。二人のいる場所を緑色の心地の良い風が吹き抜けると、同時に木の実の甘い香りも駆け抜けていく。
「……いい森だな」
「あ、ありがとう」嬉しいんだか、嬉しくないのだか複雑な心境になった。
「わたしもこの森は潰したくはない。そして、潰すつもりもない。だが、それには条件がある。それは恐らく、言わなくても理解できてると思うが……?」
「ええ」ジーゼは毅然とした態度でマリスに臨んだ。「判っています。この森にある精霊核を渡せと言うのでしょう?」凛とした眼差しでマリスの瞳を見据えた。
「そうだ。幾つ残っているのか知らないが、大人しく差し出せば、お前は自身の精霊核を失わずに済む。――ゼフィのようになりたくなければ、全て差し出せ」
「嫌です。ここは居場所を失ったあの子たちの安らぎの場所。この森を失うことも、あの子たちを渡すことも出来ません。ただのエネルギーとしか見ないあなたには……絶対に……」
「頑なだな。その決意の固さは称賛に値するが、寿命を縮めるだけだとは思わないか?」
「否定はしません。でも、昔、イクシオンが命を賭けてこの森を守ってくれたように、わたしはこの森とわたしの全てを賭けて、あの子たちを守らなくちゃならないと思います」
「……お前の精霊核はきっと、透き通っていて綺麗なのだろうな……。透き通った緑色、無垢な煌めきを宿した精霊核そのままがお前になっているような気がするぞ。美しいとは思う。しかし、それだけでは何も守れない」
「判ってます。でも、わたしだけ何もしないわけにはいかない」
「そうだな」マリスは瞳を閉じて、何かに思いを馳せつつ返事をしたようだった。
「わたしにも気持ちを変えられるかもしれないと思うから。わたしはあなたとお話しします」
「その可能性……、なくはないな。しかし、容易ではない」
「ええ。でも、試してみます。見てるだけなのはやめたんです。ずっと昔に」
 それが今、この時。しかし……。
「今日はジーゼと話せて良かったと思う」マリスはジーゼの傍からスッと離れた。
「わたしもです。少しだけ、あなたを知りました。……でも、きっと、さよならです」
「ああ、さよならだ。こんな風に話すことはないだろう」
 マリスは一陣の風を巻き起こし、ジーゼのエルフの森を疾風の如く飛び去った。