12の精霊核

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48. hope in despair(絶望の中の希望)

「……賽は投げられたって言うんだろ? この場合」
 ラールの砂時計の砂は最後の一粒がちょうど下に落ちたところだった。
「神はサイコロを振らない。そういう風に言うの、やめてもらえないかしら。あんたの言葉を聞いてたら胃の辺りがキリキリしてくるのよ。こうタイトな時間流に身を置く時は嫌味もほどほどにね」
「それはそうとさ、ルーンに胃袋なんてくっついてるのかい?」
 ラールはクスリと爽やかな笑みを浮かべるとフイッと姿を消した。

(時計塔が背景になる場所……)
 デュレは息を切らして、豪雨の街を駆けていた。帰らなければならない。封印破壊魔法、久須那の復活、そして、“切り札”最後の最後にデュレはリボンから言伝をされた。“切り札”それがデュレたちの勝利の鍵になる。その鍵を持って帰らなければならない。
(――セレスとリボンちゃんの話を統合すると……、大聖堂は視界に入らない……)
 腑に落ちない。外に出てセレスにメッセージを残す必要があったとしても何故、大聖堂が見えないくらいの遠くに行かなくてはならなかったのか判らないのだ。メッセージと時間を知らせたいのなら、何も、地下墓地を出てすぐの場所でも問題はないはずだった。
(時計塔の文字盤は裏から照らされていた……。でも……)
 その光源は迷夢が転がり込んできた時に壊れていた。
(――因果律が崩壊する……)
 ただその一言が思い浮かぶたびにデュレは身震いをした。“崩壊”が実際にはどんな現象なのか、まるで判らない。口先で幾ら判ったつもりでいても、実感も伴わないのだ。かえって、それがデュレには恐怖を助長させる要因になっていた。
 そして、デュレは不意に気がついた。たったのさっきまでと何かが違う。静か。無論、雨音は止まることを知らない。それ以外で何かが静かだ。デュレはフと空を見上げ、キョロキョロとした。
「迷夢の魔法が終わった?」
 淡い黄色の障壁がキレイさっぱり消えていた。異界とこの世界の境界面を補強すると言った迷夢の魔法は成功したのだろうか、それとも、失敗してしまったのだろうか。迷夢が地下墓地大回廊にいるままで魔法を実行させ続けることが出来るのだろうか。僅かな間に様々な疑念がデュレの頭を駆け巡っていった。マリスをやっつけることよりも、或いはこっちの方がメインかもしれない。
(……でも、今は……)そんなことを思案している場合ではない。
 デュレは水飛沫を上げながら、再び走り出した。
 そして、見つけた。遠い遠いと思っていたその場所は思ってた以上にずっと近かった。ここからなら、時計塔の文字盤や、指針もはっきりと確認できる。間違いない。セレスとリボンの夢からの類推に過ぎないが、何故だか、自分がここからメッセージを送った予感めいた思いがあった。
 しかし、その肝心のメッセージはどうやって送ったらいいのか。
 時計塔に秘められた力、今考えるときっとクロニアスの精霊核に違いない、とリボンの力を借りて未来に向けメッセージを送り届けたのだとリボンは言っていたような気がする。としたら、その重要な片方が欠けたままでメッセージを送り届けたることは可能なのか。デュレは乗り越えようのない高くて分厚い壁にぶつかったような気持ちになった。そして、ウロウロ。
(……大きな壁にぶつかって、登れそうにも壊せそうにもなかったら、時としてその前でウロウロしてみるのも解決法の一つだと……。万に一つくらいは救いの手が……)
 この期に及んで神頼みみたいなことになるのも納得できないが、デュレ一人の力ではどうにも出来ないのも真実。そもそも、時を越えてメッセージを送る便利な魔法など知りもしない。
 と、全くの不意だった。
「――随分、遅かったな、デュレ。待ちくたびれた……」
 デュレは心臓が胸から飛び出すくらいに驚いた。時間的にみて、まだ、地下墓地大回廊にいるはずのリボンが目の前にいた。その胴を包帯でぐるぐる巻きにされて、その包帯が真っ赤に、さらにははみ出た白い毛並みが真っ赤に染まり、血が滴り落ちている。
「リボンちゃん……! どうして、ここに!」
「少し考えたら、判らないか?」
「ジーゼのところ、エルフの森にいるリボンちゃん? でも、そのリボンちゃんなら、わたしのことは知らないはずです。あなたとわたしが初めて会ったのはもっと未来の話で……」
「判ってるさそんなこと。けれど、あいつはこう言わなかったか? 二百二十四年、お前たちが来るのを待っていたと。最初から、知っているような素振りをしていなかったか?」
 言われてみたらそんな気がしないでもない。
「わたしたちはここで会っている?」
 リボンはパタパタと嬉しそうに尻尾を振った。
「さあ、急げよ。壊れたら、お終いだ。だが、歴史は流れる。デュレ、お前の居場所が永遠に失われるだけだ」
 難しくはないリボンの一言がデュレの心を深くえぐった。
「必ずお前は元の時代に帰してやるから、安心しろ。お前にはオレが持ってないものがあるんだ。こんなところで、朽ち果ててもらっちゃあ困るのさ」
 リボンはボロボロの身体を従えて、なお、瞳には眩しい煌めきを宿していた。
「お前に生きて帰ってもらえば、思い残すことはない」
「リボンちゃん、そんな。……一緒に帰ります。一緒に」
「今度ばかりはそれも叶わぬ夢だと思うぜ? 帰ってもいいのはオレじゃないんだ」
 デュレはリボンの足元も見た。少しでも気を抜いたらそのままへたり込んでしまいそうなほどに、リボンの足は小刻みに震えている。相当無理して、ここまで来たようだった。
「それにまだ、やることが残ってるんだ。水色の精霊核の欠けらをジーゼに返さなくちゃな。……あれもなくせない物なんだ。あれがジーゼの手にないとクリルカが生まれない。そして、お前たちがここに来ることもない――」
 あのリボンはこのリボンに一体どれだけのことを教えたのだろう。知りすぎるリボンにデュレは何とも言えない不安を感じていた。
「……その方がいいのかもしれません。クリルカには悪いけれど、その方がこんな混乱を生じない落ち着いた時が刻まれるんじゃないでしょうか?」
「……どうだろうなぁ……」リボンは目を閉じて、そっと言った。「もう、十分すぎるほどこの時代はカオスに包まれている。今更中途半端なことをしても、混乱に拍車をかけるだけだと思う」
「例えそうだとしても! リボンちゃん、あなたと話したいことがたくさんあるんです。――それなのに、帰ったらあと十日しかない……」
「十日もあるさ。それにオレにはまだ、デュレとの二年が残っているさ……」
「考えようによっては……ね。だけど、多くのことを語るには足りないです。――それにわたしは知らない。きっと、あなたは話してくれない……」
「――かもな」まるで、とりつく島をなくすかのようにリボンは無下にデュレの発言を切っていった。「……ただ、今、この時を乗り越える方が全てに優先する」
「ええ……」
 リボンの言いたいことはデュレにはよく判る。しかし、理性が納得したからと言って、感情が納得するとは限らない。いつものデュレなら容易く湧きいづる感情を理性で封じただろう。でも、今は無理なのだ。傷ついたリボンを置いて、自分だけ帰ることなんて出来ない。
 狼狽え、物怖じしているデュレを前にリボンは吠えた。
「壊れる前に何としても帰れっ! それがデュレの使命なのだから」
「それが使命なら、リボンちゃんを連れ帰るのはわたしの義務です」
 デュレは動こうとしないリボンを抱き上げようと一生懸命になった。しかし、バッシュが軽々と抱き上げていたはずのリボンの身体はデュレが持ち上げられるほど軽くはなかった。
「バッシュの馬力を侮るなよ。……デュレじゃ、無理だよ」
「それなら、フォワードスペルで」
「それはやめておけ。今、シメオンのフィールドはとても不安定になっている。しかも、闇……魔の方に力場が偏ってるから、危険だ。空間制御系の魔法は暴走すると手がつけられない」
「判ってます。でも、リボンちゃんを失う訳にはいきません」
「失うんだよ。それは動かせない事実なんだ。他がどれだけ変わっても、これだけは変わらない」
「どうして、そんなに諦めがいいんですか。どうして。帰ろうと思わないんですか!」
「言ったろ? 帰ってもいいのはオレじゃないんだ」
「じゃあ、あなたは知ってたんですか。全部、全部知ってたんですか! そして、何食わぬ顔をして、ずっと何も知らない振りをしていた。そんなのって、ひどすぎます」
「そんなことオレに言われても知らないよ。あいつに訊けよ……。帰ってからそれくらいの時間はあるだろう。尤も、オレが話すとは思えないけど……な。さあ、ガタガタ言わずにメッセージを送って帰れよ。もう、時間もあまりない。この機を逸したら、お前は永遠にこの時代の虜になるぞ」
「しかし……」
 自分はこんなに諦めの悪いエルフだったのだろうか。親しいものを失う恐怖をこれ程までに感じたことはあっただろうか。デュレはリボンに少しだけ潤んだ眼差しを差し向けて、自問自答した。
「One for All. All for Oneだ。判るだろ。お前のためのみんな、みんなのためのお前だ」
「判ります。でも、それはあなただって同じことです……」
「オレはただのナビゲーター。それ以上でも、それ以下でもないんだよ。――さぁ、時計塔にメッセージを刻むんだ。それがデュレの最後の仕事……だろ?」
「そうです……。……終わりなのに始まりなんですね。……不思議な感じがします」
 ドォォォオオンン。嵐の頃合はますます強まるばかり。まさにデュレの知らない“あの”シチュエーションだった。閃光が走り、雷鳴が轟く。ずぶ濡れのデュレを執拗なまでに風と雨が叩きつけていた。いよいよだ。デュレは胸にそっと左手をおいて、胸の高鳴りを押さえようとした。
 目を閉じて、大きく息を吸った。
「セレス。時を越えてください……。わたしと一緒に……」
 違和感があった。何かが違うと直感が告げている。胸のドキドキは収まるどころか激しくなっていた。その間違いを正せなければ、とんでもないことになると思ったのだ。さっき、ここに辿りツタ時は間違いなくここだと確信した。けれど、何かが変わった。場所はほぼ百パーセントここだろう。でも、違和感が拭えない。その理由が何なのかデュレは自信の明晰な頭脳を駆使して考えた。
「あの時計の針が……違う、今じゃない……」時計塔を身ながらデュレは呟いた。時計塔の針は十三時を指すどころか、未だ、十二時をも指していなかった。「リボンちゃん! ここではありません。セレスの受け取ったあれはイメージだったんです。実際にわたしの言うことと、セレスの夢の間には大きな隔たりがありそうです」
「何だって?」リボンは把握できずに速攻で問い返した。
「だって、繋がらないんです。何も繋がらないんです」
 刹那、リボンは理解した。情報は足りないけれど、デュレの意図するところは通じたのだ。時の流れの小さな綻びが積み重なって、因果律が崩壊しかけてる。これ程の緊急事態ならば、時の精霊、半支配者たるクロニアスが出っ張ってくることはほぼ確定とリボンは考えた。となると、これから先に容赦のない対応をしてくるのは必至だ。クロニアスは時の秩序を維持するためなら何事も厭わない精霊たちなのだ。リボンは奥歯を食いしばった。
「時計塔へ急げ。ぐずぐずしていたら帰れなくなる。……恐らく、因果律が崩壊する」
「え……?」デュレは言葉にならない言葉を漏らした。
「セレスの見た夢の印象とこの場面があまりにかけ離れていると言うことは、お前たちの1516年とこの1292年が断裂を起こし始めたんだ。刻まれた歴史とは大幅に異なる致命的な何かが起きたとしか考えられないな……」
 無論、リボンはこの数日間に何が起きたのか全く知らないのだ。今まさに地下墓地大回廊にいたはずのリボンなら、時の動輪とも言うべき幾つかの事象が変わってしまったことを知っていた。アルケミスタのあり得ざるレイヴンの襲撃、破れてしまった久須那封印の絵。
「じゃ、じゃあ、先に帰ったセレスはどうなるんです……?」
「そっちは恐らく無事だろう。オレは瀬戸際なんだと思う。時間軸が乖離を始める……な。時の流れが復元力を越えて破壊されそうになると、時の流れは分離する。――この辺り一帯の時間は分かれようとする幾つかの時間流で共有される部分になるだろうな……。そして、クロニアスの尤も避けたかった事態だろうなとオレは思うぞ。今ならまだ間に合う。デュレが帰るだけなら、何とか」
 デュレを見詰めるリボンの目は真剣そのものだった。
 そして、リボンの言いたいこともまた痛いほどに伝わってくる。デュレは瞬間、苦闘の表情を浮かべた。端的には負けたのだ。時の流れに身を委ねていれば、必然に導かれる結果に辿り着けずに大きな節目を迎えようとしているのだ。
「……リボンちゃん……」デュレは戦慄いた。
 何も出来ないうちに何もかもが終わろうとしている。手に入れた“ドローイング”を解除する魔法や、封印破壊の危険な魔法も覚えたというのに全てが水の泡になってしまうかもしれない。
「……ああ、気にすることはない。一つの“可能性”が“現実”になっただけだ。何時、どこにでもある珍しいことじゃない当たり前のことが起ころうとしてるだけだ……」
 例え、そうだとしてもデュレの小さな肩にその事実はあまりに重すぎた。
「――わたしがいけなかったんですか……? わたしが間違ったから……」
 デュレの声は震えていた。リボンは目を閉じて首を横に振った。
「それは違う。この時代は元から不安定なのさ。クロニアスがよく物憂げに言っていたよ。直線たる時の流れの中で唯一螺旋状になり、カオスに包まれた時間だとね。……オレたちにとっては一定不変に見える時の流れも、クロニアスにはいわば、三次元のモノと同じなんだ。何時どこにでも行けて、手を触れることが出来る。そして、クロニアス的時間の中では“歴史”は変化し続ける。……とか何とか言ってたことがあるらしいぞ、人伝の話ではな」
 あまりのややこしさに流石のデュレも短時間には完璧には理解できなかった。
「……ただ、次の螺旋が描かれなくなるだけだ。気に病むな、デュレ。お前は……お前たちは何も間違っていない。淘汰されるはずの可能性が生き残るだけだ。――お前たちの時代は変わらない。何故なら、時間とは大樹の枝のようなモノだからだ……。帰れ、デュレ。完全に枝分かれを果たしてしまうとお前は帰る場所を失う――」
「けど、まだ終わった訳ではありません。わたしは十三回目の鐘の音を聞くまで諦めません。――新しい歴史が生まれる。それもいいのかもしれません。けれど、もし、わたしがクロニアスだったらそんなことは許さないと思います。」
「……そうだな――」
 デュレは肩越しにリボンの姿を確認すると、先を急ごうとした。
 その時。全く予期していなかったことが起こった。揺れた。初めはデュレ自身がめまいを起こしたのかと勘違いするほど、微弱に。それから、不気味な地鳴りが響きだし、街中が激しい震動に見舞われた。立っていられない。デュレはその場に座り込んだ。
「地震……? いいえ……」デュレは即座にその可能性を否定した。
 あり得ないとまでは言えないが、地震皆無のこのリテールにあってこの時期の地震は記録がない。これが地震だったとしたら、ほぼ全ての住民が避難したと思われるシメオン市街だけの局所地震などありえない話だった。幾ら、局地的でも広範囲にわたり、必ずどこかに記録が残る。
「デュレっ!」リボンの声にデュレはハッとした。
 打ち続く激しい揺れに耐えきれなくなって、そこかしこの壁や、石畳に亀裂が入る。しかも、それだけではなくいよいよ限界を超えて、建物が崩壊し始めた。壁が崩落し、デュレを目掛ける。けれど、そのデュレはその石の塊を凝視したまま動けない。
「デュレっ!」
 リボンは咆哮をあげた。自分の命に代えてもデュレを助けなければならない。リボンはまともに動けもしない身体に鞭打って、無理に自らを駆った。痛みなどどこかに消し飛ばし、半ば止まったように凝縮された時の中をリボンは駆ける。
 傷が開いて、血飛沫が飛び、気を失いそうでも止まれない。
 リボンはデュレの服の襟に噛みついて、力任せに引っ張った。
 ドガガっ! ホンの少し前までデュレの立っていた場所に塊が降り注いだ。デュレは顔面を蒼白にしてゴクリと唾を呑んだ。もし、リボンが引っ張ってくれなければ、自分は瓦礫の下敷き。改めて思えば背筋も凍り付くような出来事だ。
 そして、デュレはハッと気がついた。ここより危険な場所にあの二人はいるのだ。
「リ、リボンちゃんが! リボンちゃんと迷夢がまだ、大回廊に」
「行くなっ」リボンはデュレのシャツを引っ張る。「行っても無駄だっ」
「どうしてっ! だって、彼はあなたで、あなたは彼なんでしょう?」
 興奮してそこまで言って、デュレはハタと押し黙った。リボンが“予兆”を感じることをデュレは考えに入れていなかったのだ。もしかしたら、リボンは、もう一人の自分が現れたことによる相乗効果か何かによって、本来的に不明確になりやすい自分の未来を手に入れたのかもしれない。その手に入れた未来は恐ろしい現実を突きつけているのかもしれない。
「……大回廊が潰れたり、そんなことはありませんよね……」
 しかし、辺りの様相と照らし合わせて考えると、それも虚しい幻影なのかもしれない。
「ねぇ……、リボンちゃんはこんなことで死んだりしませんよね? だって、もしものことがあったら、セレスはバッシュだけじゃなく、大事な人を二人も一度に……」
 リボンは答えなかった。既に余計なことを口走っているかもしれない。だけど、これ以上、不用意なことをデュレに教えることは出来ない。デュレはリボンの瞳からその決意を読み取った。
 ゴーン……、ゴーン、リンゴーン……、ゴーン……。
「鐘が鳴ってる……」
 デュレは時計塔を見やった。文字盤の針は十二時きっかりを指し時を告げる。
 時計塔はまだ、生きているのだ。しかし、自らの打ち鳴らす鐘の震動に傷ついた時計塔は耐えられない様子だった。鐘が一つ打ち鳴らされるたびに亀裂が大きくなり、ひび割れからぱらぱらと壁が奈落に吸い込まれるかのように地面に落下していた。それでもなお、時は刻まれる。
 リンゴーン、ゴーン。ゴーン――、ゴーン、リンゴーン。
 そんな時計塔の遙か上空から下界を見下ろす影が二つ。一つは砂時計をぶら下げ、もう一つは大きな鎌をその質量がゼロであるかのよう軽々と持っていた。
「あ〜あ、もう、完全に時間切れのようだよ、ルーン」
 ラールは砂時計をルーンに見せた。
「この“物語”もいよいよ不遇の終焉を迎えるんだね。……ルーンのせいで」
「だっ、誰のせいよ」
「ルーンのせい。ぼくのせいじゃないよ。言っておくけど。何度も何度も、ぼくが早めに手を打とうと言ったのに、それを聞かなかったルーンが悪い」
「何でもかんでもわたしのせいにしないでよ」
「それでも十三回目の鐘は鳴る。けれど、所期の目的を果たすことは出来ないよ。壊れたのか、壊したのかどっちだろうね?」
 ゴーン、ゴーン。リンゴーン……、ゴーン……。
「――十二回……」
 次の瞬間、時計塔は自らの使命を終えて安堵したかのように崩落を始めた。無惨であり哀れ。ガラスの文字盤はただの煌めくガラスの欠けらに、鐘楼も石くずに成り果てて地面に降り注ぐ。
 ゴゴーンっ!
 十三回目の鐘が鳴った。崩落する時計塔の中で、鐘に煉瓦でも当たったのか十二回目から十数秒を隔てての十三回目だった。一際鈍く、けれど、他の十二回よりも際立ってその音は雨音に支配された死に絶えた聖地・シメオンの町に響き渡った。
「こんなことって……」あるはずがない。
 デュレはただただ呆然とするばかりだった。
 心臓が真綿で締め付けられるように苦しくなり、いわれのない焦燥感がデュレを襲う。セレスの夢が真実と疑わないのならば、この一時間のズレは一体何を意味しているのだろう。さらについでに、よくよく考えてみると十三回の鐘が鳴る正時はない。思い起こしていくと時計塔の鐘の音は十二時間制になっていて一回から十二回までしか鳴らないはずなのだ。
 としたら……。デュレの心臓がトクンと一つだけ大きく脈を打った。退路は断たれた。セレスの夢とシーンに違いがあるとはいえ、きっとそうなのだろう。確か、セレスからデュレが夢の中で十三回目の鐘が鳴る前に云々と言っていたと聞いた。
 何もかもが大幅に変更された中での唯一の共通点。この状況下では短絡的に答えを導くのは避けなければならないかもしれない。
「……帰れない……」デュレは呟いた。
「そう、このままじゃ、あんたたちは帰れない」
 現れたのは白い衣とトパーズ色のマントを身につけた、大鎌を持った少女と砂時計を持った少年がこの豪雨にもかかわらず全く濡れもせずに上空に佇んでいた。まるで分厚い透明なガラスの板に乗っているかのように。
「約束の時間は過ぎた。この“フラグメント”を永久に封じます。“ここ”は壊れてしまったわ。螺旋にも閉じた円にもなり得ない」
「だから、口を酸っぱくして忠告してたのに。きかないからこんなことになるんだよ」
「うるさいわね。こんな時に恥さらしな」
「この白狼も連れて行きたいんです。あの、こっちのじゃなくて、あっちの……」
 デュレはいいあぐねた。どちらも同じもので時間的な違いはどう説明したらいいんだろう。
「お願いです――」
 何故、そんなことを口走ったのか、当のデュレも全く判らなかった。ただ、直感的にこの少年少女が何者なのかを感じたのかもしれない。
「ダメよ、リボンちゃんは連れて行けない。そう言うことになってる」
 ルーンは大鎌を片手で軽々と持ち上げて、嶺をデュレの喉元に差し向けた。
「そう言うことになってるって。そんな言葉でわたしを説得できるとでも……」
「あんたが納得しようとしまいと関係ない」ルーンは毅然とし、感情を伴わない冷たい態度を崩そうとしなかった。「リボンちゃんのために時の理を壊せない」
「もう、とっくに壊れてるよ。この場合の要点は胴被害を最小限に止めるかだよね?」
「うっさいわね」ルーンは横目でジロリとラールを睨み付けた。
「……リボンちゃん……って呼びました……?」
 次の瞬間、ルーンはハッとしたような顔をしたが、すぐに平静さを装った。
「何で、見ず知らずのあなたがニックネームを知ってるんです? その名前、セレスが最近になってから付けはずだから、知っている人は少ないはずです。……あなたは誰ですか……?」
「――クロニアス」リボンだった。
「あららぁ。精霊仲間の約束を破ったらダメだよ。シリアくん」
 ルーンの右斜め後ろでのほほんと佇んでいたラールが言った。
「エマージェンシーコールだ。もはや、レッドアラートだろ? そんなこと言ってる場合か!」
「それでも極力避けてもらわないとね、シリアくん。特に第三者のいるところでは」ラールはチラとデュレを見澄ました。「ダークエルフのその娘、洞察力が鋭そうだし」
 デュレは正面に陣取った一見、風変わりな精霊を観察していた。お揃いのトパーズ色のマントと白い衣。砂時計と大きな鎌。女と男。姉弟? デュレが会ったことのある精霊としては初めての二人連れだった。
「――やはり、この“フラグメント”は封じた方がいいみたいね。螺旋じゃなくて、完全な直線になるように。どうして、ここだけこんなややこしくて滅茶苦茶なことになったのかしら?」
「そりゃあ、もちろん、魔力のある連中が遠慮なしに暴れ回ってるからに決まってるだろ」ラールは追い詰められた形跡もなく、嬉々として言う。「ま、天使兵団がある頃も凄いんだけど、あれは力を行使するだけで単純だから、こうはならないんだ」
「……あんたはいっつも喋りすぎなの。そのうち、本気で刈っちゃうわよ?」
 ルーンが鋭い眼差しで睨め付ければ、ラールは大事そうにそっと首を押さえた。
「わ、わたしは生まれるんですか……?」
 デュレは不意に狼狽したようにクロニアスに問うた。恥も外聞も何もない。ただそこにあったのは突き上げるような途方もない恐怖。デュレが帰らなければ、自身が生まれないような気がしてならない。デュレの誕生年と純白の年代記にある一つ目の空白の終わりの年との奇妙な一致。この1292年での事象がキレイに片付いた時、その空白が埋められるのなら、何かがありそうな気がしてならない。
 ルーンはデュレの眼前に立ち、凍り付くような厳しい眼差しで見詰めた。
「あんたは――生まれない。生まれるのはあんたにそっくり、名前も同じの別人よ。“螺旋”の中にある間はあんたでないあんただったとしても、そこかしこに共通点は存在した。けれど、このフラグメントが崩壊した今、共通点も容姿以外になるくなるわ。あんたは存在しなくなる。けれど、1516年に別のあんたは存在するわ。従って、あんたの存在価値は消滅する」
「……消……滅する……?」
「イエス。いてもいなくても、もう、どうでもいいのよ。はっきり言って」
 デュレはルーンの発言にまるで金槌で殴られたようなひどいショックを覚えた。自分の存在を全否定されたのだ。そんなことはあり得ない。けど、最近、あり得ないこともあり得るのだと学んだのだ。レイヴンのアルケミスタ襲撃もそうであり、あのリボンのことでさえそう。デュレは信じて疑わなかった“歴史”がかくも脆く崩れやすいものだとは思い至らなかった。
「わたしが……いてもいなくてもどうでもいい……?」
「別にあんたをとって喰おうってんじゃないのよ。そこは勘違いしないでもらいたいわ。この時の流れにおいて、あんたの価値がなくなった“だけ”なの。ただ、1516年にデュレに二人もいてもらったら困るから、このまま、ここに居て欲しいのよ。それだけ」
「ほ、他のみんなは……?」
「あん?」ルーンは瞬間、不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「……物事は正確に言わなくちゃダメだよ、ルーン」ラールが首を突っ込んだ。すると、ルーンの鋭い眼差しがラールの瞳を貫いた。「だって、そうだろ? このデュレの存在価値がなくなるのは“新しい1516年”の方。彼女の来た1516年は今もなおデュレの帰りを待ち続けてる」
「わたしはあんたのそう言うところが嫌いなのよ」
 ルーンは厳しい表情で鎌の先をラールに向け突きつけた。
「この時代、この街は黒き翼の天使の妄執に取り憑かれ永遠の闇を彷徨うのよ。もう、時間がないの。それまでに決着をつけなくちゃならないわ」
「これ以上、純白の年代記に書き損じを増やすことは出来ないモノね?」
「だから、あんたはうるさいのよ。何でもかんでも喋っちゃって。少し、黙っていなさい」
 と、瓦礫の向こうから黒い人影が歩いてきた。雨に打たれるのも辛そうにそれは近づいていた。十字路を通り抜けようとした時にこちら側の人影、つまり、デュレやリボン、クロニアスの陰を見つけたのだ。人気のないこの場所で何かにすがりたい気持ちが働いたのか。
「……どうして……、デュレとシリアがここに居る……?」
「レイアさん! どうして、あなたがここに?」デュレ。
「助けに来た。と言いたいけど、逃げ遅れてこの様さ。……」そして、レイアはちらりとリボンの方を向いて、躊躇いがちに言葉を繋いだ。「バッシュに頼まれたんだ。その……シリアと一緒に居てくれと……。あ……わたしではバッシュの代わりは務まらないかもしれないけど……。もし、赦してもらえるなら――」
「オレがお前の何を赦せばいいんだ……? オレは何も知らない……」
 リボンがレイアの指し示した事柄を知らないはずがない。傍目から見るデュレはそう思った。何しろ、レイアはリボンに大けがを負わせ病院送りにした張本人。記憶喪失になったのでないなら、それはリボンの優しさなのだろうか。
「でもっ! あ……。そんなはずは……!」逆にレイアが狼狽えた。
「……この怪我はオレが勝手にコケただけさ。気にするな……」
 レイアはしばらくなんて答えたらいいか、判らない様子で涙ぐんでいた。
「あ……、ありがとう……」
「礼なんか、言われる筋合いはない。オレは……いや、何でもない。これから、頼むな」
「……で、そっちはまとまったの?」ルーンは不機嫌に腕を組んで、仏頂面をしながら、石畳をタンと一つ踏みならした。そして、レイアをズビシと指した。「あんたは人の話を邪魔しないの。ここではわたしが“ボス”あんたらは木っ端以下なのよ」
「……相変わらず、口が悪いな、ルーンは」
「と、ともかく、この時代は封じることに決めた。わたしの決定に背くことは許さない」
「ここを閉じてしまうんだったら、一人くらい帰しても変わらないだろう?」
 ラールは頭の後ろで腕を組んで覇気のないような、高飛車な態度でルーンに迫った。すると、ルーンは勢いよく振り返ってラールをキッと睨み付けた。
「わたしばかりに考えさせないで、あんたも考えなさいよっ!」
「だって、いらない口出しをすると、ルーンはすぐ怒るじゃない。だから、ぼくはずっと静かにしてるんだよ。何時だったかなんて、もう少しで首を飛ばされそうだったんだ。懲り懲りだよ」
 ああいえば、こういうで、ルーンは抗う言葉をなくしてしまった。ルーンは大鎌の柄をギュウと力一杯握り締めて、度を超えた怒りに頬を紅潮させていた。
「こんな時に姉弟ゲンカなんてみっともない真似はいい加減にしろよ。それよりどうするんだ?」
 リボンは諭すようにいい、そして、静かに問い掛けた。