12の精霊核

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59. victory or defeat(勝敗の行方)

 かつて、自分と同じ名を持つ退魔師が遙か西方に向かったという。サラフィの寺院を旅立ち、道のりの長い街道を行き、黒き湖をかすめてアルケミスタまで。その地はリテールと呼称されていた。少年は遠い歴史の向こうから呼び寄せられるかのように旅に出た。
 誰かが呼んでいる。誰かが自分を必要としている。そんな思いが募ったのはいつ頃だろう。
 退魔師兼薬売りとして旅慣れた彼にこの旅はさほどの苦でもない。けれど、誰が呼んでいるのだろう。その疑念だけが道中ずっと晴れなかった。ただ、少年は歩き続ける。

「……魔法陣……!」
 マリスの瞳には巨大な魔法陣が映った。淡い光を放つ円、六芒星、閉ざされた瞳。それがまるで地上絵のようにはっきりと見て取れた。自分を送り返すための最終手段。攻撃魔法を使って破壊すべきか。マリスは瞬間の短い時間で考えた。
(……魔法陣の破壊は行き場を失った魔力の暴走を招く……。だが、わたしの魔力を注ぎ込み、不安定にさせてなら、迷夢が上手くやるか……)
 どうしたら、無傷で脱出できるか考えに余念はない。魔法を途中で崩壊させると、魔法の実行にあてられるはずだった魔力が行き場を失い凶器となる。小さな魔法なら心配するほどのことでもないが、逆召喚クラスの魔法となると考慮しない訳にはいかない。
「よからぬことを考えるな。大人しくしていろ」久須那は言う。
「貴様も巻き添えだぞ。貴様は異界には戻らないのだろう!」
「――ターゲットはお前だけだ。お前だけを送り返せるように特別なセッティングを施した。――故郷を……なくしたと言っても、マリス、お前の帰る場所はそこしかない。――あそこなら、お前を温かく迎えてくれる――」
「他人事だな。貴様はいいだろう。だが、わたしはどうなるッ!」
 久須那は返答に窮した。自分には居場所がある。召喚から千五百年あまりを経るというのに、それでも久須那を温かく迎えてくれた人たちがいる。しかし、マリスには。
「それでも帰れ。どう言おうと、お前の居場所はそこにしかない」
「ああぁ! わたしは異界になど帰らんぞ。わたしはここの支配者になる!」
 マリスはありったけの魔力を放出しようとした。迷夢はその様子を気取った。恐れていたことが起ころうとしている。どうやら、マリスから十分に魔力をそぎ落とせていなかったようだ。このまま魔法陣に莫大な余剰な力を注ぎ込まれたら、魔法は崩壊する。
 そうなってしまったら、逆召喚魔法をもう一度行使するだけの魔力は残っていない。
「わたしの邪魔はさせない!」マリスは叫ぶ。
 魔法が内側から崩壊していく。逆召喚魔法のために積み上げた全てが崩れる。崩れてしまったら、全員を巻き添えにして瓦礫の遺跡が更地へと姿を変える。流石の迷夢もマリスの魔力が相乗された魔法陣を苦もなく扱うのは難しかった。
「迷夢! 一旦、魔法を崩して、魔力を保持しておけ」
 と、まるで助け船が出されるかのようにリボンの怒声が届いた。だが、リボンの指示する作業をこなすのは簡単ではない。つまり、どう転んでもロクでもないことは間違いない。
「え〜! 面倒くさいぃ。回収して、タイミングを計って、もう一度やれって言うんでしょ? まぁ、百歩譲ってあたしはいいとしても……、みんなに負担が大きいんじゃない?」
「――お前がそんなことを言うようになるとは思わなかったな」リボンはニヤリとした。
「な、何言ってるのよ! あ、あたしはみんなを心配してるんじゃなくて、もう一回、逆召喚魔法を実行する時の心配をしてるのよ。だって、そうでしょ? くたびれて、集中力を切らされたら、何も出来ないわよ? いくら、あたしが麗しの迷夢ちゃんでもっ!」
「……心にもないことを……」リボンは面に笑みを湛えながら、言う。
「〜〜。だから、そんなんじゃないって!」
「そこまで言うなら、そう言うことにしといてやる。だが、魔法が暴走しかけてるぜ?」
「ひぇ?」迷夢は急いで魔力の回収に乗り出した。「スプールフィールド!」
 迷夢の意思にかかわらず魔力を回収し、立て直さざるを得ない状況になってしまった。
 マリスがもたらした魔力により魔法陣が不安定にされた。もうホンの少しでも早く手を打てば面倒な事態は免れたかもしれないが、今のミスで修正は不可能なほどに安定が乱されてしまった。ひょっとしたら、たった今リボンがそうなるように仕向けたのかもしれない。マリスの魔力をも逆に利用してしまい、マリスの魔力に負けないだけの魔法陣を作り上げろと。無論、迷夢にはやり遂げる自身はある。正直なところ、面倒くさいのだ。
「いやぁ……。面倒くさいぃ」そして、曇った表情がパッと明るくなった。「キミが続きをやってくれるなら、いいわよ。リボンちゃん!」
「何を言うか。お前がやれ。次はないぞ。絶対に成功させろ」ドスが利いている。
 しかし、そうなると逆召喚の準備が出来るまで、マリスをとどめておかなければならない。今回はマリスに目的を知られているから、黙らせているのも簡単ではない。とにかく、何もかもが自分たちに向かって不利な条件ばかりが揃っている。
 その一つでも、すぐに打破できれば……。だが、望むだけ無駄だろう。力業でねじ伏せるしかない。五分、十分とマリスを止めておけるか。逃がしてしまえば、四度目の悪夢再来。それだけは多少の犠牲を払ってもブロックしなければならない。今、この場で犠牲を払うことになっても、将来起きるであろう戦いの犠牲よりも十分少ないだろう。
 二つのことを天秤にかけ、リボンは決断を下した。
 リボンはマリスに立ち向かうべく、久須那のいる場所へ向かった。マリスに対抗するためには久須那の協力は不可欠だ。二人の魔力を相乗しても互角にはならないだろう。
「久須那……。手伝ってくれ。もう少しだけ、時間稼ぎが必要になった」
「――判った。それでどうするつもりだ?」
「やつのケモノ嫌いを利用させてもらうさ」リボンはにやりとした。
 作戦にあてがあるのでもない。迷夢が体勢を立て直し、逆召喚魔法を再実行するまでの時間が稼げればいい。欲を言えば、マリスの魔力をもっと削れればよいのだが、そこまでは望みすぎだろう。リボンは久須那のバックアップを取り付けると、マリスに立ち向かった。
「――バカの一つ覚えだな。もっと、大人になったものだと思っていたぞ」
「ああ、そうさ。オレはお前の知っているはな垂れ小僧じゃないんだぜ?」
 瞳には誰にも負けないほどの煌めきを湛え、リボンは駆ける。魔法は使わない。魔法陣上の巨大な魔力のぶつかり合いは魔法形成の妨げになる可能性が大きい。マリスの魔力に十分過ぎるくらい影響を受けているのだからリボンが余計な影響を与えるのは好ましくない。そもそも、リボン単体では魔力、魔法共に敵わない。ならば、物理攻撃の方が効果は上がる。
「――目覚めよ、光の瞳」マリスの右手のひらに小さな白い軌跡の映える魔法陣が形成された。その二重円、六芒星の中心に描かれたまぶたの隙間から、閃光が走る。「その美しき光玉の彼方よりあまたの次元を駆け抜ける真実の道しるべを我が前に現せ。開け、クラッシュアイズ!」
 次の瞬間、瞳がガッと開き、光が一直線にリボンを目掛け激しくほとばしり出た。リボンは我図な間にクラッシュアイズの流れる筋を読んだ。リボンは力強く地面を蹴ると華麗なジャンプでクラッシュアイズの光の筋をかわす。身体の動きに無駄がなく、切れがある。マリスを止めておけるのは今や自分一人のみ。そんな切羽詰まった思いが疲れ切ったリボンの身体を突き動かしている。
「ええい、寄るなっ! 汚らわしい!」
 リボンは全く臆することなく、マリスの顔面に飛びついた。それもマリスにしてみたら、最悪の極み。マリスは両腕でリボンの胴体をひっつかんで引きはがそうと躍起になった。だが、リボンの爪が肌に食い込み、離れない。
「何、遠慮することはないだろう。オレの毛皮はふかふかでふさふさ。島エルフの母子二代にわたって大人気なんだぜ? お前もご相伴にあずかってみたいだろう?」
 かなりおかしなことを言っていると思いながらも、リボンは言う。そして、リボンに気をとられたこの瞬間こそがマリスの動きを封じる最大の好機。久須那は精神を集中し魔法を練った。一撃必殺である必要はない。リボンと協調できる攻撃が望ましい。
「スパークショット!」
 久須那はスパークショットを選んだ。効果範囲は極狭いが、リボンを傷つけずにマリスの動きを封じられる。マリスに差し向けた久須那の左手人差し指から弾丸状の閃光がいくつもほとばしった。瞬間、マリスは地面を蹴り、足を振り上げた。久須那のスパークショットは的を外す。
「……ちっ!」久須那は舌打ちをした。
 久須那の空振りを受けて、次にはリボンが仕掛けた。矢継ぎ早に仕掛けることで、マリスの動きを止める。運がよければ、マリスの魔力を削ぎ落としすことも出来るだろう。
「フローズンビンディング!」
「そうはいくかぁ――!」
 マリスは肌が引き裂けるのも構わずにリボンを引き離し、投げ飛ばした。逃れた。フローズンビンディングは対象者の身体に触れていなければ発動できないという決定的な欠点をついたのだ。マリスはフローズンビンディングで二度までも憂き目にあっていたために分析をすすめていた。
「……流石に気が付いたか……」
 リボンはクルンと華麗に身を翻し、地面に着地を決めた。
 マリスの動きが封じられないなら、苦戦は必至だ。しかし、リボンは戦意喪失などは全くしていないようだった。それどころか、ますます、やる気を燃やしている。少しでもマリスの魔力をそぎ落とし、大人しく逆召喚魔法を受け入れさせる。
「久須那、同時にいくぞ!」
 個別の作戦行動でどうにもならないのなら、二人同時に行動するしかない。久須那とリボンはマリスに飛び掛かった。久須那はイグニスの弓を変幻させた剣を持ち、リボンは己の牙を武器にした。マリスは二人に一瞥をくれた。二人で来ようと、三人で来ようとマリスにはさほど影響はない。怒り心頭のマリスには特にそうだ。
 だが、マリスは久須那とリボンにはもはや興味を示さなかった。キーポイントは久須那やリボンにはなく、魔法陣を形作っているメンバーにあることを悟ったのだ。あの魔法陣さえ壊してしまえば恐れるものは何もない。そのあとで、改めてリボンたちを料理しても十分に間に合う。マリスは二人の相手をすることはやめ、ヒトで形作られた魔法陣に体を向けた。
「――我が魔力よ、この右手に集中せよ」
 刹那、マリスを取り囲んだ雰囲気が変わった。手のひらの先にはポウッとまん丸の光の塊が浮かび上がっていた。光弾でもクラッシュアイズでもない。ただそれら以上の何かを感じさせる。光……普通は善とされるものが異様なほどの禍々しさを放っている。
「光と炎の全てを賭けて、闇を滅する刃となせ。己の欲望、破壊の衝動に身を委ね、本能のおもむくままに大地を駆け抜け、我が右手に居場所を求めよ……」
 光の球はさらに体積を増した。それ自体がエネルギーであり、その大きさに破壊力が比例する。マリスは全魔力をその球体に注ぎ込んだ。その球体が二百メートルの魔法陣を全てを消し飛ばせるまでに成長させる。実際にそれを使えば、魔法陣範囲を消滅させるだけでは飽きたらずに、シメオン遺跡の三分の二以上はなくなってしまうだろう。
「――マリス。……その魔法はよすんだ……」半ば呆然としたように久須那は言う。
「貴様の指図は受けない」マリスは激しい眼差しで久須那を睨み付けた。「さあ、全てを滅する。さもなくば、我が前にひれ伏せ、ひざまずけ!」
「ダメぇ!」シルトが叫んだ。
 その叫びと同時に漆黒のシールドが立ち上がり、マリスの進路を妨害した。しかも、それだけではない。あろう事か、マリスの球体がシルトのシールドにあい、分散して消え失せてしまった。流石のマリスも驚きを隠せずに、見るからに動揺にしていた。
「……貴様はわたしに刃向かうつもりか。――貴様は何だッ!」
「デュレに手をあげるヒトは誰だって許さないんだから……。……こ、怖いけど……」
 シルトはデュレに寄ってくるとデュレの衣服の裾をギュッと掴んだ。
 天使の光とシェイドの闇。敵ではないが、互いに相容れぬ存在だ。反発する光、無関係の氷の属性を持つものが対抗するよりも闇が高い破壊力を持つことは疑いようがない。そして、リボンは唯一、互角に渡りあえるかもしれない人材を見出した。闇と光の精霊は数多い精霊の中で中核に位置する。精霊の力関係は個人差もそれなりにあるが、時を司るクロニアスを頂点に闇と光の順に降りてくる。シルトは幼い精霊だが、“もしかしたら”が起こるかもしれない。
「――シルト……。……お前がマリスに立ち向かえ」
 あらぬ方に事態が展開しつつある。シルトは物怖じして泣きそうな表情をした。
「ワ、ワタシ、――一人じゃ、イヤ。デュレ……?」シルトはデュレに助けを求めた。
「――デュレ、シルトと二人で行け。お前らなら何とか出来る」
 こうなるとは全く予想していなかった。デュレはリボンの瞳を見詰めたまま押し黙った。手負いの天使と戦うなんて、一生に一度あるかないかに違いない。その一回がまさに今だ。
「でも、わたしとシルトが抜けたら、魔法陣は……」
 聞くだけ野暮だと判っていても聞かずにはいられなかった。
「オレと久須那が空いた場所に入る。――出来なくてもお前たちがやるしかない」
 久々に聞く無茶な論理。けれど、満身創痍の二人が踏ん張るより、実戦経験は少ないが、総合的な魔力で勝る二人で何とかする方がいいのかもしれない。経験不足は絶妙な指示を飛ばせれば補えるが、この状況下で魔力不足を補うのは不可能に近い。
「……。判りました」デュレは覚悟を決めた。「シルト、行きましょう……」
 信頼は出来る。闇の精霊が鍵になるかもしれないと仄めかしたリボンの気持ちが判る。もしかしたら、この行き詰まった局面を打開できる唯一の鍵がシルトなのかもしれない。
「デュレ……。お守り……。あたしにはこんな事しかできないけど……」
 セレスは腰に付けた短剣をサックごと外すとデュレに投げ渡した。どんな時も肌身離さず持っていた短剣を渡すのはマリスを倒せるのはデュレしかいないとそれとなく感じ取っていたからだ。セレスとデュレは永遠とも思える数秒を見詰め合った。
「……ありがとう」デュレははにかんだ笑みを浮かべた。
「デュレ!」シルトが叫んだ。
 停滞した隙に、マリスが迫っていたのだ。デュレは動けなかった。まだ、何も考えていないのだ。セレスのように本能で攻撃が出来たらいいと思う。けれど、自分にはそんなことは出来ない。マリスに一撃もお見舞いしないうちにやられてしまうのかと思った瞬間、デュレの視界を白い塊が横切った。リボンが剣を握るマリスの右手首に噛みついた。
「! くそぉ! このケモノめっ!」
 マリスはひっついたリボンを引きはがそうと躍起になり、膝蹴りを食わした。それでも、リボンは離れない。デュレが準備し終えるまでマリスを翻弄するのは自分の役割と心得ているかのように。
「わたしの邪魔をするなぁ!」
 マリスはリボンを腕にぶら下げたまま腕を振り上げた。重い。だが、そんなものは執念で吹っ飛ばせる。執念さえあれば、小娘の一人や二人ものの数ではないはずだ。マリスは剣を振り下ろす。デュレは咄嗟にセレスから受け取った短剣を鞘から抜き、太刀筋にかざした。運がよければ、その狭い刃で剣を受けられる。さらに運が味方をしてくれたら、止められるに違いない。
 ガキィ! 止まった。
「こ、これからどうしたらいいんですか?」
「体をかわせ!」誰かが叫んだ。
 けれど、剣術や体術の心得のないのにそんな具体性の欠くアドバイスをもらってもどうにも出来ない。デュレは自分で解決策を見出すしかなかった。自分の細腕では数十秒もこうしてはいられない。マリスの剣を止めただけでも十分すぎるくらいの奇跡なのだ。
 マリスは一旦、剣を引いてリボンを強引に蹴り飛ばし、再び、デュレに振り下ろした。
「死ねぇ!」マリスの悪意の眼差しがデュレを襲った。
 もう、防ぐ手立てがない。デュレはギュッと目を瞑って、身を固くした。魔法で応戦するにしろ、短剣を向けるにしろ間に合わない。何もかもを諦めかけた時、声が聞こえ、何者かに突き飛ばされた。地面にスライディングをしてしまい、激しく身体を擦りつけた。
「デュレ! 大丈夫?」シルトのまだあどけない顔が心配そうにデュレを見詰めていた。
「シルト……。――ええ、大丈夫です」
 あまり大丈夫でもないが、もはや、やる他ない。シルトは精霊だから魔力はデュレを軽く凌駕しているはずだが、技術的には拙いだろう。デュレは魔力では敵わないものの魔法スキルはそれなりに持っている。その二人が力を合わせれば道が開けるかもしれない。
「手を握って……」デュレはシルトの赤い双眸を見詰め静かに言った。
 魔力を共有し、呪文を共有したら二人の魔力を相乗した魔法が行使できる。デュレもそんな試みは今までに一度もしたことはなかった。リスクが大きすぎるし、何より組める相手がいなかった。
「……小癪な……。だが、これならばどうだっ!」
 マリスは虚空からノックスの剣を取り出し様、シルトに斬りかかった。いかな精霊でも、マリスの太刀筋をかわすのは簡単なことではない。事実、斬りかかってくるマリスをシルトは恐怖を感じた眼差しで見詰めたまま固まっていた。
「ダ、ダメだ。誰かがディフェンスをしてやらないと」もはや、見ていられない。
「俺がやってやるぜ、リボンちゃん♪」リボンは歩み寄るサムに不安な眼差しを向けた。しかし、サムは意に介することなくズンズンと歩いた。「フィジカルディフェンス!」
 すんでの所で、シールドが立ち上がり、マリスの太刀筋を完全にブロックした。だが、これしきのことで攻撃をやめるマリスではない。マリスはサムがはったシールドに左手を向けた。剣でシールドを切り裂けなかったが、フィールドイレイザーで消すことは可能だ。
「てめぇら、油断すんじゃねぇぜ!」サムは怒鳴る。「んじゃ、ちょっくら行ってくるぜ」
「お前まで行ってしまうと逆召喚魔法が行使できなくなる……」
「そんなことか。あの不死鳥がいれば魔力的には十分足りると思うぜ。あのがきんちょ、魔力をもてあまして危ねぇんだ。逆召喚発動くらいしてやりゃ、当分落ち着くだろうさ。な? それに俺の代わりにてめぇが入ればいいだけのことだ。――あいつはてめぇの敵だろ? てめぇで始末しな」
「しかし、お前……」それでもリボンは執拗に言葉を投げかけた。
「ああ! てめぇの心配はそう言うことか。なぁに、死にゃあしないよ。無茶をする気もねぇしな」
 サムは久須那の方をチラリと見た。死なないと約束した。これから先は必ず共にあると約束したのだ。いつか別れる日が来るとしてもそれは今ではない。
「さあて、いっちょ、こらしめてくるか!」
 指をポキポキと鳴らしながら、サムは朗らかに言う。
「デュレ! そこの白いの! 攻撃に全力を注げ。防御は俺が引き受けてやる。マリスがてめぇらをなめきっているうちに一気に片を付けろ」
「判りました……。シルト、あなたの得意な魔法は……?」
「……。判んない。でも、何でも出来るよ。デュレがしたい魔法なら何でも」
 その時、デュレは考えていた。マリスに対抗できるデュレにとっての唯一の魔法。最近、リボンの魔力を借りて実行した邪なる闇魔法の一つ……スクリーミングハリケーン。自分たちもピンチに陥るかもしれないが、恐らく、マリスの“あれ”に拮抗できるのはこれしかない。
「スクリーミングハリケーンは出来ますか……?」
「え〜〜? また、それ?」いち早く、迷夢が聞き咎めた。「巻き添えはイヤよぉ? その娘の魔力ってリボンちゃんよりありそうだから、歯止めが利かなくなったら大変よぉ?」
「判ってます。でも、わたしにはそれしかないんです。それに……」自信なさげに言った。
「それにぃ?」迷夢は半分諦めたような気の抜けた声でデュレの答えを促した。
「それに、マリスがスクリーミングハリケーンを抑えようとしたら、それだけ魔力を消費します。それなら、きっと、逆召喚にも余裕が出来るはずです」
 確かにそうだ。けれど、かつて、テレネンセスを廃墟に変えたと言われる禁呪を使うリスクに見合うだけの効果が得られるか疑問も残る。その疑問を払拭できるくらいの根拠があればいいが、かなり怪しい。魔力的な側面から見れば実行に差し支えはない。問題は事後処理、スクリーミングハリケーンを止められるか、マリスがこちらの思惑通りに動いてくれるかなのだ。
「む〜」迷夢は唸った。「……気は進まないんだけどなぁ。やるしかないかぁ」
 迷夢はちらりと横目でシルトを確認した。膨大な魔力をもつと言っても、まだまだ幼い精霊にスクリーミングハリケーンをサポートさせるのは大きな不安が付きまとう。
「おいっ! てめぇら、いつまでグチャグチャ話てんだ!」
 何故だか、マリスの相手をする羽目になったサムが怒鳴った。
「……。判った、やって。その代わり……失敗したら呪うわよ?」
「はい!」デュレは深呼吸をして呼吸を整えた。そして、改めて呪文の詠唱を始める。「永劫なる闇の彼方、かつて栄光ある神々に列せられし邪なる僕、今、我の示したる場所へ召喚せり」
 邪なる闇魔法が少しずつ実行に移されると周囲の雰囲気が明らかに悪くなった。しかも、同時に光魔法の一種である逆召喚魔法も行使されようとしている。こんな風に反対属性の魔法がこうも間近に展開されることなど滅多になかったから、互いの魔法にどんな影響があるのか予測がつかない。
「古の盟約により封じられし邪なる魂・テュリオムの調べをここに。調べに乗りし追憶の想いに共鳴せし、一対の眼を用いて、付随する異空への道筋を指し示せ――」
 デュレとシルトと繋がれた手を通じて二人の魔力が一体になる。リボンの魔力を借りた時よりもずっと大きく力強い。無論、それはシルトが闇の属性を持っていることも要因の一つだ。氷と闇よりも闇と闇同士の方が親和性が高く、魔力の相乗効果が得やすいからだ。
 そして、空中に邪悪な煌めきを持った一対の瞳が現れた。今まで三度、行使した中でもっともパワーがあるのは確かだ。背中に冷や汗を感じ額から汗が流れ、心臓が早鐘のように打つ。かつて、“禁呪”に指定された敵味方を無差別に呑み込もうとする危険な魔法。
「――スクリーミングハリケーン!」
 最後の一言を放つと、スクリーミングハリケーンは実行形態を取り始めた。即ち、一対の瞳が融合し、奈落に導く虚空へと繋がる。虚空からは邪悪な呼び声が聞こえ、あらゆるものを虚空の向こう側へと誘うのだ。ネットリと緩やかに蠢く闇が目につくものを片端から呑み込むのだ。
(お願い、動いて……)
 マリスが動いてくれなかったら、どうしようもない。マリスの置かれた状況から考えて、逃げる選択をしないと思えばこそ実行できた魔法だ。魔法陣を形作った面々もじっと様子を窺った。
「マリスちゃ〜ん、逃げるんじゃないのよ?」それが決定的な一言になった。
「……今更、逃げる訳がない。貴様らを全員消し去るのがわたしの望みだ。それが叶うまでわたしはどこにも行かんっ! ――我が魔力よ、この右手に集中せよ」
 作戦の通りにマリスがかかった。と言うよりはむしろ、スクリーミングハリケーンを葬らなければ、マリス自身が次のステップに進めない。放置しても迷夢たちが自壊する可能性もあるが、“これ”をやらせたのはあの迷夢だ。何か裏があるに違いない。
「光と炎の全てを賭けて、闇を滅する刃となせ。己の欲望、破壊の衝動に身を委ね、本能のおもむくままに大地を駆け抜け、我が左手に居場所を求めよ……」
 マリスの左手の平に光球が形成されだした。さっきよりも強く育てる。禁呪たるスクリーミングハリケーンを叩き潰すにはそれなりの魔力が必要だ。シルトの邪魔が入ったとしてもそれを凌駕し、尚かつ、本領発揮の前段階にあるスクリーミングハリケーンをぶっ潰すだけのパワーがいる。大きさはさほど必要ない。その代わり、魔力の密度を高める必要がある。
 シルトとデュレはマリスが形成する光球を戦々恐々とした様子で見詰めていた。止めれば、止められると思う。けれど、今すべきはマリスの魔力を削ることだ。
「――フォトンスフィア!」
 マリスの右手から光球が離れ、スクリーミングハリケーンに向かった。光と闇。純に反対属性ならば、魔力が上回る方が勝つ。天使と精霊、どちらが潜在的な魔力が大きいかは微妙なラインだが、シルトとマリスではマリスに軍配が上がる。全てを呑み込むスクリーミングハリケーンも巨大で魔力密度の高い光球相手では分が悪いらしが、虚空に繋がる虚ろな穴は貪欲に光球を吸い込んでいく。
 しかし、虚空への渦がビクビクと痙攣するかのような動きを見せた。その直後、渦のあちらこちらから筋状に光が溢れ出したかと思うと、綺麗さっぱり弾け飛んだ。
「……そいつも食あたりをするらしいな……? ――危険すぎると封ぜられた禁呪でさえ、その程度の出力しか出せんとは貴様も……その精霊も……雑魚だ――」
 そうまで言われてはデュレも我慢ならないが、デュレは歯を食いしばりながら耐えた。マリスの挑発に乗っては危険だ。魔法対魔法の戦いをしては勝てない。マリスとやり合った数度の経験でそれだけははっきりと判る。リボンはシルトとデュレの暗黒コンビネーションに勝機を見出したようだが、デュレの率直の意見では勝機どころか、これ以上の時間稼ぎも不可能な所業に感じられる。
(……マリスの注意がデュレたちに向いてる……)
「迷夢、行け!」リボンが吠えた。「今しか、ない!」
「了解」迷夢は深呼吸をし、呼吸を整えた。
 これが最後の逆召喚魔法だ。全身全霊をかけ、構築するのだ。そう、魔都と呼ばれたこの遺跡に存在する魔力を、根こそぎにしてどんな粗末なものも見逃さない。そして、次こそは必ずマリスを送還するのだ。それがマリスのためであり、自分たちのためのはずなのだ。
「親愛なる光の瞳、あたしの言うことをききなさい」
 再び、六人の立ち位置を円周とする巨大な魔法円が描かれ、その外周部分にはエスメラルダ古語が美しく乱れることなく書かれていく。ついで、二つの正三角形を組み合わせた六芒星が形成された。やがて、六芒星の中央付近から光が漏れだし、す〜っとことさら丁寧に弓なりの一本の線とちょびちょびと短い十数本の線を弓なりの線の上に描いた。その形は巨大な閉じた瞳。これはあらゆる魔法の中で尤もオーソドックスな形状を持つ魔法陣だ。
「――さっきよりもちょっとだけ調子がいいかな?」
 少しご機嫌になって迷夢は呪文の詠唱を続けた。
「……星霜の彼方より語られし、あまたの世の架け橋を閉ざしたる者に告げる。あたしは理を忘れし天使・マリスの送還を望むものなり。描かれし眼の向こうに在りしもの、……サライよ。二つの世に通ずる架け橋を開放し、翼をもちし天のお使いと称されし天使を異界の世に送り返せ。架け橋の開放を望むは天使・迷夢。魔法陣に充満する魔力の全てを注ぎ込んで。――可哀想なマリスを元の世界に送り返してあげて……。マリスを呪縛から救うにはそれしかないから――」
 マリスとしてはそんなことを言われたのでは堪らない。
「妄想に取り憑かれて……呪縛されいるのは貴様らだ!」
 迷夢は目を閉じて緩やかに首を左右に振った。哀れでならない。
「マリス! あなたの相手はこっちです!」
 しかし、マリスは一瞥をくれただけで相手をしなかった。それどころではない。相手をする必要はない。今ここで、迷夢を蹴散らせば終わる。それを何故、今の今まで出来なかったのか。やはり、相対した者たちにそれだけの力があったことを認めない訳にはいかないだろう。
「シルトっ!」デュレとシルトは呼吸を合わせた。「シャドウカッター!」
 二人が合わせた手から三日月状のカッターが回転しながら幾つも飛んでいく。それくらいではマリスを傷つけられない。だが、ホンの少しくらいなら気を逸らせるに違いないと期待を込めた。
「……小賢しい!」
 苛立ちのこもった怒声と同時にシャドウカッターは地面に叩き落とされた。全く効果がない。だからといって何もしない訳にもいかず、二人はさらに攻撃を続ける。その反面で、迷夢とマリスのやりとりが続く。
「――さあ! 異界に帰れッ!」迷夢は叫んだ。
「どうやって、異界に帰るんだ?」マリスは悪辣に笑みを浮かべた。「たったこれだけの魔力でわたしを逆召喚出来ると本気で思っているのか!」
「……! これでも魔力が足りないなんて……!」
 マリスのもたらした魔力とシメオンに僅かに残った魔力をかき集め、不死鳥の魔力をも得ているというのに。これ以上、魔力を集め逆召喚魔法を強化するのは難しい。デュレやシルトを呼び戻せば或いは何とかなるのかもしれない。だが、今はマリスの攻撃をこちらに向けさせないために精一杯のようだ。彼女らの集中力を乱せば、逆にこちらが危なくなる。
「リボンちゃん! 何か、いいアイディアはないの?」
「策士のお前にないなら、オレにある訳がないだろ!」リボンはがなり立てた。
「そっか、じゃ、ど〜しよ〜かな〜」迷夢は頭の後ろで腕を組んでやる気がなさそうに言った。
「何を呑気なことを言ってるんだ? これが崩壊したら、次をやってる余裕はないぞ」
「判ってるよ。まぁ……さっきみたいなことにはならないから、安心しとき?」
 どこにそんな保証があるんだかまるで判らない。一言で言えば、根拠のない自信なのだろう。だが、迷夢の根拠のない自信が本当に自信のある行動に結びついたりする。
「――ロミィ……、ちょっと頼むわよ。あたしだけじゃどうにも出来ない」
 すると、迷夢の言葉に応えるかのように不死鳥の身体が眩しいくらいの緋色に輝きだした。まだ、雛なのに、自分に期待されている役割を感じ取ったようだ。その小さな身体から、魔力が溢れ出す。制御法を知らなくて、ただ辺りに撒き散らかしていた最初とは違う。明らかに自分の意志に従って一定の大きさの魔力を放出し続けていた。これならばいける。迷夢は瞳を煌めかせた。
「――ロミィの魔力を上乗せして……」
 刹那、魔法陣に宿る光が強くなった。これでマリスの魔力を越えられるだろうか。精霊・不死鳥の魔力を借りて、それでもダメだというのなら打つ手立てはない。大昔にやったように対症療法を続けるしかない。マリスが再び、甦って来るという不安を抱えたままに。
「わたしは決して帰らない。ここがわたしの世界だ! あああぁ!」
 マリスの雄叫びが空気を打ち、耳を突き抜けるような振動波が襲った。同時に、魔力の衝撃波が魔法陣を形成した面々に襲いかかった。立っているのも辛い。もし、ホンの少しでも立ち位置をずらしてしまったら逆召喚魔法は成立しなから、どうしても耐えなければならない。
「――案外、しぶとい……」
「耐えて、もう少しだから。もう少しだけ耐えたら、ケリがつくから」
 逆召喚に抵抗するマリスの魔力を上回り、尚かつ、逆召喚魔法を安定させるに足る魔力が魔法陣に存在していたら、あとは時間の問題だ。マリスが自分の魔力を使い切ればそこで終わる。
「もう、終わりにしよう、マリス。――お前は……帰るべきだ……」
「わたしは帰らない。わたしは居場所をここに作るのだ!」
 久須那は目を閉じて静かに首を横に振った。マリスの望みは叶わない。逆召喚魔法が動き出し、既に足下からマリスは消えかけていた。本来なら一瞬で済むはずの逆召喚もマリスの巨大な魔力にあって本来のパワーを発揮しきれないでいる。それでも、マリスの魔力が損なわれるにつれ、マリスの身体が徐々に異界へと送還されていく。
「うぁあああぁ――っ。帰されてたまるか! まだ、終わっていない」
 しかし、その切羽詰まったマリスの思いとは裏腹に逆召喚の速度は上がっていく。足下から膝へ、膝から腰へ、腰からさらに上半身へ。止まらない。
「いやだ! あの世界には帰りたくない! ――迷夢ぅ」
「――さようなら……マリス。……もう、二度とあたしたちの前に現れないで――」
 迷夢は幾分の慈しみと哀れみとを込めて囁いた。

 少年が辿り着いたのは緑の美しい大きな森だった。見覚えがある。いや、見覚えはないはずだった。リテールには今まで一度も足を運んだことはないのだから。しかし、囁く風とそれに答える梢のさざめきに覚えがある。既視感と呼ばれるものだろうか。
「……来てくれたのですね、申。……あなたをずっと待っていました」
 遠い記憶の向こう側にちらつく人影。顔の輪郭。微笑み。詳細まで思い出せそうな気さえするのに何一つはっきりとした思いには形作られなかった。聞き覚えのある声に胸がときめいた。けれど、それが誰なのか、その名は全くと言っていいほど思いにのぼってこない。
「――申……? あなたは魂の導きに従ってここまで来てくれたのですね……」
 声の主が樹木の影からスッと淑やかに現れた。足までの長い衣服を身にまとい、頭には布を巻いていた。全身が緑色に綺麗にまとまっている。その人影が緩やかに申に近づいた。影になって見えにくかった顔が次第にはっきりと感じられるようになった。
 緑色の瞳、鼻筋の通った優しい整った顔立ち。
 それはまさに申の心の奥底で、自分を呼んでいた女性に他ならない。
「ジー……ゼ……?」初めて自分の口からこぼれ落ちた彼女の名には懐かしい響きがあった。
「そうです。わたしはドライアードのジーゼです。申がこの森に来てくれることをずっと……長い間、待ち続けてきました。――あなたにしか出来ないことがあるのです……」
 申はジーゼの真っ直ぐな瞳を見詰めたまま、息を呑んだ。これから何かが始まる。サラフィの寺院にいたら決して経験することの出来なかった何かが自分の身の上に起きようとしていることを申はそこはかとなく感じ取っていた。