12の精霊核

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 08. a bit of the dawn(始まりの欠けら)

 出発の朝。クリルカの耳長亭を後にして、エルフの森の奥へと通じる小道を進んでいた。テレネンセスの忘れた長閑さが森にはあり、セレスとデュレにとってどこか懐かしい雰囲気をたたえていた。静かに梢を揺らす風、時々、目の前を走り抜けていく小動物たち。幼少期の思い出の向こう側を垣間見ているような暖かさ。
 空間が開けて広場に出た。見上げると抜けるような青い空がまぶしい。
「……奥の方に――何かキラキラした物が見えるような……気がします……ね」
 小さな広場に足を踏み入れて、デュレは普段、決して見かけることのない物体を見咎めた。一見すると分厚いガラスのような偏光率でその向こう側の景色を微かに歪めていた。デュレはその物体のある方にそっとしずしずと歩み寄り、それを見澄ます。
「……向こうからは無色透明のように見えたのに……。深い緑色、フォレストグリーン。――けど、透き通ってる」デュレは瞬きするのも忘れてしまったかのように見入っていた。
「そのキレイなのが精霊核なの? ひょっとして」
 セレスが嬉々とした表情で寄ってきて、デュレの背中にドンとのしかかった。
「何をするんですか! 邪魔しないでください」
「あははっ! あたしがいつ邪魔したってさ? うん? あたしだって、精霊核を見るのははじめてなんよ。いいじゃん、少しくらい。一緒に仲良く観察しよ?」
 セレスはニマっと笑って、デュレの肩に更に体重をかけた。
「デュレとセレスには見えたようだぜ? ジーゼ」
「そのようですねぇ。二人とも純粋な心を持っているみたい」
「ああ、少々やかましいのが玉に瑕だがね……。と言うか何というか、“ピュア”から最も遠い連中だと思ってたんだが、そうではなかったらしい」
「俺にも見えるぜ」広場の入り口で佇んでいたウィズが言った。「欲望だらけの人間には見えないって噂だった。それこそ、それは今でもハンティングの対象だろ?」
「欲しがる者には見えない、触れられない。必ずしもピュアじゃなくても無欲な人には見えることがありますよ」振り返ってジーゼはウィズに微笑みかけた。
「つまり、オレから隠れる必要がないわけね?」
 よく判らない喪失感をウィズは感じていた。悪気はないのだろうが、バカにされているようなコケにされているような複雑な心境だ。
「だから、千五百年以上も狩られたという事実はない。しかも、存在すら幻。精霊もいると思ってる連中はほとんどいなくなったぜ。天使だってそうだ。……ははっ、十二の精霊核の伝説もほとんど神話の領域に踏み込んでる始末だからな。住み辛い世の中になったもんだ」
「そんでさ、リボンちゃん」デュレをいじめるのに飽きて、セレスがふらりとこっちに来た。「何をどうやって二百二十四年前まで行くって? 時間なんて曖昧なものをどう扱うの?」
 セレスの瞳には意地悪な煌めきが宿っていた。元々、セレスには捻くれたところがあったから、リボンが困るところを見てみたいという歪んだ欲望が頭をもたげたのかもしれない。
「――出来ないことをやろうなんて言わないさ。その入り口はここだ――」
 リボンは自分が生きた遠い過去に思いを馳せるかのような恍惚の表情で呟いた。
「ここ?」セレスが訝しげに問いただす。「でも、あたしらが行きたいのはシメオンで……」
「そうだな」リボンはゆっくりと瞳を閉じた。「少し難しい話になるからセレスには判るかな?」
「な? あたしをバカにしないでよね。こう見えてもあたしは次席だったんだから」
「それは技能系科目が平均点を引き上げたからだろ? 物理、数学なんかはどうなのかな、セ・レ・スちゃん?」セレスは期せずしてリボンに追い詰められていた。
「うぐぅ。あたしの苦手なものばかりじゃん」
「じゃ、簡単に言ってやる」リボンは勝ち誇って機嫌が良くなった。「時も空間も似たようなものだからいっぺんに移動できる。言ってみれば、デュレのフォワードスペル+時間跳躍、かな?」
「???」聞くだけ野暮だったとセレスのちんぷんかんぷんの顔色が物語っていた。
「セレスには説明するだけ無駄みたいですよ」
 精霊核の観察を一時やめにしてデュレがセレスとリボンの間に割り込んだ。
「まあ、理論なんて二の次で構わないだろ。この際。……最初に戻るとだな。この森の特にジーゼの精霊核あたりの力場が安定していて、ここなら目標の時間帯により正確に到着しやすいはずなんだ。テレネンセスは人々の雑念が多くてダメ。シメオンは論外だろ?」
「とすると、残された場所は必然的にここになるのですね?」
 そう考えれば、森を吹き抜ける風も、鳥たちの歌声も、梢のさざめきもさっきまでとは違って神秘的に感じられた。と、和みかけた空気を打ち破ったのはリボンだった。
「……セレス。水色のかけらは持っているよな?」
 リボンはセレスの方を見ずに日光に照らされ煌めくクリスタルを見詰めていた。
「――え?」セレスは呆気にとられた。「な、何で、リボンちゃんが知ってるの?」
「どうしてだと思う?」
 リボンは瞳だけをセレスに向けて意地悪に言った。けど、セレスはキョトンとしてピクリともせずにリボンの瞳を見詰め返していた。
「あいつはお前に話さなかったのか……」リボンは切なそうに、一際、淋しそうにした。「その水色のかけらはジーゼがアルタに渡したものだ……。もう、八年……九年くらいになるのか」
 リボンは瞳だけをジーゼに向けて答えを促した。
「クリルカが生まれた後だから、それくらいかな? ――黒い翼の天使を調査していたアルタにお守りの代わりにと。わたしも色々とエルダには助けられたから」
 ジーゼとリボンのやりとりを聞いているうちにデュレは一つの新聞記事を思い出していた。シメオン遺跡に派遣される前に、関連資料を読みあさったものが記憶の片隅に引っかかっていた。
「Gemini 25, 1507。アルタ隊、帰還せず。こんな見出しがどこかに……。ですが、アルタに贈られた物がセレスの手にあるんですか」
 デュレの隣から不意にかすれたセレスの声が聞こえた。
「……アルタはあたしの父さん。くれたんだ。最後の調査の時に、シメオンで……。そう、あたしはまたシメオンに来ることになるから、その時まで大切にしてろって」
「って? セレス、もしかして、第五次発掘に志願したのはそれが理由?」
「ううん」セレスは首を横に振った。「違う。純粋に面白そうだったから。ううん。それも違うかな。あたしは父さんの追いかけてた物をホンの少しでもいいから感じたかった。――けど、発掘なんて性に合わなかったみたいで、あの有様だったんだけど」セレスは頭をかいた。
「ま、動機なんかどうだっていいですけど。それより、リボンちゃんっ! そのアルタって人、久須那の絵の在処を知ってたんじゃないんですか? それなのにどうして協会や学園に報告が上がっていないんです? そんなの背信行為です!」
「慌てるな」リボンはゆっくりとデュレを諭した。「アルタは知らない。八年前の調査対象は聖堂よりもずっと北の方だったし、オレは教えなかった。ふふっ。二百二十四年待ってきたのはデュレとセレスだけだったからな」
「――けど」デュレは釈然としない。「けど――、セレスがアルタの娘だって事は知ってたの?」
「知ってたさ。が、デュレ、お前がセレスと知り合うまで、オレは待ってたんだぜ」
「セレス?」デュレは向き直ってセレスを注視した。
「うん、多分、そだね」セレスは頼りない糸を手繰るかのような慎重な面持ちでいた。「あれはデュレが学園に来てからだから……。う〜ん、確か、三年生の卒業実習の時だっけか?」
 セレスの答えを聞くと、デュレは勢いよくリボンに振り向いた。言われてみたら、そんな気がした。学園の先輩に当たるセレスと初めて知り合ってから数ヶ月間はリボンの姿が近くにいた記憶が全くなかった。ただ、フと気がついた時にはセレスとリボンはいつも一緒にいた。
「……色々と不思議な気持ちがします」デュレは目を閉じた。「まるで全部仕組んでいたみたい。あまりいい気はしません――」
「オレの口から色々聞けばそうなるだろうな」
「わたし、人の思い通りに動かされるのがとっても嫌いなんです」デュレは腕を組んだ。「それはリボンちゃん。経験してきたことと今をつなげようとして一生懸命なんでしょうけど――」
 デュレは胸のあたりに一言では説明できないもやもやしたものを感じていた。“鍵”の魔法が二百二十四年までしか伝承されなかったことでさえ疑わしく思っているのに、時を越える事については更に懐疑的になってしまう。その他諸々から、ここ数日で起きたことが重なってデュレの心のもやもやはそう簡単には晴れそうにない。
 その様子を見て、リボンはため息混じりに発言した。
「時間という概念は曖昧かもしれんが、その実はとてもデリケートなものなのかもしれない。オレが手を出そうとするのは過ぎ去った遠い昔。未来……今現在はその上に成り立っている。ま、正直な話、“時”を研究してるやつなんていないようなものだから、お前らがそこへ行くことでここにどんな影響が出るのかは全く不明だ」リボンは真摯な眼差しでデュレを見据えた。「これから、1292年以降がお前たちの未来になる。……だから、お前たちの出方によってはここはここじゃなくなる」
 これまでにないリボンの神妙な口調にデュレはドキンとした。リボンが暗に示したこと。判断を間違えたら帰る場所がなくなる。デュレはリボンの眼差しを受け止めたまま固まっていた。
「……未来は生きるものたちにとって常に開かれた存在だって事、不確定って事さ」
「帰れないかもしれない?」デュレは不安に押しつぶされそうになる。
「何とも言えないが、時の流れが一本の糸のようだとしたらここにつながるようにし向けないとお前らの居場所はなくなるかもしれない。つまり、お前らが二百二十四年前のシメオンに行くという事実を作らないと、お前ら自身の存在が脅かされるかもしれない……。木みたいなものだとしたら何をしても平気。元のところに帰ってこれるだろうな。けど、ま、帰ってくるのは今よりも先だろうし、もうお前らが帰ってきてたとしてもまだ、出て来れないだろう?」
「でも、リボンちゃんは見てきたんでしょう? 知ってるんでしょう?」心配そうな表情だった。
「知っていても教えてあげない♪」リボンは意地悪に笑った。「言ったろ? 1292年以降の二百二十四年間がお前たちにとっての未来になると」
 そこまで言われると、デュレにはリボンの言いたいことが判った。
「未来を知っているものはいない……」デュレはリボンの眼を見詰めて確認した。
「ああ」リボンは目を閉じて静かにうなずいた。
「でも、リボンちゃん。――過去のことなら教えてくれてもいいよね?」ややこしい会話に参加していなかったセレスが存在を主張しだした。「あたしは……死んだって聞いた。……父さんの最期……リボンちゃんは見た……の?」
 アルタを知っていると言った時点で、そのうち問われるだろうと思っていたことだった。
「――アルタが行方知れずになった時、オレはあいつのそばにいなかったからな」
「……」リボンの答えを聞いてセレスはやるせなさそうにした。「そっか……いなかったんじゃ仕方がないよね」セレスは泣きそうになるのを必死にこらえて左手で目をこすっていた。
「なぁ〜んだ。セレスにも以外と可愛い一面があるんだね」クリルカが感心して言った。
「だって、父さん、死んじゃうなんて思ってなかったから、ケンカして……。仲直りも出来なくて、ケンカ別れしたままなんだ。帰ってきたら、謝ろうってずっと思ってたけど、だから。死んだって聞いたけど、遺体も何もなくて。もしかしたら、リボンちゃんは知ってるのかなって」
 その間、セレスはうつむき加減で、そよ風に揺られる下草を眺めていた。
 一方ではデュレはリボンから自分たちの行く末を聞き出しようのないことを悟ると、再びジーゼの精霊核にぴったりと張り付いていた。
「本物を見たのは初めてです」デュレは感嘆の吐息を漏らす。巨大なフォレストグリーンのクリスタルにうっとりとした熱い眼差しを向けていた。「ジーゼ。触ってもいいかな……?」
 ジーゼは無言で優しくうなずいた。すると、デュレの顔がパッと明るくなった。
「……暖かくて、柔らかい不思議な感触が……」抱き留めて頬をすり寄せる。
 デュレにはこれがどんなに貴重な体験かを肌で感じていた。精霊核は一般人の大多数にとって触れることはおろか見ることさえも叶わない物だった。幸運。奇跡。そんな在り来たりな言葉では表せないほどにデュレは幸せだった。“伝承”に過ぎない精霊核の欠けらは学生の間で流行る幸運のアイテムだったし、精霊核を信じるものとしては絶対に見て触れて感じたいものだった。
「……シリアもなかなかどうして面白い娘たちを連れてきましたね」
「だろ? デュレは堅くて、セレスはちゃらんぽらんだが、とってもいいコンビだぜ」
「……そして、すぐに口げんかを始める……」
「あ?」思わず変な声を出してしまった。
 見れば、ジーゼの精霊核を前にして、早速、デュレとセレス喧々囂々と口げんかをしていた。
「……」リボンは呆れ果てて言葉も出ない有様だった。「今度はどっちが先に手を出したんだ?」
「――デュレかな。けど、ケンカするほど仲がいいとも言うし」
 何故だかジーゼが二人をフォローする。
「仲は悪くないさ。けどな、あんなのに一日中つきあわされたら冗談じゃないぜ?」
「でも、嬉しそうね。そんなシリアは初めてかな?」
 ジーゼはしゃがんでリボンの背中を優しくなでた。
「ああ、あの二人がいると退屈しない。あんな元気で楽しい奴らと会ったのも初めてだからな」
「早く会いたい。ずっと、そう言ってたもんね」
「初めてセレスを見つけた時は胸がときめいたもんだぜ。やっと来た。やっと会える。やっと話せる……。けどな、隠し事をなしに全部話せるようになるのはあいつらが帰ってきてからだ」
 リボンは愛おしげな眼差しでやいのやいのとやってる二人を眺めていた。
「ほら、お前ら、いつまでもじゃれてるなよ。遊んでる暇はないんだ。行くぜ?」
 けど、口げんかはますますヒートアップ。やめる気配はまるで見えない。
「熱中するあまりに聞こえていないんじゃないかしら?」
「――。もう、面倒くさい! あのままでいいからぶっ飛ばしてやれ。あの二人にかかると感傷もへったくれもあったもんじゃないっ!」
「はぁ……、みんな短気で困っちゃいますね。カルシウムでも足りないのかしら……」
「今朝も牛乳飲ませれば良かったね、ジーゼ」
「クリルカ……。でも、この荒れようじゃ、一日分じゃ足りなさそう」
「ジーゼ! ごちゃごちゃやってないで、さっさと頼む。オレの言うことを聞かないなんて絶対に後悔させちゃる!」リボンは荒れ狂う口ゲンカの嵐に果敢にも突っ込んでいった。
「あらぁ……。らしくなくエキサイトしちゃって……」
「あっ! 面白そう。わたしも入れて!」
 つまらなさそうに欠伸をしていたクリルカの顔にパッと明かりが灯った。賑やかなことが大好きでドタバタやっているところに首を突っ込まずにはいられない。そして、その騒ぎはクリルカの乱入で混乱の度合いを増していた。
「あの、ウィズはあの人たちを何とか出来ませんか?」困り果ててウィズに助けを求める。
「うんにゃ」ウィズは残念ながら自信満々に首を横に振った。「エルフと精霊たちのケンカに首を突っ込むと生命の危険を感じる……というか、無理だろ、あれ。デュレは闇護符を掲げているし、セレスは短剣に手が行きそう。シリアは噛みつきそうな勢いでがなってる。クリルカは……」
「あっ!」ジーゼはクリルカの青い瞳にたまった一雫の涙を見逃さなかった。「ウィズ、耳を塞いで。早く」ウィズはジーゼに従って訳も判らず両手で耳を押さえた。
 ジーゼが絶叫し、その次にはクリルカがこの世のものとは思えないほどの大音響で泣いていた。と、これには流石のデュレとセレスも辟易として、ケンカすることなど忘れてしまったようだ。
「……凄いね。一撃必勝。向かうところ敵なし」
「けど、不意打ちじゃないとききませんから」と言って、ジーゼはウィズに耳栓を見せた。「はい。みなさん、名残惜しいでしょうけど、際限なく口げんかされたら困りますっ! クリルカも! あれほど、不用意に泣いてはいけませんと言っているのに……」
「ごめんなさい。けど、だって、セレスがぶつから……ひっく」思い出してまた泣きそうになる。
「うわっ! 三回連続は勘弁してください!」セレスは耳を塞いでしゃがみ込んだ。
「犯人はお前かっ! 全く」リボンの呆れた眼差しがうずくまるセレスの背中を刺した。「ともかく、セレス。ウンディーネの水色のかけら……出してもらえるか?」
 優しく透き通った声色にセレスは大人しく従った。猫なで声の時に反抗するとたいがい後でひどい目に遭う。それはもうデュレの悪戯どころの騒ぎではなく、雷が脳天直撃したくらいの激しさだった。だから、セレスは慌ててウエストポーチをまさぐって中から欠けらを取り出した。
「それをジーゼに渡して」
「……」セレスは立ち上がると恐る恐るジーゼに欠けらを手渡した。
「そんなに動揺しなくても……。わたしはリボンくんほど怖くありません♪」
「はぁ……。リボンくんね。ちゃんでもくんでもいいけどよ、“リボン”と呼ぶのはやめてくれ」
「わたしはリボンちゃんがいいっ!」クリルカは涙なんか忘れて嬉々として言った。
「……」リボンはがっかりという感じで頭を垂れる。「諦めろと言うことなのか?」そして、ぶつぶつ。セレスにリボンと呼ばれるようになってから独り言もすっかり癖になってしまった。「……いや、今はいい。……。ジーゼ、後、頼んだよ」
「……相当、ショックだったんですね……。クリルカ……」
「は〜い。わたしがあなたの傷ついた心を癒して、あ・げ・るっ♪」
「――! セレスは余計なことを教えないの!」ジーゼはセレスに怒鳴った。
「うわぁ。早速ばれた!」
「ね、ジーゼ。油断していたらクリルカに何を教えるか判ったもんじゃないですよ」
「はぁ、悪戯好きの困ったちゃんですね」
「ジーゼ、時間がないとは言わないが、待たされる方のことも考えてくれないか?」
「あら、つい」ジーゼはホホホと笑った。「クリルカ、リボンくんは立ち直ったみたいだから、こっちに来て……」クリルカはジーゼの呼びかけに応じてトトトと走り寄ってきた。
「なぁに? ジーゼ」キョトンとして小首を傾げた。
「これを持って」ジーゼは水色のかけらをクリルカの右手のひらに置いて、そっと握らせた。「そして、考えるの。いい? 森の記憶を蘇らせる……。遠い記憶の中……そう、黒い翼の天使たちがシメオンを滅ぼした年……」
「わたしは知らないよ?」肩を抱かれたクリルカは顔を上に向けてジーゼに抗議した。
「大丈夫。ただ、思い出してってお願いするだけでいいよ」
 しばらくすると、ジーゼの緑の精霊核が明るく輝きだした。透過光や反射光などではなくて、内側から。ジーゼが生まれてから、千七百年以上にも及ぶ膨大な記憶の中から一点を探し出す。そこへとつながる“扉”をウンディーネの精霊核の欠けらを使って投影させる。
「……どうやって時なんて越えるんよ?」両手を頭の後ろに回して退屈そうにセレスは言った。
「ウンディーネの欠けらが切っ掛けを作る」
 水色の欠けらが激しく光を発すると、ジーゼの精霊核も連動するように脈動した。
「クリルカが生を受けた時も、こいつが切っ掛けだったんだよな」
「そうでしたね」ジーゼがクリルカの後ろから答えた。
「a bit of the dawn。これをそう呼んだやつもいた」
「――アルケミスタの牧師さまにもらったエルダの欠けらがこんなに活躍するなんて考えたこともなかった。……申。あの雨の夜にあなたがいたから、あの街角でわたしを助けてくれなかったら……。今、こうして久須那を助けようと試みることも出来ませんでしたね」
 ジーゼは自分の精霊核を儚げに見詰め、吹き抜ける風がジーゼの長い髪をなびかせた。
「いいか? デュレ、セレス。何があっても必ず戻ってこい。ターゲット指定は今日、Leo 26, 1516。お前たちが戻ってこなかったら……」リボンは何となく言葉を切ってみた。
「……戻ってこなかったら?」目を爛々とさせてセレスが促す。
「いや、別に、居残り組のオレたちが苦労するってだけの話♪ 相手はマリスだからな」
 黒い翼の天使・マリスはその筋のものにはよく知れた名前だった。災厄をもたらす天使。シメオンを闇の領域に葬ったという悪名高い天使の名。
「マリスか。ねぇ、リボンちゃん。あたしら、そこに行ったらマリスと会えるのかな?」
「……オレは会わないにこしたことはないと思うぜ? ど〜せ、嫌でもこっちで会うさ。――さ、ジーゼの方は準備が出来たようだ」リボンはクイッと顎をしゃくってその方を示した。
「お〜うっ! 結構、不思議な感じ」
 空間が歪んで見える。まるで、水面が空中に現れたように。ゆらゆらと揺らめき中央から波紋が広がる。その波紋とともに後ろの風景が波立つ。緑と茶色、森の色のコントラスト。セレスはどうにも止められない好奇心に駆られて、水面みたいな表面を人差し指で突っついた。すると、その一点から波紋が広がり、元からある波紋に重なった。
「今、指が突き抜けたような気がした……」
「気がしたんじゃなくて、ホントに突き抜けたのさ」得意げにリボンが言う。「言っとくが、そのまま反対側に抜けるなんて“落ち”はないからな」言われる前に釘を刺す。
「あら? だんだん勘が良くなってきたね、リボンちゃん」
「お前の考えなんかすぐに判るんだよ」リボンはジロッとセレスを睨む。「さあ、いつまでも油を売ってないでいい加減に行けよ。帰ってきたら、話したいことがたくさんあるんだ」
「リボンちゃん……」
「あははっ! そ〜んじゃ、行って来るわ。じゃ、またね。って言っても、キミたちはすぐ、会うのかな? もしかしたら、未来の? あたしたち、あたしらが行っちゃうの今か今かって、そこら辺に隠れて待ってるのかな?」
「……お前はご託が長いよ。そんなモンは後でゆっきりきいてやるから、さっさと行け!」
「あははっ、ごめんごめん。いつも癖ってやつで。つい。んじゃ、行って来るわ」
 セレスは手を振り振りゲートの向こうに消えていった。
「……ウィズ。リボンちゃん。必ず帰ってきます。……今日、この森で必ず」
 デュレは必ず帰ると約束して、みんなの顔を見ることなく立ち去ろうとした。それは絶対に戻ってくるためのデュレなりの簡素な儀式。ここにいる四人の顔を再び見るために帰ってこなくてはいけないと言う強固な意志を形作るための。そして、デュレは振り返らずセレスを追った。
「行っちまったな……」二人を見送り、リボンが言った。「実際、クールな連中だぜ」
「けど、帰ってくるんだろう? シリアは見てきた――。もう、知ってるんだろう」
 しかし、ウィズの期待にリボンは応えなかった。
「知らん……」目を閉じて首を横に振った。「オレはことの顛末は最後まで見ていない」
「どういうことだ? 昨日は」リボンがウィズの発言を遮るようにして呟く。
「いることと最後まで知っていることは別のことだ。情けない話だがね……。ジーゼに聞いてみたらいい。オレは……あまり思い出したくない」
 リボンはポツンと言葉を残してそそくさと森の奥に消えていった。ウィズは精霊核の前に一人で取り残されて困ってしまう。ジーゼはウィズのことを信用したらしく、クリルカと一緒に先に耳長亭に戻ってしまったし、まるで蚊帳の外。みんなは自分のことをある意味信じてくれてるこうなるのだとは思うけど、ウィズは少し淋しかった。
「……」ウィズは思わず頭をたれて、額を手で押さえた。「留守番なのはいいとして、一人にするなよなぁ。もう」
 そして、さんざん迷ったあげくにウィズはようやく、耳長亭に辿り着いた。店から遠く離れた場所に例の広場があった記憶はないのだが、やけに時間がかかった気がする。すっかり、日も昇りきってお昼に丁度いい頃合いに、ウィズは耳長亭の呼び鈴を豪快に鳴らしていた。
「こら〜! ウィズ。乱暴に扱ったら壊れるでしょ? レディを扱うようにソフトに……ね?」
 クリルカが小首を傾げてしななど付けて可愛らしく微笑んでいた。
「ね? っていわれても」ウィズは当惑する。けど、すぐさま気を取り直すと、リボンが言っていたことを聞いてみようと、早速ジーゼに問いかけた。
「二百二十四年前のこと、教えてくれないか……」ウィズはカウンター席に腰を落ち着け、天板に両肘をついた。「ジーゼとシリアが出会った時のこと」
「シリアがそう言ったんですか?」
 ジーゼは困ったように顔色を曇らせてカウンターの向こう側を行ったり来たりしていた。
「ジーゼっ! リボンちゃんが喋っていいってんなら、喋っちゃえば?」
 カウンターの隅で絵本を開いていたクリルカが無邪気に言う。
「けど、シリアの名誉に関わることだし……」
 ためらうジーゼの元に、入り口の呼び鈴がにぎやかになる音が飛び込んだ。リボン。ウィズと別れてから今まで森をうろついていたらしかった。ほぼ半日になる。しかし、ウィズは森で迷ってもたもたしていたから、ウィズが耳長亭についてからリボンが現れるまでに一時間となかった。
「ウィズ。聞けたか?」
「いや、まだ聞いていない。ジーゼがキミの名誉に関わることだと渋ってね」苦笑い。
「そうか。なら、丁度いいな。奥まで付き合ってくれ」
 と素っ気なく言うと、リボンはスタスタと奥へ行ってしまった。
「……あれはどう言うつもりなんだ?」ウィズはジーゼに何気に尋ねていた。
「さあ……。でも、少なくともシリアくんに嫌われてはいないってことかしらね」
 ウィズは困ったようなはにかんだ笑みを浮かべるとリボンを追いかけた。カウンターの後ろに回って、夜中に歩いた廊下をたどる。と、昨晩ウィズが止まらせてもらった部屋の扉が“入れ”と言わんばかりにああ聞く開け放たれていた。
「シリア、いるのか?」
 ウィズが顔を覗かせるとリボンはベッドの横に置いてあった丸椅子の上に腰を落ち着けていた。
「デュレやセレスには何度も聞いたが、ウィズにはまだ聞いてなかったな」
「何をだ?」ウィズはリボンの瞳を正面から見据えたまま答えた。
「――この先、踏み込んだら戻れなくなる。だから……」リボンは遠慮なくズケズケと言う。
「それ以上、言わなくていい」ウィズは右手を前に突き出してリボンを制した。「判ってたつもりさ、シリアの言いたいことは。何かにつけてオレを小バカにしてきたのも、それなんだろ? ……お前もセレスと同じで素直じゃないな。はっきり言えばいいさ。俺は他の二人のように臆病者なんかじゃない。弱いやつの強がりでもないからな。……付き合ってやるよ」
「すまないな……」
「ここまで付き合ったからな。どこまで付き合ってももう変わらないだろ?」
「それはどうだか判らないぜ? 久須那の絵が見つかったことをマリスは嗅ぎつけてるはずだ」
「来るってことか?」ウィズはちょこっとだけビクッとしたようだった。
「来るさ。あいつは久須那に復讐したいんだからな。二百二十四年、探し続けた物がここにあるんだ。問題は……デュレとセレスが先か、マリスが先か。賭だな。しかも、帰ってくる保証はない」
「でも、エルフは長生きだから、帰ってこれる――それを帰ってくると言えればだけど、来るんじゃないのか?」ウィズは楽観的な見解を述べてみた。
「あの時代にとどまって時が過ぎるのを待つなんて出来ないさ」リボンは瞳を閃かせて、意味ありげにウィズの顔を見澄ました。「マリスと二百二十四年、戦いながら生き残る自信、ウィズにはあるか?」ウィズはリボンの言葉に身震いした。「シメオンを滅ぼした戦士だぜ。それに……デュレとセレスがマリスとやり合ってきたという史実はない。最悪……」
「最悪――?」リボンはウィズから視線を逸らした。
「シメオン滅亡の時に一緒に死んでるかもしれない。デュレが……時計塔に焼き付けたメッセージを最後にしてな……」
 二人だけの部屋に重苦しい沈黙が流れた。そこに堰を切ったようにクリルカが飛び込んできた。
「リボンちゃん、大変。来ちゃった。黒い翼のおねぇさんが!」
「へへっ。たった二日で見つけてきたか。マリスもなかなかやるな」
 それは凄惨な戦いへの予告だったのかもしれない。