遥と巡の駅の旅

JR北海道・駅の旅


「JR北海道 駅の旅」は北海道旅客鉄道株式会社管轄の465の旅客駅を紹介しようというコンセプトで開業いたしました。いわゆる秘境駅から、大都市の玄関口と言われる大きな駅まで、JR北海道の全駅をその歴史とともに追いかけていきましょう。と、言うことで。サイト管理人のワタクシがうんちくと写真をたらたらと並べてもきっと面白くないだろうと思うので、架空のキャラクター「遥」と「巡」がこのページを訪れたあなたを「駅の旅」へといざないます!

海峡線「竜飛海底駅」と「吉岡海底駅」以外のJR北海道463駅の写真を掲載中!

更新履歴。

2013.03.20 海峡線のページに遥と巡のコメントを追加。
2012.09.30  青い森鉄道の一部を追加。

遥と巡のプロフィール 


遥「と言うことで、初めまして。ご紹介にあずかりました、遥と巡の駅の旅の遥ちゃんで~す♪」
巡「いきなりタイトルが違うんだけど、ボクの気のせい?」
遥「気のせい。あたし、きっちり、きっぱり、決まったとお~りに読ませていただきました」
巡「すぐばれるようなウソはつかない方がいいと思うけど、姉さん?」
遥「ウソじゃないって言ってるでしょ!」
巡「いや、だって、そこにJR北海道 駅の旅って書いて……」
遥「黙れ。ああ書いて、遥と巡の駅の旅と読むのですっ!」
巡(あ~……面倒くさいことになった……)「――じゃあ、巡と遥の駅の旅の巡で~す♪ 主にこのページの写真撮影とうんちく披露を
   担当しています」
遥「それじゃあ、わたしが何もしてないみたいじゃない!」
巡「え? 姉さんは切符の手配とか、車の運転とかとかでしょ?」
遥「とかとかってなによ。とかとかって?」
巡「まー、一言で言って雑用、もしくは裏方さんってことですか?」
遥「あ~ぅ~。どーせ、あたしって裏方よねぇ……。草葉の陰……、いいえ、巡の陰でひっそり朽ち果てていくのね」
巡(また、面倒くさいとこのスイッチが入っちゃったよ……、はぁ~)
遥「でも、いいの。あたしにはこの……っ!」
巡「あ~え~、もう、非常に面倒くさいことになったので遥は放っておきます。そう決めた。今、決めた。イントロダクションが終わるまで静かに
  お淑やかレディでよろしく」
遥「誰が何で、放っておくってぇ?」
巡「うわっ、絡んできたっ! おまえは酔っ払いかぁ?」
遥「姉さんに向かって、おまえとは何事だっ! 締めてやる、ぎゅって絞めてやる!」
巡「と言うことで、JR北海道 駅の旅 始まりです。末永いおつきあいのほどを〜〜」

                                                  巡、遥から猛ダッシュで逃げる……。


JR北海道 全路線、全駅データ

JR北海道 ゼロキロポストコレクション

駅スタンプコレクション

遥と巡の駅の旅 JR北海道 鉄道車両紹介

遥と巡の鉄道探訪 第1回 室蘭本線・小幌駅


留萌本線 留萌本線・本線を名乗るJR線の中で二番目に路線距離が短いんだって 。 ◇

 深川を起点にして、留萌を経由、増毛まで至る路線です。本線を名乗る鉄道路線で、何と二番目に短いそうです。でも、これはJR線で……だから、JR北海道に限って言えば、一番短いってことだよね。全長66.8km! 留萌本線の支線だった羽幌線の141.1kmの半分以下の路線長でした。その留萌本線は天塩地方随一の良港として栄えた留萌港への石炭や木材、海産物等の輸送のため、北海道鉄道敷設法に規定する予定線として建設されたもので、1910年に留萠まで、1921年に増毛まで全通しました。また、羽幌線の一部(留萠駅 - 古丹別駅間)も留萠線として開業しています。ちなみに、"留萠駅"は現在、改称されて"留萌駅"になっています。


学園都市線 学園都市線(札沼線)・都市近郊から田舎まで。しかも、本名の他に愛称があるよ。

 学園都市線(札沼線)は函館本線・桑園駅から札沼南線、留萌本線・石狩沼田駅から札沼北線として両側から建設が進められ、1935年(昭和10年)10月3日に全線開通。戦時中は資材供出のため、石狩当別-石狩沼田間が不要不急線として運休し、実働部分は桑園-石狩当別間となりました。戦後、1956年(昭和31年)までに全線復活しましたが,何と言うことでしょう、赤字線廃止勧告で1972年(昭和47年)6月18日,新十津川-石狩沼田間34.9kmが廃止されてしまい、残ったのが桑園-新十津川間で、これが現在の学園都市線(札沼線)の全線です。また、学園都市線の愛称は1991年(平成3年)のダイヤ改正の際に、沿線に北海道教育大学や、北海道医療大学など教育機関が多いために名付けられました。昭和50年代以降になると学園都市線(札沼線)の沿線のベッドタウン化が進んだり、大学が移転してきたりと通勤、通学の都市圏の輸送を担う路線へと変化してきました。そのために八軒-あいの里教育大間の複線化、桑園-太平駅までの高架化を実施。列車密度の向上とスピードアップが図られてきました。
 そして、2012年(平成24年)6月1日に第一次電化開業! 10月1日のダイヤ改正は第二次電化開業となり、気動車は全廃、北海道医療大学駅までは完全電車化となります。北海道医療大学から札幌までの所要時間がされに短縮されます! でも、やっぱり、北海道医療大学駅から終着・新十津川駅までは非電化なワケでして、相変わらず情緒というか、旅情が溢れる、時の流れから忘れ去られたような空気をもつローカル線です。


石勝線 石勝線・道央(札幌)と道東(釧路、帯広)をつなぐ短絡路線。

 1981年(昭和56年)開業の北海道で一番新しい路線です。石勝線の目的は道央と道東を短絡すると言うコトで、従来の根室本線経由よりもおおよそ46km短縮されました。道央と道東を日高山脈を迂回せずに直通させる構想は古くからあったようですが、北海道の背骨と呼ばれる日高山脈を貫くことが技術的に困難だったために、後の石勝線となる計画が具体的になったのは昭和も三十年代になってからでした。それ故に日高山脈を横断する石勝線には北海道内の山岳トンネルで最長の5,825mの新登川トンネルをはじめ、5,790mの新狩勝トンネル、5,700mの登川トンネル、4,225mの第二串内トンネル、3,765mの鬼峠トンネルなどの長大トンネルが数多く存在しています。また、石勝線は沿線では占冠駅、トマム駅周辺を除いて人が住んでいている地域がほとんどないために、駅の数よりも信号場が多い特徴を持っています。が、ちなみに、計画当初において、信号場として開設された施設の多くは駅として開設される予定でした。何故、信号場に格下げ開設されたかと言えば、石勝線の開通を待てずに沿線の住民の方がたがいなくなってしまったためです。なんともはや……。
 また、石勝線のうち、追分-夕張間は1892年(明治25年)に北海道炭鉱鉄道によって敷設された旧夕張線を編入、上落合信号場-新得間は根室本線の付け替え工事にて1966年(昭和41年)に先行して開業しています。残った部分が計画上、千歳空港(現南千歳)-追分、新夕張-占冠、占冠-新得の三つに分割されて着工されました。


石北本線 石北本線
石北本線12・複雑な路線構成が物語る全通までの多難の歴史 ●●

 石北本線は北見・網走方面を目指して建設されてきた複数の路線の混成で成り立っています。主に三つのルートからできていて、一つ目は上川の名寄から興部、遠軽を経由して北見に繋がる湧別線(後の名寄本線の一部)ルート。二つ目のルートは十勝の池田から北見、網走に繋がる網走本線(後の池北線、石北本線、釧網線の一部)三つ目は上川の旭川から北見峠を越える石北線ルートでした。最も初めに、北見方面までを結んだ路線は十勝池田からまわるルート。札幌から北見まで抜けるとすると、旭川を通り、富良野線(現)で帯広、池田から池北線(現)を経由して北見入りしました。その後、滝川から根室本線が開通し、ビミョウに短縮。さらにその後に名寄本線が全線開通し、道央と道北を結ぶ鉄道路線は少しずつ距離の短縮がなされてきました。そして、その裏側で、距離を最もショートカットできる路線として、今の石北本線の原型となる路線の建設が進められました。これは三つの路線の路線の建設を振り返ることになります。まずは新旭川-遠軽間の石北線(石北西線)として、1922年(大正11年)から新旭川-愛別間が開業。1929年(昭和4年)には中越まで延伸開業しました。また、遠軽側からは1927年(昭和2年)に遠軽-丸瀬布間が石北東線として開業、1932年(昭和7年)にそこから北見峠を克服して中越まで延伸開業して、石北線は全線開業しました。次いで、遠軽-北見間の湧別線。湧別線は湧別軽便線として1912年(大正元年)に当時の野付牛-留辺蘂間が開業したことに始まり、1915年(大正4年)に遠軽まで開業しました。1916年(大正5年)には軽便線の軌間762mmから軌間1067mmに改軌しています。三つ目の北見-網走間は1910年(明治43年)に池田から陸別まで開業した網走本線の一部分で、1912年(大正元年)に北見-網走間は開業しました。そして、最終的に石北本線が現在の形に落ち着くのは1961年(昭和36年)の線区の整理統合が行われてからでした。


釧網本線 釧網本線・3つの国立・国定公園を貫く,道内随一の好景観路線●

 釧網本線は太平洋沿岸の釧路とオホーツク海沿岸の網走を結ぶ目的で、網走、釧路の両側から建設が進められました。網走側は、網走本線の延長として1922年(大正11年)に着工、1925年(大正14年)までに斜里まで開通し、1929年(昭和4年)にかけて札鶴(のちの札弦)まで開業しました。釧路側は、1896年(明治29年)に事実上廃止となった釧路鉄道の標茶-弟子屈間の旧路盤を利用しつつ釧網線として1927年(昭和2年)から1930年(昭和5年)にかけて川湯(のちの川湯温泉)まで開業しました。その後、旧北見国と旧釧路国の国境の釧北トンネルが1931年(昭和6年)に竣工し、川湯-札鶴間が開業し、全線開通。釧網線に網走本線の網走以遠を編入して現在の釧網本線となりました。
 この釧網本線は北海道でも有数の好景観路線で、網走-斜里間のオホーツク海の海岸を通る区間は網走国定公園に、峠を越えると阿寒国立公園に、最終的には釧路湿原国立公園を越えていきます。オホーツクの海を眺める網走国定公園の区間には古い駅舎(藻琴、北浜、止別など)が残っていて、喫茶店や食堂がありますし、また、原生花園やオホーツク海の荒波、流氷など自然の景観を楽しめます。阿寒国立公園の区間では川湯温泉駅にて足湯が楽しめたりします。また、最後の釧路湿原国立公園ではラムサール条約にも登録されている広い釧路湿原、丹頂鶴の訪れる駅など、他の地域では見られないステキな風物を楽しむことができます。


根室本線 駅の旅 根室本線 根室本線
根室本線123・JR北海道の最長路線●●●

 滝川を起点として、帯広、釧路を経由して根室を結ぶ、全長443.8KmのJR北海道の最長路線です。1896年(明治29年)の北海道鉄道敷設法により北海道内1000マイルの鉄道整備が決まり北海道庁長官・北垣国道はルート選定に踏査を帝国大学工科大学教授の田辺朔郎に依頼しました。ルート決定後は北海道官設鉄道により、旭川、釧路の双方から着工され、旭川側は1899年(明治32年)に旭川-美瑛間、釧路側は1901年(明治34年)に釧路-白糠間が開業。そして、1907年(明治40年)には狩勝トンネルの完成をもって、狩勝峠を含む落合-帯広間が開業、旭川-釧路間が全通。つづいて、1913年(大正2年)に、滝川-下富良野(現在の富良野)間の新線が開業し、起点を旭川から滝川に変更、旭川-富良野間は富良野線として分離しました。その後は釧路以東への延伸が行われ、1921年(大正10年)に根室まで到達し全通、同時に線路名称が根室本線に改められて現在に至ります。
 全通以後は、道央と道東を結ぶ主要幹線としての地位を保っていますが、1981年(昭和56年)の短絡ルート石勝線開業によって、道央と道東を結ぶほとんどの列車運転系統が従来の滝川経由から石勝線経由に変更され、根室本線においては新狩勝トンネル以北を通過する優等列車はほとんどなくなってしまいました。そのおかげで、札幌圏と帯広、釧路圏への移動時間短縮にはなったのですが、滝川-富良野間はすっかりローカル線です。ちなみに、1966年(昭和41年)には落合-新得間の狩勝峠区間はあまりの難所故に(当時は蒸気機関車による運行だったため、特にトンネル内での排煙が大変で、機関車運転士の窒息の危険がつきまとっていたのです)新線に切り替えられています。
 また、釧路-根室の末端部分には花咲線という愛称が付いています。


室蘭本線 室蘭本線  
室蘭本線12・悲哀こもごも、主要幹線とローカル線の同居する路線○○

 室蘭本線の東室蘭-岩見沢間は1891年(明治24年)に北海道炭鉱鉄道の路線が開設した岩見沢-歌志内間とつなげて、石狩炭田から室蘭港への石炭輸送を円滑にするコトを目的として、1892年(明治25年)に開業しました。運営会社はもちろん、北海道炭鉱鉄道です。1897年(明治30年)には東室蘭-室蘭間も開業しました。その後、1906年(明治39年)に国有化され、大正時代には苫小牧-追分間の複線化が行われました。一方、長万部-東室蘭間の歴史は比較的新しめです。後に長輪線と呼ばれるこの路線の建設の目的は急勾配の多い函館本線の山線(長万部-小樽間)に代わる路線としてと、近くの鉄鉱石鉱山から鉄鉱石を室蘭の製鉄所に輸送するためでした。長輪線は長万部から長輪西線として、東室蘭から長輪東線として建設が進められて、1928年(昭和3年)に全線開通しました。そして、1931年(昭和6年)に長輪線は上述の室蘭本線に編入されて現在の形となりました。そして、また、室蘭本線は函館本線山線区間の代替路線でもあるため、全線開業後には複線化と道時に勾配や曲線の緩和を目的に別線を建設して路線変更や複線化を行った区間も数多く存在しています。そして、今日の室蘭本線は岩見沢-苫小牧間は石炭輸送全盛期の面影はなく、ワンマンの気動車しか走らないひっそりとしたローカル線になってしまっています。が、苫小牧-長万部間は函館本線から、この路線を経由し、千歳線をまわる札幌へのメインルートとなっていて、多くの気動車特急と貨物列車が往来する非常に重要な幹線になっています。
 また、路線内の白老駅-沼ノ端駅間 28.736kmの区間は日本最長の鉄道直線区間であり、苫小牧-岩見沢間は1975年(昭和50年)12月14日に国鉄最後の蒸気機関(C57 135号機)車牽引による室蘭発岩見沢行きの定期旅客列車が運行された線区です。


函館本線 函館本線 函館本線
函館本線123・北海道で最古の鉄道開業区間を含む鉄道輸送の基幹路線。●●●

 北海道最古の鉄道開業区間を含んでいる路線で開業以来、主に本州方面との連絡を目的とした北海道の鉄道輸送の基幹をになっており、古くは函館から旭川まで直通する列車も珍しくありませんでした。現在は全線(函館-旭川)を直通運転する列車はなく、函館-長万部間、長万部-小樽間、小樽-旭川間の三つの区間で路線の性格が全く違うものになっています。函館-長万部間は函館と札幌を結ぶ特急列車、貨物列車のメインルートになっていますが、長万部からは函館本線を外れ室蘭本線と千歳線にメインルートを移します。何故なら、函館本線の長万部-小樽間の通称"山線"と呼ばれる路線は線形が悪く優等列車の高速化の難しさがありましたが、室蘭本線の長万部-苫小牧を経由して千歳線に入る"海線"は線形もよく山線に比べ距離があるにもかかわらず時間短縮が可能なのと同時に、沿線人口が多いため利用客の増加も見込まれたために山線から幹線の座を奪ったのでした。そんな山線ですが、かつて、昭和40年代までは長万部-小樽-札幌間にも多くの優等列車が往来し、C62蒸気機関車重連牽引の急行列車などが走り、賑わったものでした。それも今は昔のことで、1986(昭和61年)年11月のダイヤ改正で山線から優等列車が消え、上述の通りに長万部-札幌間のメインルートの役割は海線へと移行していきました。また、札幌-旭川間は全線交流電化区間で、札幌市と旭川市を結ぶ特急列車は道内最大の運転本数があります。さらに旭川を越えて、稚内、網走を結んでいくJR北海道の重要区間にもなっています。札幌都市圏、小樽-岩見沢間に限ると通勤、通学などによる近距離利用者の多い賑やかな路線です。この区間はIC乗車カード"KITACA"が使えます! ちなみに、小樽-滝川間はJR北海道の前身、国鉄の道内最初の電化区間でした。
 最後に、最古の鉄道開業区間とは官営幌内鉄道の運営した後の手宮線(1985年廃止)、函館本線・南小樽-岩見沢間(現存)、幌内線(1987年廃止)のコトで、とても残念なことながら、起点と終点はすでに廃止路線の中になっています。


日高本線 日高本線・海あり、山あり、のんびりとしたローカル線

 苫小牧軽便鉄道が1913年(大正2年)に佐留太(現在の富川)までを、日高拓殖鉄道が1926年(大正15年)に静内まで開業したもので、1927年(昭和2年)に改正鉄道敷設法別表第133号に規定する予定線の一部として国有化され、日高線とした路線です。また、1931年(昭和6年)までには軌間を軽便鉄道の762mmを1062mm改軌しました。以降、静内から先の路線を建設し、1937年(昭和12年)までに、様似まで延伸開業しました。その後、1943年(昭和18年)に富内線が沼ノ端分岐から、鵡川分岐に変更された際に名称変更がされ、現在の名称、日高本線となりました。
 日高本線は起点の苫小牧駅から勇払までは内陸側、浜厚真付近から東静内のあたりまではほぼ海岸線を走行します。それ故、車窓から太平洋の海の波しぶきや昆布干しなどを見ることができます。東静内より先に行くと山側に入っていったり、再び、海側に線路が向いたりと、他の路線では見られないような様々な車窓が楽しめるのも特徴です。——お馬さんがかわいいよ^^


富良野線 富良野線・北海道で一番元気なローカル線。だけど、昔は幹線だったのよ。●

 1896年(明治29年)の北海道鉄道敷設法により、旭川と釧路を結ぶ幹線の一部として建設された路線です。つまり、富良野線は釧路線(後の根室本線)の一部分として開業したのです。旭川-富良野間は1900年(明治33年)までに開業、1913年(大正2年)に滝川-下富良野(現富良野)間に釧路線の新線が開業して、旭川-富良野間は釧路線から区間分離をされて、富良野線となりました。
 富良野線は北海道を代表する観光路線で、毎年、夏頃には富良野・美瑛ノロッコ号などの臨時列車が運転されています。(その頃には近くのラベンダー畑にアクセスするための臨時駅・ラベンダー畑駅が開設されます)また、周辺の地域が旭川のベッドタウンとして発展してきているので、旭川方面への通勤・通学路線の一面も持っています。それ故、何だかんだで、元気な富良野線です。(^^


江差線 江差線・津軽海峡線の一部分を含みます。●

 軽便鉄道法により計画されて、1913年(大正2年)に開業した鉄道を1930年(昭和5年)から1936年(昭和11年)にかけて江差まで延長した路線です。五稜郭-木古内間は青函トンネルの北海道側接続路線とされて1988年(昭和63年)の海峡線開業にあわせて電化などの改良工事が実施され、北海道と本州をつなぐ幹線ルートとしていわゆる津軽海峡線(この名称は愛称で、津軽線、海峡線、江差線の北海道-本州の連絡路線をそう呼びます)の一部となりました。が、木古内-江差間は全線非電化の地域輸送に徹したローカル線のままになっています。  また、五稜郭-木古内間は本州方面から北海道への鉄道貨物輸送においても重要な位置をになっています。


千歳線 千歳線・JR北海道で唯一の全線電化路線!●

 JR北海道で唯一の全線電化路線の千歳線は大正時代の末期に北海道鉄道の札幌線として敷設されました。1926年(大正15年)に沼ノ端-苗穂間が開業。その後、東札幌-苗穂間が電化され、定山渓鉄道が乗り入れるようになります。1963年(昭和38年)、函館本線、いわゆる山線を経由していた特急列車、函館-旭川を結ぶ特急おおぞらが千歳線経由になるダイヤが組まれ、次第に函館から札幌を結ぶメインルートは函館本線の山線ルートから、室蘭本線と千歳線経由の海線ルートにシフトしていきます。そして、1973年(昭和48年)には線形が悪く運行上のネックになっていた東札幌-旧西の里信号場までの路線を廃止し、新線に切り替えて、全線が複線化ました。その為、起点は旧線時代の苗穂のままになっていますが、実際の分岐は白石駅になっています。1980年(昭和55年)には全線が電化の上、当時の国鉄初の空港へのアクセス駅となる千歳空港駅(現在の南千歳駅)が開業。北海道空の玄関へのアクセス路線として輸送力の増強が図られていきます。1981年(昭和56年)には千歳空港駅を起点とした石勝線が開業し、従来の滝川からの根室本線経由に代わり、釧路・帯広などの道東方面への幹線ルートにもなりました。また、1986年(昭和61年)には函館本線の長万部-小樽間の山線ルートから優等列車が全廃され、千歳線経由の路線が札幌と函館を結ぶ唯一の幹線となりました。そして、最も最近では1992年(平成4年)には新千歳空港開港に伴って、2.6kmの単線の空港線が敷設され、JR北海道唯一の地下駅として新千歳空港駅が開業しました。(ちなみに、青函トンネルの竜飛海底駅と吉岡海底駅を入れると三つ目ですけど……、海底なので)以降、千歳線は札幌-函館間を結ぶ様々な種類の列車が通る非常に重要な路線になりました。


宗谷本線 宗谷本線  
宗谷本線12・旭川からひたすら北へ、日本最北の地へ繋がる一筋の鉄道 ●●

 宗谷本線は1896年(明治29年)に公布された北海道鉄道敷設法に基づき「旭川より稚内に至る鉄道180里」として建設されることになりました。これは対ロシアの戦争を考えに入れたもので、サハリンへ連絡するために建設が進められた路線でもあります。1898年(明治31年)に北海道官設鉄道により、旭川-永山間が建設され、順次路線を延長、1903年(明治36年)には名寄まで開業。稚内まで全線が開業したのは1928年(昭和3年)のことで、当時の路線は音威子府から浜頓別を経由する後の天北線でした。その陰では音威子府と稚内を結ぶショートカット路線として幌延を経由する天塩線の建設が進められていました。天塩線は1926年(大正15年)に全線開業。その後、1930年(昭和5年)に天塩線を宗谷本線に編入し、宗谷本線は旭川-幌延-稚内港の (258.9km) となりました。一方で、音威子府-浜頓別-稚内間 (149.9km) は宗谷本線から分離され、北見線、後に天北線に改称されます。第2次大戦後はサハリンへの連絡の用途はなくなりましたが、それでも、札幌、道央から道北へと向かう主要幹線には変わりなく、1958年(昭和33年)以降からはずっと急行・特急などの優等列車が運行され続けています。また、2000年(平成12年)には旭川-名寄間の高速化改良工事が完成して、この区間を130km運転の特急列車が設定されるようになりました。現在は羽幌線、天北線などの宗谷本線に接続していた路線が全て廃線になってしまい北へと続く唯一の路線になっています。


海峡線 海峡線・北海道と本州をつなぐ海底トンネルを擁する重要路線◇

 海峡線は津軽海峡の海底に造られた青函トンネルを通じて本州と北海道を結ぶ鉄道線です。かつては青森と函館を結ぶために鉄道連絡線として青函航路がありましたが、1950年代には朝鮮戦争の物と見られる浮流機雷が流入。1954年には台風による洞爺丸事故など、青函航路の安全が脅かされるような事故が多くありました。そのため、船舶輸送の代替手段として太平洋戦争以前からあった北海道と本州をトンネルでつなぐ構想が一気に具体化して建設されたのが青函トンネルであり、その53.9Kmに及ぶ長大海底トンネルを含む路線が海峡線となっています。ちなみに、全線、将来の……と言いますか、2015年開業予定の北海道新幹線との共用を想定して新幹線企画で建設されています。
 また、海峡線、主に青函トンネルの開通、運用開始に伴い本州-北海道間の貨物輸送が天候に左右されにくくなり、重要な役割を果たすようになりました。


鋭意制作中。2012.09.30現在(ちょっとずつ更新中……)

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